賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ヨブについて(2)

2020-02-24 22:50:01 | 職場の人間関係

   ヨブの理性

  ヨブが積んできた経験と彼の正しさ、正直さは、彼が財産と子ども達を失った時にもっとも理性的な判断を下し、最も理性的な選択をしたことを意味する。ヨブのそのような理性的な選択ができたことは、彼が日々追い求めていたものと、神が日々自分にどのような業をなしたかを知ったことと切り離すことができない。ヨブはその正直さ故に、全てのものはヤーウェによって支配されていることを信じることができた。ヨブはその信仰により、ヤーウェ神が全てを支配していることを信じることができた。ヨブはその知識故に、ヤーウェ神の主権と采配に喜んで従うことができた。ヨブはその従順さ故に、益々心からヤーウェ神を畏れるようになり、その畏れが益々悪を避けるようにさせ、結果としてヨブは全き人となった。ヨブの完全さが彼を賢くし、素晴らしい理性の持ち主にさせた。

   この「理性的」という言葉をわたしたちはどのように理解すればよいのだろうか。文字通りの解釈は、理知があり、論理的で分別のある思考ができ、正しい言葉、行動、判断ができ、正しい道徳的な基準を日常的に持っているということである。だがヨブの理性はそれほど簡単には説明できない。ヨブが素晴らしい理性を持ち合わせていたとここで言ったのは、彼の人間性と神の前での振る舞いと繋がっている。ヨブは正直であった故に、神の主権を信じ従うことができた。そしてそれ故に彼は他の人々には獲得し得ない知識を獲得し、その知識により自身に降りかかった状況に関して他の人々以上に正しく物事を見極め、判断し、定義付けをすることができた。そしてそれ故に、他の人々以上に正確に、そしてより深い洞察力をもって自分のすべきことを選択することができ、しっかりと立つべきところに立っていることができた。つまりヨブの行動の背後にある彼の言葉、振る舞い、原則、そして彼の作法は日常的なものであり、明解であり、具体的で、盲目的でも衝動的でも感情的でもなかったということである。何が起ころうとも、ヨブは対処方法を知っており、複雑な出来事であっても何をどのように関連づけて対処すれば良いかを心得ていた。自分がしっかりと繋がっているべきことにどのように繋がっていられるか、更にはヤーウェ神が与えることと取り上げることに対してどう対処したらよいかを知っていた。正にこれがヨブの理性である。財産と息子娘達を失ったヨブが、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことができたのは、正にヨブのこのような理性があったからこそである。

   激しい肉体の痛みを経験し、身内や友人に非難され、死に直面した時、ヨブは自らの行動によって再びその真の姿を皆に示すことになったのである。

   真実で清く、偽りのないヨブの姿

 

 

   では次の聖句を読もう。「サタンはヤーウェの前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」(ヨブ記2:7-8)。この聖句はヨブの皮膚が腫物で覆われた時の振る舞いを説明している。当時ヨブは、灰の中に座り、痛みに耐えた。誰も彼の腫物の治療をせず、痛みを和らげようと助けの手を延べる者はいなかった。ヨブは土器のかけらで腫物に覆われた皮膚をかいた。一見これはヨブの苦しみの一段階にしかすぎず、彼の人間性や神に対する畏れとは無関係に見える。当時ヨブは何も語らず、その心情や見解を示さなかったからである。それでもヨブの行動と態度は彼の人間性をそのまま現している。この聖句の前の章では、東に住む全ての人達の中でヨブが最も優れていたと書いてある。2章に入ると、この偉大な人物が、灰の中に座って土器のかけらで自分のからだをかいている。この2つの聖句は実に対照的ではないだろうか。そこにはヨブという人がよく表されている。つまり、それまでの誉れ高い地位と身分にも関わらず、ヨブはそれらのものには全く無関心なのである。地位を周囲がどう見るかなど気にしておらず、自分の行動や振る舞いが地位や立場に影響するかどうかなど心配することはなかった。富や地位に溺れたり、その立場や地位からくる栄光を楽しんだりすることもしなかった。ヨブの心にあったのは、ひたすらヤーウェ神の目に叶う生き方をすることであった。ヨブの真の姿は彼の本質そのものであった。つまり、ヨブは名声も富も愛さず、名声や富のために生きることもしなかった。ヨブは真実で、清く、偽りのない人間だったのである。

   では次の聖句を読もう。「サタンはヤーウェの前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」(ヨブ記2:7-8)。この聖句はヨブの皮膚が腫物で覆われた時の振る舞いを説明している。当時ヨブは、灰の中に座り、痛みに耐えた。誰も彼の腫物の治療をせず、痛みを和らげようと助けの手を延べる者はいなかった。ヨブは土器のかけらで腫物に覆われた皮膚をかいた。一見これはヨブの苦しみの一段階にしかすぎず、彼の人間性や神に対する畏れとは無関係に見える。当時ヨブは何も語らず、その心情や見解を示さなかったからである。それでもヨブの行動と態度は彼の人間性をそのまま現している。この聖句の前の章では、東に住む全ての人達の中でヨブが最も優れていたと書いてある。2章に入ると、この偉大な人物が、灰の中に座って土器のかけらで自分のからだをかいている。この2つの聖句は実に対照的ではないだろうか。そこにはヨブという人がよく表されている。つまり、それまでの誉れ高い地位と身分にも関わらず、ヨブはそれらのものには全く無関心なのである。地位を周囲がどう見るかなど気にしておらず、自分の行動や振る舞いが地位や立場に影響するかどうかなど心配することはなかった。富や地位に溺れたり、その立場や地位からくる栄光を楽しんだりすることもしなかった。ヨブの心にあったのは、ひたすらヤーウェ神の目に叶う生き方をすることであった。ヨブの真の姿は彼の本質そのものであった。つまり、ヨブは名声も富も愛さず、名声や富のために生きることもしなかった。ヨブは真実で、清く、偽りのない人間だったのである。

   ヨブの愛と憎しみの分別

 

 

   ヨブの人間性に関するもうひとつの側面が、彼と妻との会話に表現されている。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』。しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。」(ヨブ記2:9-10)。苦しむヨブを見た彼の妻は、ヨブが苦しみから解放されるようにと助言した。だがその「善良な意図」はヨブに受け入れられなかった。それどころか、ヨブの怒りを引き起こした。ヨブの妻はヨブの信仰とヤーウェ神への従順を否定し、ヤーウェ神の存在も否定したからである。ヨブにとってそれは耐え難いことであった。ヨブ自身、決して自分が神に反抗したり神を傷つけたりするようなことをせず、言うまでもなく他の人がそのようなことをすることも耐えられなかった。周りの誰かが神を冒瀆したり中傷したりするような言葉を発するのを見て無関心でいられる筈がなかった。だからヨブは彼の妻を「愚かな女」と呼んだのである。妻に対するヨブの態度は怒りと憎しみ、非難と叱責に満ちていた。これは愛と憎しみを区別するヨブの人間性が自然に表現されたものであり、ヨブの正しさの真の現れである。ヨブには正義感があった。その正義感故にヨブは悪が横行するのを憎み、ばかげた異端、愚かな論争、ばかげた主張を忌み嫌い、非難し、拒絶し、大衆に拒絶され、身内や親しい人達に見放された時でも自身の持つ正しい原理と立場を堅く守った。

   ヨブの心の優しさと誠実さ

   ヨブの振る舞いに彼の人間性を幾つか見ることができるのだが、ヨブが自分の生まれた日を呪ったことには彼のどのような人間性を見ることができるだろうか。そのことについて今から検討する。

 

 

   ヨブが自分の生まれた日を呪った理由をたった今説明した。ここで何が分かるだろうか。もしもヨブの心が頑なで愛もなかったとしたら、もしヨブが冷たい人間で感情に乏しく、人間性に欠けていたならば、神が何を望むかと思いやることができただろうか。神の思いを配慮する結果自分の生まれた日を呪うことなどあるだろうか。つまり、ヨブの心が頑なで人間性に欠けていたなら、神が痛みを感じることで苦しんだりしただろうか。自分が神を悩ませたからといってヨブは自分の生まれた日を呪ったのだろうか。決してそのようなことはない。ヨブは心優しかった故、神の心を配慮した。神の心を配慮したので、ヨブは神の痛みを感じた。ヨブは心優しかった故、神の痛みを感じて更なる苦しみを経験した。ヨブは神の痛みを感じた故、自分の生まれた日を憎み始め、自分の生まれた日を呪った。第三者にとって、ヨブの試練にあっての振る舞いは模範的なものである。自分の生まれた日を呪うという行為だけが、完全で正しいヨブに対して疑問が残ったり、評価を変えたりするのである。実はこれがヨブの人間性そのものなのである。ヨブの人間性とは、誰かに封をされたものでも梱包されたものでもなく、修正されたものでもない。自分の生まれた日を呪うことで、ヨブはその心の奥深くにある優しさと誠実さを現したのである。ヨブの心は清い泉のようで、その水は水底が見えるほど透明なのである。

   ヨブについて学んできた訳だが、大半の人々は間違いなくヨブの人間性を大方正しく、客観的な評価をすることができるだろう。だが神が語っているヨブの完全さと正しさに関するより深く、実践的でより高度な理解と認識も持つ必要がある。それらを理解し認識することにより、人々が神を畏れ悪を避けるようになってくれることを願う。


神の愛が私の心を強くした

2020-02-23 11:49:15 | 勝利者の証し

   私の家族はみんな、とても仲良くやってきました。夫は実に優しくて思いやりのある男性です。息子はとても良識があり、目上の人に常に敬意を表します。それだけでなく、私たちはかなり裕福でもあります。理屈で言えば、私はとても幸せだったはずです。しかし、現実はそうはいきませんでした。夫と息子からどれだけ大事にされても、どれだけ恵まれていても、私は幸せを感じることができませんでした。関節炎になったせいで夜は眠ることができず、重度の不眠症にも悩まされました。その結果、脳への血液供給が低下し、手足全体が衰弱してしまいました。これらの病気の苦難に、事業経営の絶え間ないプレッシャーが相まって、言葉で表せないほどの苦しみのなかで暮らしていました。さまざまな方法で克服を試みましたが、どれもうまくいかないようでした。

   1999年3月、全能神の終わりの日の福音を友人が私に伝えてくれました。私は毎日神の御言葉を読み、継続して集会に出席し、兄弟姉妹と交わりました。その結果、いくつかの真実を理解するようになり、これまで知らなかった多くの奥義を学び、全能神は再臨した主イエスであると確信するようになりました。これらのことすべてから非常に刺激を受けた私は、毎日神の御言葉をむさぼるように読みました。教会生活にも関わり、兄弟姉妹と頻繁に集まり、祈り、神を賛美しながら歌い、踊りました。心の平安と幸福感が高まり、気力と物事の見方が日々改善していきました。ゆっくりと、しかし確実に、さまざまな病気も回復していきました。人生においてこのような前向きな展開を得られたことに、私は頻繁に神に感謝と称賛を捧げました。全能の神の福音をさらに多くの人々に広め、人々が神の救いを得られるようにしたいと思いました。それから間もなくして、福音を広める仕事を教会から任されました。私はこの仕事に熱心に打ち込みました。けれど、想像もしなかったことが起こったのです……。

   2012年12月15日の晩、私が姉妹四人との集まりを終えて帰ろうとしていた時です。何かが割れたような大きな音がしたかと思うと玄関のドアが蹴破られ、私服警官が七、八人部屋に飛び込んできました。そして私たちに向かって、「動くな、手を上げろ!」と叫んだのです。警官たちは何の書類を見せることもなく、私たちを力ずくで調べ、私の身分証明書と教会の資金である7万人民元(約110万円)の領収書を押収しました。彼らは領収書を見たとたんに非常に興奮し、私たちをパトカーに押し込み、警察署へ連行しました。警察署に着くと、警官たちは私たちの鞄から携帯電話、MP5プレイヤー、現金200人民元(約3千円)を押収しました。姉妹の一人と私が教会の指導者なのではないかとその時疑っていた警察は、その夜のうちに私たち二人を市公安局の刑事捜査部に移送しました。

   公安局に到着すると、警察は私たちを引き離し、個別に尋問しました。私は金属製の椅子に手錠でつながれ、「7万人民元の話を聞かせろ。誰が金を送った?金は今、どこにある?教会の指導者は誰だ?」と、警官から激しい尋問を受けました。私は心の中で神に祈り続けました。

   「神様!この警官は私に教会の指導者を密告させ、教会のお金を渡すようにさせようとしています。私にはユダのように神様を裏切ることは絶対にできません。あぁ、神様!私は神様の御手に身を委ねます。信仰と勇気と知恵をお与えください。警察がどのように私から情報を無理やり聞き出そうとしても、私は神様に証しを立てます」

   そして、私は頑として「知りません!」と言いました。これが警官を怒らせることになりました。警官は足元のスリッパを手に取ると、私の頭を激しく殴り始めました。そして、「それなら何も言うな。ただ全能神を信じていろ!いつまで信じていられるか、見てやる」と怒鳴りました。殴られた顔がひりひりと痛み、あっという間に腫れ上がりました。頭もずきずきと痛みました。警官四、五人が交代で私を殴り、教会のお金の保管場所を無理やり言わせようとしました。脚を蹴ってくる警官、髪を引っ張って前後に振る警官、口を殴打してくる警官もいました。私は口から出血しましたが、警官たちは血を拭き取っただけで殴り続けました。また、電気ショック警棒バトンでも思いつくままに突かれました。警官は私を殴りながら、「話をするのか、しないのか? 全部、白状しろ!」と怒鳴りました。それでも私が話そうとしないのを見て、テーザー銃で私の脚の付け根と胸を撃ちました。それは耐え難い痛みでした。鼓動が激しくなって呼吸困難に陥った私は、体を丸めて震えました。死が一歩ずつ私に向かってくるように感じたのです。一言も言葉を発さずに口を固く閉じていましたが、心臓がとても弱く感じられ、これ以上は耐えられないと思いました。そんな苦しみのなかでも、私は神への祈りをやめませんでした。

   「あぁ、神様!私は神様にご満足いただくように決心しましたが、私の肉体は弱く無力です。神様に証しを立てられるように、私に力を植えつけてください」

   その瞬間、私は突然思いました。十字架に打ち付けられる前に、主イエスはローマ兵たちにひどく殴られたのです。血まみれでぼろぼろになるまで殴られ、痛めつけられ、体全体が傷で覆われ……。それでも主イエスは一言もおっしゃいませんでした。神は聖く潔白です。それでも主イエスは計り知れない屈辱と苦痛を味わい、人類の罪をあがなうために十字架に張り付けにされることをいとわなかったのです。私は思いました。

   「堕落した人類を救うために神が肉体をお捧げになることができたなら、私も神の愛に報いるために苦しみを受けるべきだ」

   神の愛に勇気づけられことで自信を取り戻し、神に誓いを立てました。

   「神様、神様がお受けになる苦難がどんなものであったとしても、私も同じ苦難を受けるべきです。神様と同じ杯の苦しみを、私も飲むべきです。神様に証しを立てるために、私は自らの命を捧げます!」

   その晩はほとんどずっと拷問が続き、私の体はわずかな力も残らないまでに打ちのめされました。疲れ果て、目を開けているのがやっとでしたが、目を閉じるとすぐに水をかけられました。体は寒さで震えていました。この獣の群れはそんな状態の私を見て、「まだ口を開かないつもりか?この場所で、誰にも知られることなく、お前が死ぬまで拷問することもできるんだぞ!」と激しくののしりました。私は警官たちを無視しました。邪悪な警官の一人がひまわりの種の殻を手に取り、私の爪に押し込みました。耐え難いほど痛みに襲われ、指の震えを止められませんでした。次に警官たちは私の顔に水をかけ、首にも注ぎました。水は骨まで凍りつくような冷たさで、私は寒さに震えました。ひどい苦しみでした。その夜、私は神に祈り続けました。もし神のもとを離れることになったら、もう生きていけないだろうと恐れていました。神はいつも私のそばにいらっしゃり、御言葉は常に私を励ましてくださいました。「人々が自らの命を犠牲にする覚悟がある時、全てがささいなものとなり…」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第三十六章」より)「信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第六章」より)

   神の御言葉は、尽きることのない力を私に与えてくださいました。私は思いました。

   「そうだ。神様はすべてを統治していらっしゃる。すべてのものが神様の手の中にある。たとえ邪悪な警官が私の肉体を死ぬまで拷問しようと、私の魂は神様の支配下にある」

   神様が支えてくださっているので、私はもうサタンを恐れることはなくなりました。ましてや、裏切り者になり、肉体のために無意味な人生を送ろうと望むことなどありませんでした。だからこそ、祈りながら神に誓いを立てました。

   「神様!悪魔たちが私の肉体を苦しめています。しかし、私は神様にご満足いただき、私自身をすべて神様の手に委ねることをいまだにいといません。たとえそれが死を意味したとしても、私は神様に証しを立てます。サタンにひざまずくことは決してありません!」

   神の御言葉のお導きによって、心が自信と信仰に満ちているのを感じました。警察が私の肉体を拷問し、苦しめ、私はすでに忍耐の限界に達していましたが、神の御言葉に支えられ、知らないうちに痛みがずっと軽くなりました。

   翌朝も邪悪な警官は私への尋問を続け、こう言って脅しました。

   「もし今日話さなければ、お前を特別警察に引き渡す。特別警察には拷問道具が十八種類あるんだ」

   特別警察に連れていかれると聞いた私は、動揺せずにいられませんでした。そして、「特別警察はこの警官たちよりもずっと執拗に違いない。どうしたら十八種類もの拷問に耐えられるだろうか」と思いました。ちょうどパニックに陥りそうになったとき、神の御言葉のある一節を思いました。「勝利者とは何か。キリストの良き兵士たちならば、勇敢であってわたしを信頼し、霊的に強くなければならない。戦士になるために戦い、決死の覚悟でサタンと戦わなければならない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十二章」より)

   この神の御言葉のおかげで、パニックで動揺していた心をすぐに落ち着けることができました。そして、これは霊的な戦いであり、神が私に証しをさせたいと望まれる瞬間が来たのだと気づきました。支えてくださる神の存在がある私には、恐れることは何もありませんでした。邪悪な警官がどのような恐ろしい方法を使ったとしても、私は神を頼りに、キリストの善き兵士として、決して屈服することなく死ぬまでサタンと戦わなければならなかったのです。

   その日の午後、市公安局の宗教担当職員二人が私を尋問しに来ました。「教会の指導者は誰だ?」と聞かれ、「知りません」と答えました。私が話すことを拒否したのを見て、二人は懐柔策と威圧策を交互に使いました。一人は拳で私の肩を非常に強く押し、もう一人は神の存在を否定する不条理な理論をまくし立て、私を言いくるめようとしました。

   「宇宙のものはすべて、自然の過程から生じる。もっと現実的に考えろ。神を信じても、お前の人生の問題を何も解決してくれない。お前にできることは、自分自身を頼りにして、一生懸命働くことだけだ。我々はお前とお前の息子の仕事探しを手伝ってやれる……」

   私は心の中で神と交わり続けました。すると、御言葉の一節を思いました。

   「あなたがたは常に目を覚まし、待っていなければならない。わたしの前にて、さらに祈らなければならない。いくつも存在するサタンの企てやずる賢い策略を見極め、霊を知り、人々を知り、どのような人や物事をも見分けることができなくてはならない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十七章」より)

   この神の御言葉によって啓かれた私は、サタンの陰謀を見抜くことができました。心の中で思いました。

   「邪悪な警官は不条理な理論で私をだまし、ちょっとした世話を焼くことで言うことを聞かせようとしている。サタンの策略にだまされてはいけない。ましてや神様を裏切ってユダになってはいけない」

   神の啓きのおかげで、邪悪な警察の腹黒い意図を見抜き、どのような懐柔策と威圧策を使っても、ただ無視しました。その夜、別の誰かが私の尋問に来るということ、警官たちが私に犯罪歴があると主張しているということを聞きました。何を予期すればいいのか、これから何が起こるのか分かりませんでした。できることは、神にお導きいただけるように心の中で呼びかけることだけでした。どんな迫害や困難に直面しても、神を裏切ることはできないと分かっていました。その少し後にトイレに行った時でした。突然動悸を感じ、めまいがしたかと思うと、床の上で意識を失ってしまいました。異常な音に気づいた警官たちがすぐに駆けつけ、私を取り囲みました。「火葬場に連れて行って燃やして、終わらせてしまえ!」と、誰かが不吉なことを言うのを耳にしました。しかし、私が死ぬかもしれない、そうなれば自分たちがその責任を負うことになると恐れた警官たちは、最終的に救急車を呼びました。私は病院に搬送され、検査を受けることになりました。検査の結果、私が以前に心臓発作を起こし、そのため心筋虚血が残っていたことが判明しました。尋問は中止になり、私は留置所に連れていかれました。邪悪な警官たちの不満そうな表情を見て、うれしくてたまらなくなりました。神が私のために道を開いてくださったおかげで、当分はそれ以上の尋問を受ける必要がなくなったのです。悲惨な事態を免れたことで、神の御業を目の当たりにすることができました。心の底から神に感謝し、神をたたえました。

   その後の十数日間、中国共産党政府は教会の資金の保管場所を聞き出すまではあきらめる気がないと分かっていた私は、毎日神に祈りました。どんなことがあっても神の側にしっかりと立ち、決して神を裏切らず、真の道を捨てることがないように、私の口と心を守ってくださるよう願いました。ある日祈りを終えると、神の啓きによって、神の御言葉からなる賛美歌を思い出しました。「神があなたに何を求めようとも、あなたはそれにあなたのすべてを捧げさえすればよい。最終的に神の前にあなたの忠誠心を示し得ることが望ましい。玉座にいる神の満足そうな笑みを見ることができる限り、たとえ死に際しても、あなたは微笑みながら目を閉じられるはずである。あなたは地上にいる間に神のために最後の本分を果たさなければならない。昔、ペテロは神のために逆さ磔にされた。しかし、あなたは最後に神を満足させ、神のために持てるエネルギーのすべてを使い尽くすべきである。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「造られた者は神の意思に自らを委ねるべきだ」より)

   私は心の中で何度も賛美歌を歌い、その歌詞をじっくりと考えました。すると神の御言葉をとおして、神が私に何を求め、期待していらっしゃるかが分かるようになりました。神の支配下で生きる宇宙のあらゆる被造物と、地上で神に追随するあらゆる人の中で、ごく少数の人だけがサタンに真っ向から立ち向かい、神に証しを立てることができることを思いました。こういった状況に直面できる幸運に恵まれたのは、神が類まれな方法で私を奮い立たせ、私への好意を示してくださったということです。特に、次の神の御言葉には深く勇気づけられました。

   「昔、ペテロは神のために逆さ磔にされた。しかし、あなたは最後に神を満足させ、神のために持てるエネルギーのすべてを使い尽くすべきである。

   私は神への祈りを止めることができませんでした。

   「全能神様!昔、ペテロは神様のために逆さ十字架にかけられ、サタンを前にして神様への愛の証しをすることができました。そして今、中国の政権政党による私の逮捕には、神様の善意が込められています。私の霊的背丈はあまりにも低く、ペテロとは比べものになりませんが、神様の証人となる機会を得ることは多大なる名誉です。私は自分の人生を神様に捧げます。神様への証しをするためなら喜んで死に、私をとおしていくらかの慰めを得ていただきたいと思っています」

   12月30日の朝、私の尋問のために、市公安局から役人が何人かやってきました。私が尋問室に入るとすぐに、邪悪な警官が私の綿入りのズボンとジャケットを脱がせ、言いました。

   「お前の妹と息子を拘束した。お前の家族も全員信者であることは分かっている。夫の職場にも行き、お前が2008年に全能神の信仰を始めたことも判明した……」

   警官の言葉は私の最大の弱みに付け込むもので、私は心が打ち砕かれました。息子と妹も拘留されるとは思ってもいませんでした。突如、感情に圧倒されて、私は二人のことを案じ、無意識のうちに神から心が離れてしまいました。「二人は殴られているだろうか?息子はそのような仕打ちに耐えられるだろうか?」と、何度も思いました。するとその時、神の御言葉の一節を思い出しました。

   「なぜなら、誰かがどれほど苦しむべきかや、それぞれの道をどこまで歩むべきかは神により定められたもので、誰も他人を助けることなど本当には出来ないと私は常に信じてきたからである。」(『言葉は肉において現れる』の「道……(6)」より)

   神の御言葉によって、私は感情的な状態からすぐに抜け出し、人の信仰の道はそれぞれ神によってあらかじめ決められていることに気づきました。誰もがサタンを前に神に証しを立てるべきであり、これはつまり、妹や息子にとってもサタンを前に神に証しを立てるのは大きな恵みなのではないでしょうか。そう考えた私は心配するのを止め、もう二人のことを気にしませんでした。彼らを神の御手に委ね、神の取り決めにお任せしようと思いました。その時、別の警官が他の姉妹数名の名前を挙げ、知っているかどうか尋ねてきました。私が一人も知らないと言うと、警官はいきなり立ち上がると怒りながら窓のそばの金属製の椅子へと私を引きずっていきました。私を椅子に手錠でつなぐと、すぐさま窓を開け、私が外の冷気にさらされるようにしました。次に、私に冷たい水をかけながら、下品な言葉でののしり、続けざまにスリッパで私の顔を数十回たたきました。ひどく殴打された私の目からは火が出、耳鳴りがし、口から流血もしました。

   その夜、警官数人が私を一番寒い部屋に連れて行きました。窓の全体が氷に覆われていました。警官は無理やり私の服をすべて脱がせ、全裸で窓のそばの金属製の椅子に座らせました。私の両手を背中に回して手錠をかけ、椅子の背もたれにつなぎ、少しも動けなくしました。意地の悪い警官の一人が、冷ややかな悪意のある口調で言いました。

   「我々は性別によって捜査方法を変えたりはしないんだ」

   そして窓を開けたので、骨まで凍り付くような冷たい風が私を襲いました。千本ものナイフで体がえぐられるような思いでした。寒さに震え、歯ががちがちと鳴りましたが、言いました。

   「こんな風にさらされるわけにはいきません。産後リウマチ性関節炎なんです」

   警官は残忍にも答えました。

   「これは関節炎にも効くんだ!ついでに糖尿病や腎臓病にもなるぞ!どんなにたくさんの医者に診てもらったところで、もう二度と治らないぞ!」

   そう言うと、誰かに冷たい水で満杯になったバケツを持ってこさせ、私に足をその中に入れさせました。警官は「バケツの水を一滴もこぼすなよ」と言いました。さらに私の背中に冷水をかけ、その背中を段ボールであおぎました。気温はマイナス四度でした。その骨まで凍り付くような冷たい水に凍えた私は、本能的にバケツから足を引き上げましたが、すぐに押し戻され、もう動かないように命じられました。寒さで全身が縮こまり、震えを止めることができませんでした。血が血管内で凍ったかのようでした。警官たちはそんな私を見て興奮し、不快な笑い声を上げ、「ちゃんと拍子に合わせて踊ってるな!」と馬鹿にしました。私は、この人間以下の悪魔と獣たちが憎らしくてたまりませんでした。すると突然、面白半分に人々を苦しめ、その苦しむ姿を喜ぶ地獄の悪魔を描いたビデオを思い出しました。感情と人間性に欠け、暴力と拷問しか知らない悪魔たちでした。この邪悪な警官たちは、その地獄の悪魔と何ら変わりませんでした。それどころか、さらに卑劣でした。一昼夜の間、何度も私の顔をたたき、教会のお金に関する情報を無理やり明かさせようとしました。殴られたことで私の顔が腫れ上がると、彼らは氷を使って腫れを引かせ、また殴り続けました。神の守りがなければ、とっくに私は死んでいたでしょう。私がまだ話すつもりがないのを見て、邪悪な警官たちは電気ショック警棒で私の太ももと股間に電気ショックを与えました。その度に私は体全体が痙攣し、ひきつけを起こしました。金属製の椅子に手錠でつながれていたために身をかわすことができず、どんなにひどく殴られ、踏みつけられ、辱められても受けるしかありませんでした。私が経験したひどい苦しみは言葉で言い表すことができないほどでしたが、警官たちはその間中ただ大声で笑っていました。さらに恐ろしいことに、ある若い警官が私の乳首を箸でつまみ、力いっぱいひねりました。あまりの痛さに私は絶叫しました。彼らはまた、氷のように冷たい水が入ったボトルを私の股間に押し付けたり、わさびの粉を溶かした水を鼻に流し込んだりしました。鼻の穴全体が燃えたようになり、焼けるような熱が脳天に突き刺さったかのような思いがして、とても呼吸ができませんでした。別の悪質な警官には深く吸い込んだタバコの煙を鼻に吹きかけられ、ひどく咳込みました。ひと息つく間もなく、別の警官が木製の椅子をひっくり返して、足の裏が露出するように私の足をそこに載せ、鉄の棒で両足の裏を何十回も殴りました。足がすっかりちぎれ落ちてしまうのではないかと思うほどの耐え難い痛みでした。痛みのあまり、私は何度も叫びました。まもなく足の裏が赤く腫れ上がりました。それでも邪悪な警官は私を容赦なく苦しめました。鼓動が激しくなり、今にも死ぬと思いました。そうすると警官たちは速効性のある心臓用の漢方薬を私に与え、回復し始めるとすぐにまた殴り始めました。そして、脅したのです。

   「話さないなら、死ぬまで凍えさせて殴ってやる!誰にも分からないんだからな!今日白状しなければ、このままここに何日間でもいて、お前と我慢比べを続けてやる。夫と子どもを連れてきて、お前の今の姿を見せてやろう。それでも言わないなら、奴らがクビになるようにしてやる!」

   さらには私に嘲りの言葉も浴びせました。

   「神を信じてるんじゃないのか?なら、なぜ神はお前を助けに来ない?お前の神なんて結局、そんな程度だということだ!」

   この敵意に満ちて邪悪で野蛮な獣たちを私は心から軽蔑しました。残酷な拷問に耐えるのは非常につらかったですが、神への中傷に耐えることはさらに苦しいことでした。断固たる態度を貫くために、神に必死に呼びかけました。私を守り、私に信仰、強さ、苦しみに耐える意志を与えてくださるよう懇願しました。するとその時、私の心に神の御言葉が浮かびました。

   「終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より)

   私は思いました。

   「そうだ!神様のご意志は、私がサタンを前に神への証しをすること。神様にご満足いただくために、この痛みと屈辱に耐えなければ。あとわずかな時間しか私には残されていないとしても、私は神様に忠実でなければ。これが強く響き渡るような証しであり、これで憎き悪魔を恥じ入らせてやる」

   神の御言葉のお導きによって、自信と信仰を心に取り戻せたことを感じました。闇の力を突破する覚悟でした。たとえそれが死を意味しても、今回こそは神にご満足いただかなくてはなりません。その時、教会の賛美歌が思い浮かびました。

   (『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神が栄光を得る日を見ることを望む」より)

   私は思いました。

   「そうだ!自分の肉体を気づかっていてはだめ。サタンに屈辱を与え、神様の御心をお慰めする機会がある限り、私の命を神様に捧げるのもいとわない」

   ひとたび意志が固まると、悪魔たちからどんな拷問を受けても、どんなに巧みな策略で惑わされそうになっても、最初から最後まで心の中で神を信頼していました。神の御言葉は私を内側から啓き、導いてくださり、私は信仰と力を得て、自分の肉体の弱さを克服することができました。邪悪な警官は寒気で私を拷問し続けました。体全体に角氷をこすりつけられると、氷の洞窟に閉じ込められたかのような厳しい寒さに震えました。歯はがちがちと大きく鳴り、肌は青色と紫色になりました。そして午前二時ごろ、もう死んでしまいたいと思うほどの拷問を受け、再び弱ってしまっていました。この苦しみにあとどれだけ耐えなければならないのか分からず、心の中で何度も神に懇願するしかありませんでした。

   「神様、私の肉体はあまりに弱く、もうこれ以上耐えることができません。どうか私をお救いください!」

   その祈りに応えてくださった神に感謝します。もう耐えられないと思ったちょうどその時、邪悪な警官たちが何の成果も得られていない尋問を中止することにしたのです。

   12月31日の午後二時過ぎ、邪悪な警官が私を監房に引きずり戻しました。私の体は傷だらけになり、頭からつま先までぼろぼろでした。両手は風船のように腫れ上がり、青や紫に変色していました。顔は普段よりも三割ほど腫れ上がって青緑色に変色し、ほとんど感覚がなく、完全に麻痺していました。テーザー銃で撃たれて火傷を負っている部分も数カ所ありました。その頃、一つの監房には二十人以上の収容者がいました。収容者は皆、悪魔に拷問された私の姿を見て泣きました。私を直視することさえできない人もいました。若い共産党員は、「ここから出たら、私は脱党する」と言っていました。法定代理人は私に尋ねました。

   「あなたを殴った警官たちが所属しているのは、どの署ですか?彼らの名前は?教えてください。海外のウェブサイトにすべて投稿して、公表します。中国は人道的な国だと言う人がいますが、これのどこに人間性があるというのでしょう?これは完全なる残虐行為ですよ!」

   私の窮状を知った他の収容者の多くは、怒りながら大声で言いました。

   「共産党がこんなに残酷になれるとは想像もしなかった。こんな信頼を裏切るような行為をしでかすなんて。神を信じることは良いことで、人を犯罪から遠ざけるのに。中国には宗教の自由があると言ってなかった?これは絶対に宗教の自由じゃないから! 中国では、お金と権力がすべてね。本当の犯罪者は自由なままで、誰も捕まえようとしない。死刑囚は政府の役人に賄賂を渡せばすぐに解放される。この国には正義も平等も存在しない!」

   その瞬間、私は神の御言葉を思い出さずにいられませんでした。

   「今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   「あなたがたは、ほんとうに赤い大きな竜を憎んでいるのか。ほんとうに、心から竜を憎んでいるのか。なぜわたしは、こんなに何度も尋ねているのか。なぜわたしは、この問を何度も繰り返しているのか。あなたがたは、赤い大きな竜について、どんな印象をもっているのか。それはほんとうに除かれたのか。ほんとうに、竜を自分の父とは考えていないのか。すべての人は、わたしの問の中にわたしの意図を理解しなければならない。これは、人々を怒らせようというのではなく、人々の間に反乱を起こさせようというのでもない。また、人間に自分で解決法を見つけさせようというのでもない。すべての人が赤い大きな竜の縛めから自由になれるようにと、していることなのだ。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十八章」より)

   この神の御言葉に、私は深く慰められました。私が被った残酷な拷問を通じて、中国共産党政府の残酷で邪悪な悪魔のような本質が明らかにされるとは想像もしていませんでした。また、それによって、非信者が中国共産党政府の本当の姿を知り、共に立ち上がってこの古い悪魔を嫌悪し見捨てることができるかもしれないということも想像していませんでした。この出来事は、本当に神の知恵と全能性の働きだったのです。以前は、中国共産党のことを偉大なる赤い太陽、人々の救い手だと思っていました。ですが、中国共産党政府の非人道的な迫害と拷問の犠牲になった後は、完全に考えが変わりました。中国共産党は人の命をなおざりにし、神の選民であっても残忍に虐待し、天国に逆らい、恐ろしい罪を犯す悪霊であることを実感しました。中国共産党政府は、悪魔の生まれ変わりであり神に逆らう悪霊です。神は創造の主であり、人間は被造物です。神を信じるのは自然で正しいことですが、中国共産党政府は神の追随者に冤罪を着せて気まぐれに逮捕して苦しめ、神の追随者を一掃しようと躍起になっているのです。その過程で、神を憎み、神に敵対するやり方の悪魔のような本性を余すところなくあらわにしました。中国共産党政府が引き立て役として機能することで、神の善と愛の本質が私にはさらに明らかになりました。神は二度受肉なさいましたが、どちらの時も計り知れない迫害と苦境、そして悪魔の追撃に苦しまれました。それでも、神はあらゆる攻撃と苦しみに静かに耐えられ、人類を救うための働きをされました。神の人類への愛は本当に偉大です!こう思ったとき、私はこの悪魔の集団を全身全霊で軽蔑し、過去に熱心に真理を追い求めず、神の愛に報いるために本分を尽くさなかったことを本当に後悔しました。いつか、この場所を生きて出ることができたら、本分を尽くすことにこれまで以上に専念し、神に私の心を捧げようと思いました。

   その後、邪悪な警官からさらに四回尋問を受けました。しかし私から何も聞き出すことができなかった彼らは、「公序良俗に反する」という容疑をでっち上げ、裁判まで五千人民元の保釈金で私を一年間保釈しました。家族が保釈金の支払いを終えると、2013年1月22日、私はついに釈放されました。家に帰ってからも、窓に氷がはっているのを見るたびに鼓動が激しくなりました。視力が著しく低下し、関節炎も悪化し、本当に腎臓にも問題を抱えるようになりました。絶えず寒さを感じ、パニック発作を起こしやすく、両手にしびれが残り、顔の皮膚が剥がれました。また、内腿に耐え難い痛みを感じることが多く、そのため眠りから覚めるほどでした。これらはすべて悪魔たちの拷問の証拠でした。

   中国共産党政府の非人道的で残虐な迫害を受けたことで、肉体はあらゆる拷問に苦しみましたが、神との関係が緊密になり、神の知恵、全能性、愛と救いについてさらに実際的な認識を得ることができ、全能神に従う決意が強まりました。死ぬまで神に従うこと、神を愛する者になるよう努めることを決心しました。共産党政府の残酷な迫害をとおして、神の愛、配慮、守りを私はこの身をもって経験したのです。神の御言葉が道を一歩ずつお導きにならず、力と信仰を与えてくださらなかったら、あの非人道的な苦痛と拷問にすべて耐えることはできなかったでしょう。この特異な経験があったからこそ、共産党政府は神に抵抗し敵対する悪魔サタンに他ならないのだということがはっきりと分かるようになったのです。中国を無神論の国に変えて世界を征服しようと企てる中国共産党政府は、ただ突き進み、この世界から神を追い出すためなら何でもするのです。神の追随者たちを根絶することを目標に、神に従う者を必死に追い、逮捕し、迫害し、一網打尽にして神の働きを完全に滅ぼそうとしています。本当に想像を絶するほど邪悪なのです!

   人々を丸飲みする悪魔のような獣に他なりません。天国に逆らって正義を阻む、邪悪で卑劣なサタンの闇の力なのです。この中国共産党政権は、善良な一般人を抑圧して虐待する悪者を野放しにし、そんな悪者に法的、政治的権力を分け与えています。売春、ギャンブル、麻薬取引に手を染めるギャングや悪党たちと親交を深めて楽しみ、その利益を守る手助けさえします。神に従い人生の正しい道を歩む人々だけが、中国共産党政府に敵視され、不当に抑圧され逮捕され、信者の家族が引き裂かれ、愛する人が行方不明になり、家に戻れなくなるまで残酷に迫害されるのです。その多くは定住することができず、家から遠く離れた場所で流浪の生活を送らなければなりません。残酷な拷問にさらされ、神への信仰のために肢体不自由になったり、死に至るまで殴られたりする人もいます。…中国共産党政府が残忍な怪物であり、人類の虐殺者であり、悪魔であり、サタンであることは極めて明白です。最後には、犯した恐ろしい罪のせいで神の義なる懲罰を免れないでしょう。なぜなら、全能神はずっと前にこうおっしゃっているからです。

   「そうした悪魔の巣窟は神により粉砕されることは確実であり、あなたがたは神の傍らに立つであろう。あなたがたは神のものであり、奴隷の帝国に帰属しない。神は久しくこの暗黒社会を骨の髄から忌み嫌っている。神は歯ぎしりし、この邪悪な老いたへびが再び立ち上がって人間を虐待する事の無いよう、そのへびを必死で踏みつけようとしている。神はそのへびの従前の行いを許さず、そのへびの人間に対する偽りを容赦せず、そのへびの遠い昔からの罪のひとつひとつに報復するであろう。神がその諸悪の首謀者[1]に対して寛容となることは僅かばかりも無く、そのへびを完全に粉砕するであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   神の義は賛美と称賛に値し、神はサタンの国を破壊し消滅させてくださいます。そして神の国がこのこの地上に打ち立てられ、神の栄光は必ずや宇宙全体を満たすでしょう!

 

脚注

1.「諸悪の首謀者」とは、年老いた悪魔を指す。強烈な嫌悪を現す句。


ヨブについて(1)

2020-02-22 18:43:56 | 聖書の奥義を開く

  ヨブの経験した試練を学んできたわけだが、あなた方の大半はヨブ自身についてもっと知りたくなっただろう。特に、神から称賛される秘訣は何であるかを知りたいだろう。ではこれからヨブについての話をしよう。

   ヨブの日々の生活に完全さ、正しさ、神への畏れ、悪を避ける生き方を見ることができる

   ヨブについて語ろうとするならば、「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない。」という神自身の言葉によるヨブの評価をまず知らなくてはならない。

   まずヨブの完全さと義について学ぶとしよう。

 

 

   あなたは「完全」そして「正しい」という言葉をどのように理解しているだろうか。あなた方はヨブが責められるところのない人で、高潔であったと思うだろうか。勿論これは「完全」そして「正しい」の文字通りの解釈である。ヨブのことを真に理解するためには実生活から離れてはいけない――言葉、書籍、理論だけでは、答えを見つけることはできない。まずヨブの家庭生活、日々の生活はどのようなものだったかを検討しよう。そうすることで彼の人生における原則と目的、そして彼の人間性や追い求めていたものが見えてくるからだ。それではヨブ記1:3の最後の部分を読む。「この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」。この言葉が意味するところは、ヨブの地位と立場は非常に高く、彼が多くの財産を所有しているからと言って、または彼が完全であり正しく、神を畏れ悪を避ける人間であるからと言って東方で最も偉大な人間であったかどうかは分からないにしても、とにかくヨブの地位と立場が非常に尊ばれていたということである。聖書に書かれているように、ヨブに対する人々の第一印象は、神を畏れ悪を避ける完全な人で、非常に多くの財産と尊敬される地位にいたということである。そのような環境と条件の下で生きている普通の人間であるヨブの食生活、生活水準等の日常生活はいったいどのようなものであったのか、それが大方の人間の注目するところである。続けて聖句を読む。「そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った」(ヨブ記1:4-5)。この聖句から2つのことが分かる。ヨブの息子娘達は定期的に宴会を催し、飲み食いをしていたということ。2つ目は、ヨブが度々息子娘達のために全焼のいけにえを捧げていたということである。ヨブは自分の息子娘達が罪を犯したり、心の中で神を呪ったりしてはいないかと心配していたのである。この聖句の中に、2種類の全く異なる種類の人間が描かれている。まず、ヨブの息子娘達は裕福であり、贅沢に暮らしていた。心ゆくまで豪華な食事を楽しみ、物質的な豊かさがもたらす高水準の暮らしを享受していた。そのような生活をしていれば、しばしば罪を犯し、神の怒りを招くことは避けられなかったが、それでも彼らは自らを清めたり、全焼のいけにえを捧げたりすることはなかった。そこから分かるのは、神は彼らの心の中に居場所はなく、彼らが神の恵み、神の怒りを招くことに対する畏れなどを思うこともなく、ましてや神を放棄することを恐れてなどいなかったことが分かる。もちろん、わたしたちがいま問題としているのはヨブの子ども達ではなく、そのような子ども達を目の当たりにしたヨブがどうしたかである。これが、この聖句に書かれているもうひとつの問題であり、ヨブの日常生活と彼の人間性の本質と関わりがある。ヨブの息子娘達の宴会について書かれている聖句では、ヨブには言及していない。ヨブの息子娘達がしばしば宴会を催し、飲み食いしていたとだけ書いてある。言い換えれば、ヨブが宴会を催した訳ではなく、ヨブはそこで一緒に贅沢に飲み食いもしていないのである。彼は富んでおり、多くの資産としもべとを所有していたが、ヨブは贅沢な暮らしはしていなかった。ヨブは贅沢な生活環境を楽しむことなく、肉の楽しみを貪ることもなく、富むが故に全焼のいけにえを捧げ忘れるということもなく、ましてや徐々に神を自分の心から遠ざけるというようなことはしなかった。明らかにヨブはその生活に自制心を持っており、貪欲でも快楽主義でもなく、神からの祝福による高い生活水準に固執することもなかった。むしろ、彼は謙虚で慎み深く、そして神の前に注意深く慎重であった。しばしば神の恵みと祝福に思いをめぐらせ、常に神を畏れた。ヨブは度々朝早く起きて、息子娘達のために全焼のいけにえを捧げた。言い換えれば、ヨブは自ら神を畏れただけでなく、子ども達も同様に神を畏れ、罪を犯さないことを願っていた。物質的な豊かさがヨブの心の一部分でも占めることはなく、物質的な豊かさがヨブの心にある神に取って代わることもなかった。自分自身のためであれ子ども達のためであれ、ヨブの習慣は全て神を畏れ悪を避けることに直結していた。ヨブのヤーウェ神への畏れは言葉によるものだけではなく、行動で現され、彼の日常生活のあらゆる場面に反映されていた。このようなヨブの振る舞いから、ヨブが正直で、その本質は義を愛し、善を愛するものであったことが分かる。ヨブはしばしば息子娘達を送って清めたということは、彼が自分の息子娘達の振る舞いを認めておらず、良しとしてはいなかったということである。むしろ、その心は子ども達の行いにうんざりしており、非難していた。ヨブは自分の子ども達の行いがヤーウェ神に喜ばれていないと結論付けた。それ故、彼は頻繁に彼らを呼び、ヤーウェ神の前に出て罪を告白させたのである。ヨブの行動から彼の人間性の別の面が見える。それは、ヨブは罪を犯す者達と決して歩まず、彼らから遠ざかり、避けたということである。たとえそれが自分の息子娘達であれ、ヨブは彼らのために自分の生き方の原則を曲げることはなく、感情に流されて罪を見逃したりはしなかった。むしろ子ども達に、罪を告白してヤーウェ神の寛容を受け、快楽に対する貪欲さ故に神を捨ててはならないと警告した。ヨブの周囲の人々に対する接し方の原則は、神を畏れ悪を避けるという原則と切り離すことはできない。ヨブは神に受け入れられる物事を愛し、神が拒絶する物事を憎んだ。神を畏れる心を持つ人々を愛し、神に対して悪を行なったり罪を犯したりする人々を憎んだ。ヨブの日々の生活がその愛と憎しみを語っており、正にその愛と憎しみが、神の目に映ったヨブの正しさそのものであった。当然これが、周囲の人々との関わりの中におけるヨブの真の人間性の現れであり生き様であり、わたしたちは是非これについて学ぶべきである。

   試みの中でのヨブの人間性の現れ(試練の中でのヨブの完全さ、正しさ、神への畏れ、そして悪を避ける生き方を理解する)

   ここまで、ヨブが試みに遭う前に彼の日常生活に見られた人間性の側面について話してきた。これらを理解することにより、ヨブが正しく、神を畏れ悪を避けることの初歩的知識と理解を得るこができ、確認することができたことは間違いないだろう。「初歩的」と言ったのは、大半の人がまだヨブの人間性を真に理解しておらず、彼がどれほど神に従い神を畏れる道を求めたかを真に理解していないからである。つまり、大半の人のヨブに対する理解は、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」、そして「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という聖句が与える幾分ヨブに好意的な印象の域を出ることがないのである。したがって、ヨブが神から試練を受けた後に見せた彼の人間性を理解する必要が大いにある。そうすることで、ヨブの真の人間性が全て明らかになるのである。

 

   ヨブが、財産を奪われ、息子と娘達が命を失い、しもべ達が殺されたと聞いた時のヨブの反応は、「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、…」(ヨブ記1:20)という聖句に示されている。この言葉はひとつの事実をわたしたちに示している。知らせを聞いたヨブは動揺することもなく、泣くこともなく、知らせを持ってきた使いの者を責めることもせず、ましてや現場を検証してなぜどのようにしてそのようなことが起きたのか、詳細を確認しようなどとは考えなかった。彼は所有物を失ったことに対して一切の痛みや後悔を見せることもなく、愛する子供たちを失ったことで泣き崩れることもなかった。それどころか、ヨブは自分の衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して神を礼拝した。ヨブの行動は普通の人間の行動とは全く異なっていた。ヨブの行動に多くの人は混乱し、ヨブの「冷血さ」を心の中で叱責した。所有物を突然失えば、普通の人間であれば悲しくなり、落胆する。人によっては深い絶望感を感じるだろう。人にとって財産は人生の長い苦労の結晶であり、生きる支えであり、生きる望みであるからである。財産を失うということはそれまでの努力が無駄になり、望みも失い、未来さえなくなったということである。これが普通の人の財産に対する考え方であり、普通の人はそれほど深く財産と関わっているのである。人の目には、財産とはそれほど重要なのである。そのような訳で、財産を失っても冷静でいられるヨブに大半の人々は困惑するのである。ここではヨブの心の中を理解することにより、そのような人々の困惑を払拭する。

   常識的に考えるならば、神から与えられた膨大な財産を失ったのだから、ヨブは恥じるべきだと言われるだろう。財産をきちんと管理できず、神に与えられた財産を手放さずに持っていることができなかった訳であるから。財産が奪われたと知った時、ヨブは現場に赴いて失った財産を記録し、それを神に報告し、もう一度神の祝福が得られるようにすべきであったと。だがヨブはそのようなことはしなかった。ヨブにはそうしない理由が当然あった。ヨブは、自分の所有物は全て神から与えられており、自分の労働から生まれたものではないと深く理解していた。故に神からの祝福を資本とするものとは考えず、自分の生きるべき道からどんなことがあっても離れない様、その原則に全力で留まったのである。ヨブは神に与えられた祝福を大切にし、感謝した。だがその祝福に心を奪われることはなく、更に祝福を求めることもしなかった。それがヨブの財産に対する彼の姿勢である。ヨブは祝福を得るために何かをするということもなく、また、神からの祝福が欠けるとか失うということを心配したり悩んだりすることもなかった。神から祝福を受けることで荒っぽくなったり、有頂天になることもなく、繰り返し享受する祝福に神の道を無視するようになったり、神の恵みを忘れたりすることもなかった。財産に対するヨブの姿勢は、人々に彼の真の人間性を示すものとなった。その理由の1つ目は、まず、ヨブは欲深い人間ではなく、その生活において物質的に多くを求めることはしなかった。そして2つ目は、神が全てを取り上げることをヨブは心配したことが一度もなかった。これはヨブの神への従順を現している。つまりヨブは、神が彼の財産を取り上げるかどうか、そして取り上げるのであればいつならば良いかというような注文をつけたり不服を言ったりすることは一切なく、何故取り上げたかその理由を聞くこともなく、ひたすら神の計画に従うことだけを求めたのである。3つ目の理由は、ヨブは自分の財産が自分の労によるものだとは決して思わず、神に与えられたものだと信じていた。これがヨブの信仰であり、彼が確信するものの現れである。ヨブの人間性と日々追い求めていたものが今述べた3つのポイントで理解できただろうか。ヨブが財産を失っても冷静に振る舞うためには、彼の人間性と彼が追い求めてきたことが不可欠だった。神からの試練の中にあっても、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことのできる背丈を持ち、確信に立っていることができたのは、ヨブが日々追い求めていたものがそのようなものであったからである。ヨブのこの言葉はひと晩のうちに言えるようになるものでもなく、ヨブの思いつきで言った言葉でもない。ヨブの長い人生経験から生まれたものである。神の祝福ばかり求め、取り上げられることを恐れ、取り上げられることを嫌い、取り上げられれば不平を言う人達と比較すると、ヨブの従順さは実に本物ではないだろうか。神の存在は信じるが神が全てを支配するとは決して信じない人達と比較すると、ヨブは非常に正直で正しかったと言えるだろう。


人の子は安息日の主である

2020-02-21 14:09:49 | 聖書の奥義を開く

   1.そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。(マタイによる福音書12:1)

   2.「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)

   まず、「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」という聖句を検討する

 

 

   この聖句を選んだのは何故か。この聖句と神の性質には、どのような関連があるだろうか。この聖句で最初に気付くのは、これが安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子達を率いて麦畑を歩いていることである。さらに「法外」なこととして、「穂を摘んで食べはじめた」のである。律法時代において、ヤーウェ神の律法では、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりすることはできなかった。安息日にしてはならないことが沢山あったのである。主イエスのこうした行動は、長く律法の下で生活していた者にとっては不可解であり、非難に値するものでさえあった。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかについては検討せず、まず主イエスがとりわけ安息日にこうした行動を取ったのは何故か、またそうした行動により、律法に従って生活していた人々に伝えたかったことは何かについて検討する。ここで議論したい神の性質とこの聖句の関連性が、ここにある。

   主イエスが来た時、イエスは実践的行動により人々と対話した。神は律法の時代を離れ、新たな業を開始し、その新たな業では、安息日を守る必要がなかった。神が安息日の制限から解放された時、それは神の新たな業の前兆でしかなく、神の真に偉大な業は、引き続きその後に行われた。主イエスが業を始めた時、イエスは律法時代の制約を既に過去のものとし、律法時代の規制と原則を破っていた。イエスには、律法に関連する部分が全く見られなかった。イエスは律法を完全に捨て去り、それを守ることはなく、律法を守ることを人間に要求しなかった。そうしたわけで、ここでは主イエスが安息日に麦畑を歩いていた、すなわち休まずに外出して活動していたのである。こうしたイエスの行動により人々の考え方に対して衝撃が与えられ、イエスはもはや律法に従っていないこと、神は安息日の制限を破棄し、新たな印象と新たな業の実行方法とともに人間の前に現れたことが伝えられた。こうしたイエスの行動により、神は律法や安息日から解放されることから始まる、新たな業を人々に伝えた。神が新たな業を行った時、神は過去に固執せず、神は律法時代の規則を懸念することがなかった。また、神は従前の時代の業に影響されることもなく、安息日に通常通り活動し、弟子たちは空腹となった時、麦の穂を摘んで食べることができた。こうしたことは、神にとって至って普通であると考えられた。神は、行うことを望んでいた業や、伝えるべき沢山の言葉に対して、新たな始まりを迎えることができた。神は、新たな始まりを迎えた後には、従前の業について述べることも、それを継続することもない。神の業には原則がある。神が新たな業を始めることを望んだ時は、神が人間を新たな業へと移行させることを望み、神の業が一層高度な段階に達している時である。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動を続けたり、そうした事柄を守り続けたりした場合、神はそれを祝福することも讃えることもないであろう。なぜなら、神は既に新たな業を行っており、業の新たな段階へと移行しているからである。神が新たな業を開始したとき、神の性質や神の中にある物事、神の存在に関する様々な側面を人々が理解できるように、神は人間に対して全く新しい側面から、全く新たな印象とともに、全く新しい方法で現れる。これが、神の新たな業の目的のひとつである。神は従来の常套的方法に留まることがなく、神が業を行い、言葉を伝える時、神は人間が想像するほど制約的ではない。神においては、全てが自由であり、開放されており、阻害的な要因や束縛は全く存在しない。神が人間に授ける物事は、すべて自由であり、開放されている。神は生きている神であり、実際に存在する存在である。神は操り人形でも粘土像でもなく、人間が祭る偶像とは全く異なる存在である。神は生きており、活気に満ち、神の言葉や業により人間に授けるのは、命と光、自由と開放である。なぜなら、神は真理、命、そして道を持っており、神は神の業において、いかなる物事にも制約されないからである。人間が何を言おうと、神の新たな業を人間がどう見るか、どう評価するかを問わず、神は何ら不安に感じることなく、業を行う。神は、神の業や言葉に対する人間の考えや批判、さらに強い反感や反抗を懸念することはない。人間的な理由や想像、知識、倫理により、神の業の評価や定義をしたり、神の業に対する信頼性を傷つけたり、混乱させたり、妨害を行うことができる者は、誰も居ない。神の業に制約的部分は一切なく、また業が人間や物事による阻害を受けることはなく、また神と敵対する勢力により混乱させられることもない。神の新たな業において、神は永遠に勝利を続ける王であり、敵対する勢力や、異端の者、人間による詭弁は、すべて神の足台の下で踏みにじられる。神が、業のどの段階を新たに行っているかを問わず、その段階は神の大いなる業が完了するまで、必ず人間界において展開され、拡張され、さらに全宇宙において妨害されることなく必ず実行されなければならない。これが神の全能と知恵、そして権威と力である。したがって主イエスは安息日に隠し立てすることなく外出して活動することが可能であった。なぜなら、主の心には規則が皆無であり、また人間から出た知識も教義も皆無だからである。イエスにあったのは新たな業と新たな方法であり、またイエスの業は、人間を自由にし、解放し、人間が光のなかに存在できるようにし、生きることができるようにする道であった。そして、偶像や偽の神を崇拝する者は、サタンの呪縛を受け、様々な規則や禁忌の制約を受けながら日々を過ごす。今日は何かが禁止されているが、明日はまた別の何かが禁止され、こうした者の生活に自由はない。こうした者は手かせ、足かせをされ、喜びについて何ら語ることがない、囚人さながらである。「禁制」とは何であろうか。それは、制約、束縛、そして邪悪である。ある者が偶像を崇拝するということは、とりもなおさず偽の神を崇拝し、悪霊を崇拝することである。そうした崇拝には制約が伴う。あれとこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日はコンロを点けてはならない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある。こうした状況を何というか。こうした状況を「禁制」という。禁制は人間による呪縛であり、サタンの手かせ、足かせであり、邪悪な霊がそれを支配し、人間の心身を束縛する。こうした禁制が、神に存在するであろうか。神の聖なる存在について述べる場合、神には禁制が皆無であることを、まず考える必要がある。神の言葉と業には原則があるが、禁制はない。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからである。

   次に、「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)という聖句について検討する。ここでいう「宮」とは、何であろうか。「宮」とは、簡単に言えば高い大きな建物を指し、律法の時代は、宮とは司祭が神を礼拝する場であった。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる。」と言った時、「者」とは誰をさしていたであろうか。ここで「者」とは、明らかに肉体を持つ主イエスを指す。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスのみだったからである。この聖句は人々に何を伝えているだろうか。この聖句では、神殿の外に出るよう、人々に伝えている。なぜなら、神は既に神殿の外に出ており、神は神殿では何も行っていなかったので、人々は神の足取りに続き、神の新たな業における段階に従うべきだったからである。主イエスがこうした言葉を伝えた背景には、律法のもとにおいては、神殿が神そのものよりも偉大なものであると人々が考えるようになっていたということがある。すなわち、人々は神ではなく、神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、神は至高の存在であるので、神を崇拝するよう警告したのだ。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べたのである。主イエスから見て、律法のもとでは、人々はもはやヤーウェを礼拝しておらず、単にいけにえを捧げる手続に従っていただけであったことは明瞭であり、したがって主イエスはその手続を偶像崇拝であると判断された。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていた。こうした者の心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失った場合、こうした者はすみかを失った。神殿無くしては、こうした者は礼拝を行うために訪れる場所がなく、いけにえを捧げることができなかった。ここでいう、こうした者のすみかとは、ヤーウェ神の礼拝という名目で活動を行っていた場所であり、こうした者は神殿に滞在して自分たちの私事を行うことができた。ここでいう、こうした者が「いけにえを捧げる」とは、神殿で礼拝を行うという口実のもとに、自分の個人的な恥ずべき取引を行う、ということであった。当時の人々が、神殿は神よりも偉大であると考えていたのは、このためであった。こうした者は、神殿を隠れ蓑として利用し、いけにえを人々と神を欺くための口実として利用していたので、主イエスは人々に警告したのだった。こうした言葉を現在に当てはめた場合、こうした言葉は当時と同様に正当であり、適切である。現在の人々は律法時代の人々とは異なる業を経験してはいるが、人々の本質は同じである。現在における業に関しても、「神殿は神よりも偉大である」という考えと同様の物事を人々は依然として行っている。たとえば、人々は自分の任務を遂行することを職務と考えており、神を証しすること、大きな赤い龍と戦うことを、人権保護や民主主義、自由のための政治活動であると考えている。また人々は自分の技能を活用する任務を職務とするが、神を畏れ、悪を忌み嫌うことは、単に守らなければならない宗教的教義として扱うなどしている。こうした人間の表出は「神殿は神よりも偉大である」という表出と本質的に同じではなかろうか。2000年前は、人々は自分の職務を物理的な神殿で行っていたのに対し、現在においては、人々は自分の職務を無形の神殿で行っているというだけのことである。規則を重視する人々は、規則を神よりも偉大であると考え、地位を好む人々は、地位を神よりも偉大であると考え、職務を好む人々は、職務を神よりも偉大であると考えるなど、全ての表出の結果として言えるのは、「人々は、口では神を最も偉大であるとして褒めたたえるが、人々の目には、あらゆる物事が神よりも偉大であるように映る」ということである。その理由は、人々が、自分が神に付き従う道で自分自身の才能を示し、あるいは自分自身の業務ないし職務を遂行する機会を見出すとすぐに、人々は神から離れ、自分が好む職務に没頭してしまうからである。神がこうした人々に託した物事や、神の旨については、捨て去られて久しい。こうした状況のなかで、これらの人々と、2000年前に神殿で自分の個人的な取り引きを行っていた人々と何か違うであろうか。

   次に、この聖句の最後の文「人の子は安息日の主である。」を検討する。この文には実際的な側面が存在するであろうか。この文の実際的な側面を理解できるだろうか。神の言葉は、それぞれすべて神の心から発せられたものであるが、それでは神がこう述べた理由は何であろうか。どのように解釈しているだろうか。現在では、この文の意味を理解できるかも知れないが、当時この文を理解できる者は少なかった。なぜなら、人間は律法の時代から移行したばかりだったからである。この時代の人々にとって、安息日を終えるのは極めて困難であり、ましてや真の安息日とは何であるかを理解することが極めて困難であったのは言うまでもない。

   この「人の子は安息日の主である。」という文は、神に関するあらゆる物事が非物質的であると言っており、神はあなたがたの必要な物事をすべて授けることができるにもかかわらず、あなたがたの物質的な必要性がすべて満たされた後、はたしてこうした物事による満足感を、真理の追究に置き換えることは可能であろうか。それは明らかに不可能である。ここまで研究してきた神の性質、神の中にある物事や神の存在に関する知識は、すべて真理である。それらの事柄は、有形の物体の高額な価格で計測することが不可能なものであり、またその価値を金銭で数量化することも不可能である。なぜなら、それらの事柄は物質的なものではなく、各人の心の必要性を満たすものだからである。すべての人々にとって、こうした無形の真理の価値は、あなたが気に入っている、いかなる有形物の価値よりも高いものであるはずだろう。この命題については、暫く考察する必要がある。わたしが述べたことの要点は、神の中にある物事や神の存在、そして神に関する全ては、あらゆる者にとって最も重要な物事であり、それはいかなる有形物によっても置き換えることができない、ということである。ひとつ例を挙げる。空腹な時は、食べ物が必要である。この食べ物は比較的良いものである場合と、そうでない場合があるが、空腹を満たすことさえできれば、空腹の不快感は解消されてなくなる。落ち着いていられるようになり、身体も安らぐ。人間の空腹感は食べ物で解消するが、神に付き従ってきて、神を全く理解していなかったとしたら、その心の空虚感は、どのようにしたら満たすことができるであろうか。その空虚感を食べ物で満たすことができるであろうか。また、神に付き従っていて、神の旨を理解していなかったとしたら、そうした心の飢えは何を使えば満たすことができるだろうか。神による救いの経験過程において、自分自身の性質の変化を追求してゆくなかで、神の旨を理解していなかったり、真理とは何かを知らなかったり、神の性質を知らなかったりした場合、極めて不安にならないであろうか。心の飢えと渇きを強く感じないだろうか。そうした感覚により心の平静を阻害されないだろうか。それでは、どのようにすれば、こうした心の飢えを解消することができるだろうか。この飢えを解消方法は存在するだろうか。ある者はショッピングに出掛け、ある者は悩みを打ち明けられる友達を見つけ、ある者は眠り、ある者は神の言葉を読み、仕事に一層打ち込んで本分を尽くすために更に努力する。こうした物事で実際の問題を解決できるだろうか。こうした行動については、誰もが完全に理解している。無力感を覚えた時、真理や神の旨について知ることができるように神の啓示を得ることを渇望している時、一番必要なものは何であろうか。必要なものは、食事でも優しい言葉でもない。さらに言えば、必要とされるのは、一時的な慰めでも肉の欲を満たすことでもなく、神に、自分がすべきことは何か、それをどうすべきか、そして真理とは何かを、明瞭に直接伝えてもらうことである。たとえ少しであったとしても、こうした事柄を理解したら、良い食事を食べた時よりも心の満足感を感じないであろうか。心が満たされた時、心と人間全体が真の平安を得るのではないだろうか。この例と分析から、わたしが「人の子は安息日の主である。」という聖句を取り上げた理由が理解できたであろうか。この聖句は、神から与えられるもの、神の中にある物事、神の存在、そして神に関するあらゆる物事は、自分が嘗て最も大切だと想っていた物や人物を含めた他の何よりも偉大である、ということである。つまり、たとえば誰かが神の言葉を得られなかったり、神の旨を理解できなかったりしたとすれば、その者は平安を得ることができない。今後の経験のなかで、わたしがあなたがたにこの聖句を考察して欲しいと望んだかを理解するであろう。これは非常に重要なことである。神の業はすべて真理であり、いのちである。人間にとって真理とは、人間の生活に不可欠なものであり、真理なしで生活することは決して出来ない。真理が最も偉大なものであると言うことも出来るであろう。真理は、見ることも触ることも出来ないが、あなたがたにとってその重要性を無視することは出来ない。心の平安をもたらすことができるのは、真理だけである。


人類に対する創造主の真の思い

2020-02-20 13:04:47 | 聖書の奥義を開く

   この聖句のヤーウェ神とヨナの対話は、創造主の真の思い入れを表出するものであることに異論は無い。この対話は一方では、神の支配下にある創造物全体に対する創造主の認識を人々に伝えるものであり、それはヤーウェ神が、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベ…」とある通りである。つまり、ニネベに関する神の認識は、決して粗略なものではなかった。神はニネベの町の生物(人間のほか家畜など)の数を知っていただけでなく、右も左もわきまえることが出来ない者の人数、すなわち、子供や若者の人数も知っていた。これは、人間に関する神の卓越した知識を具体的に証明するものである。その一方で、この対話は、人間に対する創造主の姿勢、すなわち創造主の心における人類の重要さを人々に伝えるものである。それは聖句にあるヤーウェ神の言葉の通りである。すなわち、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは…この大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」これは、ヤーウェ神がヨナを非難して述べた言葉であるが、すべて真実である。

 

 

   ヨナはニネベの人々に伝えるヤーウェ神の言葉を託されたが、ヨナはヤーウェ神の意図も、ヤーウェ神のニネベの人々に対する懸念も理解していなかった。神は、この叱責により、人類が神自身の手により造られたものであること、また人間のひとりひとりについて、神が甚大な努力をしたこと、神の望みを負っていること、神のいのちの恵みを享受していること、神が大きな代償を払っていることを、ヨナに対して述べていた。また、ヨナがこのとうごまを愛慕するのと同様に、神自身の手により造られた人間を神が愛慕していることが、この叱責によりヨナに伝えられた。神は、最後の最後まで、ニネベの人々を安易に見捨てるつもりは一切無かった。さらに、ニネベには子供や何も知らない家畜も多数居た。神の創造物のうち、右も左も分からない子供や無知な動物を取り扱うとき、神が早まって子供や動物の生命を絶ち、その運命を決めることが出来なかったのは、なおさらである。神は、子供達の成長した姿を見ることを望んでいた。神は、子供達が将来大人達のような道へ進まないこと、ヤーウェ神の警告を二度と耳にする必要が無いこと、ニネベの歴史の証をすることを望んでいた。それにも増して、神は悔い改めた後のニネベとその将来の姿を見ること、そして何よりも、ニネベの人々が再び神の慈悲の許で生活するのを見ることを、望んでいた。したがって、神の見地からすると、神が造った物のうち、そうした右も左も分からない子供達が、ニネベの将来であった。こうした子供達は、ヤーウェ神の導きの許でニネベの過去と未来の証しとなる重要な任務を背負うことになるのと同時に、ニネベの卑劣な過去も背負うことになるのであった。このヤーウェ神の真の思い入れが述べられている部分において、ヤーウェ神は、創造主の人類全体に対する慈悲を提示した。この部分では、「創造主の慈悲」は虚言でも、空虚な誓いでもなく、具体的な原則であり、方法であり、目的であった。創造主は真実であり、実在し、嘘や偽りを行わない。そしてこのように、神の慈悲は、あらゆる時代において、人間に対して無限に与えられる。しかし、現在に至るまで、この創造主とヨナとの対話は、神が人類に対して慈悲をもって接する理由、神が人類に対して慈悲を示す方法、神が人類に対してどの程度寛容であるか、そして神の人間に対する真の思いに関する、神による、唯一の言葉である。ヤーウェ神の簡潔な対話では、自身の人間に対する完全な心が表出されている。この対話は人間に対する神の心の姿勢に関する真の表出であり、また人間に対する神による慈悲の豊かな付与に関する、、具体的な証明でもある。神の慈悲は、従前において世代から世代へと続いて来たのと同様に、人間のうち比較的高い年齢層のみに与えられるものではなく、人間のうち比較的若い層にも与えられる。多くの場合、神の怒りは特定の地域、特定の時代に人類に対してくだされるのに対し、神の慈悲は決して止まることが無い。神は、自身の慈悲により導き、施し、与え、そしてそれを神の創造物の世代から世代へと連綿と続けられる。なぜなら、神の人間に対する真の思い入れは、変わることが無いからである。「惜しまないでいられようか」というヤーウェ神の言葉が示す通り、神は常にご自身の創造物を愛慕してきた。これが創造主の義の性質による慈悲であり、この慈悲もまた、創造主の純然たる特質である。