Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

海鳴りの響きは遠く

2008-02-06 23:33:06 | なんでもあり・ファミリー
海鳴りの響きは遠く—宮城県第一高女学徒勤労動員の記録
神谷 恵美子
草思社

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「郎女迷々日録 幕末東西」さんのサイトで「チェロが歌う『海ゆかば』」を見てて思い出したのだが、われわれの父母の青春時代はこの歌とともにあった。

昨夜、なにやら一女高のコーラスのことなど延々と電話で妻が話していたおばあちゃん・妻の母はますます元気。彼女のクラス旧制宮城第一高女47回生の卒業式は、昭和20年3月米軍の沖縄上陸を聞きつつ本土決戦が叫ばれる中、勤労動員に行っていた逗子の横須賀海軍工廠においてだった。卒業式は、「海ゆかば」の合唱。

なんどか、おばあちゃんに聞かされた逗子の話。冒頭にあげた表題の本は、その「横須賀組」の女学生たちの当時の日記を主にして後日の聞きとりや記録資料も補足して昭和56年発行、貴重な記録ゆえに最近草思社から復刻出版された。
あの時代の女学生は「軍国少女」?、今どきの子たちよりはそうとう大人であったが、そこは年齢相応。4年生1組から4組までの全生徒の写真、外出の鎌倉あたりのグループ写真もみれば、カワイイ女学生。軍事機密上重要なことは知らされないし、比較的境遇に恵まれた子が多いせいもあろうが、死を目前になどの悲壮感もあまり無いのが救い。

4年4組集合写真最後列一番左、学者の娘だったおばあちゃんもこのあと女専に行って会社づとめなどないから、この「県外に初出動、女子学徒の勤労義勇軍」は彼女の人生で唯一の勤労経験か?
お友達の日記などから少しだけ、みてみましょうか。お名前は省かせさせていただきました。


<学徒動員令>

「昭和16年4月、入学時は 桜かざしてうまれたる、われはやまとの乙女なり...
昭和19年秋、学徒動員令がおりた。4年生二百余名のうち百名が逗子の海軍工廠へ、残りは仙台貯金局へ、身体の弱い人たちは学校勤務へということになり、学校では逗子希望者をつのったところ、最初は二十余名しかいなかった。戦局が悪化の一途をたどるとき、娘を遠くに手放すのはどこの家庭でも忍びなかったのである。希望しなかったものは一堂に集められ諸石校長先生から「みなさんは国賊だ」と叱られた。軍国少女の私たちにとって、国賊の汚名は最大の恥辱であった。二度目の希望者はなんと百七十名程になり、ついに抽選という事になった...」

<海軍工廠沼間寄宿舎>

「寮のあった沼間は地名通り、たいへんにぬかるみの多いところで、泥沼の上に三十センチぐらいの板を渡してそれをしずかにそろりそろりと渡ったものです」
「外出の時、近道して垣根をくぐったら、寮長の小父さんに「犬か!」とどなられ、「犬です」と平気で出たことがありました。」

<日記から>

(昭和19年)
11月17日(土)
「今日は食事当番(工場の昼)なので、9時25分に洞窟を出て用意した。昼は第三と工員の人たちのバレーの試合があった。仕事が終わって山に入り花の採集をした。山は秋の紅葉の色どりを示しほんとにきれいな景色であった。...今日はわたしの誕生日である。父様とお姉様からお手紙が来て嬉しかった。...二号室に泥棒入る。夜、前田さんに小包届き柿や芋をご馳走になった。
...
朝 御飯、味噌汁(豆腐、わかめ、キャベツ)
昼 御飯 煮付(鰊、大根)あえ物(豆腐、人参、卵)、菜漬
夕 御飯 シチュー(玉葱、人参、じゃが芋)、鰊(固くて困った)
今日はお芋がないので淋しい

11月18日(土)
「今日は特別寒い。一日中ふるえてばかりいた。今日も小屋で仕事をした.仕事の量が少ないので、とてもひまだった。第六号の秘密ドックで進水式をあげた世界第一の航空母艦「信濃」が、レイテ湾方面に出動したそうだ。...
朝 御飯(小麦入)、味噌汁(豆腐、玉葱)しょっぱい
昼 雑炊(にんじん、大根、玉葱) 魚の佃煮 大根のお新香 さつま芋
夕 御飯 煮付(蓮根、玉葱、人参)
(⇒ おっと「信濃」だ。信濃は大和型戦艦3番艦を転用した6万2千トン当時世界一の空母、19日に竣工したが残った艤装や兵装を呉海軍工廠で行うため28日に横須賀出港。翌29日午前3時17分紀伊半島潮岬東南方95浬にて米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃を受け7時間後転覆し沈没、たった2日の命だった空母!格納庫には「桜花」50機が積まれていた。)

 1月3日(水)
「長い間微熱が下がらなかったので、入院して精密検査を受け、父はその結果を聞きに来たのでした。検査の結果が悪くて仙台に帰れることを期待していたのですが異状がなかったので、父は安心して帰り、私もその後気持ちが吹っ切れて元気になりました。今考えると、よく云う五月病のようなホームシックだったのではないかと思います(佐藤礼子談)」 
(⇒おばあちゃんだ!)
朝 お雑煮(ガチガチ)
昼 玉葱白菜人参の油炒り、里芋ごぼうの煮付
夕 ごぼう汁 海苔の佃煮 お汁粉

 月 日(日)
「わたしの父は当時外地に行って居りましたので、一度も家から(家族の面会が)来た事がなく、お友達の御馳走になってばかりいました。或る日面会の家族到着という事で誰の家族という事もなく、皆でわあわあと玄関口へ押しかけました。...ひょっと皆の間に母の顔が見えるではありませんか。わたしはハッ!として目を疑いました。皆をかきわけて側によると紛れもなく母です。「どうしたのどうしたの」と言いながらわたしは唯母の肩を背中をたたきました。後から後から涙が溢れてくるのです。母はそんな私を見て、唯黙ってニコニコと見て居りました...」

<工場での作業>

「高角砲の発射薬を絹の薬嚢に入れ、これを薬莢に入れ、炸填場で作った弾頭と組み合わせる仕事。
<結束>棒状の鉛筆の芯のような火薬を一定量測って絹の袋に入れ、それを白い糸で綴じる。弾丸の種類によって、火薬の種類、量、袋の形、大きさが異なる。綴じたものは、「仕上げ」でしらべる。繊維は燃えかすが残らぬよう必ず動物繊維(絹・毛)である。...」
「白い毛糸が欲しくてたまらなかった」
「特攻兵器『桜花』の噴推器の作業もした。小型飛行機のロケットの推薬の炸填である。飴色の中心に孔のあいた筒状の火薬を噴推器に入れ、それを伝火薬(黒色の粒火薬が、まるい絵絹の袋に平に入っている)をつけ蓋をして完成したものを、木箱(木枠)に入れる。蓋の釘打ち、箱書き(すりつける)したものをネコ車に乗せ、トラックの荷台に押し上げる。」
「特攻兵器の噴推器を作るようになった時は、本当にショックだった。これを抱いて若い兵士が敵艦に体当たりして散ってしまうのだ・・・、と悲壮な気持ちで作業を続けるほか、なかった。」

(桜花は、長さ6m、直径1.16m、頭部に1.2トンの弾薬が装填。一式陸攻の胴体につるし敵艦発見と同時に操縦士が乗り込み、(4千mの高空から)切り離されて時速470kmで突入する、ロケット燃料は9秒間しかない、人間爆弾であった)

<外出>

「休日のすごしかたは、各部屋によって違ったと思いますが、...
新聞で、軍神「関大尉」の若き未亡人が女子医専に御入学との記事を読み、お祝いに全員で出かけたこともありました。美しい愁いをおびたお顔がいまでも思い出されます。言葉少なく御入学のお祝いを申し上げ、また大尉の弔問をさせていただきたいとお願いしましたら、快くお部屋に通していただき、ピアノの上の遺品とお写真にお参りして、若き軍神となられたかたの思いはいかばかりかと、本当に辛くなって、お悔やみを申し上げるすべもなくおいとま致しました。」

<歌>
「警報で避難した壕のなかでは、移川先生の指導で歌をうたった。二高女も負けじと歌い小さな火花をちらしたものだ。移川先生はアメリカ二世で、よくアメリカの話をしてくださった。なかでもチョコレートやアイスクリームの話には、思わず生つばをごくりと飲み込んだものだ。そのアメリカと戦っているというのに。」
「夜になるといいかげん出たら目にカルメンなど歌って歌劇の雰囲気を出していました。...「希望のささやき」「ホフマンの舟歌」「シューベルトのセレナーデ」「ソルベージュの歌」「ドリゴのセレナーデ」等々に「杉の子」。二高女の人たちの上手な「田原坂」が聞こえいつのまにか覚えてしまったり...」

<卒業>

「思い出多き卒業式。簡素でかえって心にぴったりとした。式後、寮の前で卒業写真をとる。...よっちゃんが残していった荷物の荷造りで疲れてしまった。午後、ピーと裏山に登っておしゃべりをする。」

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さすがに、男どもと違って、食べ物うるさいし毎日の食事の記録も確か。こういう異常な環境下での合宿生活では、なんでも「仕切る」ような元気のいい生徒がいるもの。おばあちゃんはどうもヤワだったようで...日記もこの本には出てこなくて、談話や友達の日記中に心配されて登場している。

入院・精密検査後の面会に来た父親は仙台工専の土木工学の教授であった。新制東北大に統合された今野彦貞教授の関係した橋はまだ各地にある。工廠付きの若手将校は先生の教え子だったのでおばあちゃん達は特によくしてもらい、同級のどなたかは後にお嫁さんとなった!ボクの伯父も教え子で、海軍に入り技術将校としてパラオも生き延び戦後は建設省役人をやったが、学生時代に大梶にあった教授宅に押しかけたことがあるという。僕の父は逓信・電気通信省でのちに電電公社、入省早々だった妻の伯父(おばあちゃんの兄)とは仙台で一緒にいたこともあったらしい。

わが妻とはまったくの偶然の出会いだが、世の中は狭いものだ。妻もここの学校出なので、ムスメにも入れと説得していたようであるが、美術科のある共学校に行き三代めとはならなかった。このiPOD孫ムスメ、おばあちゃんが勤労動員で逗子にいたときと同じ歳16なのだ。

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「海鳴りの響きは遠く 宮城県第一高女学徒勤労動員の記録 神谷 恵美子[監修]草思社 ISBN978-4‐7942-1607-6」

コメント (6)
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