釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

では西本願寺はどこに?

2013年02月28日 20時36分20秒 | 寺社仏閣
昨日の続きのお話です。

さて、東本願寺があるのならば、西本願寺も東京になくてはならないはず。

察しのいいかたならもうご存知のはず、この間、十八代目中村勘三郎の葬儀が執り行われたあの築地本願寺がその寺なのです。

築地本願寺は、真宗本願寺派唯一の京都「本願寺」(西本願寺)の直轄寺院だそうで、本願寺派の門主が住職を兼務しているそうです。

みなさんもあのインド風の不思議な本堂(TOP画像)をどこかで見たことがあるのではないでしょうか?

この本堂は、大正12年の関東大震災で旧本堂が焼失したあと、昭和9年に「インド様式」の石造りとして再建されたもので、平成23年には国の登録有形文化財に、石塀とともに登録されています。

この本堂も中に入ると、表とは全く様相の異なったキンキラな真宗のお寺の内部になっています。
ここも土足では入れて、椅子も用意されていますのでじっくりお休みください。

このお寺、最初は横山町にあって「江戸浅草御坊」と呼ばれていました。

今の人の感覚だと、横山町は日本橋じゃないかとお思いでしょうが、今の浅草橋(駅ではなく神田川に架かる橋)のところに江戸城の浅草門があったので、「浅草門内」にある御坊なので「浅草御坊」の名が付いたのでしょう。

この浅草御坊は、明暦の大火で消失しますが、再建が許されず、あらたに埋め立てをして寺地を作ったのが今の築地の場所なのです。

築地の地名も、地面を築くという意味なのは有名な話です。
江戸幕府は、人が多く集まる寺社を埋立地に作って、人の重みで地盤を安定させたというような話が残っています。

当時の埋め立てには、摂津佃村から移住してきて、門徒(真宗信者)の多かった佃島の住民が率先して協力した記録が残っています。

さらに時代がくだり、安政の大地震では大屋根が崩れた記録があります。

何度も災害をくぐりぬけたお寺なんですね。

東日本大震災でも、帰宅困難者をいち早く救護したことでも知られています。
何かあったら逃げ込んできださい。

さて何気なく「築地本願寺」と呼んでいますが「築地本願寺」が正式名称になったのは昨年平成24年のこと、それまでは「本願寺築地別院」というのが正式名称だったんです。

名前は意外と新しい「築地本願寺」でした。



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東本願寺が東京にある・・・・?

2013年02月27日 22時22分19秒 | 寺社仏閣
タイトルを見て、知ってる!!っておっしゃる方も多いと思います。

浅草にある東京(浅草)本願寺、東本願寺の東京別院のことだと思う方が多いのではないでしょうか。

浄土真宗は親鸞の教えを門弟たちが継承発展させた日本の仏教の一宗旨です。

浄土真宗の寺院でよく知られているのは、京都の西本願寺と東本願寺ではないでしょうか。

そのほかにもたくさんの寺院があります。その数、約22000、日本の仏教各宗派の中では最大数です。

宗旨内の諸派の数も多く、主要な派で十派、ほかにも数多くあり二十派以上が知られています。

有名なのが、本願寺派と大谷派で、それぞれ京都の本願寺を本山としていました。

西本願寺は、正しくは「本願寺」といいます。
こちらが、浄土真宗本願寺派の本山です。
東本願寺に対する位置関係で、通称・西本願寺と呼ばれているのです。

東本願寺は、大谷派の本山で、正式には「真宗本廟」といい、通称・東本願寺といわれています。
でももともとは「東本願寺」という寺だったのですが、1969年に始まった「お東騒動」という事件のなかで改称したのです。

この事件で、1981年当時の東京別院東京本願寺が大谷派から独立します。
そして1988年2月に、浄土真宗東本願寺派を結成するに至るのです。
この時に、浅草本願寺といわれていた「東京本願寺」が東本願寺派の本山となるのです。

そして、2001年、「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」という名称が文化庁に認められるのです。

だから、「東本願寺」は京都になく、東京にあるということになります。



東本願寺のお堂の中には誰でも入ることができます。
中で椅子に座って休憩もできます。(夏は涼しく、冬は暖か。)

もし浅草にいらしたら、田原町と合羽橋道具街の間にありますからすぐわかります。
浅草通りの北側、合羽橋道具街の入口、菊屋橋交差点の浅草より一本手前の道の突き当りです。

表からは地味なコンクリートの建物ですが、中はキンキラ、浄土の世界ですよ。
ぜひ一度、どうぞ。
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昭和11年2月26日

2013年02月26日 23時02分36秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
今日は2.26事件から78年目に当たります。

陸軍の青年将校たちが「昭和維新」を旗印に決起し、東京の中枢部を四日間に渡って占拠したクーデター事件です。

将校たちには、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、近衛第三聯隊の下士官1400名が行動を共にしました。

当時、歩兵第一聯隊は、今の東京ミッドタウン(旧・防衛庁)、近衛第三聯隊は赤坂サカス・TBSの敷地にありました。

そして、今の国立新美術館、米軍赤坂プレスセンター、都立青山公園の敷地にあったのが歩兵第三聯隊です。

先週の月曜日に、日本経済新聞の記者の方が、うちの父にいろいろと昔の西麻布について取材されました。

その記事が、土曜日の「日本経済新聞」の夕刊12面「文学周遊」に、名前入りで掲載されました。



田宮虎彦の「絵本」という作品は戦前の西麻布を舞台にしているそうです。

当時の三聯隊の様子が出てくるそうで、記者さんは、そのあたりの話を父に取材していました。

代々木の練兵場に行く兵士が家の前を行き来していた話や、軍靴が聞こえる話、

その中で、2.26事件にも話が及びました。

「朝、オヤジと火鉢にあたっていると、ドスーン・ドスーンという音が聞こえてきたんですよ。おやじと何の音だろうっていったのを覚えています。それが2.26事件だとわかったのは後年のことですけど。」
と話していた。

当時、父は9歳。

それから78年の時が過ぎたということです。
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菜種御供

2013年02月25日 18時52分49秒 | 寺社仏閣
今日は天神様・菅原道真公の命日です。

延喜三年(903年)の今日、菅原道真は太宰府でなくなりました。

そのあと怨霊となって都を恐怖におとしいれます。

そして、天神様として祀られるのです。

あれ、天神様は梅でしょ? なんで菜種なの?

これは「なたね」が「なだめ」(霊をなだめる)に通じることからお供えされるそうです。

今ではほとんど上演されない歌舞伎「時平の七笑」の本外題が「天満宮菜種御供」です。

道真の政敵、藤原時平が笑うというのが見せ場というかわった歌舞伎です。

こういうおおらかな歌舞伎は今はなかなか受けないのかな。

亀戸天神社では、菜種(菜の花)を神前にお供えします。





菜の花一本500円、紙に名前を書いて添えます。

画像のようにお供えされています。

最近は菜の花は食べるばかりですな。
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亀戸天神梅まつり

2013年02月24日 21時03分22秒 | 四季の花
今日は亀戸天神梅まつりへ。



色々な梅が所狭しと植えられている境内は木によっては満開もあり、これから咲く木もあり、様々です。

本当に梅は品種によって開花期が違いますね。

本殿左右にある大きな梅はまだこれからが見ごろをのようです。

明日は「菜種御供」、天神様菅原道真公の命日です。

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有栖川公園の梅林

2013年02月23日 12時05分45秒 | お散歩日記/東京地名の話
有栖川宮記念公園+あざ六プラスのまち歩き第一弾のお手伝いに有栖川公園に行ってきました。

梅は三分から四分咲き。

まだまだ蕾は多いです。

有栖川公園に梅の木は15本ほど。

公園の中央の踊り場のようなところに植わっています。

紅梅白梅は半々。

種類が多いのか咲き具合は様々です。

まだまだ楽しめそうです。

一本、枝ぶりのいい古木があります。

盛岡藩の時代からか、宮様の屋敷の時代からか、公園を見守っているのでしょうね。


*画像の背後に見えるのは末日聖徒イエス・キリスト教会の東京神殿の尖塔
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梅の話 

2013年02月22日 20時57分19秒 | 四季の花
明日のあざ六+の街歩きで「梅」の話を十分ほどするのでここで話す内容を確認してみます。

ウメはバラ科サクラ属の落葉小高木。

原産は中国、殷代の遺跡(紀元前14から紀元前12世紀ころ)から梅の種が出土しているようで、この頃には食用または薬用として用いられていました。

日本には弥生時代にもたらされたといわれていますが、九州には野生といわれている梅もあり、日本原産説も浮上しているそうです。

中国では前漢から唐代(紀元前3から紀元後7世紀)には梅の花を鑑賞する風習ができあがり、日本にも遣唐使とともに、梅の文化がもたらされました。

その当時は白梅でしたが、平安時代に紅梅ももたらされ、日本の風土に合致して、今では300種類の品種があります。

遣唐使が廃止されるまでは、中国文化への憧れが、観梅の宴など梅の花を愛でることが盛んになることに現れ、文化的な花としての位置に上り詰めます。

万葉集には、萩についで詠まれた歌が多く、118首あります。
また、平安京紫宸殿前に植えられていたのが「左近の梅」でした。
王朝貴族を代表する花だったのです。

「左近の梅」は村上天皇の時代(遣唐使の廃止から数十年後)に「左近の桜」に植え替えられます。
唐風文化から国風文化への転換を目の当たりにする事件です。

遣唐使の廃止といえば、天神様で知られる菅原道真は、こよなく梅を愛したことで知られています。
飛梅伝説や、天神様の神紋が梅紋であることなど、梅とは切っても切れない縁があります。
道真は、梅を代表する最後の人物なのかもしれません。

湯島天神のしだれ梅

遣唐使の廃止後、梅の地位は桜に変わられますが、鎌倉以降は中国との関わりのある禅宗の隆盛など、また再評価され、桃山以降は茶花としても利用されていきます。

江戸以降は、花の品種改良がされたり、盆梅といわれる盆栽の梅の流行がおこったりします。
また枝ぶりの良さを競うことなども行われ、亀戸や向島の梅屋敷など名所も生まれます。

「江戸名所図會」の亀戸梅屋敷・臥龍梅

亀戸梅屋敷の旧地に近い小村井の梅

またウメは、食用ともなることからその栽培が広かっていきました。
元来は中国の「烏梅(ウメイ)」というウメを燻蒸した漢方薬として入ったものだそうです。
ウメの名前もここから来ているそうです。

平安時代には、塩漬けの「梅干し」が誕生し、江戸時代には一般庶民の口にも入るようになりました。
また、藩が栽培を奨励して、「豊後梅」などの果実系の品種も作り出されています。

「豊後梅」っていうのは、アンズとの交雑種だそうで、実も大きく、開花の時期もアンズの花の咲く時期に近く、だいぶ遅咲きです。

「桜伐る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿」という言葉がありますが、桜は切り口から菌が入り枯れやすく、梅は剪定しないと樹形が崩れ実の付きも悪くなることからいわれるそうです。
梅は、枝ぶりを楽しむ木だということからも選定が大事だということでしょう。

最近、桜に関しては、リンゴの栽培方法が取り入れられて、剪定してすぐ消毒する方法で、古い木の活性化を行っているようです。
一概にことわざ通りではなくなっています。

先ほど書いた「烏梅」ですが、日本の伝統工芸に欠かすことのできないものだそうです。
それは紅花染色で、媒染剤として使われたのです。
紅の色を鮮やかにするためにウメを使うというアイデアは誰が考えたのでしょう。
奈良月ヶ瀬の梅林はこの紅花染めのために作られた梅林だそうです。

梅にもいろいろと楽しい話が満載です。


*最初の画像は、隅田公園の形のいい梅の木



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知能検査

2013年02月21日 21時34分42秒 | 日々雑感
掃除をしていたらこんなものを発見。

幼児用田中B式知能検査

たぶん、幼稚園でやったのでしょうね。

全く覚えていません。

裏の記入欄を見ると5歳の夏にやってます。

8月15日って書いてあるけど、幼稚園夏休みじゃなかったのかな。

それとも、統一試験みたいにやったのかな。



内容はこんな感じです。

今、やったら楽しいかも。

もちろん採点なしで。

裏面には、採点がしてあるけど、それがいいのか悪いのか判断はできません。

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レモンジャム

2013年02月20日 21時49分28秒 | 料理の話
大量にレモンがあったのでレモンジャムを作りました。

ジャムにするので、もちろん国産レモンです。

まず、レモンを洗って、皮をむく。

皮は薄く。

むいた皮を裏返して、白いワタを削ぎ取る。

削ぎとったら、皮を細かく千切りにする。

鍋に湯を沸かし、千切りにした皮を茹でる。

約十分茹でたら、水を替える。

これを三回繰り返す。

この間に、実をさばく。

果肉と果汁を房やワタから取り除く。

この時に種が入らないように、ワタを入れると苦くなります。・・・・・意外と大変です。

果汁、果肉、茹でた皮の千切りと砂糖(右の分量の80パーセントが目安)と後で取り出しやすいようにお茶パックに入れた白いワタ(ペクチンを出すため)を鍋で煮ます。

アクを取りながら15分ほど煮たら、お茶パックを取り出して、甘味足りないようなら砂糖を足します。

そして煮詰めて、熱いうちに容器に入れてください。

私の場合、ホームベーカリーのジャム機能を試したかったので、ホームベーカリーでつくりました。

そうしたら、お茶パックが破けて、後でワタを拾う羽目になりました。

でも出来上がりは上々です。

ヨーグルトに入れて食べたら、爽やか!!

甘み控えめでおいしいです。

今度は鍋で作るぞ。


作った感想は、意外にレモンの下処理が大変だったこと。

制作時間の大半は下処理でした。

オレンジマーマレードもほぼ同じ手順で作れるそうです。

ただし、マーマレードはオレンジに甘みがありますから、砂糖は50パーセント程度、あとレモン汁をいれます。




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竹に生まるる鶯の  

2013年02月19日 23時26分59秒 | 麻布
以前書きました麻布竹谷町の話以来、竹と鶯のことが頭の片隅にいつもありました。

お風呂に入りながら、ふと思い出した謡曲「竹生島」の冒頭、ワキの道行の詞章。

「竹に生まるる鶯の 竹に生まるる鶯の 竹生島詣急がん」

あれ、鶯が竹から生まれているじゃありませんか。

竹に生まるるは、竹生島にかかっているのですが、ここで大切なのは鶯が竹から生まれるということ。

調べてのこの詞章の元となったのが何かわかりません。

しかし調べているうちにこんなサイトにたどり着きました。

『竹取物語』における竹の研究

かいつまんでお話すると、『竹取物語』の他に竹取の翁が登場する物語がある。
その中の『海道記』(13世紀の紀行文)に「鶯姫」という姫が竹林の鶯の卵から生まれるという話がある。
他にも、鶯の巣の中にいるという話などもある。

どうも、鶯は竹から生まれるという共通認識が室町時代頃まではあったのではないでしょうか。

もちろん、平安時代11世紀の『大鏡』の「鶯宿梅」の逸話、紀貫之の娘(紀内侍)の家の梅の木を村上天皇が清涼殿の前に植え替えた時に、

勅なれば いともかしこし うぐひすの 宿はと問はば いかが答へむ

詠んだように、鶯と梅も対のものと考えられていたことは事実です。

しかし、生まれるのは竹林だったようです。

江戸中期に、花札が生まれ、梅の札には鶯が描かれると、庶民にまで梅には鶯という考えが広まって、揺るぎないものになっていったのでしょう。

私たちはいつしか「竹に生まるる鶯」を忘れてしまったのです。

麻布竹が谷にまつわる「うぐいすを 訪ね訪ねて 麻布まで(かな)」に鶯と竹の関係がのぞき見られるのは面白いことです。


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