釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

紫の花

2006年04月27日 20時17分33秒 | 四季の花


二週間ほど前に東京の街中でライラックの花を見かけました。
ライラックというと札幌が有名だけど、東京でも咲くんですよ。
それも北海道よりは早く。
ライラック、フランス語では「リラ」、日本語では「ムラサキハシドイ」。
北海道で「リラ冷え」って言葉があるそうです。
リラの花が咲く頃に寒さが戻ることだそうですが、今の東京はまさに「リラ冷え」、朝晩は寒いですよね。

この時期の紫の花といえばやはり藤の花。
今年は少し寒いようで例年よりも開花が遅いようです。
23日に藤の花の名所の亀戸天神に行きましたが、1m以上も垂れ下がる名物の藤の花はまだ開花していませんでした。
でもあちらこちら花は咲き出して美しい景色でした。
藤の花にも早咲きや遅咲きなどいろいろあるんですね。
数年前にみどりの日に小石川植物園を訪れたときは、すっかり藤の花が終わってしまっていてガッカリした記憶があります。
そうそう、みどりの日は小石川植物園は無料公開です。
江戸時代の小石川養生所の跡地で、あの「赤ひげ」の舞台となったところです。
その当時の井戸なども残っています。
小石川植物園は東大農学部の付属施設で、四季折々の花々や植物が豊富で見ごたえありますから、一度は訪ねてみてください。
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動く地名

2006年04月20日 22時04分40秒 | お散歩日記/東京地名の話
みなさんは両国というと何を思い浮かべるでしょうか。
相撲、国技館、江戸東京博物館、両国橋、両国駅、ちゃんこ鍋などさまざまだと思います。
たぶん、頭の中に思い浮かぶ両国は隅田川の東側、墨田区両国のことだと思います。
この地名が動いたことを知る人は少ないのじゃないでしょうか。

両国の地名は、江戸時代の万治2年(1659)に架橋された両国橋が名前の起こりです。
明暦3年(1657)に起こった明暦の大火(振袖火事)では、逃げ遅れた人々が浅草御門(現在の浅草橋)に殺到し数万人規模で犠牲になりました。
そこで千住大橋より下流には防衛上ひとつもなかった橋を隅田川に架けることになったのです。
余談ですが山本周五郎作の「柳橋物語」ではそのあたりの事情が描かれています。
この小説で架けられるのは、浅草御門の下流の神田川に架けられる柳橋ですが。

当時、武蔵国と下総国の国境は現在の隅田川だったので、両国をつなぐという意味から両国橋という名前がついたようです。
しかしはじめは「大橋」という名前で呼ばれていたようです、当時隅田川も大川と呼ばれていたようです。
その後に両国橋の下流に架けられた橋は「新大橋」(1693年架橋)、「大橋」の名称が「両国橋」に変わった今も新しい橋は「新大橋」の名前で呼ばれています。
以後いくつもの橋が隅田川に架けられて、「大橋」から「両国橋」に変わっていったようです。

両国橋の架橋によって、新開地だった本所地区は目覚しい発展を遂げて江戸市中に組み込まれていきます。
もともと低湿地であった本所地区には竪川や横川などの水路が作られ、治水が試みられ、人々の日常生活が営まれるようになります。
貞享3年(1689)、幕府は武蔵国と下総国の国境を東に移動させ、今の江戸川を国境に定めます。
そこで「両国橋」の名前は実態にそぐわなくなります。
寛延元年(1748)には江戸処払いの刑の区域内に本所・深川が組み込まれ、まさしく江戸市内となって行きます。
江戸時代には明暦の大火の犠牲者を祀った本所回向院で勧進相撲興行が行われ、今の両国のイメージの元となる相撲の本場が確立されていきます。

江戸時代の江戸一番の繁華街は両国広小路といわれています。
両国広小路は江戸の防火対策のひとつとして、両国橋の西側に設けられた火除け地です。
現在の江戸通りと靖国通りの交差点から両国橋のたもとあたりまでと思っていただいていいでしょう。
そこに見世物小屋や屋台などができて繁華街となっていきました。
歌舞伎などの場面にも両国の場面が出てきますが、猥雑な見世物などで繁盛していたようです。
その当時の両国広小路のジオラマが江戸東京博物館にあります。
当時、本所側は向う両国と呼ばれ、江戸市中には組み込まれながらも、まだまだ西側の繁華な様子とは差があったようです。

そして、時代は明治に移っていきます。
明治37年(1904)4月に本所・佐倉間をつなぐ総武鉄道が開通します。
その始発駅として東の本所側に「両国橋」駅が開業します。
わざわざ「両国橋」とつけたのは、両国という地名がまだ西側の地名だったからでしょう。
有名な地名を駅名につけたいのは、今も変わりません。
新幹線の小郡駅が新山口駅に変わったことは記憶に新しいところです。
両国と駅名をつけたくてもつけられなかった鉄道会社の人の気持ちがわかるような気がします。
その後、東武鉄道でも終着駅だった現・業平橋駅(本所区)を浅草駅と称していた時代もあります。
有名地名に対する憧れはいかばかりのものか。
「両国橋」駅はその後、東武鉄道が亀戸から乗り入れて終点になっていた時期もあり、大いに栄えました。

明治42年(1909)6月、本所回向院境内に日本初のドーム型屋根をもつ大相撲常設館、両国国技館が完成します。
国技館の名前を本所国技館ではなく両国国技館としたのは、「両国橋」駅の影響があったのではないでしょうか。

明治38年(1905)に作られた「電車唱歌」の一節に

45番 はや両国の停留所 橋を渡れば本所区
    左に折れて総武線 高架鉄道十文字

この歌詞を見てもわかるように、「両国」橋の手前、橋を渡ると「本所」、そして路面電車は今の清澄通りを北上して、総武線の高架橋をくぐっていきます。

昭和6年に本所区の尾上町、横網町、元町、藤代町、松坂町、相生町、小泉町、亀沢町などの各一部を合わせ「東両国」という町名が誕生します。
東側でははじめての「両国」という地名です。
同じ年に「両国橋」駅が「両国」駅と改称、翌年、お茶の水駅まで総武線が延伸されるのを控えてのことです。
この改称には、両国国技館の存在や東両国の地名の誕生も大きく影響していると思われます。
また、新たに延伸された路線が、神田川の北側を通るために、実際の両国を通過しないことも影響したのでしょう。
川の西側にできた駅は、そばの橋の名前を頂戴して「浅草橋」駅となってしまいました。
昭和7年(1932)、橋の西側の新柳橋、元柳橋、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町が合併して「日本橋両国」という町名が誕生します。
この時期から、昭和40年代まで、二つの両国が存在していました。
その間にも、路面電車の両国停留所が浅草橋と改称されたり、西側の衰退が目立ちます。

昭和42年(1967)、墨田区東両国は「墨田区両国」と改称。
昭和46年(1971)、中央区日本橋両国は「中央区東日本橋」と改称。
この時点で完全に両国は川を越えて東側の単独の地名となってしまいました。
いまでも、西側には両国郵便局や両国広小路の碑が存在して、往時を偲ぶことができます。
しかし、両国橋のたもとが「東日本橋」とは皮肉な話じゃありませんか。
そう、有名な地名は拡散していくのです。

このように調べてくると、地名にも歴史ありですね。

(画像は両国橋東詰にある獣肉の「ももんじや」。江戸時代からあります。)
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桜三昧

2006年04月13日 21時09分38秒 | お散歩日記/東京地名の話
今年の桜は長持ちしましたね。
開花から二週間以上楽しめました。

その間東京各地に出没。
まぁざっと各地の様子をお伝えします。

咲きはじめ(3月26日)に行ったのが、錦糸公園と猿江恩賜公園。
両方とも東京東部の花の名所。
ただ咲きはじめでしたので、まだまだ寂しい感じ。
ただし錦糸公園の八重の枝垂桜は満開で人々が群がっていました。
猿江恩賜公園はもともと皇室(もともと幕府)の木材置き場(木場)だったところ、だから恩賜公園といいます。
恩賜公園はほかにも浜離宮恩賜公園、井の頭恩賜公園、有栖川恩賜公園なんかありますね。
昔、某民放で「おんたま公園」って言っていてびっくりしたことがあります。

次は29日、30日と二日間にわたり市ヶ谷と四谷近辺に出没。
初めの日は市ヶ谷から外堀通りを四谷へ。
外濠公園には桜のほかにこぶしがきれいに咲いていました。
次の日は弁慶橋から四谷の土手へ。
ここは土手に上がると土手の桜と向かい側の迎賓館の桜が一度に見られますし、眺望も素敵です。
土手に咲くレンギョウの黄色い花も桜とのコントラストはバッチリ。
東京でも有数の桜の名所ですね。

4月1日はちょっと遠出。
最初は埼玉県幸手市の権現堂堤の桜を見に行こうと思いましたが、まだ三分咲き、さらに桜とともに楽しむ菜の花が今年の寒さで開花が遅れているということだったので、急遽目的地変更。
同じ埼玉県の越谷市の元荒川の堤の桜を見に行きました。
花の状況は満開間近。
しかし狭い土手の上にたくさんの人、河原には宴会の人々、土手も高くないので眺望も悪いので、いまいちすっきりした気分になれませんでした。
そこで思案。
帰り道にどこかいい花見の場所はないかな・・・と思い、考え付いたのが、杏の花が咲いているという亀戸中央公園。
亀戸も乗り換えれば東武線でいけるので決定。

夕方近くに亀戸中央公園に到着。
杏が目当てでしたが、杏はすっかり散ったあとで、桜が満開。
広々とした公園のそこいらじゅうに桜が咲いています。
ここの公園は山茶花で有名な公園なんだけど、桜もすごいんですね。
見事の一言。
あんまり有名じゃないし夕方だったので花見客も少なく、のんびり楽しく花見ができました。

次の2日は進路を南にとりました。
あいにく空模様はいまいち、風が吹いて今にも降りそう天気。
降り立ったのは東急線の多摩川駅。
昔は多摩川園っていう名前の駅で多摩川園というお化け屋敷で名を馳せた遊園地が駅前にありましたっけ。
その駅のそば、多摩川に面して小高い丘があります。
ここが多摩川台公園。
公園の中には都内最大級の亀甲塚古墳をはじめ多くの古墳があります。
その公園の中のいたるところに桜。
広場に面した桜は長く枝を伸ばし、森の中の桜は梢高く上空に咲いています。
降ったり止んだりする雨や突然の風にもめげず花を愛でました。

そこから散歩開始。
田園調布の住宅街を抜け洗足池へ。
途中の高級住宅地にもたくさんの桜。
さらには木蓮、レンギョウ、海棠など春の花が花盛り。
呑川付近でも川の両側から川に向かって咲き乱れる桜を堪能しました。

そして洗足池へ。
池の周囲のいたるところに桜。
ただしここの桜も森の中だから背が高く、見上げる感じで雨の中皆さん宴会中。
屋台など出て、ゆっくりという感じではなかったので、そうそうに退散しました。
勝海舟夫妻のお墓だけは拝見してきましたが・・・。

5日は、六本木ヒルズの桜坂へ。
まだ桜の木を植えてから数年しか経ていないので桜も若木でまだまだですが、数年後はアークヒルズの桜坂のように美しくなるでしょうね。
雨の中、数年後の姿を思い描いて散歩しました。
しかし、強い風や雨にもめげずにまだまだ桜の花は健在でした。

そして8日はゴンタの花見。
突然の雨が二度もあったので、屋外での花見は急遽店内へ。
でも途中一時間ほどみんなでワインとグラスを片手に青山墓地に散歩に出かけました。
ソメイヨシノは見ごろを過ぎていましたが、中にはまだまだ美しく咲いているのも野あり、大島桜や御衣黄は盛りを迎え、八重桜も咲き始めていました。
桜や墓地の墓石越しに見る六ヒルや、ミットタウンのビル、新しい国立美術館など、今の東京の風景だなぁとつくづく思います。

今年はいろいろな桜をいろいろなところで楽しませてもらいました。
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ローストポーク

2006年04月10日 21時55分44秒 | 料理レシピ
パーティーにぴったり、美味しいローストポークの作り方。

1.豚の肩ロースのブロック肉を買ってくる。
2.不要な脂身や筋などがあったら取り除く。
3.肉に縦に大きく切れ込みを入れる。(肉の直径の三分の二以上切れ込みを入れる。)
4.味をしみこみやすくするために、肉にフォークでたくさん穴を開ける。
5.肉の周りや切り口にクレージーソルト(塩と胡椒でもいい)をすりこむ。
6・一時間放置。
7.肉の外側にも浅く切り込みを入れる。
8・大きな切込みの間に、にんにくの薄切り、アンチョビ、ローズマリーを挟み込む。
9.外の浅い切れ込みにも、アンチョビ、ローズマリー、にんにくを挟み込む。
10.肉をタコ糸でグルグルきつく縛る。
11.密閉保存袋に肉を入れて、白ワインを少し入れて、リンスする。
12.一晩冷蔵庫でお休み。
13.次の日、フライパンで肉の表面を焼く。
14.200度のオーブンで50分焼く。(肉の大きさにもよるが、途中ひっくり返す。)
15.串を肉の中央部まで刺しして、出てきた肉汁が透明ならば出来上がり。濁っていたら、もう一度30分くらい焼く。
16・また串をさして同じように状態を見る。
17.余熱で中まで火が通るのでけっして焼き過ぎないように。
18.タコ糸を切って、肉を切って、召し上げ上がれ。
19・暖めなおしても美味しいです。

(画像はつけ込み中の肉)
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