ほぼほぼ、我が家まるごと奇跡講座家族になってきています。
特にこれと言って私からすすめることはしないのですが
最近、それぞれの若手と静寂の中で話す内容が
いつもの勉強会さながらの内容になってしまう瞬間が増えつつあります。(話はあちらから切り出します)
まだまだ先でもいいのではないかな。なんて思ったりしますが
逆に、この世界の常識にはまることの方が、よほど地獄らしい。
何か特別なことをする前から「幸せ」なのに、何か特別なことを探してまで、する必要はあるのか?
「何者かになりましょう。何等かの価値を自分に課しましょう。」という概念に
「夢を作りましょう。」という概念に、同一化することがよほど困難らしい。
ある若手は、よく自我を直視しているようで、、
別に、奇跡講座を積極的に学ばずとも、テキストを読まずとも、聖霊は常に教えているらしい。
じっと自我を直視してそれを素直にそのままシェアする。
「あんたすごいね。」と、私は言った
それをちゃんと認めて、自分にはどうすることもできませんと、助けてください。と
聖霊に捧げてしまえばいいんだよ。
どうもやっぱり、ストーリー関係なく自我を直視するって
できるらしい。
支離滅裂な狂気を見るって、できるらしい。
これからもそっと見守ってゆくけど
かなり奇跡講座な家族かも。
世界が唱える栄光よりも、奇跡講座を使って聖霊が教える真の目覚めの学びの方が
よほど受け入れられるし、幸せの光を見出せるらしい。
世界はない。
自我がつくりだした宇宙は神からの分離という憎悪と殺意の世界だった。
けど、神からの分離は起こらなかった。
だから、完全なる一体性しか実在していない。
ただただ障壁を認識していって、それを捧げていって
聖霊に感謝してゆくだけ。
「人々を利用し、抹殺する様子を見つめることだ。」
を、案外やってゆこうとする若手って、少なくないのかも知れないと思う今日このごろ。。
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