クラシックの曲を入れて見ました、雰囲気は如何でしょうか?
川島町に出来た公園に行って来ました、ここの公園も今はバラ園です、長いトンネルに成って飾られて居ます。
トンネルの入り口に「かわじま誕生50周年記念事業」平成17年3月26日と書いて有りました。
トンネルの中を通って見られるように成って居ます。
日本一長いトンネルと言っています、一本道では無く
途中であっちこっちと分かれ道に成って居ます。
「ばらの小径」
池にはしょうぶも咲いて居ます、続いて蓮池も有ります、
花は未だ咲いて居ませんが大きな葉は生き生きして居ます、
水をコロコロ載せています、
川島町では昭和63年に国が提唱した”ふるさと創生事業”
(「自ら考え自ら行う地域づくり事業」)を実行するにあたり、
広く町民からのアイデアを募集し公共施設と一体となった、
町民の憩いの場を整備することになりました。
この公園は「川島の文化を継承しつつ風土的伝統を踏襲した
総合公園」として、約8.38㌶の土地に3年の歳月と25億円の
費用を投じて、平成8年に完成したものです。名称は、平成元年に
計画されたため、元号を記念して「平成の森公園」と
名づけられました。「川島町」と書いて有ります。
坂本龍馬没後150年の特別展を開催中です、お仲間さんと行って来ました、調度大相撲夏場所中にて
両国駅付近にお相撲さんが歩いて居ました、午前中ですので名の知れた力士は見当たりませんでした。
坂本龍馬は天保6年(1835)に土佐で生まれ慶応3年(1867)に京都で亡くなりました。その間、
浪士の立場ながら薩長同盟を仲介し、大政奉還を推進するなど、近代日本の創設に尽力しました。
龍馬が亡くなってからおよそ150年。これを機会に改めて龍馬の人間的な魅力を伝える展覧会を
開催します。
本展では龍馬の自由奔放な生き様や家族への愛情をあらわした直筆の手紙を中心に、その魅力を
わかりやすく紹介します。また、龍馬が暗殺された際に携えていた愛刀「吉行」などの遺品や関連資料
を合わせて展示し、龍馬が活躍した幕末と言う時代に迫ります。「パンフより」
僅か32歳にして暗殺と言う事件で世を去る人生ながら今にしても評価される若き青年政治家であったわけですね。
国技館のすぐ隣です。
次ぎは「すみだ北斎美術館」 江戸東京博物館から約10分ほどの所に有ります、
昨年オープンしたものです。北斎と旅する五十三次ぎ、、、、
「富獄百景」は 晩年期の肉筆で、天保5年(1834年)~
嘉永2年(1849年)75歳から90歳までに描かれた様です。
百数十歳まで努力すれば生きて居る様な絵が描けるだろうと
思って居たようです。
次は「吉良邸跡」にも寄って来ました、
吉良上野介義央「きらこうずけのすけよしひさ)「1641~1702)
吉良家は、清和天皇の後裔で先祖は足利佐馬頭義氏。江戸城における
一切の典礼を司る高家の地位を得たのは、祖父義弥の時です。嘉永18年
生まれで三郎の幼名を名のった義央は、十三歳で将軍家綱に謁見しました。
のちに、京への使者を任され、立派にその大任を果たしたことから以後有職故実
の家柄として重用されるように成りました賓客を応対することにかけては、義央は
まさに天才だったようです。「パンフより」
この吉良邸は2550坪有ったようですが、現在の吉良邸跡は
29.5坪に成って居ます、ご近所は商店やお住まいに成って居ます。
ホームの 「アルディージャ大宮」対「ベガルタ仙台」の試合でした。
初めての観戦でした、大宮球場です、大宮は今季最下位の現況です、でも初めての観戦ですから
どんな状況かは知りません、会場までの道を歩いて居る内に遠くから応援合戦の声が聞こえて来ます。
自然と早足に成り会場に着きました。会場内に入り先ず吃驚応援合戦が凄いです、其々応援チームの
ユニフォームを着て応援歌を大合唱して居ます。試合の始まる前からの盛り上がり凄いです。
いつの間にか始まった試合も前半終了まで45分間攻守入り混じっての連続です、目も話せません。
ベガルタ仙台の応援団
アルディージャ大宮の応援団ホームなので圧倒的に数では多い
試合は仙台が先取点を取ったが大宮に逆転負けでした。地元我々にはほっとした試合でした。
芦ノ牧温泉からの帰りはお決まりのコースでしょうか、会津西街道の宿場町です。
「江戸時代、会津若松と日光、今市を結ぶ会津西街道は重要な幹線道路で、大内宿は
その宿場町として整備されました。中枢には、本陣や問屋本陣が設置され、大変重要な役割を果たして居ました。
本陣は大名の宿舎となるもので、防備のための工夫が有り、身分の高い人のみが出入りする
乗込み「玄関」や雪隠「便所」、風呂が置かれていました。当時の輸送は宿場ごとに荷物を
馬に付け替えて運んでいました。その中継地点が問屋だったのです。馬と人足の手配は問屋本陣に
とって大変重要な役割でした。大内宿には江戸時代の問屋本陣の建物は残っては居ませんでしたが、
大内宿保存にとって大変重要な課題であるとして、下郷町で復元しました。しかし当時の図面の記録が
ないため、同じ会津西街道の川島本陣と糸沢本陣を参考に設計され、当時の面影を忍ばせて居ます。
「大内宿町並み展示館」パンフレットより
大内宿の全景です、一部の茅葺屋根がトタンに成って居る
家も有りました、茅葺の吹き替えも材料や工事人の不足で
ままならなくなる時も有る事でしょう。この付近は豪雪地帯の
ようです、今は雪解け水が細い溝をとうとうと流れています。
綺麗で冷たく洗いものや、物を冷やすことに大いに利用されて居ます、
この家に住みながら商いをしています、高齢者が多いです。
何時までも残してほしい環境保存願いたいものです。
本陣の内部です、管理人さんが薪を燃やして居ます、暖を取ったり
煮物をしたり、煙が柱の長持ちになるコーティングの役目も
するようです。内部の部屋を見学して来ました、
お殿様が泊まる時にのみ使用される家です、土間が広くて台所物置や馬
屋等も有ります。部屋は囲炉裏が有り勝手が有り客人の出入りは乗込
み(玄関)から次の間、中の間、上段の間と有ります。廊下の幅は一間
チョット有りそうです、奥の隅に雪隠(厠)と湯殿(檜風呂)釜は無いので
沸かした湯を持ち込むようです、殿様と言っても当時の生活は
今に比べて大変の事のようです。