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尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

少女、円(えん)

2008年09月27日 00時35分54秒 | 詩の習作

少年は
円(えん)という少女
見つめるほどに
どうも
むしゃくしゃしてきて
気にくわない

理由は
丸すぎる


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世界で一番長いキス

2008年09月26日 00時04分25秒 | 詩の習作
十四才の冬
世界で一番長いキスを
父とした
心筋梗塞で倒れた父の
蘇生のために

駆けつけた救急隊員は
人工呼吸は無駄です
と僕に言えなかった

確かに無駄だっのだ
それでも
皆が寝静まると
潮騒のように
聞こえることがある

あの夜の呼吸が
海を渡って
今夜の岸に打ち寄せている

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昨日の庭

2008年09月25日 05時25分39秒 | 詩の習作
こんなふうに
昨日の中で出会って
昨日の中で愛して
たとえ罵りあっても
昨日の中

どこまでも
いつまでも昨日だから
二人は天使よりも優しいわけさ
だから夢はもう見ないよ
テレビのように永遠なんて怖れない
詩のよう永遠なんて望まない
ただ思い出してるよ
妙に明るい今日という この日のことを
ふざけていても僕らはせいいっぱい
明日の影の
昨日の庭で

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ハナビ

2008年09月23日 00時13分08秒 | 詩の習作

ウンウン唸りをあげて上昇し
ワーと言うたらパッと散る

人の誕生はハナビのようなものだったろう

今でも汗びっしょりでハナビの夢を見る

爆発しても消えなかったのは
愛してくれた人が僕にも一人いた
という証拠だろう

ウンウン唸りをあげて上昇し
ワーと言うたらパッと散る

闇の中で
今でもワーとは言うが狂わない

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エデンの東(詩画展用)

2008年09月22日 23時43分05秒 | 詩の習作
  
「エデンの東」


死ぬから愛するのだ
ということは本当だ

断言できる
アダムがイブを
イブがアダムを
心底愛しく思ったのは
林檎を食べて
連れの裸と
死を見てからだ

堕落
ということがもし
この世にあるとしたら
それでも
死ねないことだ

イブのために
アダムのために

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真珠貝の唄(歌曲用改訂!)

2008年09月20日 02時11分45秒 | 詩の習作
「真珠貝の唄」



わたしは閉ざされた目蓋の形
永遠を聞く耳の形で
深い海の底に置かれています
自分の吹いた砂粒でさえ
見ることはないでしょう

シュルラ シュルラ リルリルリルリル

遠い呼吸のような潮騒の音に
耳を澄ませています
果てしない昼と
果てしない夜と
果てしない夢と

果てしなく広がってゆく
気持ちのその真んなかで
たった一つ
痛みとともに結晶していく 
小さな星があるのです

シュルラ シュルラ リルリルリルリル 

地球は こんな形じゃないかしら
あなたは こんな形じゃないかしら


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逃亡者

2008年09月20日 02時02分38秒 | 詩の習作
追われている彼は
世界が敵なので
私しか信じない
私の半生は
彼の無実を証明するために
費やされた
ついに私は彼の無実を立証する
証拠を手に入れたのだ
 
ホテルの一室で密会した
その日のことは忘れないだろう

テーブルの上に私は証拠品を並べた
血糊のついた地図とか
色あせた彼のほんとうの母の写真とか
さび付いた金槌とか
真犯人の下着の断片とか…
彼は怒ったサルのように
白い歯をむいてそれらを見やった
それから私を見て
哀しげな驚愕の表情をした

それからほんとうの
彼の逃亡が始まったのである
無実そのものから

つまらないゲームが開始された!
と知りながら私は彼を追いかけてしまった
意外なことに
ホテルを飛び出し太陽のまぶしい光を浴びた私は
泣いていたのである
生まれてはじめて泣いた気がした

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拳(こぶし)

2008年09月20日 01時30分22秒 | 詩の習作
心臓は忍耐強いこぶしである
あの世とこの世の境を叩きつづける
最後の一叩きで扉が開き
向こう側の景色を見た人は
一人も帰ってこない

だから
叩きつづける

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サンタマリア号

2008年09月19日 23時48分43秒 | フォト日記
この3年ほど、年でしょうか日曜日はぐったりしてしまって、めったに外出しない習慣になってました。近所に住む方が、何かの抽選で大阪湾クルーズのチケットが当たったということで、それを頂いたので行ってきました。
こういうことでも無い限り、僕の腰は重いのです。
おかげで、帰りは持病のリウマチが出て、足を引きずり帰ってきました。
でもきれいな夜景でしたよ。
久しぶりの撮影で、とまどうことも多かったですが、写真ももっと頑張りたいです。

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巨人

2008年09月18日 23時08分54秒 | フォトポエム


風車と戦った男がいた
その骨に突然出会った

妻は僕が何故に感動しているか
全く理解しなかった

彼女は観覧車だけを見ていた
僕は悲鳴のように軋んでいるだろう
鉄の骨だけを見ていた

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長い夜

2008年09月18日 06時30分54秒 | フォトポエム

人間が神を見失ったのではない
神が人間を見失ったのである
長い夜が来て
つまりいなくなったのは
私たちである


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モディリアーニのスフィンクス

2008年09月17日 10時48分52秒 | みなさんへ・その他
「モディリアーニのスフィンクスの前で」

 夏の盛りが過ぎた頃、仕事の合間をぬって中之島の国立国際美術館で開催されているモディリアーニ展を観てきた。平日にもかかわらず、鑑賞のためには行列にまぎれて粛々と進まねばならなかった。日本人のモディリアーニ好きは、ジャンヌとの悲劇的な物語とともに、線描による繊細な曲線にかすかなリズムと調和を感じる日本画的センスに支持されたものだろう。
 さて、その混沌として渦巻いている感想を、無理にひと言で述べるならば、彼の描いた人物像は極めて今日的な「スフィンクス」ではないか、ということである。モディリアーニに関心があるのにもかかわらず、僕が何を言っているかまるで分からない方は、ぜひもう一度、ズボロフスキーやジャンヌの前に立っていただきたい、と思う。
 テバイの丘に現れた頭が処女で胴が獅子のスフィンクスは、人々に謎々を与え答えられなければ食ってしまった。「終生同じ名で呼ばれながら、四つ足、二つ足、三つ足と姿を変えるものはなにか?」という問いである。「それは人間である」と正解した人物がかのオイィデプスであった。モディリアーニのモダンなスフィンクスは、そんな一般的な問いで一般的な答えをわれわれに期待するのではない。「君は私を前にして、私を誰だと思うのか? そしてそう答える君こそ自分を誰だと云うのだ?」という一歩進んだ問いでありる。実は古代スフィンクスの謎々の奥に潜んでいる、真実の問いはこれであり、オイディプスは自分の生涯をもって答えなければならなかったのだ。。
 さてモダン・スフィンクスのこの問いに正解しなければ食われてしまうことはないだろうが、その代わりモディリアーニの虜になることは確かなようだ。 スフィンクスに僕なりに答えるため、自分の拙い詩をはさませていただく。


 断言  


死ぬから愛するのだ
ということは本当だ

断言できる
アダムがイブを
イブがアダムを
心底愛しく思ったのは
林檎を食べて
連れの裸と
死を見てからだ

堕落
ということがもし
あるとしたら
それでも
死ねないことだ

アダムがイブのために
イブがアダムのために


 古代ローマより伝わる格言にラテン語で「メメント‐モリ(memento mori)」、つまり死を忘れるなというものがある。1884年にイタリヤで生まれたアメデオ・モディリアーニは、少年の頃から肺をわずらい、成人してからは過度の飲酒や放蕩がたたり、1920年肺結核をこじらせ35才の若さで死んだ。体と精神に死を抱擁していたとも形容できるモジリアーニの生にとっては、メメント‐モリなど全く必要のない警告であった。そして、彼のミューズとも呼ぶべき最愛の妻、ジャンヌは、その二日後に彼の後を追うのである。 
 彼は風景画や静物画をほとんど描かなかったが、その肖像画は生きている人のポートレイトというよりも、静物画の静謐な雰囲気とモノとしての落ち着きがある。死を抱擁しているのは彼の体と精神だけではない。最も彼らしい作品は、瞳が空のように塗りつぶされている肖像画に示されている。
 一般的に肖像画・肖像写真というもののの特徴は、我々鑑賞者を見返すその「まなざし」にある。写真にしろ絵画にしろ、額縁のなかにある眼差しの追跡を感じたことのない人はみしろ少ないだだろう。肖像画の原型は幼い頃から夢中になり、今なお毎朝お世話になっている自己の「鏡像」である。肖像画という特殊な鏡像においては、自分の本来の眼差しと、他者に移入され屈曲し戻ってきた自分の眼差しが交わるのである。
 モディリアーニの描く瞳の消された眼差しと、我々は永遠にコンタクトできない。我々の眼差しは、彼あるいは彼女のくり抜かれたような目を通過するが、つきあたる壁はなので、その空間は無限の奥行きである。モディリアーニの異才が的確にとらえたジャンヌやベアトリス、キスリング、スーティン、ズボロフスキー等の個性とは、実は「無」のはめた仮面、もしくは「無」の容器だと云える。もちろん無は死の別名であろう。
 モジリアーニの瞳のない目は、鏡の破れ目である。他者だと思い接している者が、実は自分の都合のよい他者、すなわち自己像であることはわれわれの常である。その鏡にモジリアーニは穴を穿ち個性の中心にある無を露出させた。。描かれている彼等のかもしだす孤独には、抒情的であるよりも、否応のない即物性がある。しかしそのことによって、自己の鏡像に酔うことなく死すべきものとしての他者に出会う可能性を得るのである。瞳の穴は失楽の印でもあるが、林檎を食べたアダムとイブのように、エデンを追放された時、はじめて愛の可能性を我々は夢見はじめたのである。

 ジャンヌの死は、モディリアーニの死のため、彼女が世をはかなんだせいではないだろう。もう一度モディリアーニとあくまでも生きようとしたのである。そして彼の残した絵にもし格言が一つあるならば、愛を忘れるな、ということではないだろうか。…と、僕は美術館に現れたスフィンクスを前にして、ずいぶん大昔、林檎をかじった記憶のある僕は答えたのである。







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モディリアーニ(その1)

2008年09月16日 01時55分11秒 | みなさんへ・その他
モディリアーニ(その1)

    

「スフィンクスの前に立つ」

 夏の盛りが過ぎた頃、仕事の合間をぬって国立国際美術館で開催されているモディリアーニ展を見てきた。平日だったにもかかわらず、行列を組みながら進まねばならなかった。日本人のモディリアーニ好きは、ジャンヌとの悲劇的な恋物語とともに、線描による繊細な曲線にかすかなリズムと調和を感じる日本画的センスによるものだろう。
 さて、その混沌とした感想を無理にひと言で述べるならば、彼の描いた人物像は今日的な「スフィンクス」はないか、ということである。モディリアーニに関心があるのにもかかわらず、僕が何を言っているかまるで分からない方は、ぜひもう一度、ズボロフスキーやジャンヌの前に立っていただきたい、と思うのである。
 テバイの丘に現れた頭が処女で胴が獅子のスフィンクスは、人々に謎々を与え答えられなければ食ってしまった。「終生同じ名で呼ばれながら、四つ足、二つ足、三つ足、四つ足と姿を変えるものはなにか?」という謎々である。「それは人間だ」と正解したのがオイデプスであった。モディリアーニのスフィンクスはそんな一般的な問いを発するのではない。「君は私を前にして、私を誰だと思うのか? そしてそう答える君は誰だと云うのだ?」…正解しなければ食われてしまうことはないだろうが、その代わりモディリアーニの虜になることは確かなようだ。

「近代の果ての孤独ということ」
 彼の描く人物は、それぞれ非常に個性的であり、おそらくそれが故の優しさと憂愁を我々見る物に与えてくれる。その感覚とは、現代美術としては稀少となってしまったロマンティズムある。とはいうものの、そのの根源には、非叙情的なる存在論的な構造があるだろう。描こうとする対象が個性的だといったが、正確にはいやおうなしにそこにある「モノ」の個別性と言ってよいだろう。それがわれわれの受け取る憂愁というものの正体である。、現代的なロマンティズムというものは、その意味で人間的というよりも物質的である。モジリアーニ肖像が語る孤独は、ものの哀れというような日本人の感傷に収斂できない、近代という営みの果てに見出した自己像、すなわち人間をも含む「自然」をコントロールし支配しようとする人間が陥った孤独である…そのあたりを探ってみたい。

 
「モノと仮面」
 彼はもちろん二次元的な画布上に、彫像を制作したといえる。そしてそれは仮面の本質を有した彫像である。彼の描こうとした人間の本質は、ああでもありこうでもあり得、つまるところ何でもあり得、何でもないところの「イメージ」ではなくむしろ人間にあるモノの質感である。しかしそれは「肉体」ということでもない。肉体というのはむしろ自由の根拠でもある。人間の実体を否応のない「モノ」としてとらえたのだ。そしてそのモノには瞳を来る抜かれた「穴」がある。その穴故にモジリアーニの肖像画には穴が空いて、反ポートレイトとも、あるいは最後のポートレイトとも云える位置に置かれている。彼以後、少なくとも画布の上では、人間は抽象化され、単なるイメージか記号、模様の類に変容されたのだ。写真、映画など映像の時代にはいり画のポートレイトが商業的になりたたなった。また絵画の芸術における存在理由として、リアリズムでは映像にとうてい太刀打ちできず、想像力もしくは無意識という場所に重心を移したのである。

 「モナリザ的仮面の本質」
 ダビンチは中性から近代へ、人間中心主義を切り開いた、無神論者であった。レオナルドダビンチのモナリザは人間的が仮面であることの告白である。多くの人は神秘的だと感受する、彼女の微笑みに邪悪さ(語調が強すぎれば「陰険」と言い換えてください)さを読み取ることはそれほど難しくはないだろう。ただ、鑑賞者が自分の生きている邪悪さに気がつきたくないために、世間に流布されている「モナリザの微笑み=神秘的」という共同のコードを利用し、その正直な直感を打消すのだ。
 モナリザは近代的、人間の鏡像であり仮面である。その意味は仮面の背後に意志と欲望の主体である自我が控えていて、その眼差しの元、浮かべる表情の薄笑いとは、親密性という笑いの本質を否定するところの、敵意、支配欲、相手を表情にコントロールしようとする隠された意志である。モナリザファンは、この意見に容易に同意しないだろうが、同じ画家による「洗礼者ヨハネ」の両性具有の不気味な笑いを思い出していただきたい。モナリザが実はダビンチの自己像であるだとか、モナリザは未亡人でその笑いは哀しみを隠しているとか、その右半分の顔は女であり、左の顔半分は男であるというような、俗説がある。要するに神から離れることのできた画家は、ニーチェが見抜いたように、人間の持つ両面性である善と悪を躊躇することなく描けた。また彼に続く神から離れた人間達は人生を躊躇なく善と悪の全体性で生きうるのだ。その全体性とはひと言で言うと個人の根拠としての隠された「欲望」と名付けてよいだろう。そして欲望の対象は、人ではなくあくまでも間としての自然である。本質的に私の他に外部としての他者をもたないのである。人間一般の問いに果敢に答えることの出来たオイディプスは、他者としての「汝自身」を知らない自信満々の男であった。父を殺し母と結婚した自分の運命を知ったとき、自分から進んで文字通りの盲目となる。それまで、彼は父や母や自分と出会い損ねていたのである。
 さて、その意味でモナリザもダビンチも出会いそこねの途上にある。

 「モディリアーニの画は、仮面的な彫像である」

 この度の展覧会の企画者であるマルク・レステリーニ氏は、モディリアーニの人物像がプリミティヴィズム(原始主義)に根ざしたものだと断言している。他の芸術家達のプリミティヴィズムの影響が一過性だったのに比べ、彼のそれは基本原として用いたと述べる。なるほど、冒頭で彼の画を、スフィンクスになぞらえたた僕の主観は、スフィンクスがアフリカの工芸品や彫像でないにしろ、まったく根拠のないことでもなさそうだ。 画布上のに次元に、彼は三次元空間の仮面的な彫像を造ったのだといえる。
 同時代のピカソのキュービズムが多視点からの描写を二次元上に再構成を行った。いわば立体的な紙のサイコロを伸ばして平面にしたものである。定点にいながらにして、すべての視点からの対象の眺望を我がものにする、究極の見る欲望である。効果としては徹底的な二次元性であり鑑賞者は一歩も動けない。画の裏にまわることが可能性として許されていない。これに対し、モジリアーニの画においてわれわれは可能性としての他視点を得ている。画の後ろからみたり、近づいて触ったり、腕をまわして抱くことも、可能性として許されている。
 彼の画が彫像的であることの根拠を、絵画技術的に述べることは素人の僕にはできない。ただ彼はもともと彫刻家を目指していて、健康上の理由からそれを断念したことを指摘しておこう。


  「創世記」

 さて閑話休題、僕の拙い詩をはさむ。



 断言  


死ぬから愛するのだ
ということは本当だ

断言できる
アダムがイブを
イブがアダムを
心底愛しく思ったのは
林檎を食べて
連れの裸と
死を見てからだ

堕落
ということがもし
あるとしたら
それでも
死ねないことだ

アダムがイブのために
イブがアダムのために



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南米特集「秘境」

2008年09月12日 00時19分48秒 | 詩の習作
 南米特集「秘境」
     尾崎まこと


ギアナ高地のエンジェルの滝より
もっと密やかで激しい
大仕掛けの秘境があるだろう
私の空とあなたの大陸に

私どもの身体には
深淵の亀裂が刻まれており
昨日より溢れてきた水か
明日という奈落のほうへ
とうとう流れ落ちている
すべてが昨日になると
私どもの物語は終わりだから
この瞬間の幅と
死者しか分からない深さで
昨日を明日へ交換する装置
命の秘境 命の瀑布である

落ちている私のいちまいの水に
蒼い刺青の男の神の仮面を流せば
獣の口は ほう ほう ほう
と火吹きあなたを呼ばわり
いちまいになろうよ 

落ちているあなたのいちまいの水に
朱の刺青の
女の神の仮面を流せば
楕円の口は苦しくゆがみ 
おう おう おう としぶいて私に答え
いちまいになるよ 

合流のいちまいの燃える水
甦るビックバンの記憶
星のしぶきを暗黒の宇宙に
ばらまけい ばらまけい ばらまけい

夜は秘蹟である
しかし来るのは明日ではなく
いちまいの朝であった
薄明の底に白い布が横たわっている
二枚

耳を澄ませばいつでも
今ここにある秘境
私とあなた






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最後の一編

2008年09月10日 00時28分23秒 | 詩の習作
日本の詩人の中で
まだ誰も言わないことだけれど
誰かは言い始めねばならないだろう
日本の詩の最後の一編は
あの聞きとりにくい朗読であった

それから詩はみごと滅んだと
そのために詩人は喪中であると
残ったのは通夜のざわめきであると

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