釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

京都散歩(その3・山鉾巡り・1)

2006年07月29日 05時01分01秒 | 旅日記
木枠と松の木だけの「鈴鹿山」で少しショックを受けたけれど、京都まで来て、それも祇園祭の山鉾を見ないで帰るわけにもいかず、山鉾マップを見ながら山鉾巡りに出発した。

山鉾の総数は32基。山と鉾に大きく分類される。
「鉾」には真木(俗にいう鉾)と、直径約2mの車輪があり、上部の舞台に囃し方が乗り、祇園囃子が演奏される。重量は12トン。鉾の先端まで17~25mもある。
「山」には真木の代わりに真松(太子山は杉)をもちいる。「鈴鹿山」の松はこれにあたる。「山」の中には「北観音山」など車輪を持ち見た目は「鉾」と区別のつかない「曳山」と、一般的な「舁山(かきやま)」がある。
「鉾」と呼ばれるものの中には二基の「傘鉾」がある。これは傘を中心とした「鉾」で巨大な鉾とは趣が違う可愛らしいものだ。
32基の山鉾が一部例外はあるが烏丸通の西側、北は御池通から南は松原通あたりまで点在しているのである。(山鉾マップ
参照)
さらに「屏風祭」といって、商家や民家が屏風や骨董を座敷に飾ってそれを見物人に見せる行事も、同時に行われている。
それらを見て歩くわけだ。

烏丸通から大型の山や鉾が並ぶ新町通に向かった。

このあたりは繊維を扱う旧家が多く、一番京都らしい街並みが今に残る場所である。

「役行者山」や「八幡山」を拝見しながら、新町通を南に下がると、大型の山が見えてきた。「北観音山」である。

「山」と名がついているが、曳山であるので、「鉾」と区別がつきにくい。画像をよく見るとわかるが、てっぺんに見えるのは真木ではなく真松である。だから「山」なのである。
新町通を歩きながらこの「山」が見えてきたときは、祇園祭に来たという実感が湧いてきた。ニュースや写真で見てきた山鉾が手の届くところにある。やっぱり来てよかったと心から思った。

「北観音山」のそばには「屏風飾りをする商家が多く見られた。画像はその中の「松坂屋」の様子。たくさんの人が中をのぞいていた。
内部の様子は

このような感じで、屏風や、甲冑、着物などが飾ってある。

さらに新町通を南に下がると、「南観音山」

この山は、山の飾りの絨毯にビニールも掛けずに飾ってあり大変美しいものでだった。


さらに南に「放下鉾」

ここで初めて「鉾」とご対面。

真木(鉾)は高く天を突いていた。

屏風祭をしていない町家でも、水引き幕を軒に下げて、祭り気分を盛り上げていた。


そして、新町通から四条通に出ました。四条通はバスも通る大通り。そこを東に向かうと、道の南北に大きな「鉾」が並んでいる。
まずは、「月鉾」

そして「函谷鉾」

さらに烏丸通の東側に有名な「長刀鉾」

この鉾は巡行の際に必ず先頭を行くことになっている。
さらに稚児が囃子舞台に乗ることでも知られる特別な鉾なのである。

ここまで歩き、そろそろおなかが空いたので休憩することにした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都散歩(その2・山鉾町散歩)

2006年07月28日 01時34分28秒 | 旅日記
のんびりとこだま号のグリーン車で京都駅に向かう。
一時間ほどしか寝ていないのに、興奮していて車中でもあまり眠れなかった。
京都駅に到着して、地下鉄の駅に向かう。地下街は祇園囃子が流れて祭り気分は最高潮だ。地下鉄に乗って御池駅に向かう。

巡行の日ではなくて、その前々日に京都を訪れたのは、いろいろと話を聞いていたからである。
巡行は人ばかり多くて、ただ通り過ぎる山鉾を待つだけであるとか、宵山の間は山鉾町では山鉾の装飾品やご神体を飾ったり、秘蔵の屏風などを飾る家もあり、夕方には提灯に灯が入り、祇園囃子が流れて、たいそう情緒がある。
宵山のほうが巡行よりも評判がいいのである。

地下鉄の御池駅は烏丸御池にある。
あらかじめ用意した山鉾建ての位置(山鉾が置いてあるところ)によると一番近いのは「鈴鹿山」である。
いよいよ、山鉾とのご対面である。

「鈴鹿山」を見て愕然とした。山の木枠に松の木が一本立っているだけなのである。
あららこんなはずではなかった。巡行をする姿で飾ってあるんじゃないんだと思った。
そしてすぐそばにあるお神酒所みたいなところに行ってみると、そこに装飾の品々やご神体が飾ってあった。
これが例の飾るということかと納得した。町家に飾ってあれば、山鉾には飾れないよなと。

そうこうしているうちに雨が降りだした。あわてて地下鉄の駅まで戻ってビニール傘を購入して、外へ出るともう雨は上がっていた。そのあと、今にも降りそうな天気の中を、山鉾町の散策に出発した。

*画像は鈴鹿山。木枠に松の木の淋しいものだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都散歩(その1・京都の思い出)

2006年07月26日 04時28分34秒 | 旅日記
京都にはいろいろな思い出がある。
最初の思い出は、中学校の修学旅行。
ご多分に漏れず、夜の新京極の思い出しかない。

次は高校時代に何度も足を運んだ京都。
そのころはユースホステル全盛での時代で、ユースホステルで知り合った人々と、大学生のたまり場だった店に長時間いた。
フォークとか反戦とかそんな時代だったけど、どこか冷めていたので、スタイルだけそんな場所に浸ってみたかったのかもしれない。
初めてタバコを吸ったのも、そんな仲間とだった。
ユースホステルには、井上陽水の「氷の世界」のLPが流れていた。
まだ、街には路面電車が勢いよく走っていた時代だ。
こんな町に住みたいと思って、京都の大学を受験したけど、木っ端微塵だった。

大学時代にも何度か訪れたけれども、もうそこに住みたいという情熱は冷めていた。
そのころに親しんだ、能や歌舞伎の舞台になっている歌枕や名所旧跡を歩き回っていた。たぶんそれが今の散歩に繋がっているのかもしれない。

このまま私にとって、京都は観光に訪れる場所のはずであったが、仕事を始めてから、京都は仕事に行く場所になっていた。
二十代の足掛け数年間、正月は必ず京都に一ヶ月間いた。
宿舎は南座の楽屋。朝から晩まで劇場にいた。たまに出かけるのは暗くなった街。
今は楽しい思いだだけど、当時は辛かった。
数年目からは、地元の友人もできて、酒を飲みに行ったりもした。
でも、当時の私の京都は、祇園から先斗町、木屋町、河原町周辺まで。
雪が降った朝に一度だけ建仁寺まで歩いたのが唯一の観光かもしれない。

環境が変化して、数年後に伯父の納骨に嵯峨野の寺を訪れた。それも今から十五年位前のこと。家族に伯母の五人で観光もした。あとにも先にも家族旅行はこのときだけだ。
学生時代に行った静かな洛北の寺が、観光寺になっていて幻滅した。
京料理をいただいたのもこのときが初めてだった。

あれからまたしばらく時が経ってしまった。
今回の京都はどんな顔を迎えてくれるのだろう。
不安と期待でいっぱいだった。

*画像はゴンタが泊まっていた南座。
 正確には公演に従事していたが正しいんだと思うけど。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪散歩・京都散歩(序章)

2006年07月22日 15時46分28秒 | 旅日記
半夏生から更新がないぞの声が聞こえてきました。
ちょっとバタバタと、大阪・京都へ東京散歩の特別版に行ってまいりました関係から、そんな状態になってしまいました。
これからしばらくは、大阪散歩、京都散歩をお送りします。

まずは日程。

7月15日(土)
東京→京都→大阪
この日の目的は祇園祭の宵々宮でした。
そして京都の中心地の観光はしっかり押さえてます。

7月16日(日)
上町台地散歩→四天王寺→熊野古道→帝塚山→住吉大社→通天閣→ミナミ→鱧
炎天下の中、歩きました。
鱧うまかった。

7月17日(祝)
大阪歴史博物館→天神橋筋→大阪くらし博物館→空堀商店街→高津宮
うって変わって雨の一日。
大阪の町を堪能しました。

7月18日(臨時休業)
民族学博物館→中之島散策→大正区平尾・小林→東京
大好きなみんぱくに20年ぶりに行きました。
大阪の都心を散歩。
そして大正区へ。

以上順次お伝えします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半夏生(ハンゲショウ)

2006年07月02日 03時04分02秒 | 季節
七月二日は「半夏生」にあたる。

半夏生は七十二節季のひとつで、かつては夏至から数えて十一日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年七月二日ごろである。

これは薬草の「半夏」(カラスビシャク(烏柄杓))が生えるころであるから名前がついたようだ。

半夏生のころは、梅雨の末期にあたり、大雨が多い。そんな大雨のことを「半夏雨」と呼ぶことがある。

農家にとっては大事な日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされた。

関西ではこの日に蛸を、讃岐では饂飩を食べる習慣があるそうだ。

次は植物の半夏生の話

上の画像はゴンタ家のガレージ脇に母が植えて、今年咲いた半夏生である。
ご覧のように、葉が半分白く、半分緑色なのが特徴である。この葉も次第に全部緑になってしまう。この状態はこの時期独特のものである。
そこで、半夏生にこの姿になるので、半夏生と呼ばれていると同時に、半分化粧しているから半化粧といわれることもある。
半夏生と半化粧・・・どっちが先か、でも洒落っ気のきいた命名である。
半夏(烏柄杓)はサトイモ科の植物。半夏生はドクダミ科の植物。ちょっと混乱しそうな名前だ。
半夏もこの時期に生えるから、半分夏で完全夏じゃないっていうのが名前の起こりのような気がする。さて、鶏が先か卵が先かみたいな話だ。

夕方、スーパーに行ったら、半夏生のポスターと「蛸を食べる日です。」のテープが流れていた。商魂たくましいというか。しかし大量に蛸は売れ残っていた。土用の鰻まで半夏生の蛸がメジャーになるには相当の時間を要することだろう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向島→堀切(その2)

2006年07月01日 07時05分46秒 | お散歩日記/東京地名の話
向島百花園から堀切菖蒲園には行くには、荒川を渡らなくてはならない。
荒川は東京都内を貫通する川では一番川幅がある。だから橋が少ない。それで向島百花園のある東向島からは水戸街道を北上して、四つ木橋を渡ることになる。

四つ木橋


荒川はみなさんご存知のように、人工の川である。
現在の荒川は、昭和40(1965)年までは「荒川放水路」と呼ばれていた。明治43(1910)年の大洪水を契機に、下町を水害から守るために開削されたものだ。
この工事は、隅田川を現在の北区岩淵で仕切り、そこから中川の河口(現在の荒川河口)方面向けて、延長22km、幅500mの放水路を掘るという大規模なもので、移転した家屋が当時で1300軒に及んだ。増水したときには、岩淵の水門を閉めて隅田川の増水を抑え、大部分の水を放水路を使って東京湾に流すというものである。全体の施工には二十年の歳月を要し、昭和5(1930)年に完成した。
今ではすっかり自然の川のようになっているが、足立区の一部(小台・宮城・北千住地区)が荒川の南にはみ出したり、江戸川区の一部(平井・東小松川地区)が荒川の西にはみ出しているのは、もともと自然の川でない証拠である。
また、東武伊勢崎線堀切駅が葛飾区の堀切ではなく、対岸の墨田・足立区側にあるのは、開削により東武線の線路が西側に移動したことによる。

堀切菖蒲園にあった荒川放水路開削前の地図

東武線が現在の川の真ん中を通っているのが分かる。
また当時、堀切周辺が、綾瀬川流域の低湿地だったことも分かる。

荒川と隣に流れる綾瀬川を渡ると、葛飾区に入る。
左折して住宅地を北上して少し歩くと堀切菖蒲園である。

初めて訪ねた時は、あまりのこじんまりした風情に少しガッカリした記憶がある。周囲の民家も下町風というよりも、無造作にそして無秩序に密集した感じでいただけなかった。
久しぶりに訪れた堀切菖蒲園周辺は、遊歩道も整備され、隣に大きなマンションが建っていたが、かえってすっきりした印象を受けた。園内も以前の雑然とした雰囲気から、整った感じに変わっていた。

ここには少し盛りを過ぎたけれど、まだたくさんの花菖蒲が咲き誇っていた。



すぐそばに見える高速道路もそんなに気にならないのはなぜだろう。高速の下にはさっき渡ってきた綾瀬川が、その向こうには荒川がある。本当に川のそばなのである。



葛飾区にはほかに、水元公園にも花菖蒲園がある。明治神宮を抱える渋谷区同様、区の花も花菖蒲だ。今年最後の美しい花菖蒲を愛でて、帰路に着いた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする