尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

ソフィー

2006年03月31日 11時18分46秒 | 詩の習作
胃袋の
先端であるような
二本の脣を
禁欲的に
きっと結んで
いいから
この濁ったカフィーを
飲みたまえ

 絵本の時代
 この悦びさえあれば
 生きていける
 なんて、君
 呆けて
 情欲をのんだことも
 あるだろう

あのね 胃袋は
人のほんとうの瞳なんだ
夜より暗い液体は
夜より深い
瞳に落ちていく
宇宙の深さを
埋めている
銀河の列に
カフィーの
苦い甘い
簾(すだれ)かかる

哀しい目をして
ソフィー
もう
言葉は呑むな

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展覧会

2006年03月30日 16時29分48秒 | 詩の習作
誰もいない展覧会
気取ってしまう

会場をこつこつ
木靴で歩いた
突然
絵の額縁は
金色の窓の枠である
と、僕は思いたった

頭でガラスと絵と
壁をぶち抜いて
風をまねきいれた
五月の景色に
頭をさし込んだのだ
ざまあみろ
これがほんものの
風景だ
お前は
いつも偽物だ

絵の具のような
赤い血を
額から滴らしていると
白いパラソルを
片手にぶらさげた
どこかで見たことのあるような
婦人が通りがかり
そのまま通り過ぎる
と思ったら
振り返った

目が合った瞬間
パラソルが
パット開いて
一面真っ白になって

思い出した
私は自画像である
私が絵である

婦人は
見たことのあるような
男だわ
この傷も
と独り言を言うと
気取って
次の部屋に向かった
こつこつ響きわたる
木靴の音は
永遠のように
さびしい音だ

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難破船

2006年03月30日 15時32分50秒 | 詩の習作
かわいいけれど
実に苦そうな
胆嚢だ
舌だ
尾てい骨だ

五月の空に
さわやかな
風が吹けば
空と風は
五線譜になって
その上を
果物のような漂流物が
優雅に静かに
流されてゆきます

形の良い
脚だ
喉仏だ
心臓だ

ピンク色の
鼻だ
乳房だ
脣だ
…なんだ
あの頃の
君じゃないか

どんな夢が
難破したの?

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岸田秀「二十世紀を精神分析する」

2006年03月30日 00時38分14秒 | 読書記録
題はアカデミックであるが、実は1992年から1996年にかけて新聞や雑誌に書かれたものを集めた、雑文集。
それでも未だに説得力を持った日本の文化論になっている。

史的唯物論はソ連の崩壊などによって今や放棄されたが、著者は崩壊以前から「史的幻想論」を唱え、その理論により様々な社会的現象を説明してきた。
その骨子をまとめておきます。

歴史を動かす最大の要因は、幻想である。
 
動物の一種である人間の、行動規範になるはずの本能は崩れている。
本能に変わり行動規範の機能を持つ自我を人間は形成する。
つまり男である、社長である、日本人であるというような自己規定によって、
行動を決定する。
自我を形成するために、その起源を説明し、自我の存在を価値づけるために、
物語を必要とする。
そのために自分の恥ずべき屈辱的な経験を抑圧し、詐りの自我の物語を形成する。
この意味で個人も集団も精神的に病んでいる。
嘘を知っている自分と、隠蔽する自分の二つに、自我が分裂するからである。

世界は医者のいない巨大な精神病院である。

日本は1853年にペリーに強姦され、その屈辱感を抑圧したために、アメリカを崇拝する外的自己と、憎悪する内的自己に分裂した。
真珠湾奇襲の真の動機はこの内的自己の暴発である。
真珠湾以後の日本の勝ち戦はほとんどないこと、戦略がさっぱりないことは開戦が
合理的判断ではなく病的な衝動的反応であったことを証明している。

ソ連帝国と大日本帝国の寿命は両国ともほぼ70年である。
両帝国とも、西欧への劣等感、被害者意識、侵略される恐怖が建国の動機であり、国策の基本であった。
ソ連が西洋より優位に立つために共産主義理論を信じ、実践し、日本は同じ目的のために、万世一系天皇を信じた。

近代日本はペリーショックのため外的日本と内的自己とに分裂し、真珠湾攻撃はその内的自己の爆発であった。
敗戦後は、外的自己が自我(国家で言えば内閣)の中心を占め、内的自己はもっぱら抑圧されてきた。
社会党という現象は、アメリカに押しつけられた日本の平和憲法と非武装化を援護する反米政党という、一種ねじれ現象である。
この政党の役割は、戦後日本の体制、すなわち日本の親米的自我構造から切り離され、戦後日本においては表向き満足されようのない内的自己のある種の感情を空想的、観念的、象徴的レベルで満足させることにある。

〈資本主義はなせ世界を制覇したか〉
近代は西欧の資本主義をめぐって展開し、多くの文化が脅威を受け、滅び、混乱した。明治維新も、ロシア革命も、その防衛的なリアクションと考えられる。

人間は本能の壊れた動物である。
本能の断片を寄せ集め、何とか人為的な形にはめこみ、それによって生きようとしてきた。その形が、在る民族の固有の文化と呼ばれるものだ。
ほとんどの民族は自前の文化で比較的安定して生き延びてこられたが、例外の民族があった。
ヨーロッパ民族である。
彼らはゲルマン神話など、固有の神、固有の文化を持っていたがローマ帝国の植民地となったため放棄させられた。

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夜の犬

2006年03月28日 20時57分22秒 | 少年詩集
流れ星が来ると
しっぽをふる

夜は
なんと胴の長い
犬だこと

人が眠ると
かわりに
まぶたをあけて
番をする
瞳の深さは
宇宙の
星で満たされている

人の幸せな夢に
天の川の
しっぽをふる

コメント (2)
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東浩紀「動物化するポストモダン」

2006年03月28日 14時24分03秒 | 読書記録
日本の1970年代以降の文化的世界を「ポストモダン」と呼び、オタク系文化の特質からその構造を考察している。導入部を要約しますので、興味在る方は700円を本屋さんに払いましょう。語り口は明快で爽快だけど、内容はずしんと応えます。

オタク系文化は、雑誌文化、SF、コンピューター・ゲーム、アニメ、特撮…すべての起源はアメリカから輸入された戦後のサブカルチャーであった。その歩みはアメリカ文化をいかに国産化するか、その換骨奪胎の歴史だったのであり、高度成長期のイデオロギーをみごとに反映している。オタク系文化の「日本的な意匠」は、近代以前の日本と素朴に連続するのではなく、そのような連続性を破滅させたアメリカニズム(消費の論理)から誕生した。敗戦で滅びた古き良き日本を、アメリカ産の材料で再び「擬似的な日本」を作り上げようとする屈折した欲望がひそんでいる。
1980年代バブル期の日本において、アメリカニズムの日本への浸透はもはや考えなくてもよい、日本主義のアメリカへの浸透を考えるべきだという風潮がポストモダニズムの流行を支え、オタク文化の伸張にも同じ要因が働いた。
1990年代、バブル崩壊、阪神大震災、オウム事件、学級崩壊、が話題となった時代にその浮遊感はほとんど消滅したが…。

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夜店

2006年03月28日 00時21分32秒 | 詩の習作
疲れたら
目をつむる

自分のお面の
裏側が見える

はずせそうだ

ひょっとこや
狐と並べて
夢の夜店にかざる

毛と草が
伸びる

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カラス

2006年03月28日 00時06分23秒 | 詩の習作
寝ていると
箸で俺の骨をつつく奴が来る
泣いている


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ステラへ

2006年03月26日 22時24分07秒 | 詩の習作
ステラへ

この世から逃げたいのは
私ではありません
二本の脚です
あなたを呪うのは
私ではありません
夜の言葉たちです
あなたを愛したのは
私ではありません
目と耳と皮膚です
あなたを倒したいのは
私ではありません
毛だらけの腕です
それでも
わずかな望みをもって
生きようとしているのは
私ではありません
紫色の心臓です
つまり、ステラ
あなたが捨てたのは
私ではなくて
体と言葉を脱いだもの
真っ裸
魂と呼ばれるものでした

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佐古祐二「詩人・杉山平一論」

2006年03月25日 00時50分10秒 | 読書記録
戦後から現代まで貫いている「現代性」というものがもし、あるとしたら…。
その現代性とは、たとえば杉山平一の詩に現れている、戦前・戦中の日本の最も誠実で善良な精神を、四季派だとか抒情詩だとかいう分類で、蔑視または無視して成立しただろういわゆる「現代詩」が語り続けるところの、不毛で陰惨な何者かである。(これをはっきり見据えている詩人はいない。)
現代詩の将来、というケチなことではなくて、民主主義の内実が権力の陰謀や誘導ではなくて、むしろアトム化した個人の内側から崩れ出した今、杉山さんの詩と筆者の杉山平一論を合わせて読む時間は、人間として決して遠回りではない。


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水族

2006年03月23日 20時18分45秒 | アバンギャルド集
地底の
部厚いグラスが
はじいているのは
水だけではない

海を飲み干そうとした
北欧の神を
思い出す

いくら歩いても
股から声を出す
若い女のナレーション
になじめない
彼女は
決定的に勘違いしている

ジャパンは
暗いわね

一生気がつかない
自分の本当の年に

魚は嘘をつかない

人間に足があり
魚に鰭(ひれ)がある
人間の鰭
魚の足を考える

水族
の億年の沈黙
ここはどこだろう

閉館時
魚たちが
突然
歌い出す
うろこを
木の葉のように
落としながら

君が代

目の前の
グラスを割れ
目の前の
海を呑め

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ラーメンの鉢の縁にて

2006年03月22日 21時22分52秒 | 詩の習作
孤立しているのは
ワタクシではなくて
世界だ
地球だ
雨音だ
夜をはしる
ヘッドライトだと
思って
ラーメンをすする
最後に
ラーメンの鉢の縁を
なめる


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ブルドッグ

2006年03月21日 11時56分28秒 | アバンギャルド集
赤いバラの
頭を振り
歯ぎしりしながら
黄色い道を行く
そんな
ブルドッグ

振り向いて
僕に
吠えました

悲しい

僕は聞きました
ホワイ?

アンサー
バラと犬であること!


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ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

2006年03月21日 11時41分49秒 | 哲学と詩学の栞
学生の頃、難しいなりに読もうとしたことがある。
それから今まで、読んだ内容の印象からか、
ウィトゲンシュタインは若くして自殺したとばかり思っていた。
実際は、八人兄弟のうち三人が自殺したが、彼は自殺を回避し60過ぎまで生きている。
僕は、未だにその内容は読み切れないで、詩的な断片として感覚的になぞるだけである。恐らく正しい読みかたではないけれど、テキストには奇妙な緊張感があって、その行間からぎりぎりのところでポエジイが立ちのぼっている。
天才の生きるに難しいことと、凡人の生きるに難しいことは、大差ない。

〈序〉
およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じ得ないことついては、ひとは沈黙せねばならない。(略)限界は、言語においてのみ引かれうる。そしてその向こう側は、ただナンセンスなのである。

(六・四一)
世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。(略)
(六・四二)
それゆえ倫理学の命題も存在しえない。
(六・四三二)
世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない。
(六・四四)
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
(六・五二)
生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。


…生の問題の解決は、生とともにないだろう、なくてよいのだ、という実際的な解決のしかたもある。(まこと)
コメント (3)
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内田 樹「寝ながら学べる構造主義」

2006年03月18日 00時13分26秒 | 読書記録
「私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。『知りたくない』からです」という、認識から始まるまじめな構造主義の入門書。ソシュール、フーコー、バルト、ラカンを構造主義の四銃士として重点的に取り上げ、著者が本気で読者に分かるように書いている。
 以下、著者による構造主義の考え方の概要を引用しますので、興味ある方は読んでください。わかったかどうかは別として、寝ながら読みました。
 
 私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する集団社会が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題になることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自立的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自立性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。

 日本における構造主義の流行は、現実から逃避することを隠れた目的として、シニカルな傍観者的評論を楽しむためにのみ利用されたいきさつがあるが、その批判的定着と応用は(ポスト構造主義と言われているにも拘わらず)これからの課題であるだろう。

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