釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

昭和20年3月10日

2013年03月10日 18時13分48秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
今から68年前、昭和20年3月10日、ご存知のように東京大空襲のあった日です。

下町を中心に多くの方が犠牲になりました。

あまり知られていないことですが、その日は西麻布(旧笄町)でも焼夷弾による爆撃がありました。

東京での初めての本格的な空襲でしたので、爆撃さえやり過ごせば、また火を消せば大丈夫だと思った方も多かったようです。

父の話では、お風呂屋さんのコンクリートの建物や蔵の中に逃げた方達が、焼夷弾による火災で逃げ場を失い亡くなったということです。

あそこで何人、どこで何人という複数の犠牲者だったようです。

その後、4月の空襲で霞町が、5月の山の手空襲で青山が焦土と化しました。

そのころ米軍の空襲の精度はそんなに高くないというかたもいますが、明らかに燃やさないようにした地域もあったようです。

銅像を機銃掃射で狙ったなんていう話もありますからね。

間違えて燃やすことはあっても、燃やさないようにすることは可能だったんじゃなでしょうか。

逆にいえば狙うことはできたわけです。

まず退路になる橋を攻撃して、その内側を焼く。

戦時といっても心が痛む話です。



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昭和11年2月26日

2013年02月26日 23時02分36秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
今日は2.26事件から78年目に当たります。

陸軍の青年将校たちが「昭和維新」を旗印に決起し、東京の中枢部を四日間に渡って占拠したクーデター事件です。

将校たちには、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、近衛第三聯隊の下士官1400名が行動を共にしました。

当時、歩兵第一聯隊は、今の東京ミッドタウン(旧・防衛庁)、近衛第三聯隊は赤坂サカス・TBSの敷地にありました。

そして、今の国立新美術館、米軍赤坂プレスセンター、都立青山公園の敷地にあったのが歩兵第三聯隊です。

先週の月曜日に、日本経済新聞の記者の方が、うちの父にいろいろと昔の西麻布について取材されました。

その記事が、土曜日の「日本経済新聞」の夕刊12面「文学周遊」に、名前入りで掲載されました。



田宮虎彦の「絵本」という作品は戦前の西麻布を舞台にしているそうです。

当時の三聯隊の様子が出てくるそうで、記者さんは、そのあたりの話を父に取材していました。

代々木の練兵場に行く兵士が家の前を行き来していた話や、軍靴が聞こえる話、

その中で、2.26事件にも話が及びました。

「朝、オヤジと火鉢にあたっていると、ドスーン・ドスーンという音が聞こえてきたんですよ。おやじと何の音だろうっていったのを覚えています。それが2.26事件だとわかったのは後年のことですけど。」
と話していた。

当時、父は9歳。

それから78年の時が過ぎたということです。
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笄町と團十郎

2013年02月04日 18時57分46秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
明け方にふとFacebookをのぞくと「團十郎死去」の文字。
にわかには信じられませんでした。

江戸歌舞伎役者第一の名跡、市川團十郎と江戸第一の座元の名跡、中村勘三郎が相次いでこの世からなくなってしまいました。
歌舞伎界の損失はどれだけのものなのか、素人でもわかるはずです。
それも、歌舞伎座の柿落としをひかえて・・・・・。

亡くなった十二代目の團十郎丈は、幼少期を麻布笄町で過ごしました。

昭和二十九年、根津家(根津美術館)の敷地が分譲されます。
その年、戦災で焼失した根津美術館の本館が落成していますので、その一環として周辺の整備も行われたのではないでしょうか。
それまで、分譲された場所は根津家の畑や果樹園だったと私の父は申しております。

そこに、当時海老蔵であった十一代目團十郎一家は引っ越してきます。
当時、青山学院初等部に通っていた市川夏雄(本名・堀越夏雄)少年の通学の便をはかってのことではないでしょうか。
それから約十年間、麻布笄町77番地(現在は西麻布2丁目20番)の家で暮らしています。

場所は、旧・カニングハム邸の小道をはさんだ向かい側になります。
今は駐車場になっています。

ここにお住まいの間、夏雄は、1958年に市川新之助をを襲名して、父親の海老蔵は1962年に十一代目團十郎を襲名しています。
そのころ、歌舞伎の大向(おおむこう・掛け声をかける人)は、十一代目の團十郎のことを「笄町」と呼んだということです。

8ミリ撮影が趣味であった十一代目の家族を撮影したフィルムを見たことがありますが、今の根津坂下にあったお屋敷の玄関付近で遊ぶ、十二代目の姿が映っていました。

また、十二代目がブログで、家の物干しから東京タワーが徐々に高さを増していくのを毎日楽しみにしていたと書かれていたことがありましたが、これもこの笄町の家での出来事です。
今は六本木ヒルズで隠れてしまっていますが、その向こうに東京タワーがよく見えたのです。

十一代目の襲名が終わってから、一家は今の目黒のお宅へと引っ越して行かれました。
その時、ご丁寧に番頭さんが近所に定紋の三升の最中を配ったと両親が申しておりました。

屋号が成田屋で、成田山新勝寺と縁の深い團十郎さんが、節分の日に鬼籍に入るとはなんと皮肉なことでしょうか。
とても悲しい立春になってしまいました。

謹んでご冥福をお祈りいたします。




駐車場になっているところが團十郎邸のあとです。
分譲される前の根津の畑は、道路よりも少し高かったので、盛土をしたように見えます。



現在でも勝手口と駐車場のシャッターは残っています。



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笄の謎 その2

2013年01月31日 16時49分38秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
上の画像は「江戸名所圖會」の翻刻版の笄橋の画像です。

笄は、平安時代中期(承平931~938)に編纂された「和名類聚抄 」の「加美賀岐(かみかき)」というものではないかといわれています。
名前のとおり髪をかき上げるもので、鬢(びん・耳ぎわの毛)を整える用具としてあります。
その後、「宇津保物語」や「源氏物語」には、笄という言葉が出てくるそうです。
ですから、10世紀後半には笄という言葉が成立していたことになります。

鎌倉時代の「十訓抄」に

行成少しも騒がずして 主殿司を召して 冠取りて参れとて 冠して 守刀より抜き出だして 鬢かいつくろひて 居直りて 
いかなることにて候ふやらん たちまちにかうほどの乱罰にあづかるべきことこそ おぼえ侍らね
そのゆゑを承りて のちのことにや侍るべからんと ことうるはしく言はれけり 実方はしらけて 逃げにけり

中世の貴族や武士は守刀や腰刀に笄を差し込んで、鬢のほつれを直すのに使っていたようです。

そのころ女性も笄を持ち歩いていたようです。
室町時代、宮中で女性が下げ髪を笄で巻き付け上に上げたことから、笄髷(こうがいまげ)といわれる女髷の系列が生まれます。
ここで、笄が整髪用具から髪飾りへと変化をしていくわけです。
ですから江戸期には、笄が付いているか女髷だからといってすべてが笄髷系の女髷とは限らないのです。
笄髷のおもなものは、京都の舞妓さんが芸妓になる前に結う先笄(さっこう)や京阪で流行した年配の女性の両輪(りょうわ)などです。

男性用の笄は、三所物(みところもの)として発達していきます。
刀剣外装金具のうち、小柄(こづか・侍が敵に投げる)、笄、目貫(めぬき・刀と柄を止める釘)の三種類を三所物といい、桃山時代から江戸時代にかけて打刀(うちがたな・現在の普通に刀と呼ばれるもの)に付けるようになりました。
江戸時代の大小拵(こしらえ)では大には三所物をつけ、小には笄以外の二つがつけられました。
刀に付属したからといって武器になったわけではなく、髪をかく道具としてまた耳かきとして使われたようです。

さて話は戻ります。
源経基は応和元年(961年)に亡くなっていますので、笄の名称が生まれた頃です。
その頃の笄は整髪用品・・・・・・こんなものを自分の身の証に渡したのでしょうか?
一説には、烏帽子を留めるものを渡したとありますが、烏帽子留には笄という別称はないようです。

笄一つでいろいろ楽しめますね。





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笄の謎

2013年01月30日 15時37分41秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
申し訳ありません。昨日の日記の画像が横になっていました。
まるでIさんのFacebookのように・・・・


さて変わって今日の話題。

笄の謎です。

画像の笄は、渋谷の金王八幡宮の宝物殿にある「笄(こうがい)」です。
この笄のもともとの持ち主は「源経基(みなもとのつねもと)」で、経基という方は、八幡太郎義家の四代前の先祖、源頼朝からは七代前の先祖に当たります。
生きていたのは、平将門の時代。

詳しい伝説は過去に書いたブログ記事をご覧ください。

笄橋

その伝説の笄がこれだというのです。

去年の大河ドラマ「平清盛」視聴率的には盛り上がらなかったのですが、私は非常に楽しく拝見しました。
なにしろ脚本がいい。
そして、楽しかったのは知的好奇心を非常にくすぐられたからです。
はっきりいって、馬鹿にはわかりません。(失礼)

「平清盛」を見ていてふと思ったのです。

「あれ、平安時代は刀じゃなくて太刀だよな。」
「太刀って、笄がついていたっけ?」

リンクに張ったブログにも「太刀についていた笄」って書いてありますが、変ですよね。
太刀にはたして笄がついていたのか・・・・・。

もし太刀に付いていないとするとこの伝説自体無効となってしまうというわけです。

こんなことを気づかせてくれた「平清盛」、だから好きです。

さて、続きは明日。
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長谷寺(ちょうこくじ)

2009年08月10日 21時14分47秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
今回は西麻布二丁目のランドマーク大本山永平寺別院補陀山長谷寺をご紹介しましょう。



長谷寺は永平寺の別院という名前でもわかるように禅宗の曹洞宗の寺院です。よく「はせでら」と読む方がいらっしゃいますが、正しくは「ちょうこくじ」と読みます。古くから観音様を祀るお堂があったようですが、寺として開山されたのは江戸時代の初めのようです。

西麻布の交差点近くの「浜の家」さんのところから登る坂が、江戸時代は参道だったようで、今でも「大安寺」「慈眼院」という二つの寺(塔頭)があり、大きな寺だったことがしのばれます。
(よく大きな寺院の参道の両側には子院(塔頭)が見られることがよくあります。)

坂を登りきった突き当たりに、昔、「あけぼの幼稚園」という幼稚園があって近所の子供たちが通っていました。私は卒園生ではないんですが、懐かしい思い出です。


あけぼの幼稚園の碑

その幼稚園のあとに戦災で焼けた観音様を再現した観音様が出来上がったのは昭和52年(1977年)です。最初は新しくて何か違和感がありましたが、先日お伺いしたら、落ち着いた色合いになり大きくて立派なお姿にあらためて感激しました。
観音堂には誰でも入れますからぜひ一度お参りに行ってみてください。


観音堂

まだまだ思い出はあります。長谷寺の境内は、以前は夏休みのラジオ体操や、秋祭りの踊りの会場になっていました。朝が苦手な私は最初の日と最後の日だけ行って、ちゃっかり皆勤賞のお菓子をもらっていました。
今でも祭りのときは観音堂の裏手でバザーや踊りが行われています。九月にはまた行われますからぜひ見に来てくださいね。

長谷寺には数十人の修行僧の方がいらっしゃいます。夜の西麻布でお目にかかることも多いと思いますが、朝早くから庭の掃除をしたり、座禅をしたり、修行に励んでいられます。もちろんご自分たちの食事も作られています。ここの前の典座(禅寺の料理長)さんは料理本を出されるほどの方で、もしかして長谷寺のお坊さんが西麻布で一番おいしいものを食べているのじゃないでしょうか。

以前は駒澤大学の仏教学部の学生さんもいらっしゃいましたが、今は学校を終えられた方のみ修行しておられるそうです。なぜ駒澤大学かというと、駒澤大学の発祥は、曹洞宗の修行所「栴檀林(せんだんりん)」であることに由来します。いってみれば長谷寺は現代の「栴檀林」なのです。

禅宗といえば座禅ですが、ここでは一般の方も参禅できますので、興味のある方はお寺までどうぞ。

長谷寺の右奥には、墓地があります。昔は墓地の突き当たりの塀が低かったので、乗り越えて、隣の根津美術館の庭と行き来をしていました。どこかのおかみさんもそんな話をしていました。

ここの墓所には有名人の墓が多くあります。エノケンこと榎本健一、坂本九、沖雅也、明治時代の元勲・井上馨、画家の黒田清輝、世界のソニーの盛田昭夫、明治一代女の花井お梅など・・・・・。そんなに大きな墓地ではありませんが枚挙に暇がありません。お墓については次回ご紹介します。

江戸時代からある大きな寺ですから、今でも西麻布二丁目の半分近くの地主さんでもあります。本当に西麻布二丁目とは切っても切れないお寺です。

*最寄駅は表参道駅・広尾駅・乃木坂駅・六本木駅ですが、どれも徒歩10分以上かかります。
 渋谷駅から新橋駅行き「都01」を利用すると、南青山七丁目バス停からすぐです。
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車力屋と町工場

2009年05月26日 23時10分03秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
みなさんは「車力屋」という職業をご存知でしょうか?「車力」というのは、辞書によると「大八車などで荷物を運ぶのを職業とする人。また、その荷車。」ということで、車力屋というのは、今でいう運送屋さんだと思えばいいのではないでしょうか。
実は明治時代に私の曽祖父が広島県尾道の近在から東京に出てきて麻布笄町ではじめたのがこの車力屋だったんです。終戦までその車力屋をやっていました。
場所は今のタイヤ公園のそばだったようです。

現在、二丁目のタイヤ公園のところに「馬頭観世音」の石碑があります。以前タイヤ公園には西澤さんという大きなお宅がありました。この馬頭観音はそのお宅の敷地内にあったものを移動させてお祀りしたとのことです。残念なことに半分におれてしまっていますが、近所の方が丁寧につなぎ合せて現在にいたっています。


ちょっと哀れな馬頭観音さま

ではなぜに西澤邸の邸内に馬頭観音があったたというと、このお宅が車力屋さんだったからです。車力屋は時代が進むと、大八車だけではなく馬を使った運送もしていたようです。その仕事のために飼っていた馬に対する感謝として馬頭観音をお祀りしたようです。

時代が進み、戦前には運送には自動車も使われるようになったようです。でもまだ馬も使われていたようで、我が家でも馬がいたそうです。六十数年前の西麻布は前に書いた牛や馬が飼われているほど、ゆったりとした町だったんですね。

私が子供だった昭和三十年代にも、町内には運送屋さんがありました。もちろんそのころは、佐川さんやヤマトさんがない時代、小さな運送屋さんが小回りのきく仕事をしていたのでしょう。

そういえば三十年代には食品の小さな工場もありました。
タイヤ公園の手前の右側には納豆屋さん。タイヤ公園の奥には煎餅屋さん。GONTAの裏にはシロップ屋さんといっていた濃縮ジュースの工場。てやん亭の奥にも日本橋の有名な煎餅屋さんの工場。今の西麻布には似合わない感じですがいくつもありました。

お煎餅屋さんの一軒は親しくしていたのでよく遊びに行きました。煎餅の焼けるにおいや、醤油のにおいは記憶に残っています。焼きたての今の濡れ煎のようなそこでしかいただけない煎餅も食べました。
もちろんシロップ屋さんの甘い香りや納豆屋さんの豆のにおいも記憶にあります。

元のやまちょうの裏には、豆腐屋さんがありました。豆を煮る鍋から出る湯気や鍋を持って豆腐を買いに行った思い出がよみがえります。

同じように、白金の古川沿いには給食でおなじみのモロズミジャムの工場があったし、麻布十番にはバターボールキヤンディーやライオネスコーヒーキャンディーで有名な篠崎製菓がありました。
そんな小さな食品工場があったのも港区の顔だったんです。

そんなおいしいものに育まれて大きくなったのです。

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東京大空襲と西麻布

2009年03月10日 06時09分57秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)

今日は3月10日。
64年前の今日、東京は火の海に包まれたことは皆さんご存知だと思います。
東京大空襲では一晩で10万(推定)の尊い命が奪われました。主な被災地が隅田川沿いの下町で被害が甚大であったことはよく知られていますが、私たちの西麻布もその日に空襲を受け、多くの家が焼け、何人もの方が亡くなりました。

当時の麻布区全体でその日の被害は全焼1,326戸、罹災者4,317名(死者数不明)というもので、下町の被害に比べれば少ないものの、たくさんの方が被災したことがわかります。

うちの父の話では、西麻布では二丁目を中心に被災したようです。
本格的な初めての空襲だったので、まだ住民に本当の恐ろしさが理解されず、頑丈な建物でやり過ごせば、大丈夫だという思いがあったようです。
現在の白洋舎さんがある夕日通りと朝日通りに挟まれたところには、銭湯があり、そのコンクリートで囲まれた釜場に逃げ込んだ数名や、タイヤ公園の脇の土蔵に逃げた母と娘と孫の3人が猛火で亡くなられたということです。

それ以降も4月や5月24・25日の空襲で、西麻布のほかの地区や南青山も灰になってしまいました。表参道の交差点に死体の山があった話はあまりにも有名です。終戦まで西麻布二丁目でも東町会の北部から青山方面に外苑西通り沿いは焼け残りました。
江戸時代から親しまれた長谷寺の観音様も空襲で燃えてしまいました。

今は静かな西麻布にも戦争の時代はあったのですね。
改めて犠牲者のご冥福をお祈りします。

 

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青山の庚申塔

2009年01月30日 16時56分39秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
明けましておめでとうございます・・・・・ってもう月末です。

今回は今から百五十年前、江戸末期のお話です。
さすがの私もこのころは生まれていません。でもこのころから西麻布に存在していたものがあります。

ひとつは長谷寺。現在は永平寺の東京別院になっている寺です。
江戸時代のガイドブック「江戸名所図会」にも載っている由緒正しい寺です。その挿絵にはお堂の屋根の上にとまっているコウノトリが描かれています。最近野生の姿がやっと復活できた珍しい鳥が江戸時代では西麻布にもいたんですね。それほど長閑な場所だったんです。

江戸時代の地図を見ると今の二丁目の朝日通りは川で、その辺りにはたんぼが広がっています。昭和のはじめまで「笄たんぼ」と呼ばれていたほどの田園地帯だったんですね。

もうひとつ変わらないものがあります。それは道です。もちろん舗装をされたりして形状は変わったでしょうが、その位置は昔と変わらないのです。

ゴンタの店の横を三角公園の方に入って、立山墓地に突き当たった二又のところに「庚申(こうしん)塔」という石碑があります。



暦の庚申の日にはというのは、悪い虫が人間の行状を天に知らせ、それで人間の寿命が決まると信じられていました。そこで六十日に一度の庚申の日には、村人が集まって徹夜をしたそうです。そんな講が何年も続いた記念に建てたのがこの碑です。

画像でわかるように建立は1865年(慶応元年)。まさに幕末。
今から12回前の今年と同じ丑年、144年前のこと。

この石碑は道しるべも兼ねていてます。だからこの道がどこに続いていたかわかるのです。
「右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち 左 二十きおくみ 百人おくみ ぜんこうじ」

今の漢字に直すと
「右 青山 内藤新宿 堀ノ内 左 二十騎御組 百人御組 善光寺」となります。

右に進むと青山・・・今の長者丸通り、そして内藤新宿、杉並堀ノ内の妙法寺、左は青山の幕臣が住んでいた二十騎組(現在の南青山4・5・6丁目)百人組(大山道沿い・現在の青山通り沿い)そして今も北青山にある善光寺、という次第です。

さてそれでは逆方面、麻布の側はどうなっていたでしょうか。
ゴンタの前で朝日通り(当時は川)を横切り道は夕日通りに続いていました。ゴンタの前には小橋があったようです。
私は父から橋の話を聞いたことがあります。昔、下水工事で道路を掘り下げたときに地中から、橋脚が出てきたそうです。そこには「たぬきはし」とかかれていたそうです。「狸橋」なんてユーモラスな名前ですね。そのくらい当時は田園地帯だったのでしょう。

夕日通りと同じ道をたどった江戸時代の道は、六本木通りの向こう側にも続き、向こう側からは、平行して流れていた川に沿った道になったようです。
今の牛坂下にも橋があってそこが笄町の名前の起こりだった笄橋です。

笄橋については以前のブログをご覧ください。
笄橋
黄金長者と白金長者
娘と息子

先ほど書いた長谷寺は今よりも広い寺だったようです。現在もある大安寺、慈眼院も含め今の夕日通り沿いまで広がっていたようです。現在も夕日通りに面したところまで、長谷寺の土地であることからも明らかです。

もちろんそのころは今の外苑西通り、六本木通り、根津美術館から表参道に通じる通りなどはありませんから、今書いた道が重要であったのでしょう。
江戸の人が歩いた道だと思って歩くとまた不思議な感覚になります。

(この記事は太陽新聞のコラム「西麻布二丁目の夕日」に加筆しています。)
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