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人は、誰かに対して罪を犯した場合に、
自分は悪くないと開き直るか、自分で関係を修復しようと策を練るかすると思います。
時によって、私は両方あります。
20年程前に、親しかった友達と関係がこじれてしまった時には、
最初は、「自分は悪くない」と味方を探しました。
その内に、それはいけないと思い、今度は自分で和解しようと奔走しました。
その和解は、自分の平安を得るためであって、
本当に相手の事を思っての事ではありませんでした。
ですから、近寄れば近寄る程に相手を傷つけている事に、
全く気づかず、更に傷を深める事になりました。
まさに、相手が嫌がっているのに、押し付ける和解です。
和解と言う良きものも、私の自我が覆い被さり、かえって傷つけてる事に、
全く気が付かずにいると言う、愚かな自分でした。
その後、少しずつ彼女と出会う機会があり、普通に話すことが出来ました。
しかし、もちろんもう友達に戻ることはありませんでしたが…
では、本当の和解はどうしたら得られたのでしょうか?
私は、最近こう思います。
相手との和解も、相手を許すことも自分の方策に頼らず、
神さまの方法と、時を待つことだと思うようになりました。
自分の方策は、どんなに「良いこと」と思えても、
所詮、それは自我のなす業です。
本当の和解には、神さまの御介入が必要だと認め、祈って待ち望み、
その時には、心からの気持ちと行為をもって謝罪すべきだと思います。
良い行いは、神さまが用意して下さるのです。
そして全ての栄光を主にお返しして、感謝を受け取ることだと思います。
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