「鬼婆様と河童の子」
鬼婆ってしっているか?
君のママじゃないぞ。
子供をさらって、耳までさけた口で、頭からバリバリ食ってしまったそうだ。
千年も昔のお話だから、心配はない。
それに今日のお話の鬼婆様は、人が良くてな、
今日死ぬと決まった子供しか食べない。
明日死ぬ子は食べなかった。
するとどうするか、そりゃあがまんしてな、
鬼婆様は屋根裏で夜明けまで待ってたにちがいない。
なら山あたりの山里に、春は来ていなかった。
空一面の灰色の雲から、雪がワイワイわいている。
竹やぶの林に、村人どころか熊も狐も近づかない古井戸があった。
いせいよく降りてくる雪の群れだったが、その上まで来ると嫌がるように、
くるりと他へ流れた。
ぎゅい、ぎゅい、ギュッギュー
氷ついてる井戸のそこから、つるべ縄のきしむ、いやな音が登ってくる。
「腹へった、ああ腹へった」
縄をよじ登ってきたお婆は、白髪を振り乱したものすごい首の上だけを、
井戸の上にさらした。
そして、あたりを覆っている大きな裸の桃の木を見回した。
「ああ、この桃の実さえ食えれば、人の子食わなくてよいのになあ。
うらめしい」
空腹と、人の子を食うというあさましい運命に、
血がしたたるまでに頭をかきむしり、むずがるお婆であった。
だが、たった一人の友達が近くにいる。
男だか女だかわからない。
木でできている。
昔、火事にあったのか表面がこげてすすけている。
今すぐ、会いに行こう。
お婆は、竹やぶをぬけ、雪の山道を上へ下へと駆け出した。
真っ赤な着物を、まるで炎に包まれた大凧みたいにひるがえしている。
その脚はとても二百歳には思えない。
二十歳の足軽である。
この時代、末世と呼ばれて、戦や飢饉や疫病ばかり。
人の心も荒れていた。
寺に参る人影が、よりによって鬼婆一人とはな。
お婆は、荒れ寺のお堂にとびこむと、ちんと正座し、苦しい息のまま手を合わせた。
「観音様、季節はずれではございますが、大好物の桃の実を恵んでください。
それが無理なら、人の子を食わせてください。
もちろん、腐りかけたのでがまんするので」
二百年間、ただ食べることだけに追われ続けてきたお婆である。
世間という傍から見ると、お婆は胃袋の化け物だろう。
しかし、その胃袋が必死に祈っていると、ただ棒立ちの木の観音様が、
笑いかけているように思えたのである。
「ありがたや、いざ下の里の川原へ!」
お婆は、何か一人合点したようにお堂を飛び出した。
四つんばいになって、山を駆け下りている。
その様は狂った大猪で、後から雪なだれが付いて来る。
やせた木なら、その石頭でなぎ倒し、突き進んだ。
鬼婆は半日で、雪の消えかけている下里の野原まででた。
増水した川原で、歯を石で研いだりしながら、何かが流れてくるのを待った。
枯れた木々ばかりが流れてきた。
お婆がただの人なら待ち疲れているはずだったが、白い息を吐くたびに、
よだれが泡となって、見つめる川面に飛んでいた。
陽が傾く頃、お婆の目が金色に光った。
トムプリコ、トムプ、トムプ‥‥
なにやら丸いものが浮き沈みしながら、流されてきた。
「やっ、ばかでかい桃がやってくる。観音様のご利益だ。
まだ緑色だが、かまわねえ」
その巨大な桃がひっくり返った。
おやおや、二本の短い脚が、水面から空に突き出たではないか。
「なんだ、おぼれた子供の尻だったか。
まだ青いおけつから食ってやる」
お婆は、近づいた子供めがけて、猛然と飛び込んだ。
ところが、お婆は派手におぼれた。
もう子供そっちのけ、夢中で川面をかいている。
「観音様! お助け!」
山育ちのお婆が泳げないのは、空を飛べないのと同じぐらいでる。
命かながら、やっとのことで岸に這い上がり、はいつくばったお婆であった。
むせていると‥‥
「おっかさん、助けてくれてあんがとう」
後ろからのか弱い声に振り返ったお婆は、叫んだ。
「けっ、河童!」
「おっかさん!」
お婆のずぶ濡れの着物の裾を、緑色のつるつるした河童の子が、
しっかりと握っている。
おぼこい顔して、白目をむいている。
「お前なんぞ助けたおぼえはねえ。それに、おらは河童の母さんでねえ。
その緑の手、はなせ」
黒目が定まらず、まだうつろな河童の子は、
手を振りほどこうとするお婆の腕に、なおさらかきすがった。
「よく見ろ、おらは母さんどころか、地獄に住む鬼婆だ。
ほら、口さ、耳まで裂けてるだろ」
お婆は、わざと赤い口をあんぐりあけて見せた。
豆のような、黒目が焦点をやっと結んだ。
河童の子は、その赤い口の中に向かって、世界一かわいそうな声を出した。
「河童でなくても、おっかさんに違いねえよ。
泳げぬくせに助けてくれるのは、おっかさんの他にいねえべ」
「ひつこい坊やだな、おっかさんなんて呼ばないでおくれ。わたしゃあ、ずっと鬼婆だよ」
「じゃあ鬼婆のおっかさん、頼みがある」
子供を食べるばかりで、生んだことのない鬼婆は、
内心、おっかさんと呼ばれて嫌なわけがなかった。
鬼婆はつりあがった目じりを、不器用にさげて言った。
「よし、一つだけなら聞いてやろう。
そしたら、河のほんとうのおっかさんのところさ、さっさと戻れ」
「水が欲しいよ。そしたら、元気になって河へ帰るよ。このままでは、またおぼれちゃう」
「河童がおぼれてどうする。たよりねえ河童だな」
と、言いながら、不器用に笑った鬼婆だ。
「坊や、水ならたらふく飲んで、腹、こんなにパンパンでねえか」
「そんな汚れた水ではないよ」
お婆は、河童の子を膝に寝かせて、満月のようにふくれたお腹をさすってやった。
黄色い水をたくさん吐いた。
なるほど、汚い水だ。
「よし坊や、おらんちの井戸の水を飲ませてやろう」
お婆は、何が何でも河童の子供を助けようとしたわけではない。
河童は食えない。
だから、半分はやっかい払いをしたかっただけだ。
河童の子を背中にはりつかせ、もと来た道を戻りはじめた。
お婆の脚には、行きしなの勢いはなかった。
登りだし、疲れていたし、腹はなおさら減ってるし、
背中の子供は石の地蔵さんみたいに、ずんずん重くなってくる。
お婆の住むならの奥山に、やっとのことで帰り着いた頃、陽はとっぷりと暮れていた。
鬼火を空中に放して、明かりとした。
集めてきた薪で焚き火をし、河童の子を暖めてやった。
河童の子は、小さな手をかざし顔を炎でちらちらさせながら、鬼火を目で追った。
黄色だ、赤だ、青だと、喜んでいる。
それからお婆は、井戸の底の氷を割り、冷え切った清水をくみ上げた。
手の中の水を飲ませてやった
河童の子は、蛙に似た口で、こくんこくんとうまそうに飲んだ。
お婆は、そのどんぐり眼を覗き込みながら、言った。
「どうだい坊や、うまいだろう」
すると、見る見るうちにその眼に、涙がたまってきた。
すまなそうに、河童の子は答えた。
「うん。でも、欲しいのはこの水ではないよ。
おっかさん、怒ったか?」
お婆には、もう腹が立つほどの元気もなく、尻餅をついた。。
そばから河童の子が胸にかきついてくる。
お婆は好きにさせておき、むしろの上に仰向けに寝た。
そして、今日はじめてぼんやりした。
(今日一日、おらは何をしていたんだろう。
山を下って、川でおぼれて、河童を背負って、また山に登って。
よけいに腹減っただけでねえか)
竹やぶを通して、冬の星座が点滅していた。
ぱちぱちと焚き木が、鳴っている。
「いてっ」
見ると、河童の子が、しわくちゃな乳に吸い付いてるではないか。
「お前、年のころなら、三つか四つだろ。
乳離れしないねえ」
河童の子は、何もでない乳首をはなすと、さすがに照れて笑った。
笑い返してやると、まぶたを閉じた。
見るほどに、とぼけた顔だ。
思わず、お婆の口から子守唄がもれた。
どこで憶えたのだろう。
今頃どうして思い出したのだろう。
お婆は自分でも解らない。
ただ、お婆は忘れてしまったが、
子守唄を歌ってくれた人がいたということだ。
抱いた手で、まだ柔らかな甲羅を打ちながら、拍子をとった。
河童の子は、寝息をたてはじめた。
そのあどけなさが、この世の宝に思われた。
お婆の涙があふれだして、頭のお皿に、ぽたぽた落ちた。
そして、黄色い口先からの寝言を聞いた。
「おいら、こんな水が欲しかった」
何十年ぶりかの夢を見た。
お婆は、おさげ髪の童女に戻っていた。
河童の子が、
「元気になった御礼だ。食べてもいいよ」
と言って、お腹の出べそをつきだした。
饅頭みたいだ。
ぱくりと食べると、河童の子はくすぐったい。
けらけら笑いながら、小川に飛び込んで、下に流れて行った。
甘い香りで目が覚めると、あたりはピンクの朝霧に覆われていた。
懐がまだ暖かいから、河童の子は一晩中いてくれたんだなと、お婆は思った。
子供がいない代わりに、季節外れの桃の実がなっていた。
息もつがづに貪り食った。
一つだけ食い残して、つぶやいた。
「坊や、ありがとう。
おかげさまで、この婆は、当分人の子を食わずにすむよ」
お婆は、最後の特別大きな一つをむしりとると、
観音様に供えようと駆け出した。
真っ赤な着物が霧を裂いて走った。
お堂の扉を開けると、観音様はもともと棒立ちなのだが、
お婆も棒立ちになった。
ぽかんと口をひらいている。
やがて、狂ったように、床を笑いころげた。
笑い収まって、観音様の手のひらに、桃を乗せた。
座りなおしておごそかにこう言った。
「観音様、失礼ですが、申しあげます。
お臍が食われておりますよ」
霧に切れ目ができて、朝日が幾重もの帯となって射してきた。
お堂の中は、格子模様の影が映し出された。
相変わらず無口な観音様だ。
すると、こずえの鶯が、今年一番の
ホーホケキョ、ケッキョ、ケッキョ
澄んだ音が、山間にこだましている。
なら山あたりに、春はもう近い。