奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

存在論的な罪悪感

2018年06月07日 22時39分05秒 | ACIM奇跡のコースという生き方
私たちが無意識下に埋め込んだ罪悪感というものが
とんでもなく恐ろしいものだと信じられているので

私たちは、それを意識化させる前に
「罪悪感は大したものではないんだ」と
意味付けしようとする。

そういう微妙なやり方の防衛が、
おそらく私も2017年になるまでかなり働いていたと思う。


「大したものではない罪悪感」、、と認識するとき

原爆が頭上から投下されるときの恐れと、
道端でコケるときの恐れとは、序列の差がある。
末期ガンの体と、健康な体とは、序列の差がある。

そう言ってしまっているのと同じ。


しかし罪悪感は常に一定




ワプニックさんが言うところの
存在論的な罪悪感が無意識に埋没されているので
まずは、それが少しずつ意識化されることが重要。

けど、意識化される前に
「軽いもの」としてあしらいたくなるなる誘惑があって
その誘惑にのると意識化が抑圧される


私の場合は、あるとき2017.04.07
一気に見ることになったので(それでもまだまだ浅いレベルだと思うけど)
数時間 嘔吐下痢し続けた。

嘔吐下痢そのものがキツかったのではなくて
その、存在論的な罪悪感という無意識の罪悪感を認識してしまうことが耐えられなかった。

とはいえ、耐えられるレベルだからそれを認識させてもらったのだけど。。


もちろん、あの存在論的な罪悪感を見つめて見つめて
今はとてもよかったと思っている。

なぜ、神の接待主になる必要があるのか?

よく よく、、よーーく、よーーく、、わかったから。



私たちは常に、聖霊を呼び続け、神を呼び続けている状態であることが必要。

そうで無ければ
存在論的な罪悪感が意識化されて通り過ぎてゆくのを受け入れるなんて
無理。

絶対に無理だと思う。


だから、ほんとうに彼に頼る必要がある。

ワプニックさんのレクチャー
JACIM 質問15 (org.#19) 
"罪悪感の本質について"
http://www.jacim.com/acim/?p=1631




ユタに行った時だったか、Zoomミーティングの時だったか
カースティンが「離婚をするプロセスって罪悪感(存在論的な罪悪感を指していたと思う)が何度も何度も浮上するものよね」

と言ってた。


それは、

「分離維持システムとして無意識に埋め込んでしまった
神に対する攻撃についての罪悪感が浮上して、
その神に対する攻撃は無効だった。と言う真実を聖霊から教えてもらうことができる大切な機会だね」

と言ってくれているのと同じだったろう。



防衛システムが、ちゃんと終わってゆくために

罪悪感を軽いものとして最初から認識してしまおうとする誘惑をやめていって、
このような夢見をスタートさせ、そして分離の夢を維持するために必要としたシステム
= 存在論的な罪悪感を少しずつ意識化させていって

分離のスタートのところ(視点)まで戻っていって
そして、分離のスタート側から聖霊と一緒に罪悪感を再認識するくらい
そのくらい分離のスタートに戻っていくんだよ〜。

と、、私のカリキュラムにおいては
聖霊がそのように言ってくれているのを受け止めています






今日引用させていただいた JACIM質問15 "罪悪感の本質について" の、原文の質問ページのURLが出せないので
原文の質問と回答を引用させていただきました。
(以下のページのGの"GUILT"の並びに#19として掲載されています)
http://www.facimoutreach.org/qa/indextoquestions.htm

Q #19: A question about the nature of guilt.

Q #19: The Course, as I understand it, says that at the base of all our suffering lies guilt, and that this guilt is repressed. The Course then seems to suggest that this guilt be dealt with through forgiveness of the external world (rather than by means of a process of uncovering it such as psychoanalysis). If so, of what use at all is the idea of guilt, if it appears to remain at a purely theoretical level?

A: The guilt the Course is talking about is an ontological guilt that comes from believing that we could separate from God but in so doing He had to be destroyed -- separate individual existence and total Oneness are mutually exclusive states that can not coexist. Since the separation from God is only an illusion, and a fragile one at that, a seemingly powerful defense was needed to maintain its seeming reality. All-consuming guilt over our lethal attack upon the All became that defense, burying the question of whether in reality we had or could have attacked. But this guilt is not simply a theoretical construct according to the Course. The Course says that the external world was literally made from that ontological guilt, as a seeming projection outward of what was too horrible to maintain within the mind. So when we practice the process of forgiveness with our external relationships in the world, we are actually addressing, albeit in a piecemeal fashion, aspects of that original ontological guilt. It is an indirect approach with a practical and direct effect on the underlying problem. By seeing what we have made real in our external world as a projection of what is buried in our unconscious, we are actually making that buried guilt, over time, conscious. This undoes the ego strategy of distracting us from the guilt in our mind with the problems and associated guilt in the world. And it allows us to begin to recognize that the underlying premise, that we are separate and Love has been destroyed, from which that basic guilt has been generated, is simply not true.

The process of uncovering guilt within psychoanalysis, as generally practiced, actually plays into the ego’s defensive game plan, although it could be directed to the same end as the Course’s. The guilt it is seeking to uncover is still part of the external smokescreen of the world that the ego mind has constructed to keep us from getting back to the real problem in the mind. It is guilt still related to the body and its relationships to other bodies, and this guilt is still an effect and not the underlying ontological cause that the Course is addressing.


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