賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

「オオカミ子」が家に帰って来た

2019-06-10 23:01:40 | キリスト教ミニストーリー

   数日前、私はある本で「オオカミ子」の話を読みました。内容は次のようなものです。

   ある所に狩人がおり、彼の生まれたばかりの赤子がオオカミに連れ去られました。子供はオオカミに育てられて、だんだん成長します。ある日、狩人はこのオオカミ子を見つけました。我が子を家に連れて帰るために、狩人は自分の肉を切り取ってオオカミ子に食べさせさえもした。父親の献身により、オオカミ子はついに家に帰って来てくれます。長期に及ぶ教育の末、オオカミ子は人間性を取り戻して正常の生活を送りました。

   この話を読んで私は深く感動しました。狩人は息子が行方不明になったとき、悲嘆と苦痛を覚え、悲しみに押しつぶされそうでした。何年もの間、いつの日か息子を見つけたいと必死に願います。10数年後のある日、オオカミと一緒に暮らしている息子を見つけました。息子をオオカミの中から救い出し、普通の人の生き方をしてもらうために、父親は自身の肉を切り取ってまで家に導こうとします。最終的には、オオカミ子は人間性が戻り、狩人は息子を取り戻したのです。一家はそれから末永く幸せに暮らしました。

 

   この話から、私は今日の人類の状況を思い起こしました。人も「オオカミ子」のようではなかったか。オオカミに連れ去られたその子供のように、サタンに捕らえられた不遇な者ではなかったでしょうか。私たち人間は、サタンに誘惑されて欺かれ、堕落させられて以来、サタンを自分たちの「父」とみなし、心が神からどんどん離れていったのです。神が私たちのいのちの源であることも分からず、善と悪の見分け方も知らず、神の律法やおきてのことも何も知りませんでした。退廃して堕落し、ひどく下劣な所業に溺れます。ここまで無知な人はサタンに倣って悪事を行いながら、それを自覚せず、サタン同然になったのです。神は人を憐れ、守りたいと思われたので、人を救う働きを始められました。

   初めに、神は生まれたばかりの人が地上で普通に暮らせるように、律法を用いて人類を導かれました。しかし、律法の時代の終わりには、人は神を恐れる心を失い、律法を守ることができず、律法によって断罪されて死刑を宣告される危険にさらされました。神は、ご自身の手で造られた人類が律法の下で死ぬのが見るに堪えなかったため、御自ら地上で肉となり、十字架につけられる屈辱を受け、人をサタンの手から贖って生きる機会を与えられたのです。しかし、主イエスによって贖われて罪を赦された私たちの中には、現在もサタン的な性質が残っています。神は仰せられます、「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。

   恵みの時代に主イエスがなさったのは、人の堕落した性質を変える働きではなく、人を贖う働きでした。そのため私たちの中には罪深い性質が依然として残っており、私たちはこの根深いサタン的な本性に動かされて、思わず罪を犯してしまいます。例えば、傲慢でうぬぼれており、いつも誰よりも決定権を持ちたがり、真理であると知っていることを拒絶します。利己的で卑しく、名声と富を奪い合い、陰謀を仕掛けあい、他人を欺き、神をだまし、どんな時も神を警戒します。自分の観念と矛盾することに遭遇しても神を裁いて反抗しかねません。神を信じていながら世界の悪しき風潮に従うこともできます。試練や精錬に直面するといつも神を裏切る危険があります…自分の堕落したサタン的な性質によって支配されて踊らされている私たちは、サタンのような生き方しかしていません。この堕落したサタン的な性質が解決されなければ、いつでもどこでも神に逆らって裏切ることもはばからず、神の聖なる国に入ることもまったくできません。ですから、私たちをサタンの陣営から完全に救って神の国に招くため、神はより高次でより深い働きの段階を行う必要があるのです。

   ヘブル人への手紙第9章28節には「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」ペテロの第一の手紙第4章17節には、「さばきが神の家から始められる時がきた」とあり、ヨハネの福音書第12章48節には、「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」と述べられています。

   サタンによって深く堕落させられた人を完全に救うために、神は終わりの日に再び受肉して全能神となられ、神の家で始まる裁きの働きを行うために言葉を語られます。この段階の働きとは、人の罪の根源を完全に解決し、人からそのサタン的な性質を取り除き、人が真に神に従い、神を知って崇拝することができるようにするためのものです。私たちは終わりの日のキリストである全能神による裁きの働きを受け入れることによってのみ本当に罪から解放され、神の完全な救いを受けることができます。

   それは神が仰せられる通りです。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間 の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本當に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて墮落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は墮落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉のもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。」

   終わりの日のキリストである全能神は、人々が救いを実現できるように全ての真理を表されました。これらの真理は、神に逆らう私たちのサタン的な性質と堕落の実態を明らかにし、私たちの罪の根源を暴露し、分析しています。神の威厳ある裁きを通して、私たちは自分が傲慢とうぬぼれ、利己的で卑劣、邪悪で貪欲といったサタンの堕落した性質に満ちていることを自覚します。同時に、神の裁きと刑罰の言葉から、私たちは神の聖なる本質と義にして威厳ある不可侵な性質を知り、神を本当に恐れるようになるのです。また、自分たちがサタンによって深く堕落していると悟ります。自分の堕落した性質とサタン的な性質を憎むようになり、次第に罪の束縛から脱却します。こうして堕落した性質が変化し始め、真の人らしく生きるようになります。

   神の御言葉の裁きを経験して初めて、「神が人類を贖ってその罪を許すために十字架刑を受けられたのは、神の人類への愛なのだと本当に悟ることができます。そして終わりの日に、神は再び受肉して真理を表しておられ、私たちをサタンの支配から徹底的に救うために裁きの働きをしてくださっています。これが神のより大きな愛です。神の裁きを受けて清められる者は最後には、神が人類に用意してくださった美しい終着地に連れていかれるのです。」

   この時点で、私はオオカミ子の父親のことを考えました。彼は我が子をオオカミから逃れさせ、真の人として生活させるために、自分の肉を切り取って息子を家に導くことも躊躇しませんでした。同様に、神は大きな代償を払ってまで実際的に働いて私たちを救い、サタンの害毒から完全に逃れられるようにしてくださいます。

   律法の時代には、人類が地上で正常に暮らせるように導き、罪が何であるかを教えてくださいました。恵みの時代には、主イエスが人類の罪を赦すために十字架刑を受けられました。神の国の時代には、全能神が裁きの働きを行うべく言葉を表されたおかげで、私たちは罪の束縛を捨て去り、清めと神の救いを受けることができ、神の国に連れて行って頂けるのです。神の人類経営の働きの三つの段階は、どれも私たち堕落した人類の必要に基づいて行われます。これが神の愛と救いなのです。神に感謝します。