賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書には永遠のいのちの道が含まれているか

2019-08-23 23:24:43 | 聖書と神

   ある夜、高兄弟は聖書を手に桂兄弟の家へと急ぎました。

   高兄弟がそこに着くと、二人はソファに座りました。

   高兄弟は聖書を開いて言いました。「桂兄弟、聖書を読んでいる途中で一つの問題に突き当たったんだけど、どう解決すればいいかわからないんだ。この問題は、僕らが主への信仰を通じて永遠のいのちを得る鍵のような気がする。だから君と一緒に答えを探し求めようと急いだんだ」

   桂兄弟は笑みを浮かべて言いました。「わかった。じゃあそれを話してくれ」

   すると高兄弟は言いました。「聖書はキリスト教の正典で、クリスチャン全員が読まなければならないものだと、僕らはみんな知っている。集会に参加していようと、ディボーションをしていようと、福音を宣べ伝えていようと、あるいは説教をしていようと、いつも聖書に従う必要があるんだ。だから、聖書は欠かすことのできない僕らのいのちの一部だと言えるだろう。聖書には神様の以前の働きだけでなく、多くの人による証しも記されている。聖書の中にはいのちがあって、じっと聖書を読み続けていれば永遠のいのちを得られると、僕らは堅く信じている。でも今晩聖書を学んでいたら、主イエスが「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった一節を目にしたんだ。そのせいで僕はすっかり混乱した。と言うのも、聖書に神様の御言葉と人間の証しが含まれているなら、聖書を読むことで永遠のいのちを得られるはずだからだ。ならどうして、主イエスは聖書の中に永遠のいのちはないとおっしゃったんだろう。その御言葉をどう理解すべきだろう。これが本当にはっきりと理解できなくて、君の認識はどうなのかと思ったんだ」



   桂兄弟は言いました。「高兄弟、君が話したこの問題は本当に鍵を握っているよ。何人かの他の同労者と僕も、最近この問題のせいで混乱したんだ。そのあと、町の外で行なわれた集会に出かけたとき、数名の兄弟姉妹と一緒に答えを探し求めてようやくこの問題を理解したんだよ」

   高兄弟は喜んで言いました。「本当かい。主よ、感謝いたします。さあ、早くそれを教えてくれないか」

   桂兄弟は言いました。「いいとも。実を言うと、この問題を理解したければ、まずは聖書に記されている、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きの内幕と、それらの働きによる結果とを理解する必要があるんだ。そうすれば、なぜ主イエスがそのようなことをおっしゃったのかが理解できる。まず最初に、旧約聖書に記された律法の時代にヤーウェ神がお語りになった御言葉は、律法とヤーウェ神の戒めを布告することと、地上におけるイスラエル人の生活を導くことがおもな目的だった。どう正常に生きるべきか、どのように捧げ物をして神様を讃えるべきか、罪とは何かなどを人間が知るようお教えになったことが、ヤーウェ神の成し遂げられた結果だった。しかしそれらは単純な真理に過ぎず、人間がいのちを得られるようにするにはほど遠く、まして永遠のいのちを得られるようにするなど不可能だった。新約聖書には主イエスの御言葉と働きが記録されているけれど、それはおもに人類を贖う主の働きであり、悔い改めの道を人間に与えるとともに、天国が近づいていることと、誰もが悔い改めなければならないことを人間に伝えている。人々が告白して悔い改められるようにし、それによってその人の罪が赦されるとともに、盗みや強盗をしないとか、他人と争わないとか、他人を罵ったりしないとか、酒を飲まないとかいう、いくらかの外面的な良い振る舞いをできるようになったというのが、主の成し遂げられた結果だった。また一部の人たちは、強い熱意をもって働いたり、主のために自分自身を費やしたり、主に従って主の福音を広めるためにすべてを捨てたりすることさえできるようになった。

   「よって、天地万物は神様によって造られたこと、律法の時代に神様が律法と戒めを布告なさったこと、そして神様のお求めに従って地上で暮らすにはどうすればいいか人類が知るようになったことを、僕らは聖書を読むことで知るようになる。そして神様の性質が鮮明で本物だったことや、神様は僕らに憐れみをお示しになるだけでなく、人を呪い罰することもありうるとわかった。さらに、神様に自分の罪を告白して悔い改め、他人を許して自分の敵を愛し、塩と光になるべきだということもわかるようになった。僕らは自分の十字架を背負って福音を広めるべきであり、また主イエスが自分のように隣人を愛されたこと、人間に果てしない憐れみと愛情をお授けになったこと、そして主の救いを受け入れることでのみ僕らは神様のお恵みと祝福を豊富に享受できることを理解するようになった。だから、聖書に記されている律法の時代と恵みの時代における神様の御言葉と働きはすべて、人類の堕落の度合いと当時の人間が必要としていたものを土台にしていた。律法の時代におけるヤーウェ神の御言葉は、人間が地上で正常な生活を送れるように語られたものであり、恵みの時代に主イエスがお話しになった御言葉は、人間が悔い改められるようにする道としか呼べず、永遠のいのちの道とは呼べないんだ。

   「では、永遠のいのちの道とは正確には何だろうか。永遠のいのちの道とは、僕らがもはや罪の束縛や制約を受けないようにし、自分のいのちの性質が変化できるようにする道であり、僕らが永遠に生きるようにする真理の道だ。より具体的に言えば、それは僕らを罪から救い、僕らが真理を自分のいのちとして獲得することと、サタンの影響を完全に振り払うことを可能にするとともに、真に神様を知り、神様に従い、神様を崇拝し、これ以上罪を犯さず、神様に抵抗したり神様を裏切ったりしないようにすることができる。これらの成果を挙げることでのみ、僕らは永遠のいのちの道を見つけられるんだ。でも自分自身を振り返ってみると、僕らは聖書に詳しく、外面的な良い振る舞いをいくらかしているかもしれないけれど、罪深い本性が自分の中に深く根ざしたままで、いまだに思わず罪を犯しかねないことがわかる。たとえば、僕らはいまだ傲慢になったりうぬぼれたりしかねないし、親類や友人や教会の兄弟姉妹とうまくやっていくことができず、そのせいで他人を見下したり、見くびったり、排除したり、裁いたりするかもしれない。金銭関係の問題や、自分の個人的な利益に関する問題に直面したとき、僕らは互いに謀り合ったり欺瞞を行なったりしかねない。神様に仕えながら、他人が自分を仰ぎ見て偶像化するよう、自分の証しをして自身を高く掲げる可能性もある。何らかの地位に昇ると、他人を罠にはめて支配し、教会の中で派閥に分かれ、自分自身の王国を打ち立てるかもしれない。災害が起きたとき、それが人災だろうと天災だろうと、僕らはしばしば神様を責めて神様のことを誤解し、神様を裏切りさえする。これはいくつかの例に過ぎない。だから、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きは、人々が自分の罪に気づけるようにし、それを悔い改めて告白できるようになったという成果を挙げたのは明らかだけど、僕らのいのちの性質を清めて変えるという働きはまだなされていなかった。主イエスは『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書8:34-35)、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)とおっしゃった。僕らがいまも頻繁に罪を犯しかねず、堕落した性質がまだ清められていないことは、僕らを罪の奴隷も同然にしているんだ。僕らはいまだに永遠のいのちの道を見つけていないし、神様にお会いする価値もない」

   桂兄弟の話を聞いたあと、高兄弟は考え込むように言いました。「桂兄弟、君の話は本当にその通りだ。律法の時代にヤーウェ神がなされた働きは、律法と戒めを布告し、人の生活を導き、神様をどう崇拝すべきか教える働きだった。恵みの時代、主イエスは僕らを贖われ、悔い改めの道をお与えになった。主への信仰を持ったあと、僕らの罪は赦されるけれど、罪深い本性が深く根ざしたままで、なおも思わず罪を犯したり、時々腹を立てたり嘘をついたり、神様に反逆したりしかねない。僕らはいまだに清められていないんだ。桂兄弟、もしそうなら、律法の時代と恵みの時代の働きを受け入れるだけでは、罪を振り払えず永遠のいのちも得られないということにはならないか。僕は正しく理解しただろうか」

   桂兄弟は言いました。「君は間違っていないよ」

   高兄弟は続けました。「じゃあ、聖書を読んでも永遠のいのちを得られないとすると、どうすれば永遠のいのちを得られるんだろう」

   桂兄弟は眼鏡を外して拭いました。そしてしばらく考え込んでからこう言いました。「僕が出席したその集会でのみんなとの交わりから、人類が死ぬべき運命にあるのはひとえに神様から離れてしまったこと、神様の御言葉を自分のいのちとして受け取っていないこと、そして罪の中で暮らしていることが理由だと僕はついに理解した。罪に関するこの問題を解決して真理が自分のいのちとなるようにすることができる限り、神様は僕らが決して死なないように永遠のいのちをもって祝福してくださる。だから永遠のいのちの道を見つける人は、傲慢や欺瞞や利己心や悪意といったサタン的な堕落した性質にもはや支配されず、真理を自分のいのちとして受け取ったあとは決して罪を犯したり神様に抵抗したりせず、キリストと相容れるようになる。神様だけが永遠のいのちの道を有しておられ、それを僕らにお授けになれる。では、神様はいったいいつ、僕らに永遠のいのちの道をお授けになるのか。それは終わりの日だということでみんな一致しているし、聖書もその考えを支持している。主イエスがこう預言なさった通りだ。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。またヘブル人への手紙第9章28節にはこう記されている。『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである』。また黙示録の第2章と第3章でも『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』と7回も預言されている。さらにそこでは、神様のパラダイスにあるいのちの木の実と隠されているマナが人間に与えられるとも述べられている。だから主イエスは終わりの日にお戻りになるとき、聖書を乗り越えて、僕たちが永遠のいのちを得られるようにするすべての真理を表現なさることがわかるんだ。終わりの日のキリストが表現なさる真理を受け入れ、いのちの性質が変化し、罪が清められて真理を自分のいのちとして受け取るとき、僕らは永遠のいのちを得て、そのとき初めて天国へ引き上げられるのにふさわしくなるんだ」

   桂兄弟はそこでお茶をすすり、話を続けました。「僕は福音のウェブサイトでこのような神様の御言葉の一節を読んだ。『終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない』(『終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)。永遠のいのちの道は終わりの日のキリストから生じるのであって、聖書から生じるものじゃない。聖書は神様の働きにおける以前の二段階を記録しているだけで、神様の証しに過ぎない。それは神様の権威や力や永遠のいのちを表わしているわけじゃないんだ。キリストだけが聖書の主でありすべてのいのちの源だ。まさに主イエスが『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない』(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった通りだ。聖書にしがみつくだけで、お戻りになった主の働きを探し求めたり追究したりしないなら、僕らは決して主の出現をお迎えすることができず、永遠のいのちを得るのも不可能になってしまう。こうしたことを理解することが、永遠のいのちを得て、主への信仰を通じて天国へ入るのに不可欠なんだよ」

   高兄弟は喜びで顔を輝かせ、興奮した口調でこう言いました。「主よ、啓きとお導きに感謝いたします。聖書は神様の証しに過ぎず、永遠のいのちを含んでいないことをようやく理解しました。終わりの日のキリストだけが永遠のいのちの道を有しておられ、終わりの日のキリストが表現なさる真理を得て、自分の堕落した性質が清められて初めて、私たちは永遠のいのちを得て天国に入れるのです。そうだろう、桂兄弟」

   すると桂兄弟は言いました。「その通りさ。僕らは終わりの日のキリストの働きを受け入れなければならない。そうして初めて、永遠のいのちを得る機会がもたらされるんだ。主よ、感謝いたします」

   高兄弟も言いました。「主よ、感謝いたします」