釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

脱ボージョレ・ヌーボー

2006年11月22日 04時55分00秒 | ワインの話
11月の第三週の木曜日はボージョレ・ヌーボーの解禁日だ。
今年も11月16日の解禁日はニュースに取り上げられた。

我が店でも15日の遅い時間から解禁日の午前零時をみんなで待って、零時ちょうどに抜栓するのが恒例になっている。



町でも解禁を祝うパーティーや店頭販売がここ数年は盛んに行われていたが、ご存じのように飲酒運転による悲惨な事故などで自粛をするところが多かったようだ。
そのためか今年の輸入量は前年比5%の減少だそうだ。
でも減少の理由はそれだけだろうか?

去年、ボージョレ・ヌーボーは解禁から時間が経過しても店頭に溢れていた。大量に売れ残りがでたようだ。
今年の輸入量の減少は、輸入業者が輸入を控えた結果ではないだろうか。それを飲酒運転防止に転嫁しているとしか思えない。
では去年なぜ大量に売れ残ったのか?
それは消費量が減少しているにもかかわらず、大量に輸入したからにほかならない。

ではなぜ消費量が減ったか?

ボージョレ・ヌーボーはサントリーなどが1981年ころから解禁日がある酒として紹介し、さらに時差の関係で世界で日本がいち早くその酒を飲めるということで、売り込みをしたのがはじまりだといわれている。
日本人の初物好きに合致したことと、まだ日本人にはなじみの薄かった赤ワインでもフルーティーで飲みやすい味わいのボージョレが受け入れられたからだろう。

その後、バブルの崩壊と共に輸入量は落ち込むが、1998年のワインブームを境にまた輸入量が増え、2004年に最高量の1145万リットル(750ml 1527万本)を数えた。昨年は少し減少したが1024万リットルだった。去年から減少していることになる。

それでもボージョレ・ヌーボーの輸出量の22%が日本向け、いかに日本人がボージョレ・ヌーボー好きであるか・・・・・。

フルーティーで飲みやすいワインということは、一方では軽いワインということである。
近年のワインブームはワインのヘビーユーザーを育てた。月に一度、高級なワインを飲むワイン好きとは一線を画した人々で、安くて美味しいワインを毎晩夫婦で一本空ける。さらに箱入りのワインを飲む人々など、ワインの裾野は拡がりはじめている。
その人々には、ボージョレ・ヌーボーは高くてまずい酒と映ること間違いない。
もちろん高級ワイン好きには、箸にもかからない酒であることは確かである。

ここで問題になるのは、ボージョレ・ヌーボーの価格である。2000円前後から4000円。
この値段は普通のワインであったらやや上級のワインが買える。日常飲むワインは1500円までという答えが多いが、それに比べて高い。
フランスでは400円から、高級店でも800円くらいからあるそうで、アメリカでも1200円、それに比べて日本の価格がいかに高いかがわかる。
価格のほとんどが輸送料らしい。一ヶ月遅れ届く船便のボージョレは1000円前後で買えることでもわかる。

ワインのことを知らない人が多かった時代はともかく、最近のようにワインのことを少しは知る人が増えると、ボージョレ・ヌーボーの価格と価値のギャップに、人々が気付きだしているのではないだろうか。

ワインは熟成する酒といいながら、出来たての新酒を高い値段で飲む矛盾。
初鰹を借金してでも買った江戸っ子の気分を味わいたかったら別ですが、そろそろ脱ボージョレ・ヌーボーしませんか。
鰹だって戻り鰹のほうが脂が乗ってうまいじゃないですか?

ワイン輸入業者の中でもボージョレ・ヌーボーの輸入をやめたところが出はじめているのも事実である。

ボージョレがまずい酒だっていってるんじゃないですよ。

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金沢八景

2006年11月15日 04時17分45秒 | お散歩日記/東京地名の話
称名寺を出て、海へ向かう。
まず目的地は柴漁港。
そう、蝦蛄(シャコ)の水揚げ日本一の漁港である。
しかしここ一年まったく蝦蛄は捕れないとか。
原因は不明、漁獲高が極端に減ってきたために、漁師さんたちが自主的に禁漁にしているらしい。
当日は休日だったので直売所もお休み、ひっそりとした漁港だった。


柴漁港

柴漁港の隣は海の公園
人工の砂浜だけど規模が大きい。海の向こうには八景島やこれから向かう野島が見える。


遠くに八景島

さて、八景島の名前の由来だが、もちろん「金沢八景」に由来する。
「金沢八景」というと京急線の駅の名前と思っている方も多いと思うが、地名ではなく金沢近辺の景勝八つの総称なのである。
元禄時代に中国明からの僧、心越禅師が能見堂から眺めた景色を、中国宋代の文人画人、宗迪(そうてき)が中国湖南省の瀟水と湘水の二本の川が合流し洞庭湖に注ぐ辺りの景勝八ヶ所を画題に選んだ『瀟湘八景』に習って、景勝八カ所を八編の漢詩『武州能見堂八景詩』に詠ったのが『金沢八景』のはじまりといわれる。
その後、安藤広重の『金沢八景』や京極高門の和歌で知名度が増したようです。

八景といえば日本では琵琶湖の『近江八景』が著名である。これは室町時代末に近江に滞在した公卿の近衛政家が、洞庭湖を琵琶湖に置きかえて和歌八首を詠んだことが始まりだといわれている。

『瀟湘八景』の題材は室町時代に京都の禅宗寺院で絵画や詩文として流行したようである。また、中国では詩や絵画の題材として名高いものである。

このように室町後期から江戸時代にかけて文人や禅僧によって多くの八景が日本に誕生している。もちろん江戸にも『江戸名所八景』や『東都八景』など多くがあるが、そのほとんどは忘れ去られている。
その点『金沢八景』は現在でも名前の残る数少ないものなのである。これもひとえに京急線の駅名に名を残したことにほかならない。

[金沢八景]

前半二文字が地名・後半二文字が現象を現す

洲崎晴嵐(すさき・せいらん)
瀬戸秋月(せと・しゅうげつ)
小泉夜雨(こいずみ・やう)
乙艫帰帆(おっとも・きはん)
稱名晩鐘(しょうみょう・ばんしょう)
平潟落雁(ひらがた・らくがん)
野島夕照(のじま・せきしょう)
内川暮雪(うちかわ・ぼせつ)


稱名は先に訪れた称名寺のこと、野島はこれから向かう野島公園、そして金沢文庫駅近くの湾が平潟湾、平潟湾に面して平潟町・洲崎町があり、そのとなり文庫駅付近が瀬戸である。そしてここ海の公園は、整備される前までは乙艫海岸と呼ばれ、私が中学生のころは千葉県の稲毛と並ぶ潮干狩りの名所でだった。
今は長い年月をかけて整備されて、潮干狩りの名所として復活している。でも心無い人が小型のブルドーザーで根こそぎ貝を持っていく・・・盗むという話も聞く。そこまでしなくても大きな熊手でごっそりとっていく人もいるようで、熊手の大きさや採っていい貝の大きさなど規制されているようだ。

訪れた日は、夏のようなだったので、ビーチバレーやウインドサーフィンの人もたくさんいた。バーベキューやジョギングなどいろいろ楽しそう。バーベキューの残りを狙って湘南名物トンビもたくさん低空飛行。




海の公園を出て、水路を渡って野島公園に向かう。


野島・手前に見えるのが海から平潟湾に通じる水路

遠くから見た時はさほど高く見えなかった野島公園の展望台への道も、いざ階段の下まで来ると険しいものだった。


野島の頂上に登る階段

大汗をかいてやっと展望台に登ると、目の前の東京湾から、対岸の房総半島が手にとるように見える。
振り返るとうっすらと富士山の姿も。


房総半島と浦賀水道。手前は日産の追浜工場。


三浦半島の稜線の向こうには富士山や伊豆の山が見える。

今、歩いてきた海の公園や称名寺も見える。シーサイドラインもよく見える。
称名寺の奥の山側に、金沢八景のもとになった心越禅師のいた能見堂があったわけで、そちらから見てもすばらしい景色だったことは想像できる。この風光明媚な土地が金沢八景を生んだことがよくわかる場所だ。

気持ちのよい風に当たりながら、時間を過ごした。しかし、まだ八景のひとつ「野島夕照」になる時間まではまだ間があったので、残念ながら山を下った。
帰りはなだらかな車道を歩いた。最初からこちらを登ればよかった。

さっき来た道を戻り、水路の橋際にあるシーサイドラインの野島公園駅から金沢八景駅まで一駅乗車することにした。

高いところを走る電車はやっぱり気持ちいいものだ。
子供のようにキョロキョロしているうちに金沢八景に到着した。


シーサイドライン


シーサイドライン金沢八景駅から見た風景

右手に見える小高い山が野島。手前の水辺が平潟湾。
この辺りは、野島や夏島などいくつもの島が浅瀬の入り江に浮かぶ場所であった。
今は多くは埋め立てられているが、水辺と緑が織り成す景色は美しいものがある。

シーサイドラインの金沢八景駅と京急の金沢八景駅は少し離れている。
京急の駅に向かう前に瀬戸神社へ向
かった。


瀬戸神社

この神社は、源頼朝が伊豆の三島大社の大山祇命(オオヤマツミノミコト)を勧請して創建されたといわれている。この神は瀬戸内海の大三島にある大山祇神社でも知られるように海や海運の神様である。当時の金沢(六浦)は関東一帯の物資が水上交通によって運ばれ、ここより鎌倉に運ばれた陸揚げ港だった。そこに水運の神様を祀っているのである。往古の金沢の繁栄がしのばれる場所である。

瀬戸神社から数分で京急金沢文庫駅にいたる。

金沢八景は気分爽快、青空の似合う街歩きだった。
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鎌倉はうらむが如く、金澤は笑うが如し

2006年11月07日 21時43分52秒 | お散歩日記/東京地名の話
松尾芭蕉の奥の細道の「象潟」に『松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。』という一節がある。
その文をまねてみた。
象潟は秋田県南部にあり、地震で隆起する以前は松島と並び賞される歌枕であった。
ここのうらむは「憾む」・・・悲しい、寂しいという意味である。

どうも九月の今にも雨が降り出しそうな鎌倉の印象が強くて、鎌倉の基本は「陰」であり「憾」の感情を秘めた場所のような気がする。
どこを掘っても骨が出るらしい。
人の屍の上にできた都市というのはいいすぎだろうか。
鎌倉幕府が滅亡したときの刀傷のある人骨や、災害(地震)のときに大量に埋葬されたもの、さらに墓地の遺跡。
そんなわけで鎌倉は「憾む」のイメージが強い。

そんな鎌倉の陰気をすべて吹き晴らすような場所に行った。
鎌倉の東、三浦半島の稜線を越えたところ、東京湾に面した横浜市金沢である。
金澤文庫(かねさわぶんこ)で知られる土地である。

鎌倉は相模の国、ここ金澤は武蔵の国、久良岐郡六浦荘といって海上交通の要所であったらしい。
金沢文庫は、北条氏の一族で執権の補佐役でもあり、文化人でもあった北条実時(金沢実時)が晩年、金沢の屋敷内につくったもので、政治・文学・歴史など多岐に蔵書が納められた。書籍の収集は代々の金沢北条氏に受け継がれ、蔵書の充実がはかられた。
金沢北条氏は鎌倉幕府の滅亡(1333)と運命をともにしましたが、文庫は隣接する金沢氏の菩提寺の称名寺によって管理され近代に至った。
現在は神奈川県立金沢文庫として神奈川県が管理している。
国宝や重要文化財の保存管理のほか、歴史博物館として公開されている。


神奈川県立金沢文庫

神奈川県立金沢文庫の裏手のトンネルを抜けると、称名寺の境内に出る。
トンネルを抜けると大きく広がった青空や背後の岡の緑が本当に晴れ晴れした気分にさせる。
寺の建物は本堂を中心にこじんまりとまとまり、一番目をひくのは中央に島のある大きな池がである。
その池には山門から中島に太鼓橋が渡り、さらに中島から本堂前に橋が架かっていたらしい。
いたらしいというのは、近年本堂前の橋は老朽化が進み、取り払われたままになっている。太鼓橋もそれに伴い通行できない。ちょっと残念である。


称名寺本堂

本堂にお参りして、本堂の裏手、谷の奥の岡の中腹にある北条実時の墓に訪れた。


北条実時と一族の墓

さすがに墓の周りは人影もなく、霊域の感じがした。でも空はあくまでも青い。
墓までも道のりには桜の古木や太い木々が生え、その手前、本堂の横手から裏手の谷の入り口には一面セイタカアワダチソウが咲いていた。
相当広大な寺域を持つ大きな寺院だったことがわかる。

今回は横手から寺に入ったので、正面の参道に回ることにした。
山門から見る景色はまさに浄土庭園の形式。



池を渡って極楽浄土にある本堂に渡るという形である。
ここから見ると、さらに晴れ晴れとした景色である。
空の青さ、岡の緑、太鼓橋の赤、気分爽快とは正しくこの気分である。
これが「笑う」の正体である。あの鎌倉の比企谷でも寂しい、悲しい「憾む」の感覚とはまさに逆の「笑う」なのである。


称名寺山門

山門から何度も称名寺の境内の景色を堪能して、参道を正面の入口の赤門に向かう。両脇は塔頭やお休み処になっている。ここもなかなか風情のある場所である。両側は桜並木。春は背後の山の桜とともにさぞ美しいだろう。


赤門

遠い昔、中学校の遠足で弁当を食べたのが称名寺の境内だった記憶がある。その時は金沢八景の海岸で潮干狩りした。
今回も称名寺をあとにして海に向かった。






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江戸文化歴史検定

2006年11月04日 19時46分30秒 | お散歩日記/東京地名の話
昨日、11月3日、「江戸文化歴史検定」なるものを受験してきました。
今回がはじめての試験で、初級に当たる3級と、中級の2級が実施されました。

実は店でお客さんとの会話から受験することになったのは3ヶ月ほど前。
それもいい気になって難しいほうの2級に申し込んでしまいました。
試験当日、西麻布二丁目は「太陽祭」。
それを放り投げての受験でものすごく力が入っていたんです・・・最初は。

ところがそれから、公式テキストなるものを買ってはみたものの、一度ざっと目を通しただけ。
最近の散歩もほとんど東京以外。
先週末には江戸東京博物館にでも行こうかと思ったけど、根っからの怠け者で断念。
でも、テキストをもう一度読もうと思ったのが三日前。
そんなときに限って、店もヒマじゃなく。
試験前日、太陽祭の準備が終わってから、約一時間テキストを飛ばし読み。
でも半分ほどで、眠くなって・・・・。

試験当日も、太陽祭の手順を留守番の皆さんにお願いして、一時間前に出発。
でも途中、太陽祭の各店舗をのぞいているうちに、シャンパーニュと焼酎でほろ酔い。
慌てて西麻布からタクシーで会場の青山学院大学へ。



青学の前はすごい人。
それも「江戸文化歴史検定」の紙袋を持った人がたくさん。
受験者にはお土産があるそうなので、たぶん午前中の3級の受験者で、2級も受ける人なのかな。
そういえば、検定のサイトに受験者1万を超え・・・・って書いてありました。
後で聞いたら3級は6800人も受験したようです。
若いミニスカートのお姉さんから、着物の女性、ジイサン、バアサンまですごくいろいろな人がいる。
まさに江戸ブーム、検定ブームを印象付けられました。

前日、模擬問題を友達に教えられてからあまりの難解さに、ほとんど諦めの境地に達していたのです。
さらに90分間で100問は一問一分以内で解答しなければならないということなど、非常に不安になっていたんです。
しかし、酒の力は怖いもの、受験教室の席に着席するころは、変な余裕がでてきちゃいました。



問題は三分の一ほどは、知っていたこと。
後の三分の一は考えれば、わかること。
残りの三分の一は当てずっぽうでした。

70点以上で合格で、自己採点では82点でした。
でも最初の一問目、間違えているし・・・・。

[1]
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるように、江戸は度々の火災に見舞われました。では明暦3年(1657)の大火を機に創設された消防組織は、つぎのうちどれでしょう?

い)大名火消
ろ)定火消
は)店火消
に)町火消

[54]
西洋文化にも関心が高く、進取の気性(問題用紙には気象って書いてあった。)富んだ水戸黄門こと徳川光圀。様々なものを口にした記録がありますが、次のうち、光圀が口にしたことのないものはどれでしょう?

い)ラーメン
ろ)握り寿司
は)餃子
に)納豆

[78]
現在でも使われている言い回しに「見当違い」があります。この「見当」という言葉は江戸時代に使われるようになりましたが、本来は何のことでしょう?

い)浮世絵版画の多色摺りのための目印
ろ)歌舞伎役者の舞台での立ち位置
は)迷子を探すための目印
に)地図を作製するための目印

まぁ、こんな問題が100問ありました。
みなさんはできるかな。



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