今年の夏から旦那の故郷パキスタンで暮らしている
長女と孫3人の近況を知らせるメール&画像が彼女からよく届きます。
昨日のそれによると15日はイスラム教徒(ムスリム)の宗教的祝日「犠牲祭」で
その詳しい、かつ難しい宗教的意味合いはともかくとして
飼っている羊や山羊、牛、ラクダなどの家畜を
各家庭ごとに生贄(いけにえ)として捧げてこの日を祝うのだそうです。
孫のR君とHちゃんと一緒に写っているのが毎日可愛がっていた羊
そしてその向こうに手綱を引かれて黒い鼻先だけ少し見えるのが牛
家族や親族、友人を招いてこれらを食べることになるそうな…。
50年近く前までは日本でも、町の肉屋がその場でニワトリを肉にしていて
頭を切られたニワトリが道を走り回っているのを何度か見たことがあり
特に残酷さは感じた覚えは全くありません。
大体から、牛や豚の場でさえ市街地にすぐ隣接した場所にあり、横を流れる川に
血や小さな残骸を垂れ流し、かつ生臭い臭いが漂っていた排水溝付近は
ジンケンやハヤ(皆がそう呼んでいただけで正確な名前は知りません)の
絶好の釣り場になっていたものです。
ちなみにこの頃、肉にする作業を“御す(ぎょす)”と言っていたような
覚えがあるのですが、辞書に載っていないので記憶違いかもしれません。
時代は移り、現代の日本では例え食用であっても
動物を“”する場面を目にすることはなくなってしまったのですから
彼らの犠牲の上に我々の命が存在することを実感できる場は
なくなってしまったと言ってもよいのでしょう。
ところで、テレビで昔、アフリカの“狩猟民族”が日本を訪れ
寿司屋の人前でのマグロの解体ショーや活造りの刺身を作るシーンに
目を背けているのを見て、ちょっとばかりカルチャーショックを感じたことがあります。
魚は目の前でさばき、さらに生で口にするのも平気なのに動物は出来ない
これは決して今の万国共通でないことを知ったからでした。
(とさつ)は屠畜(とちく)とも言い、家畜等の動物を殺すことです。
近年の日本では「屠」の文字が常用漢字ではないことから
「と殺」や「と畜」表記されることも多く、一般的には食肉や皮革等を得るためですが
伝染病に感染した家畜を殺処分する場合にも使用されるようです。
ただし、この言葉はこれ以外に特に該当する言い変え語がないのですが
差別用語と見なされる場合があり、「食肉加工業」の中に
曖昧化されて含まれる傾向があるとされています。
事実、普段耳にすることはほとんどないのではないでしょうか。