読売新聞の記事はこちら。
中村瑞希の唄をはじめて生で聴いたのは、'01年の4月だった。
日本橋三越の屋上で、中 孝介と共に10人ほどの観客の前で唄っていた。
その後、同年11月の立川のイベントでは、ストリートパフォーマンスのような形で唄うのを聴き、'02年8月はよみうりホール、同年11月に越谷の自然食のお店etc、etcと、行ける限り行ってきた。
当時の中村瑞希の唄は、自身「(ゲンコツをつくって)私の唄はこれですから」という、力強さ以外にはそれほど見るべきものもなかったが、それでも天性の美声でカバーする形で聴衆を満足させていたように思う。
'03年5月、その中村瑞希が地元の奄美民謡大賞を受賞したと聞いたとき、正直、
「メジャーデビュー前の花道か(当時、元ちとせに続いて、彼女か里アンナがデビューするのではないかというもっぱらな噂であった)」と思った。
その三週間後、六本木の島唄楽園で中村瑞希の唄を聴いて愕然とした。
奄美大島の方言で唄われる島唄を、繊細なニュアンスで、言葉の意味すら判らぬ観客に届け、それまでライブやCDで聴いてきたのとはまったく別な唄い手になっていたのだ。
その年、日本民謡大賞の全国大会では「浦本杯(大会における位置付けは不明)」で準優勝となり、一年置いた今年、総理大臣杯(所謂民謡日本一)を獲得した。
これで大島郡笠利町は、築地俊造、当原ミツヨに続く三人目の民謡日本一を輩出したことになる。
来年三月、広域合併で町名が消え去る前に、よきモニュメントとなったであろう。
なお、奄美大島からの民謡日本一は、これにRIKKIを加え、四人目となる。
ところで、このニュースを確認するため、慌てて各種の速報サイトを巡ったが、gooのニュース速報がとんでもない写真を掲載していた。
すぐに訂正、あるいは削除されてしまうと思われるので、ハードコピーを載せておく(165kb)。
笑い転げて死ぬかと思ったぜ。
中村瑞希の唄をはじめて生で聴いたのは、'01年の4月だった。
日本橋三越の屋上で、中 孝介と共に10人ほどの観客の前で唄っていた。
その後、同年11月の立川のイベントでは、ストリートパフォーマンスのような形で唄うのを聴き、'02年8月はよみうりホール、同年11月に越谷の自然食のお店etc、etcと、行ける限り行ってきた。
当時の中村瑞希の唄は、自身「(ゲンコツをつくって)私の唄はこれですから」という、力強さ以外にはそれほど見るべきものもなかったが、それでも天性の美声でカバーする形で聴衆を満足させていたように思う。
'03年5月、その中村瑞希が地元の奄美民謡大賞を受賞したと聞いたとき、正直、
「メジャーデビュー前の花道か(当時、元ちとせに続いて、彼女か里アンナがデビューするのではないかというもっぱらな噂であった)」と思った。
その三週間後、六本木の島唄楽園で中村瑞希の唄を聴いて愕然とした。
奄美大島の方言で唄われる島唄を、繊細なニュアンスで、言葉の意味すら判らぬ観客に届け、それまでライブやCDで聴いてきたのとはまったく別な唄い手になっていたのだ。
その年、日本民謡大賞の全国大会では「浦本杯(大会における位置付けは不明)」で準優勝となり、一年置いた今年、総理大臣杯(所謂民謡日本一)を獲得した。
これで大島郡笠利町は、築地俊造、当原ミツヨに続く三人目の民謡日本一を輩出したことになる。
来年三月、広域合併で町名が消え去る前に、よきモニュメントとなったであろう。
なお、奄美大島からの民謡日本一は、これにRIKKIを加え、四人目となる。
ところで、このニュースを確認するため、慌てて各種の速報サイトを巡ったが、gooのニュース速報がとんでもない写真を掲載していた。
すぐに訂正、あるいは削除されてしまうと思われるので、ハードコピーを載せておく(165kb)。
笑い転げて死ぬかと思ったぜ。