文春7月号に興味深い記事があった。靖国参拝是か非かではない。「ガダルカナル見捨てられた英霊」という記事である。一口で言うと民間人が海外に作った慰霊碑が倒壊している、慰霊は靖国だけの問題ではないという内容だ。その通りだと思う。それこそ、戦争をするのに地図もなく、食料もなく、弾もないなかで死んでいった英霊に対する礼儀の問題だ。靖国神社はその象徴かも知れないが、現地の慰霊碑も大切にしなければならない。
pochiは日本人による戦争の総括が必要だと思っている。開戦・敗戦の責任と処罰である。処罰といっても本人は死んでいるのだから具体的には正当な評価である。
東京裁判は勝者が裁いたもので、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」について事後法だという人もいる。たしかにその通りである。しかし、現実には勝てば官軍でなんとでもなるのが実際である。つまり、それは政治的な裁判なのである。
pochiが必要だと思っているのは、政治ではない。たとえば、辻政信のようにノモンハン、インパール等の作戦で失敗し、シンガポールでは華僑の虐殺を命令した人間が逃げ回って議員になった。こういう例を見ると、いさぎよく捕まった人間が罪になり、逃げたやつは罪にならないことに大きな矛盾を感じるのだ。総括とはこうした矛盾を解放する作業だと思う。たとえば辻政信と同じようにノモンハンで失敗しながら作戦課長になった服部卓四郎をはじめ田中新一作戦部長、富永恭次陸軍次官等々だ。彼らは戦死しなかったから靖国神社には祀られていない。しかも、恩給をもらっていた。これに大きな矛盾を感じるのはpochiだけではないと思う。
敗戦のときに一億総懺悔などと新聞が主張したのは、本当に罰せられるべき人を誤魔かすための作業の第一段階だったのではないかとも思えるのである。
pochiは日本人による戦争の総括が必要だと思っている。開戦・敗戦の責任と処罰である。処罰といっても本人は死んでいるのだから具体的には正当な評価である。
東京裁判は勝者が裁いたもので、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」について事後法だという人もいる。たしかにその通りである。しかし、現実には勝てば官軍でなんとでもなるのが実際である。つまり、それは政治的な裁判なのである。
pochiが必要だと思っているのは、政治ではない。たとえば、辻政信のようにノモンハン、インパール等の作戦で失敗し、シンガポールでは華僑の虐殺を命令した人間が逃げ回って議員になった。こういう例を見ると、いさぎよく捕まった人間が罪になり、逃げたやつは罪にならないことに大きな矛盾を感じるのだ。総括とはこうした矛盾を解放する作業だと思う。たとえば辻政信と同じようにノモンハンで失敗しながら作戦課長になった服部卓四郎をはじめ田中新一作戦部長、富永恭次陸軍次官等々だ。彼らは戦死しなかったから靖国神社には祀られていない。しかも、恩給をもらっていた。これに大きな矛盾を感じるのはpochiだけではないと思う。
敗戦のときに一億総懺悔などと新聞が主張したのは、本当に罰せられるべき人を誤魔かすための作業の第一段階だったのではないかとも思えるのである。