賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

救われることと、完全な救いを獲得することの違い

2019-06-30 22:41:44 | 天国への道

   救われることと、完全な救いを獲得することの違いに触れるとき、兄弟姉妹の中にはこのように言う人がいるかもしれません。「救われることと、完全な救いを獲得することの間に、何か違いがあるのでしょうか。救われることは、完全な救いを獲得することを意味するのではないでしょうか。私たちは主イエスへの信仰を通じて救われてきたのですから、完全な救いを獲得してはいないのでしょうか。主が来られるとき、私たちはすぐに天国へと引き上げられます」しかし本当に話はそれほど単純でしょうか?この件を探求し、一緒に考えましょう。

1.救われるとは何を意味するのか?私たちは救われたあと、罪を持たないのか?

   最初に神様の御言葉を読みましょう。「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである」神様の御言葉から、私たちが主への信仰を通じて救われるのは、主イエスが贖いの働きをなさったからだということがわかります。主は罪の生け贄としてご自身を捧げ、十字架にかけられ、それによって私たちを罪から贖われました。ゆえに、主を信じることで私たちはもはや罪人ではなく、律法に縛られることもありません。私たちは罪を犯したとき、神の御前に直接出向いて祈り、私たちをお赦しになるよう主に求めることができます。これが救われることの意味なのです。

   では、私たちは救われたあと、罪を持たないでしょうか。たとえ大いに苦労し働いたとしても、また外面的なよい行いをしたとしても、それでもなお頻繁に罪を犯し得ること、そして罪の絆を断ち切れないことを、私たちは自分自身の経験から知ることができます。私たちのいのちの性質は以前と変わることがなく、自分の観念と一致しないこと、または自分の利益を害することに遭遇した瞬間、多くの堕落した性質をあらわにし、結果として神様に背き反抗します。例を挙げると、自分よりも優れた才能の持ち主であることを示す説教を他の人が教会でしたとき、その人に嫉妬するか、密かに貶めようとする。他の誰かが自分の利益を害したとき、その人を憎み、深刻な場合には腹を立ててその人に復讐する。主の働きの中で何かを捨てるとき、あるいはいくばくかを費やすとき、自分の成果を見せびらかしたり、神様に条件を突きつけたり、または他人を見下してけなしたりする。働きや説教において聖霊の啓きを得、その成果を刈り取るとき、自分自身に満足しきって神様の栄光を奪う。苦しみ、代価を支払ったにもかかわらず、代わりに何も得られず個人的な利益が満たされないとき、神様が自分を守らず祝福なさっていないと信じ込み、神様を責めたり誤解したりする。神様の戒めを犯すことをするとき、他人に見つかるのを恐れ、他人と神様を騙すために嘘をつく。長年にわたって神様を信じながら、神様はまだ自分に十分なお恵みをお授けになっていないと考えるとき、この世のやり方に従い神様を裏切る、などなど。こうした行動や態度は、私たちがいまだ罪の中で暮らし、サタンの支配下で生きていることを証明するのに十分です。私たちの本性がいまだサタン的であること、私たちの考えや物の見方がこの世界に付随していること、そして自分の考えと一致しない状況のせいで、私たちが勝手気ままに神様を裏切り、世俗的な生活に戻り得ることを、それらは証明しているのです。

2.完全な救いを獲得するとは何を意味するのか?完全な救いを獲得する人はどのような行動をとるのか?

   最初に神様の御言葉の一節を読みましょう。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。…サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう」

   神様の御言葉から、完全な救いを獲得することは、罪を振り払い、清められることを意味しているのがわかります。つまり、完全な救いを獲得する人は外面的なよい行いをするだけでなく、傲慢で、自分勝手で、嘘と悪意に満ちた内なる本性が変化を遂げており、神様の御言葉によって生き、神様の指揮と采配に完全に従えるだけでなく、差し迫る死の脅威に直面したときも神様を畏れ悪を避けることができます。そうした人達はサタンの支配下で生きる状態に戻るよりも、むしろ死ぬことを選び、決して神様に背いたり反抗したりしません。そうした人たちだけが、神様によって完全に得られた人々です。神様の完全な救いを獲得するのは、真理を理解し、神様を知り、神様に従うことができる人たちです。完全な救いを獲得するのは、サタンのいかなる誘惑にあっても証しをし、真理によって生きることができ、神様を畏れ悪を避ける人たちです。完全な救いを獲得するのは、神様の御心に理解があり、正直かつ誠実に話し、温かい心を持ち、神様を愛し満足させることができ、神様の御言葉を自分の活動や行為の規範とし、真の人間らしさを生き、自分が行なうあらゆることにおいて神様を讃え現すことができる人たちです。

3.救われることと、完全な救いを獲得することの違い

   ここまで、救われることは何を意味しているのか、私たちは救われたあと罪を持っているかどうかを話し合い、また完全な救いを獲得することは何を意味しているのか、完全な救いを獲得する人たちによって表現される行動はどのようなものかも話し合いました。救われることと完全な救いを獲得することの違いについて、誰もが何らかの区別をするようになると私は信じています。救われるということは、私たちがこれ以上律法によって罰せられないこと、もはや罪人でないこと、神様によって贖われたこと、そして神様の御前に出向く資格があることを意味しますが、たとえ外面的なよい行いをしたとしても、罪深い本性が私たちに深く根ざしたままであることも意味します。一方、完全な救いを獲得することは、私たちのいのちの性質が変化を遂げたこと、真理を実践に移せること、これ以上何の罪も犯さないこと、心から神様の御言葉に注意を払い神様に服従できること、神様の御言葉の現実を生きられること、そしてサタンの影響から完全に逃れて自由な人間になったことを意味します。

   対照的に、主のうちにいる兄弟姉妹としての私たちは、いまだに様々な堕落した性質の中で生き、日中に罪を犯して夜に罪を告白する生活を送っているのが現状です。私たちはサタンのそそのかしや誘惑にまったく耐えることができず、いまだに神様に背き、反抗し、非難し、誤解する可能性をはらんでいます。私たちが生きている人生は、神様を讃え現すことがまったくできません。それで、私たちはどうして完全な救いを獲得したと言えるでしょうか。神は言われます「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(ペテロの第一の手紙1:16)「サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう」神様の本質は聖にして義です。神様は私たちの内側にある、あらゆる種類の罪を憎み、あらゆる種類の汚れをお嫌いになります。私たちのような汚らしい堕落した人間は、神の国へ入るに値しません。主への信仰の中で、こうした汚らしい堕落した物事を残らず振り払い、清められることでのみ、私たちは神様のお褒めを得て、神様によって美しい終着点へと導かれるのです。ゆえに、救われることは完全な救いを獲得することを意味しておらず、主がお戻りになるとき、私たちがすぐに天国へと引き上げられることはありません。

4.完全な救いを獲得する道を探す

   では、完全な救いを獲得する道はどこにあるでしょうか。実を言うと、主イエスははるか昔、完全な救いを獲得する道について私たちにお話しになりました。聖書の聖句をいくつか見ましょう。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12-13)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2-17)「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」(ヨハネの黙示録21:6)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書12-48)主は私たちに、完全な救いを獲得して天国に入る方法をお示しになりました。つまり、主イエスはすべての真理を表わすため、終わりの日に再び戻ってこられます。そして神様の出現を切望し、探し求めるすべての人に、いのちの水の泉から価なしに飲ませ、それによって私たちは新しいいのちの生ける水を神様から得られ、私たちの霊のいのちは食糧を得られます。その後、神様の御言葉の裁きと刑罰を経験することで、堕落した性質が清められ、罪の足かせを振り払い、サタン的な悪しき影響を残らず取り除き、神様の御言葉によって生きるようになります。神様の試練が降りかかるときも、証しをする中でしっかり立ち、神様に服従し讃える人、自分が行なうすべてのことにおいて神様を現す人になれます。このようにして、私たちは真に完全な救いを獲得し、神の国に入る資格を得るのです。

   兄弟姉妹よ、救われることと完全な救いを獲得することの違いがはっきりわかるように、そして私たちが自分の観念や想像にとらわれ、天国に入るという偉大な出来事を決して遅らせることのないように、主が私たちをお啓きにならんことを。私たちは賢い乙女となり、開かれた心で真理を追い求めなければなりません。そうしてはじめて、私たちは花婿の出現を喜んで迎え、子羊の婚宴に出席し、いのちの水に浴することができるからです。終わりの日の神様の裁きと刑罰の働きを経験し、自分の堕落した性質を一掃したうえで、神様の御言葉の現実を生きているならば、私たちは最後に完全な救いを獲得して天国に入るでしょう。

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