尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

年頭所感「あなたとともにあるならば」

2014年01月05日 22時15分11秒 | 日記
昔、人々を信じえないから、神を信じた時代があった。
この時代、通りすがりの人を信じるほうが、神を信じるよりも簡単だ。

神を信じることが恩寵だとは思わない。
いわんや、神を信じると言うことは、軽率か偽善、狂気のたぐいだと見なされるであろう。
しかし元来、人間に神を信しる自由も、信じない自由もないのではないか?
いかなる意味でも、神は人間の認識と心情の対象ではないからである。

祈ることだけが可能であると思える。
共にあることを祈ることだけが可能であると思える。

詩を書くこともできない。
写真を撮ることもできない。
詩を書かされ、写真を撮らされることだけができる。
あなたとともにあるならば。

それでも、わたしは死ぬのだ。
だから、わたしは死ぬまで愛するのだ。

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詩人のための村上春樹論

2013年04月17日 22時31分06秒 | 日記
詩人のための村上春樹論―「神の子どもたちはみな踊る」を読む 副題「空虚」とは何か?

はじめ、このテーマで「詩の実作講座」の講演用に資料をそろえ下書きをしていたのですが、4月末発行の詩誌「イリヤ」のために書こうと決定したのが二か月ほど前です。
原稿用紙25枚くらいの小品ですが、今日一通り書き終え、ほっとしています。
ラストは「乏しき時代の詩人にあって、何のための詩人か」というハイデッガーのリルケ20周忌講演を引用し、春樹さんが詩人の代わり現代の深淵に降りていったのだと結語しました。
深夜ですが、これから最後の朱を入れて脱稿ということになります。
編集をしていただいている、左子さん、遅筆と手直し、ごめんなさいね。

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ソーダ水

2009年01月01日 02時16分05秒 | 日記
言葉って泡だよね
そして僕って
ソーダ水じゃないかな
泡だからって
バカにしてはいけないよね
シュワーてこないもん

妖怪人間「ベム」って知らないだろうな
「人間になりたいっ」てうめくんだよ
小さな頃からどっか僕って
人間じゃないと思ってたんだ
だから詩人にあこがれてたのかな
去年はね
その詩人でもなかったと分かったんだよね

嘘をつくのに疲れたのかな
そういうこと なんだけれども
現代詩って
ほんとうはない
というイデオロギーなんだ
でもね
やっぱり本当ってあるよ

詩人って残したがるんだね
本とか勲章とかお墓とかね
僕は何も残したくないから
こうやって書いてるよ
それって詩じゃないんだよね
泡だよね
泡がはじけてね
せめてシュワーっと
美味しければいいんだけれどね

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実作講座「朗読で楽しむ室生犀星―抒情という方法③」

2008年10月25日 23時58分27秒 | 日記
久しぶりに日記を書きます。阿倍野ベルタというところで、この表題で二時間ほどお話させていただきました。テーマは、戦後のいわゆる現代詩に欠けているものが、犀星の詩にはある、ということです。それは「肯定の抒情」と言い換えることもできます。
…結局、朗読よりも、実作に役立つという目的で「詩論」に時間を割いてしまい、予定していた詩の3分の1しかこなせませんでした。
次の僕の番は一月ですが、今度こそ理屈よりも楽しい!ということで、講座をまとめてみたいと思います。詩人を小野十三郎か、萩原朔太郎かで迷っていますが、朗読して楽しいのは朔太郎、詩論として面白いのは十三郎というところで迷っております。
やっぱり今日の実感として、こんなに詩は楽しいし面白いのに、楽しくないもの面白くないものにしている正体は誰なんだろう、何なんだろう?

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響きの森へ

2008年06月13日 23時57分15秒 | 日記
明日から、バスで鳥取まで行き、氷ノ山「響きの森」というところに一泊してきます。清水さんの率いる、弦楽トリオのコンサートもあり楽しみにしています。
もちろん、カメラも持って行きます。
お天気もよさそうで、いいのが撮れればアップしますね。

詩を書き始めて5年になりますが、
以前は自分を苛む意識が自己証明のような錯覚があって、
旅を楽しむなんて考えられませんでした。
川下りを楽しむように、時間の流れに身をゆだねる快楽もいいものです。
常に世界にはあたららしくて、しかも私だけに回帰してやまないもの、
そのかげろう姿を、言葉か写真にて採集できればいいですね。

次の週の土曜日は、ほとんど用意できていないのですが、実作講座「批評としての抒情・昭和詩」があり、翌日日曜が一日撮影会、その次の週の土曜はアートフェスティバルで詩の朗読があり、翌日が表彰式と続きます。
ええかっこしょうとすると、疲れますが、これしかないところの自分で
、今を楽しまないとね。

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モノと言葉の間

2008年06月08日 14時27分38秒 | 日記
淋しさというものが
ほとんど人恋しさと同じ大きさの
同心円であったところから
ずいぶん僕は歩いてきたものだ

確かに自分も時代も老いたのだ
しかし人間という歴史的存在が
決定的にその同心円からの
逸脱の道を選び取ったのである

抒情は死に あとは
享楽の人々を中心に ふりまかれる
空しい言葉たちが残ったのだ

ここまで来ると文明の傷心に
小鳥が囀ろうが子犬がなつこうが
わたしやあなたが淋しいのではない
モノと言葉の間の無限が
淋しがっているのである
つまり福祉さえ確保されれば
後のすべてが比喩であり修辞の問題であり
そこに人間がいない故に

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川上先生を囲んで、「詩集雨師を語る」

2008年03月10日 01時01分52秒 | 日記
8日土曜日は、川上明日夫先生の詩集『雨師』の出版記念会「雨師を語る」が天王寺の旅館ホコウ荘でありました。およそ二年ぶりで、川上先生や大阪文学校の仲間達と再会でき、話もはずみ、とても嬉しかったです。電気を消して、ロウソクに火を点ける演出で、それぞれ好きな「雨師」の詩を朗読しました。みなさん、なかなかのものでしたよ。
メインエベントの朗読が終わった後、年上の方が多かったにもかかわらず、ドキドキしながら、(生まれてはじめての)乾杯の音頭をとらせていただきました。
さて、先生に当時の写真のコピーいただきましたが、そこに写っている自分がとても若くて、ほんとうに驚きました。わずか二、三年のうちに年をとった(とりわけ髪の毛がほぼ真っ白になりました)わけです。それが「詩」というもののなせる技だと、よっぱらいながら一人で妙に感心している、帰り道でした。
9日の日曜日は、梅田まで出て、毎日持って歩けるようなデジカメを買いました。
ニコンのクールピクスP5100という機種です。値段はやや高か目だけれど、昔ながらのカメラらしいザイン(男が手にしていても余り恥ずかしくない?)と構えやすさ、デジカメとしてはいい画質ではないかと思います。
詩を書いて感染する孤独の病には、写真の孤独が効くみたいです。
ということで、毎日のように下手な写真をブログにアップしていくかもね。…まあ、ブログにはブログ独特の孤独の病があるのでしょうが。
おやすみなさい。

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ただ今!

2008年01月30日 23時17分43秒 | 日記
ただ今。東京から帰ってきました。
ずっと長野隆さんの伊東静雄論を読みながらの道中でした。
東京の、人はやたら多いが、どこか喪の儀式のように粛々と運ばれていくような風景と、伊東静雄の自己完結的な詩情が重なり、不思議な感覚を覚えていました。
伊東静雄は抒情詩の代表詩人と思われており、僕も偏愛する詩人の一人ですが、ひょっとしたら抒情の死を鏡で反射したような、「反抒情詩」ではないかと直感するところがあります。なかなかうまく言えませんけど…、先入観を捨てて、研究してみる価値はありそうです。

天候のせいもあったでしょうが、東京はどこかかなしげでした。
それに比べて大阪へ帰ってくると、アジアの唸りのようなどよめきがありました。明日からまたそのどよめきのなかで、自分もまた少しはどよめいてしまうのです。しかし、東京の中でなければ、まぎれない自分の哀しさというものも、あるようです。

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メリークリスマス♪賛美歌~

2007年12月25日 01時09分39秒 | 日記
     (撮影;尾崎)

1980年代は失われた日本の十年ともいわれることがあります。
経済的にはいわばバブルといわれ、日本は(かつて戦争に負けた)アメリカを追い抜いて世界一になったとほぼ全員が、うかれていた時代です。経済だけではなく思想界でも構造主義を標榜する「脱構築」が流行し真理などないのだと言わんばかりに、遊べや遊べの時代を援護していました。
 僕の三十代と重なり、この十年を昆布メーカーの営業をしていましたが、何かがまちがっていると不安でした。今、すべての問題を○○の「システム」が悪いという言い方で、すべて組織や組織間の構成の問題にする傾向がありますすが、実はバブルの時代に、日本人という「人」が、ひとりひとり悪くなっていったのではないかと、僕は思っています。
 さて、毎日の生活そのものが、大切な何かから逃げている、という不安で僕は近所の教会に通ったことがあります。教会といっても路地裏にある小さな個人宅でした。毎日曜、青年のギターに合わせて、がらにももなく感動しながら賛美歌を歌っておりました。二年ちょっと家内と一緒に通いましたが、どうしてもイエスが人間の罪のために十字架に架かった、という一番肝心な教義に納得できずに今日に到っています。
 クリスチャンではありませんが、ふるえるロウソクを胸に抱いて歌う美しい響きに「がんばってや」と心で声をかけました。壮年の時代の希望と不安を思い出し、胸がじーんとしていました。

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詩集『カメラ・オブスキュラ』、家に来る!

2007年12月10日 00時48分41秒 | 日記


昨日(土曜日だから、正確にはもう一昨日のこと)、僕の家に印刷所から『カメラ・オブスキュラ』が届きました。
届いたというよりほんとうは、しかるべきところに戻ってきた、という感じです。

表紙の写真は東京の丸の内で写したものをフォトショップで加工して使いました。

テクストの内容は、みなさんに判断していただく他ないのですが、
表紙のデザインから、活字の大きさ、栞に使うピンまで、
設計され尽くした上で、「本」としてすばらしい出来であることは、
僕もこれを仕事にしている以上、まずまちがいはないと思います。

運送屋さんが来たとき僕は仕事中で、
家のものがめったに来客の来ない応接間に、
積んでおいてくれました。
そこにちゃんとあるのはわかっているのですが、
この時間までなんども見に行きました。

なにかしら憑きものが落ちた感じで
身軽になってほっとして嬉しくて、
ほんの少しさみしいです。
機会があれば読まなくてもいいですから
ぜひ手の上に乗せてくださいね。

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テーブルフォト、テーマはロダンの「カテドラル」

2007年12月08日 01時03分59秒 | 日記
ロダンの「カテドラル」(だったかな?)のミニチュアをメインに使って撮影しました。
今まで二度、プロの先生に指導していただきながら撮影したことがあります。
結構上手く撮れたと思っていたのですが…。
たった一人になると、露出、ライト、構図など、今までいか他者の目と技術に頼っていたかわかりました。
さて、祈るように組み合わされた手に挟まれた薔薇、何かを感じていただける写真になっているでしょうか?
コメント (2)
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詩集「カメラ・オブスキュラ」

2007年11月28日 01時13分52秒 | 日記
自分の我がままから表紙をやりかえてもらったため、発刊が遅れていた。
今週末か月初めにできあがり、なんとか賞の締め切りまでにまにあえばいいなあ、ぐらいに考えていた。
出勤時、前をいく印刷会社の社長さんが小さな包みを二つ抱えていたので声をかけ、一つを胸に抱いた。すると、それが僕の詩集だったのである。希望とおりの美しい仕上がりだった。

なんと説明してよいのかわからないが、とにかく自分という人間が「本」に化けたのである。そして僕は、なんと美しく化けおおせたものだ!
すると本を(初めて見る女の裸のように)不思議そうに眺めている、この肉体をもった自分は誰であるというのか?
やはり、…僕は、人の脱け殻なのだなあ。

脱け殻になると、
ピチピチした魂を求めて、また助平になる。

もう1500年は生きてきたと思う。
それぐらいの思い出はある。
あと1500年ぐらいは生きていたい。
するとあと一冊ぐらい詩集は出せるだろう。

コメント (2)
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永源寺の紅葉

2007年11月24日 22時15分55秒 | 日記
本日は南森町の写真講座の片岡先生と仲間で、滋賀県、永源寺の紅葉を撮影してきました。
三時間で180枚ほど撮りましたが、どうも紅葉のあでやかさに目がくらみ、
撮ったというよりも、撮らされた、という感じです。
一番ましなのが、これです。
ぼけが偶然きれいだったという他、構図も左側に空きがあったり、
…まだまだですね。
コメント (2)
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比叡山、あるいは「野心と写真」

2007年06月24日 00時01分19秒 | 日記
小学校三年生の頃だった、勉強でもなんでも
競争心のない僕にあきれた父は
「坊主になって比叡山で修行しろ!」と怒ったことがある。
「お前は優しいだけの男や」
とも言った。
「優しいだけで人間は充分や!」
と、答えた。
(こんな子供は嫌だね。笑)

そんなこんなで、野心のない道を歩んできたつもりである。
…それはそれで、生易しい人生ではなかったな。
しかし、不思議なもので、
世間の評価から自由であったつもりが、
50をだいぶ過ぎてからはじめた「詩」に
一生懸命になっていると、
無かったはずの色気というものが湧いてきて、
人一倍褒められたい。
ところで、詩人という人種は、
他人から褒められたいばかりで、
ほめ方をまるで知らないらしい。

と、いうことで、
野心よりも写真を始めることにした。
写真機は買った。
今も机の上に飾ってあるのを
横目に見ている。
しかし、デジタルは難しいな。

そのうちに、
わけのわからに詩ではなくて、
いやほど自己中心の写真をアップするね。

(お父さん、ここが比叡山やった!!)

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関取ならぬ席取り

2006年12月04日 23時43分22秒 | 日記
始発の駅のプラットに
ほとんどで先頭に並んでいたのに
扉が開くと人に押されてくるくる回ってしまい
座れない

せっかく座れても
必ずお年寄りが前に立つ

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