Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

40年後のクラス会

2013-05-21 01:29:17 | なんでもあり・ファミリー

 「昭和47年3月卒業以来40年余、そろそろ現役引退の年頃となり・・・」というクラス幹事の須佐さんからお手紙、この人にはお世話になったからなあ。一球会/高校バレー部OB会も定期戦の日だから重なってしまったが、何十年振りかのほうには調布まで是非行かねばならぬ。

同窓会とは、おやじも卒業した旧逓信省の官練の伝統を受け継いだ電電公社にあった大学のクラス会。評論家草柳大蔵さんが文藝春秋連載の「企業王国論」で、電電を大卒地獄/高卒天国と表現した昭和3、40年代頃、その後30万人までふくれあがった公社でも本社採用学卒は300人程度の時代、ミドル養成の一般教育機関も必要だった。いうなれば電電兵学校、この「大学部」は僕等の頃で、業務系100名、技術系240名、在職年数最低2年で入学出来たから学生の平均年齢は23、4歳。社会人だから一般の大学とは違ったものの給料貰いながら全寮制で勉強と部活やっていればいいわけで、入試倍率は25倍。ボクは受験のプロみたいな高校にいたお陰で、一夜漬け対策はお手のもの、過去問調べヤマを全部当て天国のオヤジも後押ししてくれたのか自分では(?)満点の出来。二次試験のあった日曜日、この日も夜勤だったが電話局に向かう途中、うわ~これで学校に行ける、4月には東京に行くんだと思った瞬間、晩秋の夕暮れの仙台青葉通がとつぜん昼間の様なあかるさになり街の灯りが痛い位に眼に飛び込んで来た。こんな不思議な体験はこの時ばかりだ。

    一階いちばん手前が1年時の教室だったな

 

あれから、もう40数年、第5回生合同のクラス会、平成25年5月18日(土)、この日の参加者全国から85名、恩師4名。新設なった寮の食堂はホテル並みではないか。ついこのあいだ桜満開の並木道をくぐって入学したのに、実人生で一仕事終えてみれば、もはや物故者/消息不明が各クラスで7、8名ぐらいもいる。現役のまま亡くなった方も多い。リストを見れば、当時の顔と声までありありと浮かぶ。彼等への黙祷から会は始まった。此処にあの人たちも是非居てほしかった、特に佐藤英昭さん・・・

 今回幹事の須佐さんは、シルバーっぽいブレザー。卒業した年、本社で勉強し直してこいと言われ、須佐さんのアパートに半年居候したっけ。寅さんの口上をずいぶん聞かされた記憶あり、彼の最近の住所は柴又。さて、いまや天台宗福寿寺の矢橋住職はネクタイ姿で!

 

 オウオウ、ハテ誰だっけ、企業内大学だから仕事で直接関係した面々もいるが、何十年振りもまた多いからお互いなつかしい顔と顔。同じ経験、おなじ釜の飯を食った連中、構える部分は全く要らない。その後の仕事の歳月など本当にあっという間であった。殆どの人65を過ぎてリタイアしてしまったようだ。いまだにフルタイムやってるのは、ちゃんと勉強してその後もひたむきで今は経営陣にいるかたと、はたまたボクみたいなハンモックナンバー200番台の年金年齢未到達の窓ぎわ組。

此処でも、バレー部に入っていた。9人制から6人制に変ったころだが、放課後きっちり練習してるのだから調布近辺の実業団の大会ではよく優勝した。ボクはきまぐれで練習をサボるのでキャプテンもさせられた。バレー部長、まじめだったUさんは今いない、ずいぶん前に自ら命を絶たれた。元気でこんなことが出来ることが、みな、今うれしい。
  バレー部のエース山口・田辺とレシーバ3人! バレーのインターハイにも出た田辺の家の裏山はスキー場の様な感じ、彼は長野五輪のサポートもこなした。山口とは博多の駅でばったり会ったとき奴はバリバリのキャリアウーマンを連れている、このヤロ。加納は松山に家を持ったが東京単身が延べ十数年だったとか、いまカミさん孝行中・・・まん中の佐々木さんはやさしいお兄さんだった、今、先生やってるとか。

 

ボクのいた「武蔵野」寮は20歳で入った最年少組が多く、東京に来てみりゃ面白いことばかり、ボクの部屋はひと月も経たないうちに雀荘と化し休みには新宿やらをうろつき、ブール代数や回路網、電磁気学、経済原論どころの話でなくなった。教授陣は東大、東工大、早慶から教授/助教授が来ていただいてその先生の本が教科書なのに、徹マンあけで寝坊ばかり、担任の内田先生にたたき起されて授業に出るには出るのだが、階段教室後ろの方で目立たぬように夢の中、で講義はチンプンカンプン。しかしだ、今日の出席者でも、大学講師やってるかたや、ワセダの修士課程在籍というご仁も居るから、まあ、人間というか心がまえというか、上昇志向というか、そもそもちがったのだろうなあ・・・

  三鷹で同僚の土谷、趣味は読書と貯金と親孝行やでぇ~(??)と、本社でそのままVon君とも机を並べた 、まあ、関西人はこれやでぇ・・・ 次回は神戸あたりで、欠席裁判で岩井さんが幹事だよ~    

 サッカー部の雀士・金沢の柳瀬は鮮やかな手つきで、僕等から巻き上げては仙川の美人女将のとこに足しげく通われていた。こっちはスナック・マドンナでウダウダ・・・いつぞやテレビ会議の画面で会って以来だね。

 

 

 教程課長・バレー部顧問だった峠原先生84歳、ご趣味のウィスキー瓶の帆船は舷窓にLEDと光ファイバーで明かりがつき、かわいいペンギンも乗っている! まん中池田は、わがギョーカイでいえば、ぼくとは、エベレストと泉ケ岳ぐらいの標高差。        

  
  ちゃんとおべんきょうしてれば、ちがう人生もあったかなあ・・・

コメント
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