訪問日:平成27年8月2日(日)
出 発:阪急電車「池田駅」
到 着:阪急電車「宝塚駅」
アップしようと編集中、ついにパソコンがアウト。新パソコンやデジカメソフトの購入などで遅れてしまったが、猛暑日の炎天下、西国三十三カ所観音巡りの道筋で、二十三番の箕面勝尾寺から二十五番の播州清水寺までを結んだことから「巡礼街道」と呼ばれる道を歩いた。「池田駅」から「宝塚駅」までの8駅に沿って歩くので給水・トイレには困らない。
大阪府池田市と兵庫県川西市の府県境を流れる「猪名川」。そこに架かる「呉服橋」別名「巡礼橋」を出発地点とするため阪急「池田駅」南口を午前9時30分スタート。
線路に沿って西へ歩くとすぐに大きな鳥居をくぐる。
先の辻を左に入れば鳥居の主である「呉服神社」がある。池田に伝わる「織姫伝説」の女神のひとり「呉織(クレハトリ)」らを祭神とする(野里町歩紀~摂河泉をゆく~織姫伝説の町「池田」参照)。
「呉服(くれは)」と読む。今日一日の安全祈願をする。
阪急電車の高架まで戻り、さらに西へ。数分で「猪名川」の堤防に出る。ここでは毎年8月「猪名川花火大会」が開催される。
堤防上を北へ。阪急電車をくぐれば「呉服座」碑。江戸時代、ここに呉服座という芝居小屋があったそうだ。今は約250m東に建つマンションの1階に新しい劇場がオープンしており、当時の建物は愛知県犬山市の「明治村」に移築されている(野里町歩紀~摂河泉をゆく~織姫伝説の町「池田」参照)。
すぐ目の前に架かる橋が「呉服橋」だ。巡礼街道が渡るため「巡礼橋」とも呼ばれる。
橋のちょうど中間に池田市と川西市の市(府県)境が。これより「巡礼街道」に入る。
橋上から池田市の五月山方向を望む。毎年8月24日の「がんがら火祭り」という祭りでは、山の中腹に「大一文字」の火が点る。
橋を渡って真っ直ぐ西へ。「小花交番前交差」の角に小戸神社社号標。「小戸(おべ)」と読む。
大山津見尊らを祀る(野里町歩紀~思いつくままに~「のせでんに沿って」参照)。
参拝を終え「小花交番前交差」には戻らず、神社のすぐ前を流れる猪名川の導水路に沿って西へ進む。
突き当りを右に曲がると「川西能勢口駅」北口に出る。阪急宝塚線と能勢電鉄との合同駅舎だ。
駅北口の「関西アーバン銀行」前に何やら車輪の様なものが。
大正6年から昭和56年まで、ここ「川西能勢口駅」から当時「川西国鉄前駅」と呼ばれた現在のJR「川西池田駅」までの約600mを能勢電鉄が走っていたそうだ。その線路跡に車輪のモニュメントが立つ。
この道は、おそらく廃線跡だろう。ゆるいカーブを描く。阪急のガード手前を右へ。
結構な坂を上りきると「栄根寺廃寺跡史跡公園」。
奥には薬師堂があったが、平成7年の阪神大震災で全壊したそうだ。神戸市から東の西宮市や芦屋市、伊丹市、宝塚市、川西市、大阪府池田市や豊中市も阪神大震災で大きな被害を受けている。
そして公園の奥には「フローレンスナイチンゲール像」。ロンドンにある像を原型にしたもので世界に2つしかないという。「救苦観世音」という仏名が付けられている。
そのまま阪急の線路に沿って西へ。「雲雀丘花屋敷駅」前に出る。駅自体は、何の変哲もない駅だ。近くに車庫があるため、この駅止まりの列車も多い。
しかし、付近は大正時代初期に開発された高級住宅街でお洒落な洋館が並ぶ。
「旧安田邸」。大正10年に建てられた木造3階建ての洋館で、今は宝塚市が管理しているそうだ。
しかし、古さでは最初に訪れた「呉服神社」の周辺に広がる「室町住宅街」の方が上だ。何と言っても100年以上前に開発された日本初の電鉄系住宅街である。ただ、ここは「住宅街」ではなく「邸宅街」だ。
お屋敷が続く。
お屋敷?実は、消防署だ。
結構な坂道を進んでいくと「高碕記念館」という表札の掛かった邸宅。大正12年に建てられたそうだ。
洋館だけでなく和風のお屋敷も。
「お屋敷街」をぐるっと周り「雲雀丘花屋敷駅」の西側に出れば、駅方向には戻らず西へ進む。
「平井」という町を抜ける。古い町なのだろう。
さらに西へ進んで行くと次の「山本駅」。駅前には「巡礼街道」の案内標識。駅西側の踏切で一旦、阪急の南側に出る。
ここには、旧国道176号線をはさんで大きな農業用池があったが、宅地開発とともに農業用水としての役目を終え、一部が埋め立てられ「山本新池公園」として生まれ変わった。
そこに古き良きイギリスの風景を模した「あいあいパーク」がオープンした。
時間は、午前11時45分。公園内にある「弥喜太亭(ヤキタテイ)」というカフェで食事をしよう。
ミックスサンドディッシュ+アイスコーヒーで昼食。
カフェのほかガーデニングのモデル公園にもなっている。この時点で、汗びっしょりだ。
公園西側の「山本東3丁目交差」を右折して北に進み、もう一度阪急電車を渡ると「巡礼街道」の案内標識。中川という小さな川を渡る。
そこには「松尾神社」。
この辺りは、京都「松尾大社」の荘園だったらしい。
ここから「巡礼街道」を西に進むが、ここには多くの寺社が並ぶ。「浄土宗正念寺」。元禄時代、山本の富豪坂上輿次右衛門という人物が寵愛していた太夫が彼の死後、尼になりここへ弔った伝えられる。
100mほど西には「正一位稲荷大明神」。
小さなお社だ。昔、行基がこの辺りを通った際、道を塞いでいた大石を投げ捨てて便宜をはかったという話が伝わる。
これが、その時の大石「行基の投げ石」らしい。
西隣には「天満神社」。寛文5(1665)年ごろに再建されたとの記録があるそうだ。
「天神橋」で「天神川」を渡る。
途中、県道の角には「法界石塔」と「石の道標」。
200mほどで右に長い石段が見える。
30基の赤鳥居をくぐるとその奥には「有高稲荷大明神」。小さな神殿で、最近、寄進で再建されたようだ。
石段を下りさらに400mほどで「中山観音駅」。以前は、「中山駅」と呼ばれたが、平成25年12月、同じ宝塚線の「服部駅」が「服部天神駅」に改称されたときに、ここも「中山観音駅」と名称が変わったようだ。
駅前の商店街を抜ける。
そこには「中山寺」。聖徳太子創建と伝わる真言宗中山寺派の大本山である。
西国三十三カ所観音巡り二十四番札所である。また安産の観音様として信仰を集めている。
妊婦さんの参拝者が多いためエスカレーターが設置されている。
実は、私も二人の娘ができた際、妻と一緒に「腹帯」にする「さらし」を授かりに来た。
現在の伽藍は豊臣秀頼の再建によるものだと言われる。裏山には「奥之院」が建ち、18丁の参道には「丁石」も残るが、登山になるので今回は登らない。
お寺に隣接して「市杵島姫神社」。かつては「中山寺」境内にあったそうだが、明治時代の神仏分離令によりここへ移ったそうだ。
「アマテラスオオミカミ」と「スサノオノミコト」の誓約(うけい)の際に生まれた「宗像三女神」のひとり「市杵島姫(イチキシマヒメ)」らを祀る。すぐ後ろには「中山寺」が見える。
さらに西へ進むと「売布」の町に入る。「めふ」と読む。
「売布神社駅」前に出る。案内標識には「巡礼」のイラスト。中山寺の境内で、何人かの人からお辞儀を受けた。そうか観音巡りの巡礼に間違われたんだ。痩せこけて真黒に日焼けした風貌でフラフラ歩いていれば無理もないか。
大きな池を通り過ぎここを右へ。
「売布神社」の鳥居前に出る。
推古天皇18(605)年創建と伝わる古社だ。「下照姫(シタテルヒメ)」らを祀る。
境内の脇から出て町中を進んで行くと「中国自動車」を跨ぐ。
途中、「清荒神」への案内板があるが無視してまっすぐ進み、マンションの前を右に曲がる。「三角池」という小さな池の前の道標を過ぎて行く。
そのまま進んで行くと「八阪神社」。
小さな神殿はシャッターの中にあったが、この後、訪れる「清荒神」境内の一部であり、牛頭天王を祀ったのが始まりといわれる。
神社前の坂を下り、地図を頼りに家の間を抜けて行くと次の「清荒神駅」。ここまで寺社名を冠した駅が3つ続く。
駅前の商店街を進む。
鳥居をくぐる。何だか頭がクラクラする。たぶん軽い熱中症だな。
「火の神様」「台所の神様」として信仰が厚く「神具・仏具」を扱う店も多い。
この商店街は「清荒神」の参道で100軒以上の店が並ぶが、日曜日だというのに人通りがほとんどないな。
先ほど跨いだ中国道を今度はくぐる。
商店街(参道)は、天に昇る龍を表しているという。
商店街を抜けると大駐車場。そう「清荒神」は、車でお参りができるのだ。35度を越える猛暑日。こんな日に歩いて参拝するのは「歩人」くらいだろう。しかし、商店街は「商売上がったり」だろうな。
坂を登り切ると「清荒神清澄寺」。
「荒神さん」と親しまれ鳥居も立つが神社ではない。
宇多天皇の勅願によって896年に建立されたという真言宗寺院である。真言宗は古い宗派なので神仏習合の色が濃く残る。ここは「拝殿」まるで神社だ。
しかし、「本堂」前は仏教寺院らしい雰囲気だ。大きな「一願地蔵尊」が立つ。
参拝を終え商店街を下る。熱中症で頭がガンガンしてきた。ところが突然、海からの風が参道を駆け上ってきた。かなり強い浜風で、クーラーの前に立ったようにどんどん汗が引いていく。これは「神様・仏様」のお蔭だな。「感謝、感謝」。
「清荒神駅」を通り過ぎ、市立中央図書館の東側を抜けていく。
突き当りを右にカーブすれば「旧国道176号線」に出る。
途中、コンビニの手前を右に折れると「川面神社」。「高皇産霊神」「神皇産霊神」「天照大御神」を祀り、794年創建の古社だ。
ここは、毎年、秋祭りにだんじりが巡行する。氏子さんたちがだんじりの整備をしていた。
再度、旧国道176号線に出て西へと進んで行くと「国道176号線」に出る。大阪では「イナロク」と呼ばれる。
7~8分ほどで「宝塚駅」前に出る。阪急宝塚線とJR福知山線の駅が並ぶ。
一旦、駅前を通り過ぎ、駅の南側を流れる「武庫川」を「宝来橋」で渡る。
橋を渡った右に「与謝野晶子の歌碑」。
その向かいには「宝塚温泉碑」。そう、宝塚は温泉地である。鎌倉時代に開湯されたというナトリウム-塩化物泉だ。
かつて武庫川沿いにはホテルや旅館が並んだ。
しかし、日帰りレジャーの多様化と大阪・神戸・西宮への通勤圏内にあることからマンション街へと生まれ変わった。大阪で「宝塚」といえば高級マンション街だ。
その中でひときわ目立つのが「宝塚ホテル」。
1926(昭和元)年創業の老舗ホテルである。
宝塚駅は阪急宝塚線の終着駅であり、ここから西宮北口駅へ続く「今津線」の始発駅でもある。今津線の「宝塚南口駅」前に出れば「宝塚大橋」で武庫川を再度渡る。
橋を渡り階段で河川敷へ下りてみよう。宝塚観光ダムで武庫川は堰き止められている。
川面には「宝塚観光大噴水」。昭和39年設置されたそうだ。阪神大震災の被害からも復興し、午前9時から午後9時まで毎時00分と30分に10分間噴水する。水の動きが変化したり、夜間はライトアップされる(季節により異なる)。
橋に戻り突き当たりまで行くと正面に「手塚治虫記念館」。
記念館の前には「火の鳥」のモニュメント。手塚治虫氏は、宝塚で育ったそうだ。
さらに奥へ進めば「すみれ♪ミュージアム」と呼ばれる「宝塚文化創造館」。
ここは宝塚音楽学校の旧校舎であり、宝塚音楽学校と宝塚歌劇団に関する資料が展示されている。
元の道に戻り「手塚治虫記念館」を過ぎて真っ直ぐ西へと歩く。そこは「花乃みち」。
川沿いには「宝塚大劇場」。宝塚歌劇団のホームシアターで、連日「花組」「月組」「雪組」「星組」「宙組」の公演が行われる。
タカラジェンヌを目指す少女や「ヅカファン」憧れの道である。
四季折々の花や木が植えられている。
♪ スミレの花 咲くころ・・・ ♪
およそ300mの道を抜ける。道の入口にあたる所に「花乃みち」道標。
そのまま進めば本日のゴール阪急電車「宝塚駅」。午後4時に到着。劇場風の駅舎。ここから「梅田駅」まで約40分280円。「信仰の道」の終着点には「花の町」が開けていた。本日の歩紀「30294歩」(26.05km)。この時期に歩くのは、やめにしよう。本当に死んでしまうぞ。
出 発:阪急電車「池田駅」
到 着:阪急電車「宝塚駅」
アップしようと編集中、ついにパソコンがアウト。新パソコンやデジカメソフトの購入などで遅れてしまったが、猛暑日の炎天下、西国三十三カ所観音巡りの道筋で、二十三番の箕面勝尾寺から二十五番の播州清水寺までを結んだことから「巡礼街道」と呼ばれる道を歩いた。「池田駅」から「宝塚駅」までの8駅に沿って歩くので給水・トイレには困らない。
大阪府池田市と兵庫県川西市の府県境を流れる「猪名川」。そこに架かる「呉服橋」別名「巡礼橋」を出発地点とするため阪急「池田駅」南口を午前9時30分スタート。
線路に沿って西へ歩くとすぐに大きな鳥居をくぐる。
先の辻を左に入れば鳥居の主である「呉服神社」がある。池田に伝わる「織姫伝説」の女神のひとり「呉織(クレハトリ)」らを祭神とする(野里町歩紀~摂河泉をゆく~織姫伝説の町「池田」参照)。
「呉服(くれは)」と読む。今日一日の安全祈願をする。
阪急電車の高架まで戻り、さらに西へ。数分で「猪名川」の堤防に出る。ここでは毎年8月「猪名川花火大会」が開催される。
堤防上を北へ。阪急電車をくぐれば「呉服座」碑。江戸時代、ここに呉服座という芝居小屋があったそうだ。今は約250m東に建つマンションの1階に新しい劇場がオープンしており、当時の建物は愛知県犬山市の「明治村」に移築されている(野里町歩紀~摂河泉をゆく~織姫伝説の町「池田」参照)。
すぐ目の前に架かる橋が「呉服橋」だ。巡礼街道が渡るため「巡礼橋」とも呼ばれる。
橋のちょうど中間に池田市と川西市の市(府県)境が。これより「巡礼街道」に入る。
橋上から池田市の五月山方向を望む。毎年8月24日の「がんがら火祭り」という祭りでは、山の中腹に「大一文字」の火が点る。
橋を渡って真っ直ぐ西へ。「小花交番前交差」の角に小戸神社社号標。「小戸(おべ)」と読む。
大山津見尊らを祀る(野里町歩紀~思いつくままに~「のせでんに沿って」参照)。
参拝を終え「小花交番前交差」には戻らず、神社のすぐ前を流れる猪名川の導水路に沿って西へ進む。
突き当りを右に曲がると「川西能勢口駅」北口に出る。阪急宝塚線と能勢電鉄との合同駅舎だ。
駅北口の「関西アーバン銀行」前に何やら車輪の様なものが。
大正6年から昭和56年まで、ここ「川西能勢口駅」から当時「川西国鉄前駅」と呼ばれた現在のJR「川西池田駅」までの約600mを能勢電鉄が走っていたそうだ。その線路跡に車輪のモニュメントが立つ。
この道は、おそらく廃線跡だろう。ゆるいカーブを描く。阪急のガード手前を右へ。
結構な坂を上りきると「栄根寺廃寺跡史跡公園」。
奥には薬師堂があったが、平成7年の阪神大震災で全壊したそうだ。神戸市から東の西宮市や芦屋市、伊丹市、宝塚市、川西市、大阪府池田市や豊中市も阪神大震災で大きな被害を受けている。
そして公園の奥には「フローレンスナイチンゲール像」。ロンドンにある像を原型にしたもので世界に2つしかないという。「救苦観世音」という仏名が付けられている。
そのまま阪急の線路に沿って西へ。「雲雀丘花屋敷駅」前に出る。駅自体は、何の変哲もない駅だ。近くに車庫があるため、この駅止まりの列車も多い。
しかし、付近は大正時代初期に開発された高級住宅街でお洒落な洋館が並ぶ。
「旧安田邸」。大正10年に建てられた木造3階建ての洋館で、今は宝塚市が管理しているそうだ。
しかし、古さでは最初に訪れた「呉服神社」の周辺に広がる「室町住宅街」の方が上だ。何と言っても100年以上前に開発された日本初の電鉄系住宅街である。ただ、ここは「住宅街」ではなく「邸宅街」だ。
お屋敷が続く。
お屋敷?実は、消防署だ。
結構な坂道を進んでいくと「高碕記念館」という表札の掛かった邸宅。大正12年に建てられたそうだ。
洋館だけでなく和風のお屋敷も。
「お屋敷街」をぐるっと周り「雲雀丘花屋敷駅」の西側に出れば、駅方向には戻らず西へ進む。
「平井」という町を抜ける。古い町なのだろう。
さらに西へ進んで行くと次の「山本駅」。駅前には「巡礼街道」の案内標識。駅西側の踏切で一旦、阪急の南側に出る。
ここには、旧国道176号線をはさんで大きな農業用池があったが、宅地開発とともに農業用水としての役目を終え、一部が埋め立てられ「山本新池公園」として生まれ変わった。
そこに古き良きイギリスの風景を模した「あいあいパーク」がオープンした。
時間は、午前11時45分。公園内にある「弥喜太亭(ヤキタテイ)」というカフェで食事をしよう。
ミックスサンドディッシュ+アイスコーヒーで昼食。
カフェのほかガーデニングのモデル公園にもなっている。この時点で、汗びっしょりだ。
公園西側の「山本東3丁目交差」を右折して北に進み、もう一度阪急電車を渡ると「巡礼街道」の案内標識。中川という小さな川を渡る。
そこには「松尾神社」。
この辺りは、京都「松尾大社」の荘園だったらしい。
ここから「巡礼街道」を西に進むが、ここには多くの寺社が並ぶ。「浄土宗正念寺」。元禄時代、山本の富豪坂上輿次右衛門という人物が寵愛していた太夫が彼の死後、尼になりここへ弔った伝えられる。
100mほど西には「正一位稲荷大明神」。
小さなお社だ。昔、行基がこの辺りを通った際、道を塞いでいた大石を投げ捨てて便宜をはかったという話が伝わる。
これが、その時の大石「行基の投げ石」らしい。
西隣には「天満神社」。寛文5(1665)年ごろに再建されたとの記録があるそうだ。
「天神橋」で「天神川」を渡る。
途中、県道の角には「法界石塔」と「石の道標」。
200mほどで右に長い石段が見える。
30基の赤鳥居をくぐるとその奥には「有高稲荷大明神」。小さな神殿で、最近、寄進で再建されたようだ。
石段を下りさらに400mほどで「中山観音駅」。以前は、「中山駅」と呼ばれたが、平成25年12月、同じ宝塚線の「服部駅」が「服部天神駅」に改称されたときに、ここも「中山観音駅」と名称が変わったようだ。
駅前の商店街を抜ける。
そこには「中山寺」。聖徳太子創建と伝わる真言宗中山寺派の大本山である。
西国三十三カ所観音巡り二十四番札所である。また安産の観音様として信仰を集めている。
妊婦さんの参拝者が多いためエスカレーターが設置されている。
実は、私も二人の娘ができた際、妻と一緒に「腹帯」にする「さらし」を授かりに来た。
現在の伽藍は豊臣秀頼の再建によるものだと言われる。裏山には「奥之院」が建ち、18丁の参道には「丁石」も残るが、登山になるので今回は登らない。
お寺に隣接して「市杵島姫神社」。かつては「中山寺」境内にあったそうだが、明治時代の神仏分離令によりここへ移ったそうだ。
「アマテラスオオミカミ」と「スサノオノミコト」の誓約(うけい)の際に生まれた「宗像三女神」のひとり「市杵島姫(イチキシマヒメ)」らを祀る。すぐ後ろには「中山寺」が見える。
さらに西へ進むと「売布」の町に入る。「めふ」と読む。
「売布神社駅」前に出る。案内標識には「巡礼」のイラスト。中山寺の境内で、何人かの人からお辞儀を受けた。そうか観音巡りの巡礼に間違われたんだ。痩せこけて真黒に日焼けした風貌でフラフラ歩いていれば無理もないか。
大きな池を通り過ぎここを右へ。
「売布神社」の鳥居前に出る。
推古天皇18(605)年創建と伝わる古社だ。「下照姫(シタテルヒメ)」らを祀る。
境内の脇から出て町中を進んで行くと「中国自動車」を跨ぐ。
途中、「清荒神」への案内板があるが無視してまっすぐ進み、マンションの前を右に曲がる。「三角池」という小さな池の前の道標を過ぎて行く。
そのまま進んで行くと「八阪神社」。
小さな神殿はシャッターの中にあったが、この後、訪れる「清荒神」境内の一部であり、牛頭天王を祀ったのが始まりといわれる。
神社前の坂を下り、地図を頼りに家の間を抜けて行くと次の「清荒神駅」。ここまで寺社名を冠した駅が3つ続く。
駅前の商店街を進む。
鳥居をくぐる。何だか頭がクラクラする。たぶん軽い熱中症だな。
「火の神様」「台所の神様」として信仰が厚く「神具・仏具」を扱う店も多い。
この商店街は「清荒神」の参道で100軒以上の店が並ぶが、日曜日だというのに人通りがほとんどないな。
先ほど跨いだ中国道を今度はくぐる。
商店街(参道)は、天に昇る龍を表しているという。
商店街を抜けると大駐車場。そう「清荒神」は、車でお参りができるのだ。35度を越える猛暑日。こんな日に歩いて参拝するのは「歩人」くらいだろう。しかし、商店街は「商売上がったり」だろうな。
坂を登り切ると「清荒神清澄寺」。
「荒神さん」と親しまれ鳥居も立つが神社ではない。
宇多天皇の勅願によって896年に建立されたという真言宗寺院である。真言宗は古い宗派なので神仏習合の色が濃く残る。ここは「拝殿」まるで神社だ。
しかし、「本堂」前は仏教寺院らしい雰囲気だ。大きな「一願地蔵尊」が立つ。
参拝を終え商店街を下る。熱中症で頭がガンガンしてきた。ところが突然、海からの風が参道を駆け上ってきた。かなり強い浜風で、クーラーの前に立ったようにどんどん汗が引いていく。これは「神様・仏様」のお蔭だな。「感謝、感謝」。
「清荒神駅」を通り過ぎ、市立中央図書館の東側を抜けていく。
突き当りを右にカーブすれば「旧国道176号線」に出る。
途中、コンビニの手前を右に折れると「川面神社」。「高皇産霊神」「神皇産霊神」「天照大御神」を祀り、794年創建の古社だ。
ここは、毎年、秋祭りにだんじりが巡行する。氏子さんたちがだんじりの整備をしていた。
再度、旧国道176号線に出て西へと進んで行くと「国道176号線」に出る。大阪では「イナロク」と呼ばれる。
7~8分ほどで「宝塚駅」前に出る。阪急宝塚線とJR福知山線の駅が並ぶ。
一旦、駅前を通り過ぎ、駅の南側を流れる「武庫川」を「宝来橋」で渡る。
橋を渡った右に「与謝野晶子の歌碑」。
その向かいには「宝塚温泉碑」。そう、宝塚は温泉地である。鎌倉時代に開湯されたというナトリウム-塩化物泉だ。
かつて武庫川沿いにはホテルや旅館が並んだ。
しかし、日帰りレジャーの多様化と大阪・神戸・西宮への通勤圏内にあることからマンション街へと生まれ変わった。大阪で「宝塚」といえば高級マンション街だ。
その中でひときわ目立つのが「宝塚ホテル」。
1926(昭和元)年創業の老舗ホテルである。
宝塚駅は阪急宝塚線の終着駅であり、ここから西宮北口駅へ続く「今津線」の始発駅でもある。今津線の「宝塚南口駅」前に出れば「宝塚大橋」で武庫川を再度渡る。
橋を渡り階段で河川敷へ下りてみよう。宝塚観光ダムで武庫川は堰き止められている。
川面には「宝塚観光大噴水」。昭和39年設置されたそうだ。阪神大震災の被害からも復興し、午前9時から午後9時まで毎時00分と30分に10分間噴水する。水の動きが変化したり、夜間はライトアップされる(季節により異なる)。
橋に戻り突き当たりまで行くと正面に「手塚治虫記念館」。
記念館の前には「火の鳥」のモニュメント。手塚治虫氏は、宝塚で育ったそうだ。
さらに奥へ進めば「すみれ♪ミュージアム」と呼ばれる「宝塚文化創造館」。
ここは宝塚音楽学校の旧校舎であり、宝塚音楽学校と宝塚歌劇団に関する資料が展示されている。
元の道に戻り「手塚治虫記念館」を過ぎて真っ直ぐ西へと歩く。そこは「花乃みち」。
川沿いには「宝塚大劇場」。宝塚歌劇団のホームシアターで、連日「花組」「月組」「雪組」「星組」「宙組」の公演が行われる。
タカラジェンヌを目指す少女や「ヅカファン」憧れの道である。
四季折々の花や木が植えられている。
♪ スミレの花 咲くころ・・・ ♪
およそ300mの道を抜ける。道の入口にあたる所に「花乃みち」道標。
そのまま進めば本日のゴール阪急電車「宝塚駅」。午後4時に到着。劇場風の駅舎。ここから「梅田駅」まで約40分280円。「信仰の道」の終着点には「花の町」が開けていた。本日の歩紀「30294歩」(26.05km)。この時期に歩くのは、やめにしよう。本当に死んでしまうぞ。
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