『サント・ヴィクトワール山』
『ポール・セザンヌ』
は
この「エックス」の街で生を受けた
そして
終盤この地に戻り
エックスで亡くなった
ロトンドの噴水広場のすぐ横
観光案内所の前に立つ『ポール・セザンヌ』
旧市街の歩道には
主だったゆかりの地に向かう道筋に
10cm四方ほどのブロンズのプレートが
埋め込まれている
こんな感じで
まず
彼の誕生から始めよう
セザンヌの生家のある建物
彼はこの家で生まれた
もちろんこの集合住宅の建物の中の両親のアパルトマンで
1839年1月19日
父親は有能な「 帽子」のセールスマンで
稼ぎを貯めて「クール・ミラボー」に自分の帽子店を開業
父親の帽子店のあった建物
商売はうまくいき
かなりの蓄財をしてエックスの街の銀行を一行買い取った
『セザンヌ・エ・カボッソル銀行』所在地(当時)
共同経営から
単独で銀行のオーナーとなる
セザンヌ銀行の当時の所在地
彼はリセ(中高学校)で
パリから来ていた一学年下の『エミール・ゾラ』と出会う
ゾラは生涯の友で良き助言者となった
『Lycée Mignet ミニエ高校』
このリセは
17世紀ルイ14世の御代に創設された旧王室高等学校
で
名門校である
その後
ポールに銀行を継いで欲しかった父親は
息子を「エックス・アン・プロヴァンス大学」の法学部に行かせる
彼が籍を置いた法学部
石畳に
「旧法科大学 ここでセザンヌは学業を収めた」
という銘板がはめ込まれていた
しかし
絵を描くことに興味を覚えていたポールは
同時にデッサン学校にも通った
その頃父親は
街中の2軒のアパルトマン以外に
街のすぐ東に
くつろぐための農場屋敷を所有して
そこでも暮らしていた
『Bastide du Jas de la Bouffan ブッファン農園』
Bastide も Jas も 街の外の農場屋敷をを意味する
若きポールは
家屋に何面かの壁画と父親の肖像画を描いている
『エヴェンヌマン紙を読む父の肖像』
この屋敷は
父親の死後ポールの意思に反して家族が売却しているため
中の壁画が現存するのかわからない
数年来修復工事で閉館中
この
旧市街から一歩外に出ただけの位置にある
いわば別荘のようなこの屋敷がポールは大好きだったらしく
エックスに戻った後も頻繁に滞在し
屋敷と庭園とを
多くの油彩画と水彩画に書き残している
彼は「法学部」に馴染めず悩んでいる頃
すでに実家のパリに帰っていた「エミール・ゾラ」による
何度もの手紙での励まし
「パリに出て絵を学ぶべき」との説得で大学を止め
パリに出る
そこからの複雑な画家としての歩みは今回は割愛させていただくが
若手からは尊敬を受けながらも
主流派である「アカデミー」の支持は受けられず失意の連続
年齢とともにパリの気候に馴染めなくなった彼は
結局
エックスに引き上げてきた
父親の遺産を相続して生活に困らなくなり
終盤の彼の制作活動のテンポは凄まじい
まず
自分のアトリエ用に家作を一軒構える
大好きな『サント・ヴィクトワール山』の方向へ街を出るあたりに
『Atelier des Lauves アトリエ・デ・ローヴ』
と名付けられた
Lauve に四阿(あずまや)という意味がある
通りから小さな門をくぐるとすぐ建物
敷地は広大な雑木林になっており木々が邪魔して正面全景の写真は撮り様がない
玄関を入って入場料を払い二階に登ると
アトリエ
ポール・セザンヌ生前の状態を留める努力が
なされている
右の家具の引き出しは自由に開け閉めできて
中に
彼の直筆の書簡や出生証明書
当時の写真や新聞記事などが収められている
彼の静物画のモチーフでよく知られる
林檎やオレンジなどは月一くらいで取り替えている様だが
それ以外の展示品は
全部
生前の本人のもの
画家は人体描写の勉強のために「解剖学」を学ぶ
そして
頭蓋骨は聖書の絵画のモチーフにも使われるので
かなりの画家は所有していた
それを
そっくりそのまま描いている
このアトリエを出て
少し上り坂を行くと展望台がある
見張らせる遠方の村や『サント・ヴィクトワール山』を
描いた方向が示されている
そのまま街を出て
『La Route Cezannne セザンヌ街道』
と呼ばれる街道を
例の赤いオークルの土壌の松の森を通り抜けながら東へ10kmばかり
20分ほど曲がりくねった道に車を走らせると
『Le Thoronet ル・トロネ』という村がある
『Château du Tholonet トロネ城』
この村にある美しい城は
現在『プロヴァンス運河会社』の本社機能が置かれている
南仏は
古代ローマ以来運河が発達していて
別の機会に触れることにしよう
道のすぐ脇に
いきなり風車小屋が現れる
現在は使われておらず羽根もないが
中を見学することができる
ここからさらに15分くらい行くと森や林が途絶えて
田園となる
そして
この「光景」が現れる
『Montagne Sainte-Victoire サント・ヴィクトワール山』
もちろん
エックスの『アトリエ・ローヴ』近くの展望台からも遠景で見えるが
彼は
体調が良い時はここまでやってきては
色々な角度から
計20点ほどの油彩と無数の水彩画とを残した
『Montagne Ste Victoire vue du Carrieres de Bibemus 1897』
この絵は
『ル・トロネ村』からすぐ北側の
オークル採石場『Bibemus』から見た角度で描いたもの
その近くに『Château Noir シャトー・ノワール』という
小さな古い城があり
それを含めた角度の絵も何点かある
そのシャトーを彼は買い取りたかったが
直前で他の人に飼われてしまった
この辺りで制作に励んでいる時は「ル・トロネ村」の旅籠に滞在した
その旅籠は今
『Auberge Cezanne オーベルジュ・セザンヌ』と
名乗っている
この村には
セザンヌの頭部のレリーフを飾った石碑もある
そして
エックスのロトンドの噴水の広場近くにあったのと同じ
セザンヌの銅像が
もう一体置かれている
彼は
パリとその周辺での制作活動を打ち切り
1890年頃にはエックスに腰を据えて地元での制作に励み
パリの官展には出品しなくなって
中央の画壇には全く彼の情報は伝わらなくなってしまう
そして
1906年10月23日
この建物で生涯を閉じた
中央画壇で否定されていた印象派の制作意識
の光と色彩の表現を
正統的絵画手法として
世に受け入れられるきっかけを作り出し
さらには
それにこだわり続ける姿勢に反発して印象派の仲間たちとの行動をやめ
ルネッサンス時代以来のテーマに回帰しながら
平面と輪郭線の影響を追求し
その後の
ピカソやブラックの『キュービスム』を生むきっかけを作り出すまでになり
不条理主義からアウストラクトまで
20世紀西洋絵画のほとんどの流れに影響を与える仕事をした
「ポール・セザンヌ」がいなかったら
絵画史は違うものになっていたはずだと
言われている
『Cathedrale Sint-Sauveur 聖救世主大聖堂』
での葬儀で送られ
街の『サン・ピエール墓地』
で
眠っている
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