copyright (c)ぴーきん
絵じゃないかぐるーぷ
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「
3000人が1日に、どっと押し寄せ後は閑古鳥。
よりも、
100人が30日間ひきも切らずだらだらと路歩きなどに。
「左琴」「右書」ならぬ古書・新書に導かれて、
あなただけのピンポイント地方めぐりを!
」 「左琴」(万葉集巻五参照) (c)ちふ・ぴーきん
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* 三輪のそうめんづくり
そうめんを干している景色もいいものです。
「
つめたいこがらしのふく十二月になると、
三輪の農家では、そうめんづくりが
はじまります。
千数百年いじょうものとおいむかし、大神(おおみわ)
神社につかえていた穀主(たねぬし)が、この地方の
人びとのくるしいくらしをみかね、なんどもしっぱいを
かさねながらも、ついにそうめんづくりをかんがえだした
といいつたえられています。そして、これが、日本でのそ
うめんのはじまりだといわれています。また、このころ、
そうめんづくりににた技法(ぎほう)が、中国(ちゅうご
く)からつたわってきたのではないだろうかともかんが
えられています。
・・・・・・
○そうめんづくりは、自然にたよることがおおい。
さいわい、三輪の冬はつめたく、かんそうした
「三輪おろし」という風がふき、それがそうめん
づくりにてきしていること。
○げんりょうとなるねばり気がすこしつよい小麦が、
三輪のちかくでとれたこと。
○三輪のちかくの、初瀬川、巻向川や寺川のきゅうな
ながれをりようして、水車をまわし、小麦をこなに
することができた。
○春から秋にかけ、田で米づくりをし、田の仕事が
あまりない冬のあいだの農家の副業として、
そうめんづくりができたこと。
○そうめんづくりの技術はたいへんむずかしいけれど、
親から子へと、だいだいその技術をたいせつにつたえて
きたこと。
」
「奈良の地理ものがたり」(堀井甚一郎監修 株式会社
日本標準発行)
「
三輪山
又三諸山とも云ふ、纏向山脈の南端に聳ゆる高山にして、山容端正
老杉鬱蒼、衆山に比し異彩を放つ、實に本郡の鎮たり。大和一の宮
大神神社は實に此山を以て神霊となして祭祀するなり。
」
「
初瀬川
上之郷村金平山麓に源を発し、山邊郡都介野村より上之郷村小夫笠を
流るる細流を合せ、曲折迂回、上之郷長谷の山中を南流して出雲に出
て、朝倉村の西部を流れ、三輪・織田・纏向の西部及び川東村の中央
を貫流し、山邊郡二階堂村の南隅を過き、更に川西村下水に於て山邊
郡布留より源を発する布留川を合せ大和川と稱せられ、大字吐田に出
て奈良春日山中より発する佐保川を合せ、尚本郡を貫通する寺川・飛
鳥川の二流を呑み、漸く大河となり西して生駒郡と本郡との境を流れ
行く行く諸川を合せて益々大河となり北葛城郡と生駒郡との境を劃り
、更に河内の中央を西に貫流して終に大阪湾に注く、其本郡に於ける
流域延長六里三十丁なり。
」
「
纏向川
一名穴師川といふ、源を纏向山より発する渓流にして、三輪山と
纏向山との間を曲流して、本流は織田村大字箸中・芝に流れ、支流は
纏向村大字穴師・太田・東田を経、江包に於て初瀬川に入る、上流に
水車多し、稱して車谷といふ。支流は箸中を経、芝にて初瀬川に合す。
」
「
寺川
源を談山(多武峯村大字鹿路より発し多武峯村の中央を北流し、
更に西北に屈折して櫻井町の南部を西に流れ城島村川合に出て
粟原川を合せ大福・耳成二村を西流し耳成村大字十市に於て
高市郡より来る米川を合せ耳成・多の村界を北流し更に川東村と
田原本・都・三宅との境を北に流れ川西村に入り更に西北に流れて
結崎・梅戸を過き、吐田に至りて大和川に合す
其流域延長五里二十丁なり。
」
三輪山~寺川
(「奈良県磯城郡誌」より)(本文と一部、未登録字体等のため違いあり)
この項おわり