訪問日:平成25年6月8日(土)
出 発:近鉄電車「道明寺駅」
到 着:近鉄電車「服部川駅」
旧河内國。現在の大阪府東部で古代から物部氏の勢力が強かったといわれ「北河内」「中河内」「南河内」に分かれる。東部に連なる生駒・葛城・金剛山系は、河内平野が内海であったころから人の営みが行われていたところで、読み方にも窮するような古い神社が点在する。前回の丹波「柏原」に続き2つ目の「柏原」、中河内南端に位置する大阪府柏原市を訪ねる。
後に開かれた東高野街道(旧国道170号線)に沿って北に向かい「八尾市」まで歩くが、車を避け、山沿いの集落を歩くため意外と距離が伸び、起伏もある。特に古社・古刹は山中にあるので、急な坂道や石段は覚悟しておくこと。コンビニ・自販機は適度にあるが、トイレは寺社の参拝客用トイレがあるくらいだ。
JR「柏原駅」。天王寺から約15分(210円)。「かしわら」と読む。
JR大和路線の途中駅であるが、近鉄道明寺線の始発駅でもある。左のグリーンの車両がJR、右が近鉄電車。今日は、この駅がスタートではなく、近鉄電車で道明寺駅まで向かう。
柏原駅から2つ目、約5分(150円)で終点「道明寺駅」に着く。営業距離2.2kmの支線で南大阪線とつながる。ここは大阪府羽曳野市。この駅をスタートとしたのは「玉手山公園」を訪ねるためだ。
駅南側の踏切を越え、真ん前の石川堤防に。すぐ右前方に吊り橋が見えてくる。玉手山遊園地(当時)への通行路として昭和3年、石川に架けられた全長150m、歩行者・自転車専用の吊り橋だ。
子どもたちの夢を運んだこの橋は、平成13年、吊り橋としては全国初の国の登録有形文化財に登録された。橋の真ん中が羽曳野市と柏原市の市境になっている。柏原市は、昭和33年に市制が施行された人口約7万3千人の街で、歴史は古く3万年ほど前の旧石器時代にまでさかのぼる。ここから柏原市を歩く。
橋を渡って右へ、しばらく石川の河川敷を南に歩く。グランドでは、少年たちが野球やサッカーを楽しんでいた。
前方には西名阪自動車道の橋が見える。500mほど歩けば河川敷から堤防上に上がるスロープがあるので堤防に上る。横断歩道で道路を渡り南に歩くとすぐに信号のある交差点に出る。玉手山公園駐車場への看板があるその交差点を左折、真っ直ぐに進んでいく。次の信号で右に上る道と分かれるが、そのまま真っ直ぐ細街路に入る。すぐ正面に鳥居が見えてくる。
伯太姫神社。「はかたひめ」神社と読み、創建は不詳であるが百済系渡来人の田辺氏の祖神といわれる伯太姫命を祀る。天安2(858)年の「文徳天皇実録」に記載されている古社で今日一日の無事を祈願する。
元の道に戻り、途中右折して神社の北側に回り込み、府営住宅を右に見ながら進んでくと「玉手山公園」の駐車場と南入口の前に出る。
柏原市南部の標高100mほどの丘陵に、明治41年、西日本で最も古い遊園地として「玉手山遊園地」が開園。遊具や昆虫館、小動物園などを備え、近隣の幼稚園や小学校の遠足、家族連れなどで賑わったが、絶叫マシーンを備えた大規模遊園地やテーマパークに押され、平成10年5月に閉園、1年の準備期間を経て、平成11年3月、柏原市立玉手山公園「ふれあいパーク」として開園、無料開放(午前9時~午後5時、水曜日休園)されている。
この辺りは「玉手山古墳群」と呼ばれ、古墳時代前期に築造された前方後円墳や円墳、横穴墓など多くの古墳が発見されており、公園内にも石室が保存、展示されている。
また、一帯は、慶長20(1615)年に勃発した「大坂夏の陣」の古戦場でもあり、玉手山公園付近では徳川、豊臣の両陣営が激しく激突した。
「歴史の丘」と呼ばれるこのエリアには、豊臣家の先陣となって奮戦、重傷を負ったのち自害した「後藤又兵衛基次の碑」など両陣営の慰霊碑、墓碑などが多く残されている。
「コミュニティ広場」へ。昔のままの「野外劇場」。ぬいぐるみショーやマジックショーなどが行われていたのだろう。今は誰もいない。
弁財天、大黒天、毘沙門天を祀った「三天堂」。後方には、「おもちゃ館」と「昆虫館」。
全国のおもちゃや化石、昆虫標本などが並べられいる。
涼しげな林間の小径を歩き「メイン広場」へ向かう。
かつては、メリーゴーランドや小さな観覧車があったが、今は「ミニSL」があるくらいだ。
昭和30年代に大阪で生まれ育った人なら一度は遠足や家族連れで訪れた記憶があるだろう。(幼稚園のアルバムから。昭和40年頃の玉手山遊園地)
遠足の記念撮影をしたのは、この場所に間違いないだろう。「おたしみ館(ゲームセンター)」として使われていた催し物館も今は使われていない。
公園正面の中央入口から公園を後にする。
住宅地を抜け公園北側へ。正面には「安福寺」の門が見えてくるが、その手前右側に鳥居が立つ。「伯太彦神社」だ。安福寺の境内からも神社に行けるが、正面から参拝するため、まず鳥居をくぐる。
伯太彦(はかたひこ)神社。伯太姫神社のご祭神とは夫婦神である伯太彦命を祀るが、詳しい由緒はわからない。「彦」は男、「姫」は女を表す。
神社の境内を抜けると安福寺の山門前に出る。
山門くぐり進んで行くと右側には、かつて寺の手洗い石として使われていたと言われる「割竹形石棺蓋」。竹を割ったような形からこう呼ばれており、後に訪れる古墳時代前期の玉手山3号墳から出土されたものと伝わる。
浄土宗知恩院派の寺院で、寺伝によれば奈良時代、行基によって開基されたとか。
山門より下って行くが途中、左右に横穴が。安福寺横穴群と呼ばれ合計32基の横穴が発見されている。石棺や陶器、騎馬人物像などの壁画も発見されおり、古墳時代の横穴墓と見られる。
大阪府下において横穴墓は、この後訪れる「高井田横穴群」とともに、ここ柏原市でしか発見されていない。「高井田横穴群」は、すべて入口が柵等で塞がれているが、ここ安福寺横穴群は内部に入ることができる。「墓」であるので私は入らなかったが、重要な史跡なので荒らすことのないように。
横穴群を抜けると、先ほどの伯太彦神社鳥居横の門に出る。門の前には、薬師堂と「右あんぷくぢ道」と彫られた約300年前の道標と村の若衆が力比べに使ったと言われる「力石」が置かれている。
200mほどニュータウン内を歩く。
住宅街を抜けると右に古墳が見えてくる。「玉手山3号墳」と呼ばれる全長107mの前方後円墳で、採掘された埴輪片などから古墳時代前期に築造されたものと思われるが、大坂夏の陣で戦場となったうえ、現在は市立の福祉センターが建っているため全容は不明。
3号墳を抜けると右に一般の墓地が見えてくる。「玉手山2号墳」と呼ばれる全長70mほどの前方後円墳だが墓地になっているため発掘調査は行われていない。墓地を抜けると左手の体育館敷地脇に「大坂夏之陣小松山古戦場跡碑」が立つ。左に見える墓地が玉手山2号墳。一般墓地なので写真撮影は控えたが、墓地は円形と方形の段状に造成されており、一目で前方後円墳跡であることがわかる。これだけの墓が建つところに、たった一人のためだけに古墳が造られたのだから、当時の権力者の力はすごかったのだろう。
すぐ目の前に見えるのが「玉手山1号墳」。全長110~120mの前方後円墳で、比較的全容が保存されいる。
後円部頂上には、大坂夏の陣で討ち死にした徳川方の武将、奥田忠次の墓が建つ。
1号墳東側の狭い急な階段を下り、原川という小さな川を越えて左へ。「原川橋」という交差点に出るが、この交差点を右折すると道がカーブして河内国分駅前に出てしまうので、信号を渡って突き当たりを右に進む。途中、近鉄大阪線の踏切を越えると「国豊橋南詰交差」に出るので信号を渡って左折。「国豊橋(国道25号線)」で大和川を渡る。
国道25号線を越え、堤防下に下りて右折すると「JR高井田駅」前に出るので踏切を渡る。
すぐに「史跡高井田横穴公園」の入口がある。
ここは、先ほど訪れた「安福寺横穴群」同様、古墳時代の横穴墓群だが、規模が大きく150基以上の横穴が確認されている。その山全体が史跡公園となっている。
6世紀中頃から7世紀初めにかけて築造されたと見られ、人物や馬、鳥、魚などの線刻壁画も発見されている。「安福寺横穴群」と異なり、入口は柵等で塞がれているが、重要な文化財を守るためにはやむを得ないだろう。
柵の隙間からカメラを差し入れ、横穴内部を撮影。
横穴群を抜け、案内に従い「高井田山古墳」へ向かう。小山の頂上にある「高井田山古墳」は、5世紀終わりころに造られたと考えられ、薄い板石を積み上げた横穴式石室を持つ。石室上部を透明プラスチック製の上屋で覆い、内部が見学できるようになっている。
上屋の隙間から石室内部を撮影。石室内には、鏡・甲・鎧・剣や古代のアイロンである火熨斗(ひのし)の模造品などが並べられている。火熨斗の発見は、国内では2例しかないという。
途中、立ち寄ったトイレ横の注意書き。最近は、どこにでも出るな。
遊歩道の横には、発見された線刻壁画のレプリカが飾られていた。
北側にある「古代へのいざなぎ広場」から公園を後にする。さすがゴミ入れも円筒埴輪を模したものだ。
公園を出て水路沿いに下り、近鉄大阪線の高架をくぐったJR踏切の手前右に「天湯川田神社」への石段が見える。
飛鳥時代からの古社で、鳥取氏の祖「天湯河桁命」を祀るが詳しい由緒は不詳。
JR踏切の向こうには、何やら古い木造の建物が。
踏切を渡り、信号で国道25号線を渡ると大和川堤防に上る階段があるので堤防上に。自転車道を川下に向かって歩く。大和川は、奈良県桜井市の北東部、貝ケ平山(822m)を水源とし、奈良盆地の佐保川、竜田川などの水を集め、生駒山系と葛城山系の間、「亀の瀬」で大阪平野に出、石川と交わり堺市で大阪湾に注ぐ。全長68km、大阪第二の大河で、かつては水質ワースト2の「どぶ川」であったが、現在は改善され環境省の水質基準も満たしている。
右に柏原市の官庁街が現れた辺りで左岸から石川が合流する。石川は、昔から鮎が遡上する清流だ。
大和川が西に曲がるところで国道25号線と旧170号線が分岐する。この「安堂交差」の北側に「大和川治水記念公園」。そこには「中甚兵衛翁像」が立つ。
古代大和川は、ここで大きく北にカーブして河内湖に注いだ。その後、土砂が堆積して河内平野を形成するが、昔から河内の国に大きな水害をもたらしてきた。江戸時代に入り、河内國今米村(現東大阪市)の庄屋「中甚兵衛(なかじんべえ)」という人物が幕府に対して大和川の付け替えを嘆願、ついには自ら陣頭指揮を執り、50年以上の歳月をかけて西方向に開削、宝永元(1705)年、現在の大和川となる。公園内には多くの治水関係碑が並ぶ。人々は、長らく水害と戦ってきたのだろう。
ここから旧国道170号線は、ほぼ一直線に北へ進む。この道は、京・八幡から「北河内」「中河内」を縦断。「南河内」で西高野街道と合流し、聖地「高野山」へと向かう東高野街道だ。その道を高野山とは逆の北に向かって進むのだが、旧国道170号線は、交通量が多いうえ、場所によっては歩道はおろかセンターラインもない旧道である。車を避けて山沿いの集落を歩くため「安堂北交差」を右折して山手に向かう。
近鉄「安堂駅」前の踏切を渡ったところにコンビニがあったので昼食を調達する。そして駅前から5分も歩けば、このような風景に出会うことができる。「真宗大谷派正休寺」前を進む。
地図では分かれ道が分かりづらかったが、このような案内が立っていた。この道は「業平道」というらしい。智識寺、石神社方向へ進む。
この道は、石神社の境内へと続くが、正面からお参りするため一旦境内を抜け正面に回る。樹齢800年と推定される大クスノキは、周囲6m、高さ16mで大阪府指定天然記念物となっている。
境内に入ってすぐ右に「知識寺東塔刹柱礎石」と呼ばれる石が置かれている。智(知)識寺とは、奈良・平安時代の河内を代表する大寺院で、東西二塔を有する大伽藍であったと言われる。
石神社と書いて「いわ」神社と読む。由緒の詳細は不明であるが、宣化天皇の皇女、石姫皇女らを祀る式内社だ。式内社とは、延長5(927)年に編纂された延喜式の神名帳と呼ばれる巻9と巻10に記載された1000年以上の歴史を有する2861の神社をいう。
お参りの後、神社横が「歴史の丘展望台公園」という公園になっていたので、先ほどコンビニで調達した昼食を食べる。今日のメニューは、おにぎり2つとソーセージ+お茶だ。
神社の前には古い街並みが残り、観光案内板が立てられている。
太平寺地区の街並み。
この筋を通り抜け、左に曲がると「智識寺址」の石碑が立つ。智識寺の伽藍は、現在見ることはできないが、付近では多くの遺跡や所蔵物が発見されている。先ほどの礎石もこの辺りの民家土蔵付近から発見されたことから、ここが寺址とされているのだろうが、付近一帯が寺域であったと見られる。
河内地方は、古くからワイン造りが盛んであり「河内ワイン」として売り出されている。石碑の前には「3大醸造所」のひとつで、大正3(1914)年から100年の歴史を持つ「カタシモワインフーズ」。カタシモ(堅下)とは、ぶどう栽培が盛んなこの辺りの地名である。(
野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ コラム「河内音頭」「河内ワイン」参照)
ここの貯蔵庫は、大正時代に建てられたもので、平成17年、国の登録有形文化財に登録されたそうだ。当日は、休業なのか店は閉められていた。
太平寺の古い街並みを抜ける。
結構、急な坂道であるが、どんどん歩いて行こう。
坂道を上りつめたところに「曹洞宗観音寺」。本堂は、長い石段の上。
河内西国9番札所。正式名を「天冠山智識寺中門観音寺」といい、智識寺のものであったとされる経机が所蔵されている。
また、ぜんそくに効くと言われる「へちま祈願」が有名であるとか。
観音寺境内から大阪平野を望む。
観音寺前には、ぶどう畑が広がる。
ここでは、河内ワインを特に「柏原ワイン」と名乗っているようだ。
大阪府は、全国7位のブドウ収穫高を誇ることはあまり知られていない。特に「種なしブドウ」と呼ばれる小粒のデラウェア種は、全国3位の収穫高だ。ブドウ狩りには、まだちょっと早いようだ。
住宅地の間にもブドウ畑は広がる。
途中、児童公園の脇に立てられた「業平道」の碑。業平とは、平安時代の詩人、六歌仙のひとり「在原業平(ありわらのなりひら)」のことで、「業平道」とは、業平が大和國から河内國を行き来したときに通ったとされる道。いくつかの説があるが、その内のひとつがこことされているらしい。はっきりとした道筋はわからないそうだが、業平は、河内國神立村(現八尾市神立)の娘・梅野に恋して、八百夜通いつめたと言うのだから多くの道筋があったのだろう。
一旦、旧国道170号線に出る。現在の国道170号線は、大阪外環状線のこと。ここは、旧道であるが、センターラインが引かれている。
JA横には、付近のぶどう狩り園の案内板が。
そしてすぐ北側の旧国道170号線沿いに「鐸比古鐸比賣神社」の鳥居が立つ。別社であった「鐸比古神社」と「鐸比賣神社」が合祀されたものらしい。鳥居の扁額には「鐸比古鐸比賣神社」と書かれているが、向かって左側の古い社号石碑には「鐸比古神社」と刻まれている。
鳥居をくぐり、途中「地蔵堂」を左に見ながら山手へ進む。この石段の上にお社が鎮座する。
由緒は不詳であるが、和気清麻呂の遠祖とされる「鐸比古命」を祀る古社で「ぬでひこぬでひめ」神社と呼ぶ。「比古」=「彦」、「比賣」=「姫」で男女(夫婦)を表す。
参拝を終え坂を下っていく。途中の「地蔵堂」は、水子地蔵のようだ。
この地蔵堂脇の道を北に入る。
平野地区を抜ける。
狭い道を抜け出ると「若倭彦神社」に突き当たる。「わかやまとひこ」神社といい、物部氏系の氏族「若倭部連」の祖神を祀ると推察されるが詳細は不明。
古い街並みの中でも宅地開発が進んでいる。
「山ノ井」という地区に入る。山の手に向かって進んで行くと「融通念仏宗山井寺」。融通念仏宗とは、大阪市平野区の大念仏寺を総本山とする浄土教の一宗派。第7世法明が河内地方に6つの講集団である「六別時」制度を置き、そのひとつ「高安別時」が高安山麓に置かれたため、この辺りには融通念仏宗の寺院が多い。
山井寺を抜け石段を上がると小さなお堂があり、3体の石仏が安置されていた。案内板には、中央の石仏が「如来形坐像」で、その左の首が欠損した石仏が「菩薩形立像」である旨が記されていたが、右端の双体仏に関する説明書きはなかった。
このお堂の上に「曹洞宗瑠璃光寺」という禅寺が建つ。
そのすぐ前に「若倭姫神社」の鳥居。
由緒は不明だが、先ほど訪れた「若倭彦神社」と一対を成す夫婦神だろう。神殿は、裏の岩を拝むような形で建てられていた。
給水のため一旦、旧国道170号線に出てコンビニに立ち寄る。ここからは「八尾市」を歩く。八尾市は、人口約27万人の比較的大きな市で、市西部の平地は「萱振・八尾・久宝寺」の3つの寺内町として栄えたが、市東部は山間部で柏原市同様、古い寺社や遺跡が多く残る。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~三つの御坊を訪ねる「萱振」「八尾」「久宝寺」参照)
八尾市と言えば、訪問当時、橋下大阪市長による「オスプレイ受け入れ」発言で揺れていた。そう言えば柏原に入って以来、上空には自衛隊のヘリコプターが何機も飛んでいる。
給水後、コンビニ北側に位置する「八王子神社」に立ち寄る。この神社は、延喜式神明帳「常世岐姫(つねよき)神社」に比定される古社らしい。
クスノキだろうか、ご神木の脇にはいくつかの末社が鎮座する。
神宮寺の古い街並みを抜ける。この辺りは「史跡の道」として案内板や道標も整備されている。
神宮寺から恩智南町へ抜ける。子どもであれば十数mのこの竹藪を抜けるだけでも「命がけ」だっただろう。
史跡の道の道標。恩智城址方向へ進む。
恩智城。中世の豪族「恩智左近満一」の居城として建武年間(1334~1338年)に築城されたといわれる。今は、碑が残るのみだ。
明治に入り小学校が建てられたことから、比較的当時の城郭が残されている。
かつての「一の丸跡」は「第一万葉植物園」として、
「二の丸跡」は、桜や紅葉がきれいな公園となっている。
城址碑の前には、当時の南高安小学校(旧恩智小学校)のレンガ造りの門柱が残る。
城址公園前の「下るシュミィ地蔵」の道標に従い、目の前の急坂を下る。
坂の下に「シュミィ地蔵」。名前の由来はわからないが、村人らによって建立されたもので、像には「天文13(1544)年」の銘文が読み取れる。
旧国道170号線に出るが、歩道もセンターラインもない。
シュミィ地蔵のすぐ北側に、恩智城主「恩智左近之旧跡」の石碑が。
石碑横の小さな坂道を上ると、市指定のクスノキの脇に「恩智左近満一」の墓がある。
旧国道170号線沿いの立派な旧家。
そのすぐ北側に「恩智神社」の一の鳥居が立つ。木製の立派な鳥居だ。
鳥居をくぐったすぐ左側に「融通念仏宗來恩寺」。
その向かいに「恩智会館」と掲げられたレトロな建物が。
だらだらした坂道を上る。
恩智神社。天照大神の食を司る伊勢神宮外宮の祭神「豊受姫大神」と同神といわれる「大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)」と「大御食津姫命」を祀る。ここから、かなり長い石段を登らなければならない。
神の遣いとされる「神兎」にちなみ、御手洗舎も「うさぎ」だ。
元は、藤原家の祖先「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」を祭神として雄略天皇期(470年頃)に創建されたといわれる古社。
神殿前には、真新しいが「神兎」の像が立つ。
また、境内には、雨の前日には濁った水が湧くと伝わる「閼伽井戸」が。確かに茶色い水が流れた跡が残る。
参拝を終え、先ほどの「來恩寺」まで戻り右へ。恩智中町地区の筋を抜ける。
旧国道170号線に出ると角にはちょっとレトロな建物が。JAの支店だ。
ここからしばらくダラダラした坂道を15分ほど歩く。大窪寺霊園への道を過ぎた辺りで右を見ると鳥居が見える。石柱には「天照大神社」と刻まれている。
ここからしばらく急な坂道を上る。振り返れば彼方に大阪平野が見える。かなりの標高だろう。
左に石段が見えればもうすぐだ。何だか神々しい雰囲気になってきたぞ。
まず手前に「岩戸神社」。古事記の「天の岩戸」と関係があるのか思ったが、御祭神は「市杵島姫命」だ。
拝殿は、裏の岩山を拝むようになっている。
「歩紀」には、多くの神社が登場する。私は、今の「古事記ブーム」が訪れる前の平成17年頃から古事記を読むようになった。原文・口語対訳本、口語訳本、子ども向け、漫画など数種類の古事記に関する本を読んだ。それは「神道」というものに興味をもったからだが、おかげで歩紀で訪れる神社の由緒や登場する神々に対して概ね理解することができるようになった。岩戸神社の境内を抜けると「高御座(たかみくら)神社」。正式には「天照大神高座(あまてらすおおみかみたかくら)神社」といい、その名のとおり「天照大神」をお祀りする。
雄略天皇23(479)年に遷座したといわれるが由緒の詳細は不明。岩盤の上に本殿が鎮座しているが、拝殿はその岩盤を拝むように造られている。
元来た坂道を下る。鳥居をくぐって一旦左に戻り、大窪寺霊園への道前にある階段を下りる。住宅を抜けると「融通念仏宗善光寺」へ。境内のクスノキは、幹周り6.3m、高さ25mの大木だ。
旧国道170号線に戻り北へ。JA高安北支店前に「垣内村一里塚、西塚」の碑。今は「法華塔」が建つ。
そして旧国道から東に入ったところに「垣内村一里塚、東塚」。東高野街道で残る一里塚は、ここ垣内と富田林錦織だけだとか。「垣内」と書いて「かいち」と読む。
一里塚を過ぎ「教興寺」の集落に入る。「三和地区集会所」と書かれた古い木造の建物。
集落名の由来となった「真言律宗教興寺」。聖徳太子が戦勝を祈願して崇峻天皇元(588)年に創建したと伝わる。
南北に長く連なる高安連山。多くの神々が坐すのだろう。
山手に進んで行くと「信貴山口駅」。近鉄の支線、信貴線の終点であり、西信貴ケーブルの始発駅でもある。「西信貴ケーブル」。正式名を西信貴鋼索線といい、高安・信貴山方面への足として昭和5年に開業した。山上の「高安山駅」まで高度差354m、1.3kmを約7分(片道540円)で結ぶ。
私は、基本的に山には入らない。雨の日は歩かないし、昼食も現地調達だ。そのため 本格的な装備やウェアは必要なく、「歩紀」を始めた当初は、ユニクロのカジュアル系やホームセンターの作業着系、通販のミリタリー系等で代用していた。しかし、ある頃から何やら冷たい視線を感じるようになった。路地から路地、軒下から軒下へと歩き回り、おまけにやたら写真撮影をする。どうも「不審者」か物件を物色中の「業界筋の人」と間違われていたようだ。そのため今では「mont-bell」のグッズやウェアで固めている。また、たいした荷物はないがザックを背負って歩いている。それにより「ハイカイシャ(徘徊者)」から「ハイカー」の地位を得、不名誉な視線は感じられなくなった。
服部川地区の集落を抜ける。
「佐麻多度神社」。「さまだど」神社と読む。大和時代の創建と言われるが由緒やご祭神の詳細は不明。
境内には、昔、村の若衆が力比べに用いたという「力石」4個が置かれている。重さは100kg以上あると言われる。
まだ、あと3~40分あるのだが、この先、近鉄瓢箪山駅まで鉄道駅がない。時間が足りないので、今日はこれで終わり、ここから細い道を抜け、近鉄服部川駅に向かう。
午後4時30分、近鉄電車「服部川駅」に着く。先ほど訪れた「信貴山口駅」を出発した電車に乗り、「河内山本駅」「鶴橋駅」で乗り換え、「大阪難波駅」まで約30分(340円)。本日の歩紀「30281歩」(20.04km)。
出 発:近鉄電車「道明寺駅」
到 着:近鉄電車「服部川駅」
旧河内國。現在の大阪府東部で古代から物部氏の勢力が強かったといわれ「北河内」「中河内」「南河内」に分かれる。東部に連なる生駒・葛城・金剛山系は、河内平野が内海であったころから人の営みが行われていたところで、読み方にも窮するような古い神社が点在する。前回の丹波「柏原」に続き2つ目の「柏原」、中河内南端に位置する大阪府柏原市を訪ねる。
後に開かれた東高野街道(旧国道170号線)に沿って北に向かい「八尾市」まで歩くが、車を避け、山沿いの集落を歩くため意外と距離が伸び、起伏もある。特に古社・古刹は山中にあるので、急な坂道や石段は覚悟しておくこと。コンビニ・自販機は適度にあるが、トイレは寺社の参拝客用トイレがあるくらいだ。
JR「柏原駅」。天王寺から約15分(210円)。「かしわら」と読む。
JR大和路線の途中駅であるが、近鉄道明寺線の始発駅でもある。左のグリーンの車両がJR、右が近鉄電車。今日は、この駅がスタートではなく、近鉄電車で道明寺駅まで向かう。
柏原駅から2つ目、約5分(150円)で終点「道明寺駅」に着く。営業距離2.2kmの支線で南大阪線とつながる。ここは大阪府羽曳野市。この駅をスタートとしたのは「玉手山公園」を訪ねるためだ。
駅南側の踏切を越え、真ん前の石川堤防に。すぐ右前方に吊り橋が見えてくる。玉手山遊園地(当時)への通行路として昭和3年、石川に架けられた全長150m、歩行者・自転車専用の吊り橋だ。
子どもたちの夢を運んだこの橋は、平成13年、吊り橋としては全国初の国の登録有形文化財に登録された。橋の真ん中が羽曳野市と柏原市の市境になっている。柏原市は、昭和33年に市制が施行された人口約7万3千人の街で、歴史は古く3万年ほど前の旧石器時代にまでさかのぼる。ここから柏原市を歩く。
橋を渡って右へ、しばらく石川の河川敷を南に歩く。グランドでは、少年たちが野球やサッカーを楽しんでいた。
前方には西名阪自動車道の橋が見える。500mほど歩けば河川敷から堤防上に上がるスロープがあるので堤防に上る。横断歩道で道路を渡り南に歩くとすぐに信号のある交差点に出る。玉手山公園駐車場への看板があるその交差点を左折、真っ直ぐに進んでいく。次の信号で右に上る道と分かれるが、そのまま真っ直ぐ細街路に入る。すぐ正面に鳥居が見えてくる。
伯太姫神社。「はかたひめ」神社と読み、創建は不詳であるが百済系渡来人の田辺氏の祖神といわれる伯太姫命を祀る。天安2(858)年の「文徳天皇実録」に記載されている古社で今日一日の無事を祈願する。
元の道に戻り、途中右折して神社の北側に回り込み、府営住宅を右に見ながら進んでくと「玉手山公園」の駐車場と南入口の前に出る。
柏原市南部の標高100mほどの丘陵に、明治41年、西日本で最も古い遊園地として「玉手山遊園地」が開園。遊具や昆虫館、小動物園などを備え、近隣の幼稚園や小学校の遠足、家族連れなどで賑わったが、絶叫マシーンを備えた大規模遊園地やテーマパークに押され、平成10年5月に閉園、1年の準備期間を経て、平成11年3月、柏原市立玉手山公園「ふれあいパーク」として開園、無料開放(午前9時~午後5時、水曜日休園)されている。
この辺りは「玉手山古墳群」と呼ばれ、古墳時代前期に築造された前方後円墳や円墳、横穴墓など多くの古墳が発見されており、公園内にも石室が保存、展示されている。
また、一帯は、慶長20(1615)年に勃発した「大坂夏の陣」の古戦場でもあり、玉手山公園付近では徳川、豊臣の両陣営が激しく激突した。
「歴史の丘」と呼ばれるこのエリアには、豊臣家の先陣となって奮戦、重傷を負ったのち自害した「後藤又兵衛基次の碑」など両陣営の慰霊碑、墓碑などが多く残されている。
「コミュニティ広場」へ。昔のままの「野外劇場」。ぬいぐるみショーやマジックショーなどが行われていたのだろう。今は誰もいない。
弁財天、大黒天、毘沙門天を祀った「三天堂」。後方には、「おもちゃ館」と「昆虫館」。
全国のおもちゃや化石、昆虫標本などが並べられいる。
涼しげな林間の小径を歩き「メイン広場」へ向かう。
かつては、メリーゴーランドや小さな観覧車があったが、今は「ミニSL」があるくらいだ。
昭和30年代に大阪で生まれ育った人なら一度は遠足や家族連れで訪れた記憶があるだろう。(幼稚園のアルバムから。昭和40年頃の玉手山遊園地)
遠足の記念撮影をしたのは、この場所に間違いないだろう。「おたしみ館(ゲームセンター)」として使われていた催し物館も今は使われていない。
公園正面の中央入口から公園を後にする。
住宅地を抜け公園北側へ。正面には「安福寺」の門が見えてくるが、その手前右側に鳥居が立つ。「伯太彦神社」だ。安福寺の境内からも神社に行けるが、正面から参拝するため、まず鳥居をくぐる。
伯太彦(はかたひこ)神社。伯太姫神社のご祭神とは夫婦神である伯太彦命を祀るが、詳しい由緒はわからない。「彦」は男、「姫」は女を表す。
神社の境内を抜けると安福寺の山門前に出る。
山門くぐり進んで行くと右側には、かつて寺の手洗い石として使われていたと言われる「割竹形石棺蓋」。竹を割ったような形からこう呼ばれており、後に訪れる古墳時代前期の玉手山3号墳から出土されたものと伝わる。
浄土宗知恩院派の寺院で、寺伝によれば奈良時代、行基によって開基されたとか。
山門より下って行くが途中、左右に横穴が。安福寺横穴群と呼ばれ合計32基の横穴が発見されている。石棺や陶器、騎馬人物像などの壁画も発見されおり、古墳時代の横穴墓と見られる。
大阪府下において横穴墓は、この後訪れる「高井田横穴群」とともに、ここ柏原市でしか発見されていない。「高井田横穴群」は、すべて入口が柵等で塞がれているが、ここ安福寺横穴群は内部に入ることができる。「墓」であるので私は入らなかったが、重要な史跡なので荒らすことのないように。
横穴群を抜けると、先ほどの伯太彦神社鳥居横の門に出る。門の前には、薬師堂と「右あんぷくぢ道」と彫られた約300年前の道標と村の若衆が力比べに使ったと言われる「力石」が置かれている。
200mほどニュータウン内を歩く。
住宅街を抜けると右に古墳が見えてくる。「玉手山3号墳」と呼ばれる全長107mの前方後円墳で、採掘された埴輪片などから古墳時代前期に築造されたものと思われるが、大坂夏の陣で戦場となったうえ、現在は市立の福祉センターが建っているため全容は不明。
3号墳を抜けると右に一般の墓地が見えてくる。「玉手山2号墳」と呼ばれる全長70mほどの前方後円墳だが墓地になっているため発掘調査は行われていない。墓地を抜けると左手の体育館敷地脇に「大坂夏之陣小松山古戦場跡碑」が立つ。左に見える墓地が玉手山2号墳。一般墓地なので写真撮影は控えたが、墓地は円形と方形の段状に造成されており、一目で前方後円墳跡であることがわかる。これだけの墓が建つところに、たった一人のためだけに古墳が造られたのだから、当時の権力者の力はすごかったのだろう。
すぐ目の前に見えるのが「玉手山1号墳」。全長110~120mの前方後円墳で、比較的全容が保存されいる。
後円部頂上には、大坂夏の陣で討ち死にした徳川方の武将、奥田忠次の墓が建つ。
1号墳東側の狭い急な階段を下り、原川という小さな川を越えて左へ。「原川橋」という交差点に出るが、この交差点を右折すると道がカーブして河内国分駅前に出てしまうので、信号を渡って突き当たりを右に進む。途中、近鉄大阪線の踏切を越えると「国豊橋南詰交差」に出るので信号を渡って左折。「国豊橋(国道25号線)」で大和川を渡る。
国道25号線を越え、堤防下に下りて右折すると「JR高井田駅」前に出るので踏切を渡る。
すぐに「史跡高井田横穴公園」の入口がある。
ここは、先ほど訪れた「安福寺横穴群」同様、古墳時代の横穴墓群だが、規模が大きく150基以上の横穴が確認されている。その山全体が史跡公園となっている。
6世紀中頃から7世紀初めにかけて築造されたと見られ、人物や馬、鳥、魚などの線刻壁画も発見されている。「安福寺横穴群」と異なり、入口は柵等で塞がれているが、重要な文化財を守るためにはやむを得ないだろう。
柵の隙間からカメラを差し入れ、横穴内部を撮影。
横穴群を抜け、案内に従い「高井田山古墳」へ向かう。小山の頂上にある「高井田山古墳」は、5世紀終わりころに造られたと考えられ、薄い板石を積み上げた横穴式石室を持つ。石室上部を透明プラスチック製の上屋で覆い、内部が見学できるようになっている。
上屋の隙間から石室内部を撮影。石室内には、鏡・甲・鎧・剣や古代のアイロンである火熨斗(ひのし)の模造品などが並べられている。火熨斗の発見は、国内では2例しかないという。
途中、立ち寄ったトイレ横の注意書き。最近は、どこにでも出るな。
遊歩道の横には、発見された線刻壁画のレプリカが飾られていた。
北側にある「古代へのいざなぎ広場」から公園を後にする。さすがゴミ入れも円筒埴輪を模したものだ。
公園を出て水路沿いに下り、近鉄大阪線の高架をくぐったJR踏切の手前右に「天湯川田神社」への石段が見える。
飛鳥時代からの古社で、鳥取氏の祖「天湯河桁命」を祀るが詳しい由緒は不詳。
JR踏切の向こうには、何やら古い木造の建物が。
踏切を渡り、信号で国道25号線を渡ると大和川堤防に上る階段があるので堤防上に。自転車道を川下に向かって歩く。大和川は、奈良県桜井市の北東部、貝ケ平山(822m)を水源とし、奈良盆地の佐保川、竜田川などの水を集め、生駒山系と葛城山系の間、「亀の瀬」で大阪平野に出、石川と交わり堺市で大阪湾に注ぐ。全長68km、大阪第二の大河で、かつては水質ワースト2の「どぶ川」であったが、現在は改善され環境省の水質基準も満たしている。
右に柏原市の官庁街が現れた辺りで左岸から石川が合流する。石川は、昔から鮎が遡上する清流だ。
大和川が西に曲がるところで国道25号線と旧170号線が分岐する。この「安堂交差」の北側に「大和川治水記念公園」。そこには「中甚兵衛翁像」が立つ。
古代大和川は、ここで大きく北にカーブして河内湖に注いだ。その後、土砂が堆積して河内平野を形成するが、昔から河内の国に大きな水害をもたらしてきた。江戸時代に入り、河内國今米村(現東大阪市)の庄屋「中甚兵衛(なかじんべえ)」という人物が幕府に対して大和川の付け替えを嘆願、ついには自ら陣頭指揮を執り、50年以上の歳月をかけて西方向に開削、宝永元(1705)年、現在の大和川となる。公園内には多くの治水関係碑が並ぶ。人々は、長らく水害と戦ってきたのだろう。
ここから旧国道170号線は、ほぼ一直線に北へ進む。この道は、京・八幡から「北河内」「中河内」を縦断。「南河内」で西高野街道と合流し、聖地「高野山」へと向かう東高野街道だ。その道を高野山とは逆の北に向かって進むのだが、旧国道170号線は、交通量が多いうえ、場所によっては歩道はおろかセンターラインもない旧道である。車を避けて山沿いの集落を歩くため「安堂北交差」を右折して山手に向かう。
近鉄「安堂駅」前の踏切を渡ったところにコンビニがあったので昼食を調達する。そして駅前から5分も歩けば、このような風景に出会うことができる。「真宗大谷派正休寺」前を進む。
地図では分かれ道が分かりづらかったが、このような案内が立っていた。この道は「業平道」というらしい。智識寺、石神社方向へ進む。
この道は、石神社の境内へと続くが、正面からお参りするため一旦境内を抜け正面に回る。樹齢800年と推定される大クスノキは、周囲6m、高さ16mで大阪府指定天然記念物となっている。
境内に入ってすぐ右に「知識寺東塔刹柱礎石」と呼ばれる石が置かれている。智(知)識寺とは、奈良・平安時代の河内を代表する大寺院で、東西二塔を有する大伽藍であったと言われる。
石神社と書いて「いわ」神社と読む。由緒の詳細は不明であるが、宣化天皇の皇女、石姫皇女らを祀る式内社だ。式内社とは、延長5(927)年に編纂された延喜式の神名帳と呼ばれる巻9と巻10に記載された1000年以上の歴史を有する2861の神社をいう。
お参りの後、神社横が「歴史の丘展望台公園」という公園になっていたので、先ほどコンビニで調達した昼食を食べる。今日のメニューは、おにぎり2つとソーセージ+お茶だ。
神社の前には古い街並みが残り、観光案内板が立てられている。
太平寺地区の街並み。
この筋を通り抜け、左に曲がると「智識寺址」の石碑が立つ。智識寺の伽藍は、現在見ることはできないが、付近では多くの遺跡や所蔵物が発見されている。先ほどの礎石もこの辺りの民家土蔵付近から発見されたことから、ここが寺址とされているのだろうが、付近一帯が寺域であったと見られる。
河内地方は、古くからワイン造りが盛んであり「河内ワイン」として売り出されている。石碑の前には「3大醸造所」のひとつで、大正3(1914)年から100年の歴史を持つ「カタシモワインフーズ」。カタシモ(堅下)とは、ぶどう栽培が盛んなこの辺りの地名である。(
野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ コラム「河内音頭」「河内ワイン」参照)
ここの貯蔵庫は、大正時代に建てられたもので、平成17年、国の登録有形文化財に登録されたそうだ。当日は、休業なのか店は閉められていた。
太平寺の古い街並みを抜ける。
結構、急な坂道であるが、どんどん歩いて行こう。
坂道を上りつめたところに「曹洞宗観音寺」。本堂は、長い石段の上。
河内西国9番札所。正式名を「天冠山智識寺中門観音寺」といい、智識寺のものであったとされる経机が所蔵されている。
また、ぜんそくに効くと言われる「へちま祈願」が有名であるとか。
観音寺境内から大阪平野を望む。
観音寺前には、ぶどう畑が広がる。
ここでは、河内ワインを特に「柏原ワイン」と名乗っているようだ。
大阪府は、全国7位のブドウ収穫高を誇ることはあまり知られていない。特に「種なしブドウ」と呼ばれる小粒のデラウェア種は、全国3位の収穫高だ。ブドウ狩りには、まだちょっと早いようだ。
住宅地の間にもブドウ畑は広がる。
途中、児童公園の脇に立てられた「業平道」の碑。業平とは、平安時代の詩人、六歌仙のひとり「在原業平(ありわらのなりひら)」のことで、「業平道」とは、業平が大和國から河内國を行き来したときに通ったとされる道。いくつかの説があるが、その内のひとつがこことされているらしい。はっきりとした道筋はわからないそうだが、業平は、河内國神立村(現八尾市神立)の娘・梅野に恋して、八百夜通いつめたと言うのだから多くの道筋があったのだろう。
一旦、旧国道170号線に出る。現在の国道170号線は、大阪外環状線のこと。ここは、旧道であるが、センターラインが引かれている。
JA横には、付近のぶどう狩り園の案内板が。
そしてすぐ北側の旧国道170号線沿いに「鐸比古鐸比賣神社」の鳥居が立つ。別社であった「鐸比古神社」と「鐸比賣神社」が合祀されたものらしい。鳥居の扁額には「鐸比古鐸比賣神社」と書かれているが、向かって左側の古い社号石碑には「鐸比古神社」と刻まれている。
鳥居をくぐり、途中「地蔵堂」を左に見ながら山手へ進む。この石段の上にお社が鎮座する。
由緒は不詳であるが、和気清麻呂の遠祖とされる「鐸比古命」を祀る古社で「ぬでひこぬでひめ」神社と呼ぶ。「比古」=「彦」、「比賣」=「姫」で男女(夫婦)を表す。
参拝を終え坂を下っていく。途中の「地蔵堂」は、水子地蔵のようだ。
この地蔵堂脇の道を北に入る。
平野地区を抜ける。
狭い道を抜け出ると「若倭彦神社」に突き当たる。「わかやまとひこ」神社といい、物部氏系の氏族「若倭部連」の祖神を祀ると推察されるが詳細は不明。
古い街並みの中でも宅地開発が進んでいる。
「山ノ井」という地区に入る。山の手に向かって進んで行くと「融通念仏宗山井寺」。融通念仏宗とは、大阪市平野区の大念仏寺を総本山とする浄土教の一宗派。第7世法明が河内地方に6つの講集団である「六別時」制度を置き、そのひとつ「高安別時」が高安山麓に置かれたため、この辺りには融通念仏宗の寺院が多い。
山井寺を抜け石段を上がると小さなお堂があり、3体の石仏が安置されていた。案内板には、中央の石仏が「如来形坐像」で、その左の首が欠損した石仏が「菩薩形立像」である旨が記されていたが、右端の双体仏に関する説明書きはなかった。
このお堂の上に「曹洞宗瑠璃光寺」という禅寺が建つ。
そのすぐ前に「若倭姫神社」の鳥居。
由緒は不明だが、先ほど訪れた「若倭彦神社」と一対を成す夫婦神だろう。神殿は、裏の岩を拝むような形で建てられていた。
給水のため一旦、旧国道170号線に出てコンビニに立ち寄る。ここからは「八尾市」を歩く。八尾市は、人口約27万人の比較的大きな市で、市西部の平地は「萱振・八尾・久宝寺」の3つの寺内町として栄えたが、市東部は山間部で柏原市同様、古い寺社や遺跡が多く残る。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~三つの御坊を訪ねる「萱振」「八尾」「久宝寺」参照)
八尾市と言えば、訪問当時、橋下大阪市長による「オスプレイ受け入れ」発言で揺れていた。そう言えば柏原に入って以来、上空には自衛隊のヘリコプターが何機も飛んでいる。
給水後、コンビニ北側に位置する「八王子神社」に立ち寄る。この神社は、延喜式神明帳「常世岐姫(つねよき)神社」に比定される古社らしい。
クスノキだろうか、ご神木の脇にはいくつかの末社が鎮座する。
神宮寺の古い街並みを抜ける。この辺りは「史跡の道」として案内板や道標も整備されている。
神宮寺から恩智南町へ抜ける。子どもであれば十数mのこの竹藪を抜けるだけでも「命がけ」だっただろう。
史跡の道の道標。恩智城址方向へ進む。
恩智城。中世の豪族「恩智左近満一」の居城として建武年間(1334~1338年)に築城されたといわれる。今は、碑が残るのみだ。
明治に入り小学校が建てられたことから、比較的当時の城郭が残されている。
かつての「一の丸跡」は「第一万葉植物園」として、
「二の丸跡」は、桜や紅葉がきれいな公園となっている。
城址碑の前には、当時の南高安小学校(旧恩智小学校)のレンガ造りの門柱が残る。
城址公園前の「下るシュミィ地蔵」の道標に従い、目の前の急坂を下る。
坂の下に「シュミィ地蔵」。名前の由来はわからないが、村人らによって建立されたもので、像には「天文13(1544)年」の銘文が読み取れる。
旧国道170号線に出るが、歩道もセンターラインもない。
シュミィ地蔵のすぐ北側に、恩智城主「恩智左近之旧跡」の石碑が。
石碑横の小さな坂道を上ると、市指定のクスノキの脇に「恩智左近満一」の墓がある。
旧国道170号線沿いの立派な旧家。
そのすぐ北側に「恩智神社」の一の鳥居が立つ。木製の立派な鳥居だ。
鳥居をくぐったすぐ左側に「融通念仏宗來恩寺」。
その向かいに「恩智会館」と掲げられたレトロな建物が。
だらだらした坂道を上る。
恩智神社。天照大神の食を司る伊勢神宮外宮の祭神「豊受姫大神」と同神といわれる「大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)」と「大御食津姫命」を祀る。ここから、かなり長い石段を登らなければならない。
神の遣いとされる「神兎」にちなみ、御手洗舎も「うさぎ」だ。
元は、藤原家の祖先「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」を祭神として雄略天皇期(470年頃)に創建されたといわれる古社。
神殿前には、真新しいが「神兎」の像が立つ。
また、境内には、雨の前日には濁った水が湧くと伝わる「閼伽井戸」が。確かに茶色い水が流れた跡が残る。
参拝を終え、先ほどの「來恩寺」まで戻り右へ。恩智中町地区の筋を抜ける。
旧国道170号線に出ると角にはちょっとレトロな建物が。JAの支店だ。
ここからしばらくダラダラした坂道を15分ほど歩く。大窪寺霊園への道を過ぎた辺りで右を見ると鳥居が見える。石柱には「天照大神社」と刻まれている。
ここからしばらく急な坂道を上る。振り返れば彼方に大阪平野が見える。かなりの標高だろう。
左に石段が見えればもうすぐだ。何だか神々しい雰囲気になってきたぞ。
まず手前に「岩戸神社」。古事記の「天の岩戸」と関係があるのか思ったが、御祭神は「市杵島姫命」だ。
拝殿は、裏の岩山を拝むようになっている。
「歩紀」には、多くの神社が登場する。私は、今の「古事記ブーム」が訪れる前の平成17年頃から古事記を読むようになった。原文・口語対訳本、口語訳本、子ども向け、漫画など数種類の古事記に関する本を読んだ。それは「神道」というものに興味をもったからだが、おかげで歩紀で訪れる神社の由緒や登場する神々に対して概ね理解することができるようになった。岩戸神社の境内を抜けると「高御座(たかみくら)神社」。正式には「天照大神高座(あまてらすおおみかみたかくら)神社」といい、その名のとおり「天照大神」をお祀りする。
雄略天皇23(479)年に遷座したといわれるが由緒の詳細は不明。岩盤の上に本殿が鎮座しているが、拝殿はその岩盤を拝むように造られている。
元来た坂道を下る。鳥居をくぐって一旦左に戻り、大窪寺霊園への道前にある階段を下りる。住宅を抜けると「融通念仏宗善光寺」へ。境内のクスノキは、幹周り6.3m、高さ25mの大木だ。
旧国道170号線に戻り北へ。JA高安北支店前に「垣内村一里塚、西塚」の碑。今は「法華塔」が建つ。
そして旧国道から東に入ったところに「垣内村一里塚、東塚」。東高野街道で残る一里塚は、ここ垣内と富田林錦織だけだとか。「垣内」と書いて「かいち」と読む。
一里塚を過ぎ「教興寺」の集落に入る。「三和地区集会所」と書かれた古い木造の建物。
集落名の由来となった「真言律宗教興寺」。聖徳太子が戦勝を祈願して崇峻天皇元(588)年に創建したと伝わる。
南北に長く連なる高安連山。多くの神々が坐すのだろう。
山手に進んで行くと「信貴山口駅」。近鉄の支線、信貴線の終点であり、西信貴ケーブルの始発駅でもある。「西信貴ケーブル」。正式名を西信貴鋼索線といい、高安・信貴山方面への足として昭和5年に開業した。山上の「高安山駅」まで高度差354m、1.3kmを約7分(片道540円)で結ぶ。
私は、基本的に山には入らない。雨の日は歩かないし、昼食も現地調達だ。そのため 本格的な装備やウェアは必要なく、「歩紀」を始めた当初は、ユニクロのカジュアル系やホームセンターの作業着系、通販のミリタリー系等で代用していた。しかし、ある頃から何やら冷たい視線を感じるようになった。路地から路地、軒下から軒下へと歩き回り、おまけにやたら写真撮影をする。どうも「不審者」か物件を物色中の「業界筋の人」と間違われていたようだ。そのため今では「mont-bell」のグッズやウェアで固めている。また、たいした荷物はないがザックを背負って歩いている。それにより「ハイカイシャ(徘徊者)」から「ハイカー」の地位を得、不名誉な視線は感じられなくなった。
服部川地区の集落を抜ける。
「佐麻多度神社」。「さまだど」神社と読む。大和時代の創建と言われるが由緒やご祭神の詳細は不明。
境内には、昔、村の若衆が力比べに用いたという「力石」4個が置かれている。重さは100kg以上あると言われる。
まだ、あと3~40分あるのだが、この先、近鉄瓢箪山駅まで鉄道駅がない。時間が足りないので、今日はこれで終わり、ここから細い道を抜け、近鉄服部川駅に向かう。
午後4時30分、近鉄電車「服部川駅」に着く。先ほど訪れた「信貴山口駅」を出発した電車に乗り、「河内山本駅」「鶴橋駅」で乗り換え、「大阪難波駅」まで約30分(340円)。本日の歩紀「30281歩」(20.04km)。
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