奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

薄皮一枚、まだ分離し続ける余地を残すチャレンジ「破壊するための赦し」

2016年02月22日 16時48分33秒 | 奇跡講座.奇跡のコース.ACIM勉強会/学習会
~薄皮一枚、まだ分離し続ける余地を残すチャレンジ「破壊するための赦し」~

2015年9月に引き続き、

「またこのテーマを明日学んでおいてね~!よろしくね~!」

と、イエス兄さんに言われているようです。

さきほど差し出されました^^;



奇跡講座に「破壊するための赦し」という言葉があります。

「破壊するための赦し」と、「真の赦し」は、明らかに過程も結果も違うのですが

その赦しの違いに、なかなか気が付かない場合が、、とても多いということに

今までの学び合いで気付かされます。


赦すのは、何なのか?を、

半分だけ認識して、残り半分は見逃すことが自然と思えるほどに

起きてしまうようです。


私たちは、ともすると。。。

薄皮一枚まだ分離したままでいようとして

真の原因にさかのぼることなく赦そうとします。

あたかも、それが真の赦しのように見せかけられます。



自我と、自我を選択する決断の主体は

神に対する背信行為が原因のはずの、自分の罪悪感を形のレベルの世界の状況や兄弟たちに投影し

「特別な愛の関係の、人、もの、事が」(自分の欠乏を満たしてくれるものが)

「特別な憎悪の関係の、人、もの、事によって脅かされてしまう。」(敵によって破壊されてしまう)

という空想の中で、あらゆる具体的なストーリーを展開させます。




そのレッスン教材を経て、聖霊から学ぶ「真の赦しの結果」は、簡単に言うと

特別な愛の関係のそれらも、特別な憎悪の関係のそれらも、私自身も、

何ら違いがなかった。

形は無で、それらは分離しておらず一つだった。

各々に役柄を与えていたのは自分自身の空想に過ぎなかった。


彼らにも罪はなく、わたしにも罪がなかった。どこにも誰にも罪なんて、実在していなかったんだ。

一体性しか実在していなかったんだ。

という確信が起きてしまいます。

敵と思っていた兄弟にも、味方と思っていた兄弟にも、恩義と感謝が沸いてゆき一つとして認識されます。


その時、形のレベル・映像はどうあれ、問題ではありません。

その映像は、元々どんな意味もないからです。

そして、今まで私たちは何一つその無意味さに気が付かず、何も理解できていなかったのです。

「無」を、「無以外のもの」として理解するなんて、不可能なのです。




赦した結果、知覚が和らぐかどうかではなく

兄弟に対する憎悪をしっかり見てから赦し、

敵と思っていた兄弟たちとの一体性を認識するところまで行っていなければ

半分だけ赦そうとしていて、まだ薄皮一枚取り残している感があることに気が付いてゆく必要があります。

それはまだどこか、映像が聖なる感じに切り替わることを求めているようです。

映像は過去のものであり、どこまで行ってもニュートラルなので、そこがどうであるかは全く問題になりません。






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