「情け有馬の水天宮」この言葉をご存知だろうか。
同様な言葉に「恐れ入谷の鬼子母神」や「びっくり下谷の広徳寺」、「なんだ神田の大明神」なんていうのもある。
これは「地口(ぢぐち)」といわれる言葉遊びの一種である。
恐れ入る→恐れ入谷
びっくりした→びっくり下谷
なんだかんだ→なんだ神田
情けがある→情け有馬
と言い換えたもので江戸っ子の洒落っ気の現れである。
鬼子母神は入谷、広徳寺(びっくりするほど大きな寺だったとか。)は下谷(現在は練馬区桜台に移転)、大明神は神田にあるので納得するが、さて有馬の水天宮ってなんだろう。
正月の初詣、深川の不動尊の次に向かったのが、隅田川をはさんで反対側にある水天宮である。
水天宮の賑わい
一般に水天宮は安産の神様として知られている。
じゃご祭神は誰かと調べると、主祭神は「天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」。この神様はこの世に最初に現れた神で、どうも後になってから上置きとして祭られた節がある。
ほかに三柱お祭りしてある。この三柱が重要なのである。
まず、安徳天皇、そして、安徳天皇とともに入水した祖母の二位の尼(平時子)、そして入水したが救われて京都寂光院で尼になった建礼門院(平徳子)である。
なぜ東京のど真ん中に、壇ノ浦で滅びた方々をお祭りした社があるのであろうか。
安徳天皇に仕えていた按察使局(あぜちのつぼね)という官女は、二位の尼に死者の菩提を弔うことを命ぜられ、ともに入水することをとどまり、九州に落ち延びたのである。
落ちのびた局が筑後川のほとり鷺野ヶ原というところに祠を建てたのが水天宮の創建とされている。
以後幾度か場所を移し、江戸初期に久留米市内に遷り、慶安3年(1650年)久留米藩二代藩主有馬忠頼が社地と社殿を寄進し現在地に遷宮したということだ。
幼少で入水して亡くなった安徳天皇をお祭りしていることから、水の神様、海運の神様、子供の神様、子育ての神様、そして安産の神様へと信仰が進むのである。
九代藩主有馬頼徳は、特に水天宮に厚い信仰があり、在府(在江戸)中も参詣したいという思いから、文政元年江戸三田の藩邸に分霊を勧請した。
当時すでに水天宮は江戸でも名高く、町民も参拝を望んだが、藩邸の中のことで自由な参拝はかなわなかった。中には表から賽銭を邸内に投げ込むものまで現れたそうだ。
あまりの人気に有馬家では毎月五の日に開門して、庶民にも参拝させたさせた。
そこでいつしか有馬家の情けで水天宮が拝めるようになったということで、「情け有馬の水天宮」というようになった。
その後、明治4年に有馬家の移転に伴って赤坂に、翌年現在の中央区日本橋蛎殻町に遷座した。
水天宮に立ち寄ったが、ここも大変な人出。
それに妊婦でもないので、次の場所に向かった。
同様な言葉に「恐れ入谷の鬼子母神」や「びっくり下谷の広徳寺」、「なんだ神田の大明神」なんていうのもある。
これは「地口(ぢぐち)」といわれる言葉遊びの一種である。
恐れ入る→恐れ入谷
びっくりした→びっくり下谷
なんだかんだ→なんだ神田
情けがある→情け有馬
と言い換えたもので江戸っ子の洒落っ気の現れである。
鬼子母神は入谷、広徳寺(びっくりするほど大きな寺だったとか。)は下谷(現在は練馬区桜台に移転)、大明神は神田にあるので納得するが、さて有馬の水天宮ってなんだろう。
正月の初詣、深川の不動尊の次に向かったのが、隅田川をはさんで反対側にある水天宮である。
水天宮の賑わい
一般に水天宮は安産の神様として知られている。
じゃご祭神は誰かと調べると、主祭神は「天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」。この神様はこの世に最初に現れた神で、どうも後になってから上置きとして祭られた節がある。
ほかに三柱お祭りしてある。この三柱が重要なのである。
まず、安徳天皇、そして、安徳天皇とともに入水した祖母の二位の尼(平時子)、そして入水したが救われて京都寂光院で尼になった建礼門院(平徳子)である。
なぜ東京のど真ん中に、壇ノ浦で滅びた方々をお祭りした社があるのであろうか。
安徳天皇に仕えていた按察使局(あぜちのつぼね)という官女は、二位の尼に死者の菩提を弔うことを命ぜられ、ともに入水することをとどまり、九州に落ち延びたのである。
落ちのびた局が筑後川のほとり鷺野ヶ原というところに祠を建てたのが水天宮の創建とされている。
以後幾度か場所を移し、江戸初期に久留米市内に遷り、慶安3年(1650年)久留米藩二代藩主有馬忠頼が社地と社殿を寄進し現在地に遷宮したということだ。
幼少で入水して亡くなった安徳天皇をお祭りしていることから、水の神様、海運の神様、子供の神様、子育ての神様、そして安産の神様へと信仰が進むのである。
九代藩主有馬頼徳は、特に水天宮に厚い信仰があり、在府(在江戸)中も参詣したいという思いから、文政元年江戸三田の藩邸に分霊を勧請した。
当時すでに水天宮は江戸でも名高く、町民も参拝を望んだが、藩邸の中のことで自由な参拝はかなわなかった。中には表から賽銭を邸内に投げ込むものまで現れたそうだ。
あまりの人気に有馬家では毎月五の日に開門して、庶民にも参拝させたさせた。
そこでいつしか有馬家の情けで水天宮が拝めるようになったということで、「情け有馬の水天宮」というようになった。
その後、明治4年に有馬家の移転に伴って赤坂に、翌年現在の中央区日本橋蛎殻町に遷座した。
水天宮に立ち寄ったが、ここも大変な人出。
それに妊婦でもないので、次の場所に向かった。