八十路を半ばを過ぎるこの頃は旅行どころではない
連れは居なくなるし自分自身の体調も思わしくないし出かける気力もない
ついつい昔の写真での思い出ばかり
20年も前の思い出旅行20年も前なら元気も当たり前懐かしい
伊豆堂ヶ島でした
このうち12人があの世へ残るのは11人
「思い出の昭和は遠くなりにけり」
八十路を半ばを過ぎるこの頃は旅行どころではない
連れは居なくなるし自分自身の体調も思わしくないし出かける気力もない
ついつい昔の写真での思い出ばかり
20年も前の思い出旅行20年も前なら元気も当たり前懐かしい
伊豆堂ヶ島でした
このうち12人があの世へ残るのは11人
「思い出の昭和は遠くなりにけり」
何年か前にも行った事が有るのですが、その時は電車でした、今回は地元の高齢者の皆さんとの年に1回旅行に
参加しました高齢者の皆さんですからバスでの旅でした。朝は寒い日でしたが日中は暑いくらいの晴天に恵まれ楽しい一日でした。
残念な事に「コキア」は色が盛りを過ぎて赤から茶色にかかって居ました、コスモスは終わりに成って居まして見かけません、
丘の上まで行って太平洋の海を見て下りて来ました。
昼食は「阿字ヶ浦」の「那珂湊市場」です、食事の後は海産物のお買いもの、それから又お買いもの店により今度は
「めんたいパーク」です、めんたいの出来るまでの見学と又お買い物です、バス旅の良い所困る事の決まり事です。
10月31日の事でした。
芦ノ牧温泉からの帰りはお決まりのコースでしょうか、会津西街道の宿場町です。
「江戸時代、会津若松と日光、今市を結ぶ会津西街道は重要な幹線道路で、大内宿は
その宿場町として整備されました。中枢には、本陣や問屋本陣が設置され、大変重要な役割を果たして居ました。
本陣は大名の宿舎となるもので、防備のための工夫が有り、身分の高い人のみが出入りする
乗込み「玄関」や雪隠「便所」、風呂が置かれていました。当時の輸送は宿場ごとに荷物を
馬に付け替えて運んでいました。その中継地点が問屋だったのです。馬と人足の手配は問屋本陣に
とって大変重要な役割でした。大内宿には江戸時代の問屋本陣の建物は残っては居ませんでしたが、
大内宿保存にとって大変重要な課題であるとして、下郷町で復元しました。しかし当時の図面の記録が
ないため、同じ会津西街道の川島本陣と糸沢本陣を参考に設計され、当時の面影を忍ばせて居ます。
「大内宿町並み展示館」パンフレットより
大内宿の全景です、一部の茅葺屋根がトタンに成って居る
家も有りました、茅葺の吹き替えも材料や工事人の不足で
ままならなくなる時も有る事でしょう。この付近は豪雪地帯の
ようです、今は雪解け水が細い溝をとうとうと流れています。
綺麗で冷たく洗いものや、物を冷やすことに大いに利用されて居ます、
この家に住みながら商いをしています、高齢者が多いです。
何時までも残してほしい環境保存願いたいものです。
本陣の内部です、管理人さんが薪を燃やして居ます、暖を取ったり
煮物をしたり、煙が柱の長持ちになるコーティングの役目も
するようです。内部の部屋を見学して来ました、
お殿様が泊まる時にのみ使用される家です、土間が広くて台所物置や馬
屋等も有ります。部屋は囲炉裏が有り勝手が有り客人の出入りは乗込
み(玄関)から次の間、中の間、上段の間と有ります。廊下の幅は一間
チョット有りそうです、奥の隅に雪隠(厠)と湯殿(檜風呂)釜は無いので
沸かした湯を持ち込むようです、殿様と言っても当時の生活は
今に比べて大変の事のようです。
GWの連休が終わり道路も観光地も宿泊先も空いて居る頃を見計らい計画しました。
危ぶまれた天気も良いお天気に恵まれ新緑目映い裏磐梯を楽しんで来ました。
車で行きました、上尾から桶川加納ICに入り圏央道から久喜白岡JCT東北道に入り
上河内SAと那須高原SAで休憩し郡山JCTから磐越自動車道に入り磐梯猪苗代ICで下り、
五色沼を目指しました、約4時間のドライブです、距離は270Kでした。
五色沼駐車場に車を置いてバスで磐梯高原に行き檜原湖から五色沼自然探勝路を
歩きます、ゆっくり1時間半くらいかけて写真撮ったり鶯の鳴き声に聞き惚れたりしながら、
五色沼に置いた車に戻ってここから芦ノ牧温泉へ向かいました。
上河内SAの駐車場で休憩です、空いて居ました。
五色沼からバスで磐梯高原駅まで檜原湖の辺です。
此処でお昼の山菜そばが美味かったです。
食事の後、五色沼に向かって自然探勝路を歩きだしました。
弁天沼で鶯が何時までも歓迎してくれるように鳴き続けて
呉れて居ました、疲れを忘れます。
宿泊先の玄関です、