釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

壊すことで価値があること

2009年07月31日 19時24分18秒 | 美術館・博物館めぐり
夏は散歩も体力の消耗が激しいので、美術館などで過ごしています。

伊勢神宮と神々の美術

東京国立博物館(平成館:上野駅下車)

伊勢神宮の第六十二回式年遷宮(2013年)を記念して開催された特別展です。
昨今の仏像ブームで仏教の美術に関しては多くの展覧会が開かれていますが、神道美術の展覧会はなかなか開かれることがありません。
神道には仏像のように展覧会の核となる神像というものが、廃仏毀釈の明治以降は存在しなくなったことで、神像の数が少ないことにもあるのではないでしょうか。
今回はそんな貴重な神像も数多く出品されています。

それよりも大切なのは二十年に一度行われる式年遷宮というものがいかに大規模な行事であることに主眼が置かれた展示内容でした。
私たちはお宮を新たに建てて、古い宮から神様を移す行事を遷宮と認識していますが、別宮や末社にいたる社殿から橋、さらに祭具や神様の調度、衣服にいたるまですべて新調されて、三十の儀式が八年間に渡って行われる壮大なものです。費用も莫大な額に上るそうです。
使い終わった品々は、壊されたり焼かれたり埋められたりしてその使命を終わるということです。ただし、ここ数回の遷宮では・・・・ここ数回といっても間隔は二十年ですから二回前でも約四十年前ですが・・・、貴重な資料として保存されているようです。

遷宮をする理由は、いつも神様を新しく神々しい姿で保つという「常若」という思想にあるようです。二十年に一度の祭具、調度、衣服などの新調は、技術の継承という大きな意味も持っています。
たまたま、埋まっているのが発掘された中世の祭具の太刀は、前回使われていた太刀とまったく同じものだというのが、とても印象に残りました。
壊すという一見すると発展的でない行為が実は大事だということがよくわかりました。

もうひとつ印象的だったのは、日本の神様は、人間ととてもよく似ているということです。
毎日お供えする神饌は、私たちが食べるものと同じ食材ですし、遷宮に際して作られる衣服も神職の衣服とほぼ同じものです。
神様は見えないのですが、私たちと同じような生活をしておられるのでしょう。
神宮の野菜畑(御園:みその)ではブロッコリーも作られているそうです。
ちょっと笑えたのは、神様の衣服は人間のものより少し大きいそうです。

なぜか日本の神様が身近に感じられた展覧会でした。

(7月26日鑑賞)
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「東海道四谷怪談」散歩・序章

2009年07月24日 09時04分50秒 | お散歩日記/東京地名の話
梅雨が明けましたが、なかなか真夏らしい日が来ませんね。
ただひとつ夏らしいのは、梅雨明けと同時に蝉の声が聞こえてきました。

さてさて暑い夏はクーラーのきいた部屋でビールなんていうのもいいですが、怪談話はいかがですか。

江戸を舞台にした怪談の王者はなんといっても鶴屋南北の「東海道四谷怪談」です。

文政八年(1825年)七月江戸中村座で初演、四世鶴屋南北71歳の晩年の作品です。

最近は「あづまかいどうよつやかいだん」と読むという学説が有力ですが、劇界では「とうかいどうよつやかいだん」と呼んでいます。
「甲州街道」にある四谷で起きた事件を、わざわざ別の場所であるかのように「東海道」にしたとか、この歌舞伎が、忠臣蔵の外伝であるので、義士の東下りを想像させるためだとか、いろいろ説はあるようです。

さて内容は、みなさんもご存知のように、お岩様(劇界ではあえて様をつけて呼びます。)が登場する怪談話です。
夫・民谷伊右衛門に裏切られた妻のお岩が憤死する場面は、雑司が谷四谷町の田宮伊右衛門浪宅の場です。この場面のもとになったの事件は四谷左門町で起こっています。
四谷怪談といっても、今の四谷ではないというのもあまり知られてはいません。

当時、歌舞伎では実名を使うことができなかったので、同じ名前の雑司が谷四谷(四ッ家とも表記する)に場所変えたのでしょう。
このあたりも現実と架空の話がごちゃ混ぜになった南北らしい歌舞伎だと思います。

さてさて、実はこのブログのネタは去年の春先に「東海道四谷怪談」を観劇したことに始まります。


上はその時のポスター(お岩:中村福助 伊右衛門:中村吉右衛門)

なぜか観劇の次の日にふらりと散歩途中で訪ねたのが、西巣鴨にあるお岩様のお墓。
なんか因縁を感じてしまいました。
その後もお岩様の死体が流れ着いたといわれる深川穏亡堀の岩井橋にも行ってしまいました。

そんなことをひとつずつブログに書こうと思ったのですが、ふと気になることがあります。
昔、私が劇界の端っこで生業を立ててるころに「東海道四谷怪談」の裏方をしたことがあります。私のいた劇団は迷信などというものをあまり信じない劇団なので、劇界で恒例のお岩様関係の社寺にお参りなどしなかったのです。
その公演中に私は交通事故を起こしてしまいました。それだけならいいのですが、公演中の舞台で、上昇するはずの幕が上がらず、回り舞台が回転して立て込んであった大道具がなぎ倒されてしまったという事故も起こりました。もちろん観客の前で・・・。
幸いけが人は出なかったのですが、本当に怖い思いをしました。

このブログを書くに当たってやはり決まりごとの社寺だけはお参りしたほうがいいのではないかと思ったのです。
そんなことを考えているうちにはや一年過ぎてしまいました。
そしてこの度やっとお参りしました。

その社寺とは信濃町駅と四谷三丁目駅の中間の四谷左門町にある於岩稲荷陽運寺と於岩稲荷田宮神社です。ここは歌舞伎の「四谷怪談」の舞台ではなく、その元となってた話の現場なのです。


於岩稲荷陽運寺


於岩稲荷田宮神社



なぜか向かい合わせに於岩稲荷を名乗る神社と寺があります。
外苑東通りから少し入った住宅地の中にあり、不気味な感じはまったくありません。
さすがに歌舞伎役者さんのお参りが多いようで、神社の石の瑞垣には役者さんや劇場の名前が多く見られました。
落ち度がないように両方にブログの行く末の無事をお祈りしてきました。
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バスに乗って海を見に行く

2009年07月11日 06時01分00秒 | お散歩日記/東京地名の話
みなさんは、中央区豊海町をご存知でしょうか?
東京在住の方でもなかなかすぐに思い浮かばない場所です。
隅田川は永代橋の下流で二つに分かれます。その間に大きな中洲の島が二つあります。
西側の築地に面しているほうが、北から、佃島、月島、勝どきの各町で、東側の中洲が晴海になります。




ここは、江戸時代のはじめに、摂津国佃村の漁師33人が住んだ佃島から、徐々に埋め立てられて作られた土地です。
明治20年に旧・月島地区(現・月島、勝どき)、昭和はじめに晴海が埋め立てられています。
そしてその月島・勝どきの一番先端にあるのが豊海町です。
埋め立てが完了して、住民投票で豊海町と名付けられたのは昭和38年。オリンピック寸前の出来事で、中央区では最後の埋め立て地です。

その豊海町までは、東京駅からと亀戸駅からバスが走っています。
バスの終点は「豊海水産埠頭」。
名前のとおり豊海町にはたくさんの水産会社や倉庫が林立しています。
みなさんが食べている魚介類はここからみなさんのもとにいっているのかもしれません。

ここに行くのはいつも休日。
だから人々の働く活気に接したことがありません。
休日の豊海はのんびりしています。

最近は大江戸線勝どき駅の完成や銀座まで至近な距離のおかげで、勝どきの町名がつく町まではたくさんの人が住んでいます。だから終点のひとつ手前のバス停まで住民の方が多く乗っておられますが、さすがに倉庫街の終点まで乗る人はいません。

バスを降りて、岸壁まで進むと正面にレインボーブリッジ、その左にお台場。
左手には晴海埠頭。
右前方には、芝浦から日の出桟橋、古川の河口、そして竹芝桟橋、遠くに東京タワー。
右手には浜離宮から築地市場が、ぐるりと見渡せます。
すごい爽快感。
梅雨空もなんのその。
東京でこんなにも海を感じる場所はありません。

行き交う水上バスやプレジャーボート。貨物船も通ります。
岸壁には東京海洋大学の練習船の姿も見えます。


出航していった貨物船


東京海洋大学の海鷹丸
東京商船大学と東京水産大学が一緒になって東京海洋大学になったんだね。

夜は東京の夜景の名所だそうですが、生憎と夜景を眺めて語り合う相手もいないし・・・。
まだ夜景は未経験です。

豊海町を隅田川沿いに遡ると、臨港消防署があります。そこから勝鬨橋まではデッキが完備されて、隅田川沿いを散歩できます。



デッキからは対岸の浜離宮や築地市場がよく見えます。
もちろん画像のように勝鬨橋もよく見えます。

勝鬨橋のたもとでは釣り人が大きな鱸をたくさん釣り上げていました。
勝鬨橋を渡るとそこは築地。

勝鬨橋は1933年完成。
中央部分から開閉する橋ですが、1970年11月29日以来開いていません。



橋の中央は、橋が開いていたときの裂け目が今でも在ります。
・・・・・当たり前ですが、今でも開こうと思えば開くそうです。

築地まで来れば、銀座は目と鼻の先。
こんな都心の近くで海が楽しめます。
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富士山の山開き

2009年07月02日 06時29分24秒 | 季節
七月になりました。七月一日は富士山の山開きです。
富士山信仰が盛んであった江戸時代、富士山に登りたくても登れない庶民は、江戸市中各地に富士塚といわれる擬似富士山をたくさん作りました。都内だけでもその数100に及び、現存する80以上が現存しているようです。

富士山の山開きは五月晦日から六月朔日に登山して、六月朔日の御来光を拝むというのでした。現在では月遅れで七月朔日(一日)に行われています。
今年の富士山は残雪が多く、頂上までは登れなかったようですね。

東京各地の富士神社や浅間神社、また富士塚でも山開きの行事やお祭りが行われています。

特に有名なのが、浅草浅間神社のお祭りで、通称「お富士さんの植木市」と呼ばれいます。開催日は少し変わっていて、もともとの山開き直前の五月最終土日(旧暦の名残)と月遅れの六月最終土日(現在の山開き)の四日間に行われるというかたちで残っています。



浅草浅間神社


最寄り駅/浅草駅


祭神はコノハナサクヤヒメノミコト(木花咲耶比売命)で静岡県富士市の浅間神社から蔵前に勧請・分祀され、江戸時代に現在の場所に移されたということです。
ここはもともとここは小高い丘であったので特に富士塚のようなものは作られなかったようです。都内のどこの浅間神社や富士塚からも富士山が望めたそうで、ここからも富士山の姿が拝めたんでしょうね。

画像の社頭の幕に見える神紋の右側は三社祭でおなじみの浅草神社の神紋で、左側が桜紋です。コノハナサクヤヒメは富士山の女神として名高いと同時に、桜の神様としても知られています。
なぜ浅草神社の神紋が描かれているかというと、この神社は現在浅草神社が管理しているからです。

神社の目の前にはご丁寧に「台東区立富士小学校」まであってなかなか芸が細かいです。



「お富士さんの植木市」と呼ばれるように数多くの植木屋が明治以降たくさん出るようになりました。梅雨の時期だから植物の栽培に適していたからとか、「お富士さん」で求めた苗は根付がいいとか言われ盛んになったようです。
今でも60軒ほどの植木屋が並びます。

植木市がたつあたりは浅草花柳界の見番の前の通りで、いぜんにブログで紹介した旧象潟町の六郷家の下屋敷の跡になります。
今年も見事に西施の合歓の花が咲いていました。



象潟や雨に西施がねぶの花(去年のブログ)

ここの神社では麦藁蛇(むぎわらじゃ)というものが売り出されます。



これは昭和初期まで浅草浅間神社の植木市で頒布されていたものを復活させたものだそうです。
江戸時代寛永年間に駒込に住む喜八という人が、駒込の富士浅間神社の祭礼で売った麦わらの蛇を、珍しさから多くの人が買い求めたそうです。その年、夏に疫病は流行ったのですが、この蛇を飾った家からは病人が出なかったそうです。
それでたいそう評判になり、その後は誰もがこの麦藁蛇を買い求めたそうです。
そうしたことから江戸中の浅間神社でも麦藁蛇を頒布するようになって、浅草の浅間神社でも長く頒布されていたようです。



麦藁蛇は前に頂いたことがありましたので、今回はご朱印をいただきました。

さて次は、その麦藁蛇の発祥の地、駒込の富士神社に行ってみましょう。

駒込富士神社



こちらにはご覧のように立派な富士塚があり、その頂上に社殿が建っています。
富士塚には本当の富士山の溶岩などを使って、富士山に行かずとも富士山に登った気分にさせる工夫がいっぱいです。何合目と書いた石の標柱なんかもそれらしくていいですね。



これは境内にあった富士講の幡・・・本物の富士山に登山した時のものではないでしょうか。



この富士神社は
駒込は一富士二鷹三茄子
と川柳で詠まれています。
駒込には幕府の鷹匠屋敷が今の都立駒込病院のところにあり、また江戸野菜のひとつ駒込茄子で知られた土地だったことからです。
おめでたい土地なんですね。

最寄り駅/駒込駅.本駒込駅・文京区

ほかの富士塚も見てみましょう。

品川神社



品川神社自体が高台にあるので、そこに築かれた富士塚は非常に高く、見晴らしもよくなっています。
まさしく山登りの雰囲気です。

最寄り駅新馬場駅・品川区

鉄砲洲稲荷神社



中央区の鉄砲洲稲荷の富士塚はこじんまりしています。
小さいとはいえ登れるようです。

最寄り駅八丁堀駅・中央区



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