釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

情け有馬の水天宮

2007年01月27日 14時18分11秒 | お散歩日記/東京地名の話
「情け有馬の水天宮」この言葉をご存知だろうか。
同様な言葉に「恐れ入谷の鬼子母神」や「びっくり下谷の広徳寺」、「なんだ神田の大明神」なんていうのもある。

これは「地口(ぢぐち)」といわれる言葉遊びの一種である。
恐れ入る→恐れ入谷
びっくりした→びっくり下谷
なんだかんだ→なんだ神田
情けがある→情け有馬
と言い換えたもので江戸っ子の洒落っ気の現れである。

鬼子母神は入谷、広徳寺(びっくりするほど大きな寺だったとか。)は下谷(現在は練馬区桜台に移転)、大明神は神田にあるので納得するが、さて有馬の水天宮ってなんだろう。

正月の初詣、深川の不動尊の次に向かったのが、隅田川をはさんで反対側にある水天宮である。


水天宮の賑わい

一般に水天宮は安産の神様として知られている。
じゃご祭神は誰かと調べると、主祭神は「天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」。この神様はこの世に最初に現れた神で、どうも後になってから上置きとして祭られた節がある。
ほかに三柱お祭りしてある。この三柱が重要なのである。
まず、安徳天皇、そして、安徳天皇とともに入水した祖母の二位の尼(平時子)、そして入水したが救われて京都寂光院で尼になった建礼門院(平徳子)である。
なぜ東京のど真ん中に、壇ノ浦で滅びた方々をお祭りした社があるのであろうか。

安徳天皇に仕えていた按察使局(あぜちのつぼね)という官女は、二位の尼に死者の菩提を弔うことを命ぜられ、ともに入水することをとどまり、九州に落ち延びたのである。
落ちのびた局が筑後川のほとり鷺野ヶ原というところに祠を建てたのが水天宮の創建とされている。
以後幾度か場所を移し、江戸初期に久留米市内に遷り、慶安3年(1650年)久留米藩二代藩主有馬忠頼が社地と社殿を寄進し現在地に遷宮したということだ。

幼少で入水して亡くなった安徳天皇をお祭りしていることから、水の神様、海運の神様、子供の神様、子育ての神様、そして安産の神様へと信仰が進むのである。

九代藩主有馬頼徳は、特に水天宮に厚い信仰があり、在府(在江戸)中も参詣したいという思いから、文政元年江戸三田の藩邸に分霊を勧請した。
当時すでに水天宮は江戸でも名高く、町民も参拝を望んだが、藩邸の中のことで自由な参拝はかなわなかった。中には表から賽銭を邸内に投げ込むものまで現れたそうだ。
あまりの人気に有馬家では毎月五の日に開門して、庶民にも参拝させたさせた。
そこでいつしか有馬家の情けで水天宮が拝めるようになったということで、「情け有馬の水天宮」というようになった。

その後、明治4年に有馬家の移転に伴って赤坂に、翌年現在の中央区日本橋蛎殻町に遷座した。

水天宮に立ち寄ったが、ここも大変な人出。
それに妊婦でもないので、次の場所に向かった。
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深川不動尊

2007年01月16日 03時12分53秒 | お散歩日記/東京地名の話
白河の霊巌寺から南に足を向ける。
少し歩くと仙台堀川に出る。
江戸時代、低湿地であった深川の治水や水運のために多くの川が改作された。
今でも、仙台堀川をはじめ小名木川や横十間川などが水をたたえている。
これらの川は、江戸時代には大消費地である江戸に物資を船で運ぶ輸送路として大いに利用された。
明治以降は、工場への資材や製品の輸送に利用されてきた。
ご存知のようにこの地区のすぐ東側には木場があり、近年まで木材の輸送には欠くことのできないものであった。


木更木橋から見た小名木川

小名木川を渡ると冬木町である。
冬木町といえば材木問屋を連想するほどの材木の町である。
新歌舞伎に「冬木心中」という材木問屋の旦那を主人公にした作品もあるほどだ。

冬木の南はもう深川不動尊である。
正式名称は「成田山深川不動堂」・・・深川のお不動さんとして親しまれている。

江戸時代には、現世利益をもとめ社寺への参詣が流行した。
江ノ島の弁財天、大山の阿夫利神社など遊山をかねた参詣が盛んに行われたが、特に成田山新勝寺の人気は大変なものであった。
しかし今は近いとはいえど、当時は徒歩の旅、誰でも行けるというものでなかった。
当時の歌舞伎俳優、初代市川団十郎も成田山を信仰し、現在でも団十郎家の屋号は成田屋である。
元禄十年には、「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」で後年歌舞伎十八番に取り入れられる「不動明王」を団十郎が演じている。
団十郎人気と成田山人気が相乗効果のようになっていたのではないか。

そんな折、出開帳(でがいちょう)というものが行われた。
遠方の寺のご本尊が江戸まで出向してくるのである。
鎌倉時代に信州善光寺の出開帳が京都で行われた記録がある。

江戸では元禄十六年の四月から六十日間行われた成田山新勝寺の出開帳がその最初で、現・深川不動堂(当時の永代寺の境内)で行われたものである。
その賑わいぶりは大変なものであったらしい。
さらに、ご本尊は江戸城まで出向たようである。
以後、江戸時代に十度の出開帳が行われ、明治時代になっても続けられた。
当時、出開帳が行われた永代寺は、八幡宮(現・富岡八幡)の別当寺であったため、明治の神仏分離で廃寺となり、その跡地に、常設のお堂を建立したのが、現・不動堂である。
ただし、現在の建物は、震災・戦災で旧本堂が消失したため、戦後千葉県の古寺の本堂を移築している。


深川不動の正月の賑わい

出開帳はほかにも本所回向院で、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、信州善光寺の阿弥陀如来の開帳などが行われていた。

本山の成田山新勝寺は、平将門の騒乱の際に、将門降伏の護摩行を行い、見事将門が滅んだことから、名を馳せた寺である。
江戸幕府は、江戸の中心にドンと構える将門の霊に対する押さえとして、成田不動を利用したという説もある。

この文章を書いていてぞっとしたことがある。

実は、初詣の当日、目的は深川不動へのお守りの返納だったのであるが、あまりの混雑に、横から参拝して、ほかの寺社に足を延ばすことにしたのである。
本当に何も考えていなかったんだが・・・・・行き着いた先は、はるかかなた神田明神だったのである。
ご存知の通り、神田明神のご祭神は平将門なのである。
新年早々、この因縁の糸は何を意味しているのだろうか?
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初散歩

2007年01月12日 05時42分15秒 | お散歩日記/東京地名の話
2007年の初散歩の目的は初詣。
出発点は清澄白河駅。

清澄白河といえば一番有名なのが、清澄庭園



最初は紀伊国屋文左衛門の屋敷といわれ、後年、下総関宿(現・野田市)の城主、久世家の下屋敷となり、明治時代は三菱の岩崎弥太郎の所有になった。
昭和七年に東京市の公園として開園。

今回はここが目的ではないので、素通り。
最初の目的地は「深川不動尊」。
ここずっと、成田山の焼印の入った木札のお守りが割れたので、お寺に戻さなくてはいけないと思いつつ、戻していなかった。
行く度に木札を買っているものだから、手元に四枚も・・・。
成田山の木札のお守りマニアと化している。

清澄は、昭和七年までは清住町といって、ここあたりを開発した人の苗字だったのを、住の字を美しい澄に変えて名づけられた。
隅田川に架かる清洲橋は深川清住町と日本橋中洲町の間に架かるから、清洲橋という。


隅田川大橋から見た清洲橋

清澄通りと清洲橋通り、二つとも清澄に由来の通り名だ。

清澄の隣は、白河。
清澄通りから深川江戸資料館に向かう道の左側に大きな寺がある。
霊巌寺である。
霊巌寺は霊巌上人が開いた寺で、はじめは霊岸島(現・中央区新川)にあり、明暦の大火後、深川に移転してきた。
この寺には寛政の改革で名高い、松平定信の墓がある。


松平定信の墓

ここでピンときた方は偉い。
寛政の改革を皮肉った狂歌をご存知だろうか?

白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき

寛政の改革があまりにも厳しかったので、昔の賄賂政治の田沼意次の時代のほうが良かったと皮肉った内容である。
あまり澄み切った水よりも、少し濁った水のほうが棲みやすい。
「水清ければ、魚棲まず」である。
この白河が、松平定信のことである。
松平定信の領地は、奥州白河(福島県白河)であったからだ。

この辺りが白河と呼ばれるのは、昭和七年に、このあたりの町が合併したときに、松平定信にあやかって、深川白河町とした。

東京には、大名家の屋敷があった場所がその大名の名前や領地の名前で呼ばれることがある。
浅草の象潟町は出羽本荘の六郷家の屋敷があったので、領地の名勝地の象潟にちなみ命名された。
新宿区の信濃町は永井家(信濃守)。
同じく内藤町は、高遠(長野)内藤家。
青山は郡上八幡(岐阜)の青山家の屋敷。
紀尾井町は、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷に囲まれていたからだ。
文京区の播磨坂は、茨城府中(石岡)藩、松平播磨守。
台東区の佐竹商店街は、出羽久保田(秋田)佐竹家。
港区にも、旧・芝田村町は三春(福島)田村家。
旧・麻布盛岡町は盛岡の南部家に由来している。

そんななかで藩主の墓の所在地に領地の名前を使っているのは珍しいことだ。

皮肉にも、地下鉄の駅名は、この狂歌の最初の部分をもじったよう「白河の清きに澄み」じゃないですか?

霊巌寺にはほかにも、江戸六地蔵がある。
江戸時代に、江戸の主な街道沿いに六体の地蔵が置かれたもののひとつだ。


霊巌寺の地蔵

霊巌寺から南下して、深川不動尊に向かった。
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新年のご挨拶

2007年01月03日 01時52分18秒 | あいさつ
あけましておめでとうございます。

新年の挨拶も三日になってしまうという按配。
相変わらずの怠け者です。

画像は一日に青山墓地から撮影した国立新美術館東京ミッドタウンです。

国立新美術館は今月の21日に開館。
東京ミッドタウンは3月30日オープンだそうです。
国立新美術館は我が家からは約10分、ちょっと楽しみです。
ミッドタウンにはサントリー美術館や富士ゼロックスのギャラリーも入るようです。

六本木は、第二六本木ヒルズの建設も予定され、六本木プリンスの跡地やヴェルファーレ跡地の再開発なども話題に上っています。
私にはあんまり関係ないけど、興味はありますね。

今年も亀のような更新になると思いますが、よろしくお願いいたします。
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