赦し、祈り、全託してゆくと
度々、私の視界の中の左上がグワン
と輝く。
以前なら、もっともっと瞬間的な光だったので
一瞬の閃光という感じだった。
最近は、もう少し光の滞在時間が長くて
幻想の割れ目から光線が入り込んで来ているのをはっきりと感じる。
フェイスブックで、五井先生の関係の投稿があって
記事をよく目にするのだけれど、先日こんなことが書かれていた。
(お弟子さんたちのおかげさまで、たくさんの五井先生の言葉・教えが記録されている)
FBページ
「World Peace Prayer 世界平和の祈り」より引用
■『幽界を浄める』
(『日々の祈り』 五井昌久著 高橋英雄編 白光出版)(1/4)
人間の幽体、つまり潜在意識の奥には、神意識、光明そのものの世界があるので、世界平和の祈りをしていると、そのたびに祈った人の想念が潜在意識をつきぬけ、神意識、救世主の光明世界の中にとびこんでゆくことになる。(2/4)
そうすると、幽体霊体というのは、幽界霊界で一つに通じ合っているものであるから、一人の人間が肉体界から神界まで祈りの想いでつきぬけた業想念の割れ目を通して、神の大光明が幽界霊界を縦から横にひびきわたるのである。(3/4)
これによって、幽界霊界が浄められてゆき、肉体界の人間の思想、想念が自然と浄化されてゆくのである。
〜補足〜
幽体とか、神意識、業想念、など聞きなれない言葉かもしれないけれど
要するに、幽体・幽界はより自我の目的と同一化している心の状態や、その心の状態の反映の想念の領域のことと言えると思う。
神意識と言うのは、聖霊の心そのもののことだと言えると思う。
聖霊とは、実在そのものではなくてあくまでも、この夢見の中の正気の声なので
神の代弁者=聖霊=神意識=幻想から脱出するまでに必要な正気な幻想
と言うことができると思う。
で、私たちが自分の中で採用し続けて来た「自我の想念」との同一化を断念してゆき
それらの想念は、過去の想いに過ぎず、同一化するために現れた思考ではなく
通り過ぎて消えてゆくために現れた思考であった。
「自我の想い=消えてゆく姿だったのだ」
それらは自分でどうにか対処できるものでは無いのであるから
救世の大光明の中へ、自分もろとも自我の想念(業想念)を投入してしまいなさい。
これが、五井先生の教えの大きな柱となっているのだけれども
実は、それをすると
本当に自我の想いで自分を取り囲んでいた真っ暗闇の幻想の分厚い壁の中に亀裂が入り
その亀裂から、真我の光が差し込んで来る、と言うことが起きて来る。
最近、それをすごく実感している。
母が、五井先生の教えを従順に実践し続けていたのだけれど
その凄さを、母の臨終間際までの期間を通して見せてもらった。
この生き方は、ACIMの本気の実践とほぼ同じなのだけれど
その凄さが、、、本当にこれから実感を伴ってこの映像の中でも展開してゆくことになるのだと理解している。
徐々に、、光が近づいているにも関わらず
逃げなくなってゆく。そうなって来ているのを感じている。
なぜ逃げないのか?
私は神の子だったのだから
自分の我が家の正体が見えて来ても逃げる必要がなかったことを
段々と認識して、、受け入れてゆく。
そう言うことが起きてゆくのだろう。
そうなって来ると
この夢の中で、何が展開しても展開しなくても
だんだんと、本当に揺らがなくなって来る。
多少揺らいだとしても、また不動と平安が表に出て来る。
五井先生は、これを「安心立命」とおっしゃっていた。
とにかく、そうなんだなあ。
光がすごいなあ。
まるで人ごとのように、見ている。
1年前なら、このに光は耐えられなかっただろう。
徐々に、信頼する力・信仰する力が強まってくる。
それは「自分には何もできない」ということを認識している心の中で育ってゆく。
五井先生について記事
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度々、私の視界の中の左上がグワン
と輝く。
以前なら、もっともっと瞬間的な光だったので
一瞬の閃光という感じだった。
最近は、もう少し光の滞在時間が長くて
幻想の割れ目から光線が入り込んで来ているのをはっきりと感じる。
フェイスブックで、五井先生の関係の投稿があって
記事をよく目にするのだけれど、先日こんなことが書かれていた。
(お弟子さんたちのおかげさまで、たくさんの五井先生の言葉・教えが記録されている)
FBページ
「World Peace Prayer 世界平和の祈り」より引用
■『幽界を浄める』
(『日々の祈り』 五井昌久著 高橋英雄編 白光出版)(1/4)
人間の幽体、つまり潜在意識の奥には、神意識、光明そのものの世界があるので、世界平和の祈りをしていると、そのたびに祈った人の想念が潜在意識をつきぬけ、神意識、救世主の光明世界の中にとびこんでゆくことになる。(2/4)
そうすると、幽体霊体というのは、幽界霊界で一つに通じ合っているものであるから、一人の人間が肉体界から神界まで祈りの想いでつきぬけた業想念の割れ目を通して、神の大光明が幽界霊界を縦から横にひびきわたるのである。(3/4)
これによって、幽界霊界が浄められてゆき、肉体界の人間の思想、想念が自然と浄化されてゆくのである。
〜補足〜
幽体とか、神意識、業想念、など聞きなれない言葉かもしれないけれど
要するに、幽体・幽界はより自我の目的と同一化している心の状態や、その心の状態の反映の想念の領域のことと言えると思う。
神意識と言うのは、聖霊の心そのもののことだと言えると思う。
聖霊とは、実在そのものではなくてあくまでも、この夢見の中の正気の声なので
神の代弁者=聖霊=神意識=幻想から脱出するまでに必要な正気な幻想
と言うことができると思う。
で、私たちが自分の中で採用し続けて来た「自我の想念」との同一化を断念してゆき
それらの想念は、過去の想いに過ぎず、同一化するために現れた思考ではなく
通り過ぎて消えてゆくために現れた思考であった。
「自我の想い=消えてゆく姿だったのだ」
それらは自分でどうにか対処できるものでは無いのであるから
救世の大光明の中へ、自分もろとも自我の想念(業想念)を投入してしまいなさい。
これが、五井先生の教えの大きな柱となっているのだけれども
実は、それをすると
本当に自我の想いで自分を取り囲んでいた真っ暗闇の幻想の分厚い壁の中に亀裂が入り
その亀裂から、真我の光が差し込んで来る、と言うことが起きて来る。
最近、それをすごく実感している。
母が、五井先生の教えを従順に実践し続けていたのだけれど
その凄さを、母の臨終間際までの期間を通して見せてもらった。
この生き方は、ACIMの本気の実践とほぼ同じなのだけれど
その凄さが、、、本当にこれから実感を伴ってこの映像の中でも展開してゆくことになるのだと理解している。
徐々に、、光が近づいているにも関わらず
逃げなくなってゆく。そうなって来ているのを感じている。
なぜ逃げないのか?
私は神の子だったのだから
自分の我が家の正体が見えて来ても逃げる必要がなかったことを
段々と認識して、、受け入れてゆく。
そう言うことが起きてゆくのだろう。
そうなって来ると
この夢の中で、何が展開しても展開しなくても
だんだんと、本当に揺らがなくなって来る。
多少揺らいだとしても、また不動と平安が表に出て来る。
五井先生は、これを「安心立命」とおっしゃっていた。
とにかく、そうなんだなあ。
光がすごいなあ。
まるで人ごとのように、見ている。
1年前なら、このに光は耐えられなかっただろう。
徐々に、信頼する力・信仰する力が強まってくる。
それは「自分には何もできない」ということを認識している心の中で育ってゆく。
五井先生について記事
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