”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

酒蔵ギャラリー(東近江市)

2019-10-15 12:00:00 | 東近江ライフ

東近江市小脇町の酒造会社・「畑酒造」の店舗で「法泉寺」(建部堺町)住職・増田洲明氏の「おわび紙と言葉」の作品展が開かれている。

使い古した和紙を再び漉(す)いた再生紙に、人としての「気づき」を綴った言葉の作品が並んでいる。


 畑酒造では昨年10月、店舗内の土壁を塗り直し、倉庫に使われていた3畳ほどの部屋をギャラリーに改装したという。近年、こうした自社製品の陳列ではないギャラリーを備え、文化を尊ぶ店舗が登場しているらしい。

「畑酒造」のブログは下記。

https://blog.goo.ne.jp/20150304

宝泉寺」はこのブログスローライフ滋賀で紹介済みである。

 https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/3fec70740f7b79c4943fcea0fdab47eb

 

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【滋賀・近江の先人第 62回】初代住友財閥総理人(大番頭)・「広瀬 宰平」(野洲市)

2019-10-15 06:00:00 | 滋賀・近江の先人
広瀬 宰平(ひろせ さいへい、文政11年(1828年) - 大正3年(1914年)は、住友財閥の基礎を築いた大番頭、初代住友総理人。明治期の大阪財界の大立者。
近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲市)の旧家・北脇家の次男として生まれた。幼名・駒之助、明治維新後は「宰平」と改名した。
 
 
 
1837年、9歳のとき、別子銅山の支配人をしていた叔父の北脇治右衛門に連れられて別子に移り、11歳のときに別子銅山に奉公にあがった。
1855年27歳、家長・住友吉左衛門の推薦で、元住友江戸店の支配方であった伊予国新居郡金子村久保田(現・新居浜市)の広瀬義右衛門の養子となる。
1865年37歳、別子銅山の近代化を訴えた宰平は、家長により別子銅山の総支配人に抜擢される。住友としては異例の人事であった。
明治維新の際には別子銅山を接収しようとした新政府代表の川田小一郎に対し「銅山経営を経験のない者に任せると、利益なく国家の大損失となる」と、経営を引き続き住友に任せるよう説得しこれを認めさせた。
更にフランスの技師ラロックを招いて指導を仰ぎ、部下をフランスに留学させて西洋技術を学ばせ、近代化を達成。たった4年で鉄道を開通させた。こうして住友の基盤を守り発展させ、その後は別子銅山で製鉄も始めたが、公害問題が生じ、農民の不満を募らせた。
 
別子銅山(べっしどうざん)とは、
愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までの282年間に約70万トンの銅を産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。
一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。
 
宰平の住友への貢献は、住友の家政改革を断行したことでもある。
1877年(明治10年)2月49歳、住友家第十二代家長・吉左衛門友親は、病気のため宰平を総理代人に指名した。総理代人は「商法上一切の事務を総轄して、数多雇人を統御する」権限をもつとされたから、宰平は住友家の経営権限を委譲されたことになった。同時にそれは宰平の独裁制が強まったことを意味するものであった。
しかし、独裁的な権限を手中にするようになった宰平に対しては、住友内部から批判の声が起こるようになった。その底流には別子の近代化はさておき、宰平のリーダーシップにより展開した事業の成績が芳しくなかったこと、それに対して内部から強かった銀行設立の要望に広瀬がかたくなであったことなど事業戦略上の批判があった。
また重任局での合議制を骨抜きにし、広瀬独裁体制を追認するよう家法改革を断行したことに対する不満もあった。こうした厳しい局面を迎えて、宰平は自ら退身する決意を固め辞表を提出し、1894年(明治27年)11月66歳、総理人を辞任した。
 
また、1884年(明治17年)に誕生した大阪商船の初代社長(当時は頭取)にも就任している。
 
1914年(大正3年)1月31日、85歳で没した。
別子銅山があった新居浜市には広瀬歴史記念館と銅像がある。
尚、住友の2代目総理人となっの伊庭貞剛は広瀬宰平の甥である
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