ベリーダンススタジオ★☆★ぱわふるマドンナ★☆★ 主宰・坂口せつ子 

ベリーダンスにヨガ、深層美容術、トータルであなたの人生をサポートします。新しい自分を再発見してみませんか。

すてきないのち vol.113

2007-03-15 23:00:47 | すてきな命
 安中市にある「リベルタ」は精神障害者授産施設として二年前にスタートした。そこでは遠赤外線による、しっとりとしたパンができる溶岩窯がある。ここでスタッフと通所者で毎日パンをつくり、市役所や郵便局、病院などで販売している。リベルタに定期的に購入に来る愛用者も多いという。他に内職のような仕事を地味にこなしている通所者を含めて利用者は二十人、社会と病院の間で人間らしさと自立をめざしてこの施設はつくられたと思う。
 この施設の開設者は、安中市中宿にある「桐の木クリニック」院長、半田文穂先生だ。桐の木クリニックのスタッフは、全員私服で、白衣は着ない。名札も付けていない。建物はペンションのようで、明るく暖かい。入院設備はない。毎日毎日、クリニックに来る人たちは待合室にあふれている。半田先生は東大農学部、群大医学部を経てドイツで学んだ。先生に出会った十数年前、先生の翻訳したイタリアの精神科医バザーリアの「自由こそ治療だ」という本を見た。混沌としたこの時代、先生はハードスケジュールの中で、夜間の看護学校の講師をこなしながら、きっと命尽きるまで一人ひとりの縁のあった人間と心を込めて向き合ってゆくのだろうと思う。最近の先生は、年を重ねるごとにますます心身ともに健康的で輝いて見える。
(坂口せつこ)

(高崎市民新聞 2005年10月13日)

すてきないのち vol.101

2007-03-15 22:51:41 | すてきな命
 ジム・ヘイは、アメリカ・ミシガン州生まれ。六十二歳。高崎市の姉妹都市バトルクリークからやって来た。日本暮らしは十五年になる。日本女性と結婚し、箕郷町に住んでいる。最近、彼の家を訪問した。もともと芸術家のジムのセンスは、玄関前からキッチン、リビング、ゲストルーム、すべてに表現されていた。
 パッチワークというと、ベッドカバーなどを思いつく人も多いと思うが、複数のミシンを活用し、絵画のように、自由に、大胆に、そして立体的に大きな壁掛けなどを仕上げる。リビングには、彼の手作りの収納付きソファ、壁のタペストリーは、金の生地のパッチワークに、実物大の松の木が見事に表現されている。
 ジムが布を利用した作品の制作を始めたきっかけは、今の家に引っ越した時のカーテン製作だ。アイデアが自然に湧き出てしまう。楽しいユニークな手作りインテリアが、次々に私の目に入る。シティギャラリーの個展がきっかけで、韓国でも個展をした。
 奥様と三人で話し合った。ソーイングや料理をしながらの英会話クラス。一石二鳥、三鳥。「あなたの生活を楽しく創造しよう」なんてクラスどうですか。ジムとの出会いから十五年目、自由で楽しいジムと私の人生も重なる。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2005年3月31日)

すてきないのち vol.108

2007-03-15 22:47:22 | すてきな命
 八十八歳の米寿のお祝いで、私たちは老人施設で童謡を歌った。車いすや座ったままだったが、認知症のお年寄りの方達とエアロビクスもした。軽快なリズムに笑顔ではしゃいでくれた。弁護士の角田儀平治さんの米寿のご挨拶は、戦前、戦後の荒波を乗り越えた果敢な人生を語ってくれた。角田先生は、「散歩をしながら道の端にいる小さなありさんにも話しかけ、心を通わせ楽しんでいる」と話していた。
 お昼をごちそうになり、角田先生やみんなと伊香保温泉にでかけることになっていた。私は「レッスンがあるので行けない」と言った。すると角田先生は私のところに来て耳元に手をあてて、小さな声で囁いた。「後で二人きりで行こう」あまりの言葉に思わず「ハイッ!」。
 そして何年かが過ぎ、角田先生が亡くなったことを知った。ある時、角田義一さんにお会いする機会があり、その話をした。「父は坂口さんをナンパしたのですね」と義一さん。その後、東京駅の新幹線ホームで、偶然、義一さんにお会いした時も「父がナンパした方ですね」と覚えておられた。
 庶民のために闘う弁護士、角田儀平治。角田先生の豊かで自由でさわやかな言葉だった。もっと、角田先生に教えていただきたいことがあるのにと思いながら、それきりになってしまった貴重なご縁だった。(坂口せつこ)

(高崎市民新聞 2005年7月21日)

すてきないのち vol.109

2007-03-14 07:45:54 | すてきな命
 近所にある「山田かまち美術館」には、全国から多くの若者が来る。館長の廣瀬さんはそんな若者達からたよりにされていて、なにかある度に、遠くからたずねてくる若者と接してきた。七月二十日から二十四日まで、サンフランシスコから来た、私の友人胤森(たねもり)さんの作品を展示させて頂く前に、打ち合わせため美術館をたずねると、館長さんは、東京から来館した女性と話しをしていた。私はその矢萩友恵さんとすっかり仲良しになり、箕郷町のレストランで食事をし、山へおいしい水を汲みにいった。
 空気がおいしいと言ってくれた。お話しを聞くと、矢萩さんはアスベスト被害者で、この春、呼吸ができなくなり、自分で救急車を呼び、一命をとりとめたという。以前は、歌手としてハワイや都内のホテルのラウンジなどで歌っていたそうだ。今は資格をとり、介護の仕事をしているという。
 矢萩さんは、展覧会の最終日にまた来てくれて、胤森さんにレットイットビーを歌ってくれた。彼女は展覧会が終わったあと、すてきな命ネットにカンパを振り込んでくれた。
 私が感謝のメールを送ると、返信の最後に「頑張ることは止めましたが逃げませんよ、私は」とあった。現実をしっかり受け止め、美しく純粋に生きている二十九歳の彼女の歌声は美しかった。(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2005年8月5日)

すてきないのち vol.110

2007-03-14 07:42:55 | すてきな命
 抱えきれないほどの花束が届いた。カサブランカ、らん、美空ひばりピースローズ(一本で二本のワクチンになる)、それぞれ十数本ずつ。ダンスクラスの最中だったので、中断してみんなで写真を撮った。私のことをとても慕ってくれる女の子からだった。私はみんなが帰ってから、すぐに電話をした。
 「せっちゃん、世界中の戦争や病気や災害で大変な思いをしている子ども達がせっちゃんに手紙を書きたいと思っているの。でも書けないから私が代表して、前から抱えきれないほどの花束を贈ろうと思っていたの。あと、あとね、世界中の、いいことをしている人達に感謝の気持ちでいっぱいなの。で、せっちゃんはその代表として贈りたかったの」。彼女に私は「まいちゃん、どんな花か見ていないでしょう。迎えに行くから見に来て」。「ウン」。コンビニでカメラを買った。「私がせっちゃんを撮る」。カメラから私を覗く彼女は「ワーお花が照れてる。せっちゃんきれいー」。
 見返りを求めない愛で、ひたむきに接してくれるまいちゃんの世界観、感性の鋭さは、精神的な苦労を乗り越えた人のみが所有するものだ。また、彼女のお母さんも、今のまいちゃんを丸ごと愛し、認めている。「私はノータッチよ、せっちゃん。ぼぅっと生きてる」。
 私たちは邪心を捨てて、もっともっと美しく生きなければ。(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2005年8月25日)

3月6日

2007-03-06 23:57:38 | 日記
午後1 1時今日の最後のclassが終わった。Madonnaプロ養成コースの二人みわとみわこ。3月24日にせつこと3人で本庄jaguerでべりーを踊る。目標があるとみんな一生懸命お稽古をする。今回いつもステージングしているえりかは踊らない。是非皆さん本庄jaguerにきてください。12時前ですと女性は入場料無料です。ペルー人の経営するjaguerはお客様も南米の人ばかり。サルサなど踊りがとても上手です!

すてきないのち vol.126

2007-03-05 20:48:57 | すてきな命
 アバスさん六十三歳は、日本に来て十六年になる。イラン革命の王制の時に、十七年間、政府の秘密警察の高官をしていた。鉄格子の中に長く入り、多くの苦難をくぐり抜け、仲間を失い、イバイ経由で日本に亡命した。
 東京に七年間住んだ。後に妻や子ども達も日本に来たが、子ども達は巣立ち、数年前、妻と太田でレストランを開いた。言葉の壁もあり、妻はイランに帰ってしまった。世界中どこにでも行けるが、イランにだけは帰れない。
 アバスさんとは、私が踊らせていただく伊勢崎のペルシャ料理レストランビータでお会いした。私の踊りを見てほめてくれるアバスさんの品の良さや礼儀正しさから、高官だった若かりし日の美男子の姿が想像できる。王制の時代、イランには国営のキャバレーが全国に数カ所あり、ベリーダンスも踊られていたと懐かしそうに語った。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2006年6月1日号より)

すてきないのち vol.129

2007-03-05 20:45:20 | すてきな命
 星野富弘さんが県内七人目の名誉県民に選ばれた。六月二十日、群馬県名誉県民顕彰式が行われた。その富弘さんの挨拶は、「名誉県民に選ばれたのだから、子供のころ近所のすももを取ってしまったことを黙っておくように、友人から電話がありました」などと言い、会場を笑いでほぐした。「素晴らしい事、大切な宝物は苦しい辛いところからやってきました」というような話をしたと、富弘を囲む会の世話役をしている私の子供の父親から聞いた。
 富弘さんの詩画は今、世界中の人に勇気や感動を与え続けている。十数年まえ聾唖者の映画を上映する実行委員会で事務局長をした時に、ある聾唖者夫婦がわすれな草の花を持ってゆき、チケットを富弘さんの絵でつくりたいと直談判したことがある。
もちろん後日のお返事だったが、引き受けてくださった。高崎の上映会にわざわざ勢多郡東村から来てくださった。美しい山々を眺めながら後日私は子供達と私の母と散歩にご一緒させて頂いた。山百合が咲いていた。「この花は夜街のホステスさんのような匂いがしますねー」などと言っていた。わたしの母が「どこか痛いところはないですか」と聞くと、「時々ときめいて胸が痛いんですよ」と答えていた。私の母はきょとんとしていた。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2006年7月13日号より)

すてきないのち vol.132

2007-03-05 00:22:32 | すてきな命
-昭和十七年度、比較的豊かな川場村政。その村の教育熱心な先生方の「この村からも女性師範を」という勧めで試験に臨んだが、初日だけであとは高熱が出て果たせなかった。これも運命と思い、その後、検定試験で初等科訓導の資格を得た。昭和十九年九月三十日、十六才四カ月で教職についた。それ以来四十二年六カ月、定年に二年残して教壇を降りた。
 何代か前、隣村から移ったという我が家はわずかな田畑の小作。厳しく正義感強い頑固な父と人柄の良い母。読み書きソロバン、板金工、大工、竹細工、裁縫料理、華道に語り、山岳信仰に神主、易学名付け、百姓も上々と器用な父。母は誠実で働き者。人情味があり、人生訓や子どもの頃の記憶の良さには驚いた。思えば金剛石のようなもの。学ぶ折りがなかっただけで本当に誰よりも頭が良かったのかと-
 以上は林香先生の文章。今月十六日、「私の人生」と題して林先生の講演会が開かれた。九人兄弟の長女。貧乏で無学なんだよと語る。物の豊かな今、こんな先生を生む家族や環境をあらためて貴重と思う。先生は七十八才。家の中は物がいっぱい。「白い紙は売っていても、色々書いた紙は売ってないんだよ」と人生と父と母の教訓を私たちに伝えてくれる。

(高崎市民新聞 2006年9月21日号より)

すてきないのち vol.139

2007-03-05 00:14:02 | すてきな命
この春、統一地方選が行われる。高崎市も合併によりマンモス都市になった。この春、どんな議員が顔を揃えるのか楽しみだ。
 政治とは、自分の車だけきれいにして、信号待ちで山盛りの灰皿を捨てるような人は失格だ。群馬県全体の中の高崎市、日本全体の中の群馬、世界の中の日本、さらに宇宙銀河系の中の地球。バランス感覚を磨き抜き、より永続可能な平和な社会づくりセンスのある人が望まれる。
 以前、千葉知事選の時に知り合った車椅子の市議会議員がいた。彼が初当選した時、議員庁舎は車椅子で自由に移動できるようにバリアフリーに改造されたそうだ。宮崎県知事選のように、新たに政治学を身に付けての出馬は必要にしても、世の中を良くしようという志があれば、主婦やハンディのある人、お年寄り、若い人、色々な職業の人、あらゆる立場の人が議員になれたらよいと思う。
 未来はつくるもの。車椅子の人が議員になっただけで、議会がバリアフリーになった。存在そのものが社会を変える。過去の戦争をはじめ悲しい出来事を無駄にしないで、人を、国を、文化を認め合いながら平和で豊かな社会づくりのために、清い一票に託して投票しよう。

(高崎市民新聞 2007年1月25日号より)