平の国香のこと
今年の大河ドラマの主役は「北条義時」です。その北条のルーツは現在の熱海(阿多見)であり、そのさらに前は、平の国香にたどり着来ます。
「平の良望から始まる高望王流の平氏一族は平安京を作った桓武天皇の流れということで、臣籍降下してその姓を賜ったのですが、今年をもってこの「平」の年号も変更するようです。
国香の兄弟は筑波山の西側にへばりつくように領地を確保したのですが、将門の父、良将の領地が一番沼地で、田畑には適さない土地だったのですが、これがなんと逆転。皮肉なものです。つまり馬を育てる絶好の場所に活用され、良将家の繁栄をもたらしたのです。これが元々仲のよい親戚間の大騒動へと発展してしまいます。
国香は、涸沼から那珂川、久慈川に抜ける東北方向の豊かな穀倉地帯を遥かに望んでいました。もしかしたら、あの神武の祖父たちが住んでいたとされる、那珂、久慈、多賀といった九州の原点の土地と那珂川の向こうの土地とをオーバーラップして見ていたのでしょう。それが200年後、実現するのですが。
古来より、オオ氏の流れの豪族の定着、開墾の後に源氏の義家がなぜか常陸側には狼藉を働き、水戸やひたちなかの長者の財産を奪ったという記録があります。源氏はなぜか、その財力を使って現在の栃木側の豪族とよしみを広げて行ったもようです。
その荒らされた土地に目をつけたのが十二世紀に水戸に勢力を伸ばした国香の流れの平氏(吉田)だったのです。その中心地は現在の石岡市ですが、現在の水戸市にも勢力圏をもっておりました。
源氏の流れは茨城県北部の佐竹に勢力を温存させ、遥か後に、茨城県中央部の広範囲に拡散していた平氏一門を束ねて切り捨てるよう霧消させてしまいます。
ここひたちなかには、源氏の流れの武田氏も入植しました。あの武田信玄の先祖の領有地もあったのですが、その水戸の吉田一族との確執があったのですが、朝廷の采配によって、その土地から放出されて、甲斐に移ってしまいます。それによって、吉田一族は広範囲な那珂台地(現在のほぼひたちなか市、那珂市、東海村)の開発に乗り出します。その先鋒を託され、呼び出されたのが、倉員則頼(1151年)。おそらく、中央では、あの清盛政権の勢いがましてきたことが考えられます。倉員則頼もまた在所平氏の一門だったと推測できます。その後、彼の手腕のおかげで、吉田一族の兄弟子孫が、那珂台地の大字ほぼ全土に城(当時は未熟で概ね砦といったところ)を築いていきました。
ちょっとだけ余談を挟ませて頂きます。この倉員則頼という者の所在地と言えば、ひたちなか市よりだいぶ離れて現在の石岡市と鉾田市の境にあります現在名、「倉数」ですが、この倉員の「員」が「数」に転じたものです。何をいう私はここの出身です。この倉員(倉数)の名前の由来は、そこの神社「潮宮(いたみや)神社」の祭神、「高倉下」の「高」が取れたものです。この倉数には、「かなくそ遺跡」がありましたので、あの「フツノミタマ」を連想させるものです。
さらに余談ですが、この倉員則頼の那珂台地統治の要所はどこだったかも容易に推測できます。これは皮肉めいておりますが、後に要所となった勝倉城があった「勝倉」でありました。ここも平氏一門で、あの武田に隣接しております。志田淳一氏によれば、当然、この勝倉は「倉員」を反転させたものと言っておられます。古辞にはレ点をつけていて表記した例もありますから。
面白い逸話があります、この倉員氏ですが、当の茨城県にはその姓は見当たらないのですが、福岡県の筑後市付近には残っているそうで、地名は蔵員となっていまして、当時は平氏の荘園があったという報告があります。さらにそこには仏閣があり、坂東寺と言います。
ひたちなか市那珂湊地区には、樫原神社がありまして、当地では地域の人たちの信仰を集めておりますが、この神社は元は、那珂川対岸の現在の涸沼の北部地域の茨城町にありましたものを室町期に現在のひたちなか市に移転されました。これなども考えるに、那珂川北岸に平氏の領地が点在して、各郷が平氏を敬うその気運が最近まで残っていた証拠であると推測いたします。
この筑波山と那珂川の西側が武士の発祥の地であったのです。国香の名の如く、東の土地に壮大な平安京をも越える安らかな国をつくろうと望んだ人がいたと思うのは、私だけでしょうけれど。彼は夢みる開拓領主だったのです。
その後、その子貞盛の子孫から清盛や北条政時の流れが出て来るのです。
神武、天武、聖武、桓武という風に「武」のつく天皇は時代を切り開く気概があったのです。
伊尹