「交差点…写真考」
詩というものは、
言葉に頼っていることからして、
どこか人間的なおめでたいところがあります。
詩人というものの孤独は、つまるところ通じると思っていたはずの言葉が
意外にも通じなかったということで、
中也にしろ朔太郎にしても、お坊ちゃんのような、
どこが間の抜けたところがあります。
かれらは言葉をあきらめていないのです。
もちろん、その純粋な失意が、日々言葉が通じない非情の世界に生きていて、ほんとうのところ、言葉をあきらめている凡人のわれわれに感動を呼び起こすのです。
さて、カメラをぶら下げて歩くだけで、
普段は気がつかず通り過ぎてしまっている
面白い被写体に出あうことができます。
不思議なことに僕は
いつも自分にしゃべりかけながら
写真を撮っています。
時間の流れの中にありながら
時間を切り取っていくということ、
その切り取り方が、道具と偶然に便りながら
もうひとつの自分であるということなど、
いつもファインダーの中は、
非情と情の交差点にあります。
そして、非情と情は立体交差になっており、
俯瞰の位置からは交わって見えるはずですが、実はどこまでも
擦れ違っているのです。
シャッターを切る前後に、
僕は、ただしゃべり続けます。
その言葉は、誰かに通じると言う望みから、
全く見放されています。
だから、撮るのです。
撮っているのは僕ではなくて、
言葉のすれっからし、
かもしれません。