今日、パパジだったかムージの動画を見ていたら
その動画のコメント欄に
「至福の境地に甘んじていた」
というニュアンスのメッセージがありました。
私たちは
そういった自分自身の「微妙な防衛」に気が付いてゆくことが
実践が深まれば深まるほどに、起きてゆくのですが
自分が今、
平安を感じているので幸せと思っているか?
良い感情を感じているので幸せと思っているか?
良い人間関係が現れているから幸せと思っているか?
これらに焦点が向いているか、どうか。。に
注意深くある必要があるのだけど
実は、それらの幸せ感は永続するものではないので
「自分は幻想に惹かれている状態なのだ」
ということを自ずと気が付いてゆくことになります。
(とはいえ それは悪いことではないし、失敗ではないですが、本当の幸福と一つであったという贖罪の完了に向きなおってゆく必要があります)
やがてこうなってゆく必要があります。
「幸せ、至福を感じていながらも常に」
もしくは
「罪悪感や苦しみを感じていながらも常に」
いま自分が
「何を知覚し、何を感じていて、何を考え、何を信じて、何を求めているのか?」
その心の動きに注意深くあります。
不動の心の中で、チョロチョロ動き回ろうとする部分が
実は動こうとしてはいないか、
気がつかないうちに動き回ってはいないか?
それを、不動の心の中に佇みながら、
幸せを与えられていることを感謝しながらも
常に(やがては常に)見つめることは可能です。
私たちは
幸せな感じの感情や、知覚、関係性に心を奪われる時期も多々ありますが
それは永遠のものではないですから
やはり、至福感にただ甘んじるのではなく
今まで自分を騙せていたチョロチョロ動き回る微かな投影力動も、
だんだんと見逃さなくなるようになってきます。
そのように聖霊に導いていただきたいと意志すれば、可能なことです。
もしかしたら数年、10年かかるかもしれないけれど
実際に可能なことです。
そして至福感と同様に、
罪悪感や苦しみに打ちのめされている感覚の時も
実践は同じです。
自分が今、幸せを感じていない。
不満を感じている。罪悪感を感じている。苦しみを感じている。
その時も、
絶えず、善悪の観念・解釈に翻弄されることを好み
幸 不幸の観念・解釈に翻弄されることを好む
心の中でチョロチョロ動き回っている部分を、
じっと見つめ続けることが可能です。
叫んでも、わめいても、笑っても、うずくまっても、
その罪悪感や苦しみは変化せずただ通り過ぎます。
その罪悪感、苦しみ、怒りよりも、
もっともっと奥で
火に油を注ぐ勢いでウチワを仰ぎながら、
幻想をリアルにしようリアルにしようと懸命に動き回っている心の中の小さな生き物。
それをじっと見つめてゆくことと、罪悪感や苦しみ、怒りを感じていることとは
実は何も干渉しあっていません。
不動の心になる。というわけでもなく
そこからすべてを見つめていて、ただただ小さな生き物に彷徨わせていた
そのカラクリを自分に対して明らかにしてしまうだけ。
そういう感じなんですね。
アンフィニのスタッフを少しだけ、かじったことがあったのですが
その時に少し関わりがあったある方が言っていました。
「のりちゃん、随分と色々な宗教者をやっていたよね」
と、、
その時はピンと来なかったのだけど
最近、ボンヤリと今まで身につけたあらゆる修行の記憶とかその恩恵のようなものが
心のレベルで現れ出している感じがしていて
ほんとに、今回は集大成だなあ。。
と、五井先生とイエスに感謝し続けています。
.
その動画のコメント欄に
「至福の境地に甘んじていた」
というニュアンスのメッセージがありました。
私たちは
そういった自分自身の「微妙な防衛」に気が付いてゆくことが
実践が深まれば深まるほどに、起きてゆくのですが
自分が今、
平安を感じているので幸せと思っているか?
良い感情を感じているので幸せと思っているか?
良い人間関係が現れているから幸せと思っているか?
これらに焦点が向いているか、どうか。。に
注意深くある必要があるのだけど
実は、それらの幸せ感は永続するものではないので
「自分は幻想に惹かれている状態なのだ」
ということを自ずと気が付いてゆくことになります。
(とはいえ それは悪いことではないし、失敗ではないですが、本当の幸福と一つであったという贖罪の完了に向きなおってゆく必要があります)
やがてこうなってゆく必要があります。
「幸せ、至福を感じていながらも常に」
もしくは
「罪悪感や苦しみを感じていながらも常に」
いま自分が
「何を知覚し、何を感じていて、何を考え、何を信じて、何を求めているのか?」
その心の動きに注意深くあります。
不動の心の中で、チョロチョロ動き回ろうとする部分が
実は動こうとしてはいないか、
気がつかないうちに動き回ってはいないか?
それを、不動の心の中に佇みながら、
幸せを与えられていることを感謝しながらも
常に(やがては常に)見つめることは可能です。
私たちは
幸せな感じの感情や、知覚、関係性に心を奪われる時期も多々ありますが
それは永遠のものではないですから
やはり、至福感にただ甘んじるのではなく
今まで自分を騙せていたチョロチョロ動き回る微かな投影力動も、
だんだんと見逃さなくなるようになってきます。
そのように聖霊に導いていただきたいと意志すれば、可能なことです。
もしかしたら数年、10年かかるかもしれないけれど
実際に可能なことです。
そして至福感と同様に、
罪悪感や苦しみに打ちのめされている感覚の時も
実践は同じです。
自分が今、幸せを感じていない。
不満を感じている。罪悪感を感じている。苦しみを感じている。
その時も、
絶えず、善悪の観念・解釈に翻弄されることを好み
幸 不幸の観念・解釈に翻弄されることを好む
心の中でチョロチョロ動き回っている部分を、
じっと見つめ続けることが可能です。
叫んでも、わめいても、笑っても、うずくまっても、
その罪悪感や苦しみは変化せずただ通り過ぎます。
その罪悪感、苦しみ、怒りよりも、
もっともっと奥で
火に油を注ぐ勢いでウチワを仰ぎながら、
幻想をリアルにしようリアルにしようと懸命に動き回っている心の中の小さな生き物。
それをじっと見つめてゆくことと、罪悪感や苦しみ、怒りを感じていることとは
実は何も干渉しあっていません。
不動の心になる。というわけでもなく
そこからすべてを見つめていて、ただただ小さな生き物に彷徨わせていた
そのカラクリを自分に対して明らかにしてしまうだけ。
そういう感じなんですね。
アンフィニのスタッフを少しだけ、かじったことがあったのですが
その時に少し関わりがあったある方が言っていました。
「のりちゃん、随分と色々な宗教者をやっていたよね」
と、、
その時はピンと来なかったのだけど
最近、ボンヤリと今まで身につけたあらゆる修行の記憶とかその恩恵のようなものが
心のレベルで現れ出している感じがしていて
ほんとに、今回は集大成だなあ。。
と、五井先生とイエスに感謝し続けています。
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