奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

絶対なる無である

2017年04月12日 23時44分01秒 | 宇宙・幻想の終わり
ここでは詳しく書けていませんが
4月の合宿6日間の間に、私の中が相当変わってしまいました。。

明らかに、世界の何かを赦すのではないという自覚が起きました。
焦点が無意識の心のレベルの、自分の欲望(分離の決断)に集中しています。

だから、赦し方も相当変わりました。



合宿4日目の未明以降、格段に変わったように思います。
なんだか、ありきたりの自我の概念に合わせることが不可能になっている感じ。

けど、ちゃんと生きてゆけます。
自我の概念に従うのではなく、聖霊の声に従えばよいのですから。。


自力で思考することの必要性が感じられません。
とはいえ、思考は起こりますが
それがリアリティのある何等かの、実態ある思考とは到底思えません。

するべきことは淡々と、ごくごく淡々とするのですが
それが着地しても、着地しなくともどちらでも良い。
形のレベルでうまくいってもいかなくても、どっちでもいい。


なぜなら、ここでは何も生じていないから。



実は、ほんとうは知覚というものが起きていないのです。
真理から見ると、何一つ知覚が生じていません。



痛いとか痒いとか、苦しいとか恐れているとか、楽しいとか幸せとか。。。。。。。。。。。

この知覚の世界では、何もなにも
なにひとつ生じていませんから、、、


究極的には、あらゆるストーリーの辻褄が合っていようがいまいが
どうでも良いんです。。



思考の無用性、あらゆる知覚の無用性、その非実在性を1日中実感していると

自分は、ほんとうは誰なのか?が暴露されてゆきます。




絶対なる無、絶対なる根源の根源、究極の源。
そこに吸い込まれてしまう。



完璧な無だった。


それは愛の源。




意識でもなく、いわゆる決断の主体でもなく、分離を思い描いたことすらなかった


すべての源の中にいる。
そして私の中にもそれはある。

無の中で包含されている

というのもおかしいけれども
言語の限界。。



愛の原因の中に、完全に無の状態で
何もしない状態で

完璧なままに。。。



そしてまた

わざわざ、そこから出て
もう一度、神を殺し聖霊を殺し、自我として天国を乗っ取る。

その往古の一瞬の中にダイブする。
という狂気のチャレンジ


分離が起きたと信じている信念がムクムク湧き上がり
また分離を実在としようとする。



それを、原因のレベルに戻って
繰り返し繰り返し意欲を差し出し続ける。




すると、やっぱり
絶対なる無である真理が復活される。


何もする必要がないし、そんなことできない。
必要なさすぎる。



ワンネスのその奥。
愛の源。









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