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好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

地中海の『美の島』コルシカ島 31 < アジャクシオ 1 > 島の首都を総解剖してみる

2021-11-01 00:48:21 | 素晴らしき世界/コルシカ島
巻頭写真 : 革命政府第一執政ナポレオンの像の立つフォッシュ広場

地中海からいきなりそびえ立つ高山「コルシカ島」は
海の国で山の国
地球創生期の野生の自然が多く残るゆえに「美の島」と呼ばれてきた


山里を訪れてきたが
いよいよ島の首都『アジャクシオ』を目指して下って行こう

ほぼ真っ直ぐ北上していた国道196号線が
先回訪れた「サンタ・マリア・シッシェ」に向かう県道83号線との分岐点から
西に曲がって高地を海に向かって下り始める


『Golfe d'Ajacciu / Golfe d'Ajaccio』

湾の北側から海が見え始めるとすでに「アジャクシゥ」は眼下に
分岐点から25kmほどで『アジャクシゥ(アジャクシオ)』に至る

「Corse du Sud (南コルシカ県)」の県庁所在市は「アジャクシゥ」
そしてコルシカ島全体の首都も『アジャクシゥ/アジャクシオ』なのです

「アジャクシオ」に達すると
並木が防風林のように海風に吹かれ続けて傾いてならんでいる



「アジャクシオ」湾の一番奥から北岸の全域を
西の先端の「パラタ岬」と「サンギネール諸島」までを占める

Map by ⒸGoogle Map

地樹上で赤線で囲ってあるのが「アジャクシゥ」の市域
しかし何と言ってもこの町の売りは「ナポレオンの生誕地」だということだろう

オーステルリッツ広場のナポレオン像

ナポレオン所縁の場所は何箇所かある
像の立つ「フォッシュ広場」「シャルル・ド・ゴール広場」「オーステルリッツ広場」
生家である「ボナパルト家の屋敷」
洗礼を受けた「サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂」
一族の墓所である『帝室礼拝堂』のある「フェッチ宮」

まず彼の誕生から彼の足跡を追って行こう


『Cathédrale Santa Maria Assunta』

時は1769年8月15日
母親レティシア・ボナパルトはこの「被昇天の聖母大聖堂」で
日曜日のミサに臨んでいて陣痛が始まった
彼女は家族に支えられながらころびつまろびつヨロヨロと屋敷へ向かう
カテドラルに向き合って左横の小道を進み



一本横道を横切ってそのままさらにまっすぐ進むと
左側にある小さな庭園に向き合う右側が「ボナパルト家」の屋敷

逆向きに見る屋敷の前の通り

上二枚の写真はいずれも逆向きにカテドラルの方向を向いている


玄関口のすぐ上の壁面に
「1769年8月15日 ナポレオンがこの家で生まれた」
と記した大理石の銘板がはめてある



玄関を入るとすぐの階段を二階に登った母親レティシアは
自分の寝室を目指したが手前の控えの間で動けなくなりそのままそこで出産した


ナポレオンの誕生した部屋



その次がレティシアの寝室


レティシア・ボナパルト=ポラリーノの寝室



彼の姓名は『ナビオーロ・ブゥオナパルテ』という
「ナビオーロ」をフランス風に言うと「ナポレオン」

「ブゥオナパルテ家」は
コルシカ島では「パオリ家」「オルシーニ家」「コロンナ家」などと並んで
有力な家柄ではあった
ジェノヴァ支配時代から500年続いた独立運動の指導的役割を果たしてきた

父親は「シャルル=マリー」


『Carlo=Maria di Buonaparte』

母親は「レティシア」


『Letizia Romarono』

「シャルル=マリー」は非常に温厚な男性だったらしいが
「レティシア」が女丈夫だった
ピサ統治100年とジェノヴァ統治500年の間常に独立運動が続いたコルシカだったが
レティシアは臨月に抜き身の剣を頭上にかざして馬でジェノヴァの守備隊に切り込んだ
という逸話の持ち主だ

ナポレオンは二人の間の九人の子供達の2番目の子供で次男として生を受ける
レティシアとシャルルの像の間にナポレオンの洗礼証明書が飾ってある


ナポレオンの洗礼証明書



レティシアのサロン

ギャラリー

「ナビオーロ(ナポレオン)」は9歳までこの家で育った

ナポレオンの寝台

コルシカ独立運動の指導者格の家柄だった父「カルロ=マリー」は
フランスに吸収された後は
それまでの様にピサやジェノヴァなど外国民族に隷属させられるわけではなく
「フランス人」として扱われることを良しとして独立運動から離れ
「親フランス」に舵を切り
一番出来の良い息子だった「ナビオーロ」にフランス本土で英才教育をを受けさせる

『コルシカの部屋』

島の当時の地図が飾られているのでこの名が付いている部屋
暖炉の上に父「シャルル=マリー」の肖像


西が上向き担っているが壁のサイズに合わせてあるのだろう
しかし昔は地図は必ず北が上を向くわけでもなかったようだ

一部の18世紀の家具は素晴らしいものがある

上二つはいずれもルイ16世様式

摂政様式の用箪笥

母「レティシア」の手袋

9歳でフランス本土アルプスの麓「ブリエンヌ」の陸軍幼年学校に入学
全国から集まった選りすぐった大貴族の子弟である学友たちに馴染めず
ラシーヌの悲劇など文学にのめり込み
名前もフランス風に「ナポレオン」と改めた

ブリエンヌでの5年間を過ごした後
王室奨学金を獲得してパリの「王立陸軍士官学校」に15歳で入学
通常2年かかるところを
数学が常に満点であったナポレオンは1年で卒業した
その後の出世譚は別の機会に譲ろう

ただ
皇帝になってからは「ボナパルト」がなくなります

王族や皇族には「姓」がないのです
エリザベス2世英国女王でありフェリペ6世西国王でありナルヒト天皇なのです
宮家の呼称はタイトルであって姓ではない

革命政府の執政時代までは『ナポレオン・ボナパルト』
皇帝になってからは『ナポレオン1世』

皇帝のシンボルの鷲の旗印

ナポレオンの戴冠式の月桂冠

最終的に英国主導の澳独露に夜「対仏大連合」に敗れて2度失脚し
2度目に大西洋の孤島「セント・ヘレナ島」に流され
1821年5月5日51歳で亡くなった
「セント・ヘレナ」での6年間の幽閉時代に食事に常に微量のヒ素を混ぜられたことによる
中毒死であったことがわかっている

「デスマスク」1

デスマスク 2

幼少期のナポレオンの髪

幼少期の胸像


息子「ナポレオン2世」の幼少期の髪


17世紀のボナパルト家の屋敷の模型

1850年頃の屋敷



外壁の角の2階の高さに屋敷の前の広場の名前を記したプレートが嵌め込まれている


「レティシア広場」

屋敷に向き合う小さな庭園のような「レティシア広場」に
息子「ナポレオン2世」の胸像がある


若い青年将校の頃追いかけ回して口説き落とした
年上の未亡人だった恋女房『ジゼフィーヌ」との間に子供ができず離婚
オーストリアのハプスブルク家から後添いとして迎えた
「マリー=アントワネット」の姪『マリア・ルイサ』との間にできた一子
『シャルル・レオン』



屋敷は角になっていて横に曲がった方に「奥向き」の作業場などがある

門衛が入る一人用の小屋が置かれていた

オリーブを砕いた碾き臼

「アジャクシゥ」の項続きます
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