訪問日:平成26年5月24日(土)
出 発:地下鉄「今福鶴見駅」
到 着:JR「放出駅」
鎌倉時代、付近には鶴が多く住んでいたことから「鶴見」と呼ばれるようになったといわれるが諸説あり。長らく「城東区」の一部であったが、昭和49年の分区により発足。市北部の「守口市」との境界に「鶴見緑地」という広大な緑のオアシスがある。戦前から造成が続く緑地であるが、平成2年、ここで「国際花と緑の博覧会(花博)」が開催され、緑地は「花博記念公園鶴見緑地」と呼ばれるようになった。
区の西側は「城東区」「旭区」に接するが、それ以外は「守口市」「門真市」「大東市」「東大阪市」に囲まれた「衛星都市」的な位置関係にある。
実は、人口約11万2千人の区は、大阪市に編入されているが、かつての「河内国茨田郡」。そんな大阪市内に残る「河内野」を歩いてみた。
地下鉄長堀鶴見緑地線は、元々「花博会場」へのアクセス「鶴見緑地線」として、「鶴見緑地駅」から「京橋駅」間が平成2年に部分開通。その後、現在の「門真南駅」から「大正駅」まで延伸され、平成9年に全線開通された。大阪の地下鉄でも新しい路線であり、車両も若干コンパクトだ。ホームが低いため、自分が「巨人」になったような錯覚に陥る。

「今福鶴見駅」は、「鶴見通」と「大阪内環状線」が交差する「鶴見3交差点」の下にある。内環状線から西は「城東区」だが、交差点の南東角にある4番出入口は「鶴見区」である。午前10時、4番出入口を出発。

鶴見3丁目の町を進む。「真宗大谷派願正寺」というお寺を過ぎると神社の裏手に出るので、ぐるっと回って正面に向かう。

「鶴見神社」。この地は、かつて近江国(滋賀県)の人により開墾されたらしい。そのため、比叡山峯八王子の分霊を勧請したのが当社の始まりで、かつては八王子社と呼ばれていたとか。

平安末期、先ほども述べたように、鶴が舞う姿が見られたことから「鶴見」と呼ばれるようになり、鶴見神社と呼ばれるようになったと伝わる。いつもの通り、今日一日の安全を祈願する。

神社から東へ。「市立横堤小学校」の南側路地を過ぎる。

信号を渡り、中央が緑道になった道を左折。正面には、鶴見緑地の「いのちの塔」が見える。

150mほどで右にモータプールがあり、斜めに入る道があるので横堤2丁目の町へと入る。

「五色温泉」。大阪ではお風呂屋さん(銭湯)のことを「○○温泉」という。これは、温泉法にいう温泉ではなく、昔から屋号として使う習慣があったことの名残らしい。湯上がりにまっすぐ帰れないように店が並ぶ。

横堤の町から諸口1・2丁目へと進む。かなり建て替えが進んでいるが、所々古い家が残る。

「真宗大谷派圓満寺」「諸口郵便局」を過ぎると信号のある交差点に出るので左折。北へ進む。200mほどで先ほどの鶴見通に出る。ちょっと西に戻ると「関西鐵工所」という工場。社屋だろうか古い大きな建物が建つ。

表札は個人名のようだが………

そして鶴見通を渡ると「鶴見緑地」へと入る。南側に飛び出た部分は、スポーツ公園になっており、右側には立派なスタンドとナイター設備がある「鶴見緑地球技場」。

左の木々に囲まれたところは、地下鉄検車場の屋上を活用したテニスコート。

競技場の北には「グランド」があり、その向こうは室内の「鶴見緑地プール」とスポーツ施設が並ぶ。フットサルのコートもあるようだ。

右手には地下鉄「鶴見緑地駅」が見えてくる。

駅北側の「花博通」。

「花博記念公園前交差点」を渡れば鶴見緑地へのエントランスだ。

右には「生き生き地球館」という建物があり、花博協会事務局などが入る。噴水では、子どもたちが水遊びをしている。

突き当たりには「大池」という池があり、緑地の中心に位置する。花博開催当時は、この池外周で「テクニカルパレード」があったり、「モーゼの奇跡」のように池が二つに分かれるようなアトラクションがあったように思う。私もまだ幼かった娘2人を連れて来たことがある。

中央入口から園内に。ゲートはあるが無料である。

緑豊かな公園になっている。

これは「韓国館」跡。

かつてのパビリオンの一部が残されている。

「中国館」跡越しに「いのちの塔」を望む。高さ90mのこの塔は、18歳以下の子どもを対象とした「100万人会員」の出資により花博のシンボルとして運営され、出資者はプレートに名前が刻まれ、永久に残されるはずだったが、資金繰りが付かず平成22年3月、閉館された。私も2人の娘の名前で出資したのだが………。

さらに進んで行く。右には階段が。これは「鶴見新山」と言われゴミを埋め立てて造られた人工の山だ。造成当時、“山腹”の排気口からメタンガスが流れ“ゴミ臭い”山と報道されていたが、年月を経て緑豊かな山となった。

完成当時は標高45mだったらしいが、地盤沈下で今は39mに。それでも「大阪市の最高峰」らしい。

最高峰からの眺め。

山を下ると「風車の丘」。赤い花が美しい(すみません。私は花の名前を全然知らないんです)。

公園の西半分は「守口市」だ。公園の東半分を一周し、園外へ。花博公園前交差点を渡り、花博通を左折。次の「迎賓館前交差点」で右折し、マンションを抜けると公園の横に「古宮神社」。

かつて、北東150mの地にあったが「花博通」の造成にあたり当地に移転したと言われる。御祭神は、「誉田別命」「住吉四神」「菅原道真」であることから「八幡さん」「住吉さん」「天神さん」ということだろう。

参拝を終え、「浜集落」へと進む。

かなり建て替えが進んでいるが、迷路のような道は昔のままだ。

そして、所々に「河内野」の面影が残っている。


集落のほぼ中央に建つ「真宗大谷派宗圓寺」。

網の目のような狭い道を抜けていく。

左に「市立茨田北小学校」。この辺りは、最初に述べたように大阪市に編入されているものの「旧河内国茨田郡」。「茨田」と書いて「まった」と読む。

かつては「茨田郡(まむたのごおり)」と呼ばれたようだ。「播磨国風土記」に記述が見られ、「旧北河内郡」に属する。河内湖跡の湿地帯であり、頻繁に水害に見舞われたことから「古事記」「日本書紀」に書かれた日本最古の堤防「茨田堤」伝承地が隣の門真市に残る。ここにも蔵のある立派な旧家が残る。

茨田北小学校第2グランドの南から水田の横を抜け、一旦、鶴見通に出て左折する。

「古宮橋」で「古川」という川を渡り、すぐに左折。「安田」の集落に入る。

田植え前の水田。

古川を挟んで東側に広がる「安田」「茨田大宮」の集落も「河内野」の面影を残す。


「真宗大谷派専立寺」を過ぎて右に入ると「大宮神社」。お伊勢さんの来社として天照大神を御祭神とする。

「茨田大宮」という地名の由来となる神社である。境内には、高さ17m、幹回り5m超のくすのき。

神社からさらに進むとすぐに大きな道と高架が現れる。大阪の大動脈「大阪中央環状線」。その上を「近畿自動車道」が走る。「茨田大宮1交差点」から「茨田大宮2交差点」へと渡る。1回の信号では渡れなかった。

高速をくぐり中央環状線の東側へ出ると、目の前に大きな建物が。鶴見花き地方卸売市場に平成7年「鶴見はなぽーとブロッサム」として開業したが、平成20年4月、「三井アウトレットパーク大阪鶴見」と改称された。今も看板には当時の名称が残る。

上空から見ると「月下美人」の形をした地上5階地下1階の建物で、大型遊具や「スヌーピータウン」などが併設され子ども連れの家族で賑わっていたが「スヌーピータウン」は、平成18年閉鎖された。本当に「バブル崩壊」後の日本は、元気がなくなった。と言うよりバブルの頃はすごかったなぁ。

いくつか飲食店が入っているので昼食にしよう。時間は午後0時15分。「手打ち花鶴」に入る。

今日は、ちょっと二日酔い気味なので「カレーうどん(780円)」を注文した。

食事を終え、館内をブラブラ。

ここには、私が愛用する「mont-bell」のショップもある。
「三井アウトレットパーク大阪鶴見」から中央環状線を南に進む。200mほどで長い歩道橋が現れる。100mを超える「茨田歩道橋」で高速道路を頭上に見ながら、今度は「茨田大宮2丁目」から「茨田大宮1丁目」へと戻る。

そして道は「浜水路」と呼ばれる小さな川に突き当たる。

この辺りにも水田が残る。

ここにも古い家が。

「浜水路」。かつて「河内野」には、旧大和川の「流れ跡」と思われる小さな水路が田の中を幾筋も北上していたようだ。この辺りは、かつて「水郷地帯」で、隣の「門真市」には、今も「レンコン畑」や畑を往き来した「田舟」、「バッタリ」と呼ばれる閘門跡が残る。

水路前には「安田住吉神社」。

由緒は不詳であるが「住吉」というから航海・水運の神様なのだろう。ここもかつては「河内湖」。

神社の前には「宮前橋」。水路沿いに旧家が残る。

「安田中の橋」。この辺りは、まさに「河内野」だ。


水路には「サギ」だろうか(鳥の名前もほとんど知りません)。

「浜水路」が「下八箇荘水路」と交わった所にかかる「安田小橋」で鶴見通に出るので左に曲がり、次の「安田2交差点」で横断、安田1丁目に進む。

すぐに「府立茨田高校」に突き当たる。昭和50年開校の比較的新しい高校だ。これまでの「歩紀」で「島上」「豊島」など古い地名を冠された高校を見てきたが、統廃合等により消えつつある。付近には、古事記にも出てくる「盾津」という名前の高校もあったが、今は統廃合され「府立かわち野高校」になった。どうか「茨田」の名も残って欲しい。

茨田高校の南側で「下八箇荘水路」が古川と交わる。

その先にちょっとした通りがあるので左折し「中茶屋1丁目」の町を進む。この辺りまで来ると「集落」から「町」という雰囲気に変わる。「いこいのみち」と呼ばれるグリーンベルトを進む。

しかし、突然、暗渠だった水路が顔を出す。この道は、水路を埋め立てて作られたのだろう。かつては、この辺りも「河内野」の水郷地帯が広がっていたんだな。

そのまま進むと「徳庵2丁目」に入る。目の前には「寝屋川」の堤防が。「徳庵(とくあん)」とは、かつて付近にあった「徳庵」という寺名に由来すると伝わる。寝屋川から向こうは「東大阪市」。東大阪市側にも「徳庵」という地名が残る。

堤防に沿って歩く。

寝屋川に架かる「徳庵橋」。ここで先ほどの「古川」と東大阪市方面から流れてきた「五箇井路」「六郷井路」という水路が交わる。ここから東に1.5kmほど行ったところに「鴻池新田会所」という史跡が残る。この辺りは、江戸中期「三代目鴻池善右衛門」という人物により開墾された新田なのだ。徳庵橋付近の案内図が掲げられていた。水路が複雑に交わるのがわかる。

ポンプ場の横には河川改修の記念碑だろうか。

「徳庵橋」で寝屋川を渡り「今津北」の町へ。ちょっと東に入ると、そこは市境。道の右が「鶴見区」左は「東大阪市」。この辺りは、JR「徳庵駅」の駅前に当たるのだが、駅自体は「東大阪市」に所在する。

「徳庵商店街」という短いアーケード。

アーケードを抜け右に曲がると「比枝神社 」。

元禄元(1691)年、この地を開墾した近江国の人々により日吉大社の分霊を勧請したと言われる。

ただ、本殿前には延宝8(1680)年寄進の灯籠が残ることから、それ以前にお祀りされていたと思われる。

神社を抜け次の信号を右に曲がり、寝屋川方向に戻ろう。「今津諸口橋」という人道橋で寝屋川を再度渡る。遠方には生駒山地が見える。

この辺りは、寝屋川に沿った工場街とマンションや住宅が混在する。


「ビープレイス」という大きなマンションの前から、午前中に歩いた「横堤」の町に入る。「横堤八幡宮」という小さなお社に出る。
延文5(1360)年、京都・石清水八幡宮から分霊を勧請したと伝わる。境内には「地車庫」。

横堤の町を西に進み、児童公園を過ぎたところで通りに出るので左折する。

そこにはグリーンベルト。実は、この道は午前中「いのちの塔」を見ながら歩いた道の延長である。鶴見区は、このようなグリーンベルトが多い。と言うことは。

「西三荘抽水所」を過ぎると「三荘橋」というところで暗渠から水路が現れ「寝屋川」と交わる。そう、この道路もかつては「河内野」を流れる水路だったのだ。

300mほど寝屋川に沿って歩く。

次の信号で左に曲がると、そこには「放出大橋」が架かる。「放出(はなてん)」。以前「城東区編」でも歩いた。ここは、「内環状線」を挟んで広がる「放出」の町の「鶴見区」側なのだ(「城東区編」参照)。

かつて「放出大橋」南詰に「改修記念碑」が立っていたが、今は西に70mほど行った児童公園の中に移動されている。

「放出大橋」南詰まで戻り南へ進む。この道は、かつて「放出街道」と呼ばれたらしい。

街道らしい街並みが残る。

道がカーブすると右に「真宗大谷派正因寺」という寺院があるので路地に入る。次の四つ角を左に折れ「融通念仏宗道音寺」という寺の前を通る。この辺りにも古い家が残る。トタンで囲まれているが、形からすれば茅葺き屋根なのだろう。

改装中で全容は望めなかったが、この立派な屋敷も茅葺きだ。

特にこの屋敷はすごい。

屋敷前の路地。

この屋敷の間を通り抜け「放出街道」に戻る。信号を越え、さらに南へ進むと、この辺りにも古い街並みが残る。

そしてスイミングクラブの前に「阿遅速雄神社」。「あちはやお」と読む。鳥居ではなく「神門」が建つ。

門の横には「お陰燈籠」。江戸時代に流行した「お伊勢参り」を記念して慶應4(1868)年に建立されたもので、大阪市内に現存する「お陰燈籠」は、この1基のみらしい。

「神門」をくぐると鳥居が。天智天皇6(668)年、新羅の僧が「草薙剣」を盗んで国へ帰る際、嵐に巻き込まれ、これを「神罰」と恐れ、放り投げられた剣が、この地に奉納されたことが起源と伝わる古い神社だ。

社号標は「神門」の左脇に明治39年に建立されたものがひっそりと建っていた。

参拝を終え、拝殿の横を見ると、江戸時代に建立された小さな社号標石が。右には「放出村」と刻まれている。大阪市の有形文化財に指定されている。

参拝を終え、一旦、神社裏から北上し、神社の西側へと進む。大阪市内を歩いていると、時々見かける「長屋」。

路地を抜けると、そこには「放出みゆき通り商店街」。

170mほどのアーケード街だ。

「1号館」は、見つけられなかった。

そこそこ賑わっている。

しかし、アーケード出口手前の左側に「放出栄町南通」。「シャッター街化」している。淋しいなぁ。

この筋は、完全に閉鎖され「立入禁止」に。

古い中華料理店の向こうには高層マンション。どんどん街並みは変わっていくのだろうな。

アーケードを抜けるとJR「放出駅」。今日のゴールだ。かつて「片町線」と呼ばれた「学研都市線」と平成20年に入って「城東貨物線」が旅客線化した「おおさか東線」が乗り入れる。午後3時20分着。本日の歩紀「26837歩」(23.07km)。
出 発:地下鉄「今福鶴見駅」
到 着:JR「放出駅」
鎌倉時代、付近には鶴が多く住んでいたことから「鶴見」と呼ばれるようになったといわれるが諸説あり。長らく「城東区」の一部であったが、昭和49年の分区により発足。市北部の「守口市」との境界に「鶴見緑地」という広大な緑のオアシスがある。戦前から造成が続く緑地であるが、平成2年、ここで「国際花と緑の博覧会(花博)」が開催され、緑地は「花博記念公園鶴見緑地」と呼ばれるようになった。
区の西側は「城東区」「旭区」に接するが、それ以外は「守口市」「門真市」「大東市」「東大阪市」に囲まれた「衛星都市」的な位置関係にある。
実は、人口約11万2千人の区は、大阪市に編入されているが、かつての「河内国茨田郡」。そんな大阪市内に残る「河内野」を歩いてみた。
地下鉄長堀鶴見緑地線は、元々「花博会場」へのアクセス「鶴見緑地線」として、「鶴見緑地駅」から「京橋駅」間が平成2年に部分開通。その後、現在の「門真南駅」から「大正駅」まで延伸され、平成9年に全線開通された。大阪の地下鉄でも新しい路線であり、車両も若干コンパクトだ。ホームが低いため、自分が「巨人」になったような錯覚に陥る。

「今福鶴見駅」は、「鶴見通」と「大阪内環状線」が交差する「鶴見3交差点」の下にある。内環状線から西は「城東区」だが、交差点の南東角にある4番出入口は「鶴見区」である。午前10時、4番出入口を出発。

鶴見3丁目の町を進む。「真宗大谷派願正寺」というお寺を過ぎると神社の裏手に出るので、ぐるっと回って正面に向かう。

「鶴見神社」。この地は、かつて近江国(滋賀県)の人により開墾されたらしい。そのため、比叡山峯八王子の分霊を勧請したのが当社の始まりで、かつては八王子社と呼ばれていたとか。

平安末期、先ほども述べたように、鶴が舞う姿が見られたことから「鶴見」と呼ばれるようになり、鶴見神社と呼ばれるようになったと伝わる。いつもの通り、今日一日の安全を祈願する。

神社から東へ。「市立横堤小学校」の南側路地を過ぎる。

信号を渡り、中央が緑道になった道を左折。正面には、鶴見緑地の「いのちの塔」が見える。

150mほどで右にモータプールがあり、斜めに入る道があるので横堤2丁目の町へと入る。

「五色温泉」。大阪ではお風呂屋さん(銭湯)のことを「○○温泉」という。これは、温泉法にいう温泉ではなく、昔から屋号として使う習慣があったことの名残らしい。湯上がりにまっすぐ帰れないように店が並ぶ。

横堤の町から諸口1・2丁目へと進む。かなり建て替えが進んでいるが、所々古い家が残る。

「真宗大谷派圓満寺」「諸口郵便局」を過ぎると信号のある交差点に出るので左折。北へ進む。200mほどで先ほどの鶴見通に出る。ちょっと西に戻ると「関西鐵工所」という工場。社屋だろうか古い大きな建物が建つ。

表札は個人名のようだが………

そして鶴見通を渡ると「鶴見緑地」へと入る。南側に飛び出た部分は、スポーツ公園になっており、右側には立派なスタンドとナイター設備がある「鶴見緑地球技場」。

左の木々に囲まれたところは、地下鉄検車場の屋上を活用したテニスコート。

競技場の北には「グランド」があり、その向こうは室内の「鶴見緑地プール」とスポーツ施設が並ぶ。フットサルのコートもあるようだ。

右手には地下鉄「鶴見緑地駅」が見えてくる。

駅北側の「花博通」。

「花博記念公園前交差点」を渡れば鶴見緑地へのエントランスだ。

右には「生き生き地球館」という建物があり、花博協会事務局などが入る。噴水では、子どもたちが水遊びをしている。

突き当たりには「大池」という池があり、緑地の中心に位置する。花博開催当時は、この池外周で「テクニカルパレード」があったり、「モーゼの奇跡」のように池が二つに分かれるようなアトラクションがあったように思う。私もまだ幼かった娘2人を連れて来たことがある。

中央入口から園内に。ゲートはあるが無料である。

緑豊かな公園になっている。

これは「韓国館」跡。

かつてのパビリオンの一部が残されている。

「中国館」跡越しに「いのちの塔」を望む。高さ90mのこの塔は、18歳以下の子どもを対象とした「100万人会員」の出資により花博のシンボルとして運営され、出資者はプレートに名前が刻まれ、永久に残されるはずだったが、資金繰りが付かず平成22年3月、閉館された。私も2人の娘の名前で出資したのだが………。

さらに進んで行く。右には階段が。これは「鶴見新山」と言われゴミを埋め立てて造られた人工の山だ。造成当時、“山腹”の排気口からメタンガスが流れ“ゴミ臭い”山と報道されていたが、年月を経て緑豊かな山となった。

完成当時は標高45mだったらしいが、地盤沈下で今は39mに。それでも「大阪市の最高峰」らしい。

最高峰からの眺め。

山を下ると「風車の丘」。赤い花が美しい(すみません。私は花の名前を全然知らないんです)。

公園の西半分は「守口市」だ。公園の東半分を一周し、園外へ。花博公園前交差点を渡り、花博通を左折。次の「迎賓館前交差点」で右折し、マンションを抜けると公園の横に「古宮神社」。

かつて、北東150mの地にあったが「花博通」の造成にあたり当地に移転したと言われる。御祭神は、「誉田別命」「住吉四神」「菅原道真」であることから「八幡さん」「住吉さん」「天神さん」ということだろう。

参拝を終え、「浜集落」へと進む。

かなり建て替えが進んでいるが、迷路のような道は昔のままだ。

そして、所々に「河内野」の面影が残っている。


集落のほぼ中央に建つ「真宗大谷派宗圓寺」。

網の目のような狭い道を抜けていく。

左に「市立茨田北小学校」。この辺りは、最初に述べたように大阪市に編入されているものの「旧河内国茨田郡」。「茨田」と書いて「まった」と読む。

かつては「茨田郡(まむたのごおり)」と呼ばれたようだ。「播磨国風土記」に記述が見られ、「旧北河内郡」に属する。河内湖跡の湿地帯であり、頻繁に水害に見舞われたことから「古事記」「日本書紀」に書かれた日本最古の堤防「茨田堤」伝承地が隣の門真市に残る。ここにも蔵のある立派な旧家が残る。

茨田北小学校第2グランドの南から水田の横を抜け、一旦、鶴見通に出て左折する。

「古宮橋」で「古川」という川を渡り、すぐに左折。「安田」の集落に入る。

田植え前の水田。

古川を挟んで東側に広がる「安田」「茨田大宮」の集落も「河内野」の面影を残す。


「真宗大谷派専立寺」を過ぎて右に入ると「大宮神社」。お伊勢さんの来社として天照大神を御祭神とする。

「茨田大宮」という地名の由来となる神社である。境内には、高さ17m、幹回り5m超のくすのき。

神社からさらに進むとすぐに大きな道と高架が現れる。大阪の大動脈「大阪中央環状線」。その上を「近畿自動車道」が走る。「茨田大宮1交差点」から「茨田大宮2交差点」へと渡る。1回の信号では渡れなかった。

高速をくぐり中央環状線の東側へ出ると、目の前に大きな建物が。鶴見花き地方卸売市場に平成7年「鶴見はなぽーとブロッサム」として開業したが、平成20年4月、「三井アウトレットパーク大阪鶴見」と改称された。今も看板には当時の名称が残る。

上空から見ると「月下美人」の形をした地上5階地下1階の建物で、大型遊具や「スヌーピータウン」などが併設され子ども連れの家族で賑わっていたが「スヌーピータウン」は、平成18年閉鎖された。本当に「バブル崩壊」後の日本は、元気がなくなった。と言うよりバブルの頃はすごかったなぁ。

いくつか飲食店が入っているので昼食にしよう。時間は午後0時15分。「手打ち花鶴」に入る。

今日は、ちょっと二日酔い気味なので「カレーうどん(780円)」を注文した。

食事を終え、館内をブラブラ。

ここには、私が愛用する「mont-bell」のショップもある。

「三井アウトレットパーク大阪鶴見」から中央環状線を南に進む。200mほどで長い歩道橋が現れる。100mを超える「茨田歩道橋」で高速道路を頭上に見ながら、今度は「茨田大宮2丁目」から「茨田大宮1丁目」へと戻る。

そして道は「浜水路」と呼ばれる小さな川に突き当たる。

この辺りにも水田が残る。

ここにも古い家が。

「浜水路」。かつて「河内野」には、旧大和川の「流れ跡」と思われる小さな水路が田の中を幾筋も北上していたようだ。この辺りは、かつて「水郷地帯」で、隣の「門真市」には、今も「レンコン畑」や畑を往き来した「田舟」、「バッタリ」と呼ばれる閘門跡が残る。

水路前には「安田住吉神社」。

由緒は不詳であるが「住吉」というから航海・水運の神様なのだろう。ここもかつては「河内湖」。

神社の前には「宮前橋」。水路沿いに旧家が残る。

「安田中の橋」。この辺りは、まさに「河内野」だ。


水路には「サギ」だろうか(鳥の名前もほとんど知りません)。

「浜水路」が「下八箇荘水路」と交わった所にかかる「安田小橋」で鶴見通に出るので左に曲がり、次の「安田2交差点」で横断、安田1丁目に進む。

すぐに「府立茨田高校」に突き当たる。昭和50年開校の比較的新しい高校だ。これまでの「歩紀」で「島上」「豊島」など古い地名を冠された高校を見てきたが、統廃合等により消えつつある。付近には、古事記にも出てくる「盾津」という名前の高校もあったが、今は統廃合され「府立かわち野高校」になった。どうか「茨田」の名も残って欲しい。

茨田高校の南側で「下八箇荘水路」が古川と交わる。

その先にちょっとした通りがあるので左折し「中茶屋1丁目」の町を進む。この辺りまで来ると「集落」から「町」という雰囲気に変わる。「いこいのみち」と呼ばれるグリーンベルトを進む。

しかし、突然、暗渠だった水路が顔を出す。この道は、水路を埋め立てて作られたのだろう。かつては、この辺りも「河内野」の水郷地帯が広がっていたんだな。

そのまま進むと「徳庵2丁目」に入る。目の前には「寝屋川」の堤防が。「徳庵(とくあん)」とは、かつて付近にあった「徳庵」という寺名に由来すると伝わる。寝屋川から向こうは「東大阪市」。東大阪市側にも「徳庵」という地名が残る。

堤防に沿って歩く。

寝屋川に架かる「徳庵橋」。ここで先ほどの「古川」と東大阪市方面から流れてきた「五箇井路」「六郷井路」という水路が交わる。ここから東に1.5kmほど行ったところに「鴻池新田会所」という史跡が残る。この辺りは、江戸中期「三代目鴻池善右衛門」という人物により開墾された新田なのだ。徳庵橋付近の案内図が掲げられていた。水路が複雑に交わるのがわかる。

ポンプ場の横には河川改修の記念碑だろうか。

「徳庵橋」で寝屋川を渡り「今津北」の町へ。ちょっと東に入ると、そこは市境。道の右が「鶴見区」左は「東大阪市」。この辺りは、JR「徳庵駅」の駅前に当たるのだが、駅自体は「東大阪市」に所在する。

「徳庵商店街」という短いアーケード。

アーケードを抜け右に曲がると「比枝神社 」。

元禄元(1691)年、この地を開墾した近江国の人々により日吉大社の分霊を勧請したと言われる。

ただ、本殿前には延宝8(1680)年寄進の灯籠が残ることから、それ以前にお祀りされていたと思われる。

神社を抜け次の信号を右に曲がり、寝屋川方向に戻ろう。「今津諸口橋」という人道橋で寝屋川を再度渡る。遠方には生駒山地が見える。

この辺りは、寝屋川に沿った工場街とマンションや住宅が混在する。


「ビープレイス」という大きなマンションの前から、午前中に歩いた「横堤」の町に入る。「横堤八幡宮」という小さなお社に出る。

延文5(1360)年、京都・石清水八幡宮から分霊を勧請したと伝わる。境内には「地車庫」。

横堤の町を西に進み、児童公園を過ぎたところで通りに出るので左折する。

そこにはグリーンベルト。実は、この道は午前中「いのちの塔」を見ながら歩いた道の延長である。鶴見区は、このようなグリーンベルトが多い。と言うことは。

「西三荘抽水所」を過ぎると「三荘橋」というところで暗渠から水路が現れ「寝屋川」と交わる。そう、この道路もかつては「河内野」を流れる水路だったのだ。

300mほど寝屋川に沿って歩く。

次の信号で左に曲がると、そこには「放出大橋」が架かる。「放出(はなてん)」。以前「城東区編」でも歩いた。ここは、「内環状線」を挟んで広がる「放出」の町の「鶴見区」側なのだ(「城東区編」参照)。

かつて「放出大橋」南詰に「改修記念碑」が立っていたが、今は西に70mほど行った児童公園の中に移動されている。

「放出大橋」南詰まで戻り南へ進む。この道は、かつて「放出街道」と呼ばれたらしい。

街道らしい街並みが残る。

道がカーブすると右に「真宗大谷派正因寺」という寺院があるので路地に入る。次の四つ角を左に折れ「融通念仏宗道音寺」という寺の前を通る。この辺りにも古い家が残る。トタンで囲まれているが、形からすれば茅葺き屋根なのだろう。

改装中で全容は望めなかったが、この立派な屋敷も茅葺きだ。

特にこの屋敷はすごい。

屋敷前の路地。

この屋敷の間を通り抜け「放出街道」に戻る。信号を越え、さらに南へ進むと、この辺りにも古い街並みが残る。

そしてスイミングクラブの前に「阿遅速雄神社」。「あちはやお」と読む。鳥居ではなく「神門」が建つ。

門の横には「お陰燈籠」。江戸時代に流行した「お伊勢参り」を記念して慶應4(1868)年に建立されたもので、大阪市内に現存する「お陰燈籠」は、この1基のみらしい。

「神門」をくぐると鳥居が。天智天皇6(668)年、新羅の僧が「草薙剣」を盗んで国へ帰る際、嵐に巻き込まれ、これを「神罰」と恐れ、放り投げられた剣が、この地に奉納されたことが起源と伝わる古い神社だ。

社号標は「神門」の左脇に明治39年に建立されたものがひっそりと建っていた。

参拝を終え、拝殿の横を見ると、江戸時代に建立された小さな社号標石が。右には「放出村」と刻まれている。大阪市の有形文化財に指定されている。

参拝を終え、一旦、神社裏から北上し、神社の西側へと進む。大阪市内を歩いていると、時々見かける「長屋」。

路地を抜けると、そこには「放出みゆき通り商店街」。

170mほどのアーケード街だ。

「1号館」は、見つけられなかった。

そこそこ賑わっている。

しかし、アーケード出口手前の左側に「放出栄町南通」。「シャッター街化」している。淋しいなぁ。

この筋は、完全に閉鎖され「立入禁止」に。

古い中華料理店の向こうには高層マンション。どんどん街並みは変わっていくのだろうな。

アーケードを抜けるとJR「放出駅」。今日のゴールだ。かつて「片町線」と呼ばれた「学研都市線」と平成20年に入って「城東貨物線」が旅客線化した「おおさか東線」が乗り入れる。午後3時20分着。本日の歩紀「26837歩」(23.07km)。

放出はまた『難読地名』として有名になりましたが、地元の人々にとっては読み慣れている地名が珍しがられるのはどうなんでしょうね・・・
商店街のお菓子屋『三松』さんって、石橋にあるやつですか?