●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

苦しみの意味

2006年09月09日 | こころの健康

私はこの夏、言葉では言い表す事の出来ない程の苦しみを味わいました。キリスト教を誤解している人達は、信仰しているのに何で苦しみがあるんだ?それでは信じていない人達と同じではないか?と思われるかも知れませんね

それが新興宗教の御利益信仰と、キリスト教の大きな違いです。イエスさまは確かに奇跡をなさいます。しかし、あの幸運を呼ぶ黄色い財布みたいに、誰彼となく状況を無視して買わせ、意味なく不思議をなさる(本当に儲かるの?・笑)訳ではありません。

優しい大富豪の父親と、息子のような関係でしょうか?息子が後継者だからと言って闇雲に何でも与えたりはしません。必要な時に必要な物を、求めに応じて与えます
私には本心から治りたいと言う願いが薄かったのです。長年、病気の上に安住していて、治ったら困ると思える事柄もあったのです

しかし、この夏の言葉には出来ない苦しみや、先日の恐ろしい程の不安と恐怖で、私はお腹の底から、心の奥深くから治りたいと叫ぶ事が出来ました。
イエスさまは私がそれを言うのをじっと待っていて下さったのです。私と一緒に苦しみながら、本気になるのを待っていて下さいました。誰が子供の苦しい所が見たいでしょうか。でも、私がそれに気付かなければ、治っても元のもくあみです。

キリスト教の神さまは人格?神格を持っていらっしゃるので、闇雲に権力を行使したりはなさいません。あくまで、私達の同意を待っていらっしゃるのです。
と言う訳で私は本気になり、病気が癒される事を祈っています

そこでイエスは、さらにこう言われた。「あなたは何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「目が見えるようになることです。」(マルコ10章51節)



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