賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

人類に対する創造主の真摯な思い入れ

2020-02-19 23:56:48 | 職場の人間関係

   人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェ神とヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。

 

 

   次に挙げるのはヨナ書4:10~11に記された言葉である。「ヤーウェは言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。』」これは、ヤーウェ神とヨナとの会話における、ヤーウェ神自身の言葉である。この会話は短いものの、創造主の人間に対する思いやりと、ニネベの人々を見捨てることに対する抵抗感に溢れている。この言葉では、神の心の中にある神の創造物に対する神の姿勢と思い入れが表現されており、こうした言葉を人間が聞くことは滅多に無いが、その明瞭な言葉により、神の人間に対する意向が述べられている。この対話は、神のニネベの人々に対する姿勢が示されているが、その姿勢とはどのようなものであろうか。その姿勢とは、ニネベの人々が悔い改める前と後の、ニネベの人々に対する神の姿勢である。神は、それと同じ姿勢で人類を扱う。この言葉から神の心と神の性質を見出すことができる。

   この言葉には、神のどのような心が示されているであろうか。十分に注意して読めば、すぐに神が「惜しむ」という語を用いていることが分かる。この語を用いたことにより、人類に対する神の真の姿勢が示されている。

   語義的には、「惜しむ」という語は様々な解釈が可能である。第一に、愛して守ること、何かを貴く感じることの意味がある。第二に、深く愛慕することの意味がある。そして第三に、傷つけることができない、傷つけることに耐えられないという意味がある。つまり、この語は、愛慕の念と、人や物への愛着の含意がある。この語は、神の人間に対する憐れみと寛容さを意味する。神は人間が一般的に会話する語を用いたが、この語が用いられていることにより、神の心からの言葉と、神の人間に対する姿勢が明らかにされている。

   ニネベの町は、ソドムの人々と同様に腐敗し、邪悪で凶暴な人々で満ちていたのに対し、ニネベの人々の悔い改めにより、神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めた。神の言葉と命令に対するニネベの人々の反応は、ソドムの民の姿勢と比べると極めて対照的な姿勢であり、ニネベの人々の誠心誠意による神への服従と、罪の悔い改め、そしてあらゆる面における心からの行動のため、神は再び、心からの哀れみを示し、その哀れみをニネベの人々に与えた。神の人間に対する報いと哀れみは、誰も真似をすることが出来ない。神の憐れみと寛容さや、神の人間に対する真摯な思い入れを持つことが出来る者は、存在しない。あなたが偉大な人物あるいは超人であるとみなす男性や女性のうち、そうした偉大な人物あるいは超人としての高い立場、崇高な立場から、人類や創造物に対してこのような発言をする人が存在するであろうか。人間のうち、誰が人間の生活状況を自分の手のひらのように熟知できようか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことが出来ようか。誰がひとつの町の破壊を宣言できようか。そして、誰がひとつの町を赦すことが出来ようか。誰が、自分の創造物に愛着があるなどと言えようか。それが出来るのは、創造主だけである。人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。


残酷な迫害を生き延びて、神への信仰が強まる

2020-02-18 23:30:30 | 勝利者の証し

   私の名前は趙睿です。神の恵みにより、1993年に家族とともに主イエスにつき従うようになりました。1996年、16歳のときに主イエスの愛に引き寄せられ、教会で働いて説教するようになりました。ところが、まもなくして教会内でひどくがっかりさせられることを多く見受けるようになりました。同労者が互いに陰謀を仕掛け、排除し合い、権力と利益を争っていたのです。互いに愛し合えという主の教えがとうに忘れられていたかのようでした。説教者たちの話には中身がなく、教会生活には何の喜びも感じられませんでした。多くの兄弟姉妹は否定的で弱くなり、集会に出なくなるほどでした…。教会の侘しく荒廃した状態を前に、私はとりわけ苦悩と無力を感じました。1999年7月、神の奇跡的な指揮と采配により、主イエスの再臨、全能神をお迎えしました。全能神の御言葉を読み、教会生活を送ることで、聖霊の働きを再び享受したのです。兄弟姉妹との集会に出ると、かつての私の宗教的な生活様式は消えてなくなりました。私たちは皆本当に感じたことを言うことができ、聖霊の啓きによって与えられた光について交わり、自分たちが神の御言葉をどのように経験したか、堕落を取り除くにはいかに神に頼るべきかについて語り合いました。さらに、兄弟姉妹は非常に敬虔で尊厳のある生き方をしていました。お互いの欠点や堕落の露呈には寛容で赦し合い、愛情ある支えを施し合いました。誰かが窮境にいても、決してその人を見下したり、軽蔑したりせず、共に真理を求め問題の解決策を見つけようとしました。これこそ私がずっと望んでいた教会生活、長年探し求めてきた真の道でした。長年迷ってきた後、ついに神の前に戻ったのです。私は神にある誓いを立てました。「まだ暗闇に生きている無辜の魂を神の御前に連れて行き、彼らが聖霊の働きの導きと祝福を受けて生き、神の生けるいのちの水で潤されるようにします。これが被造物としての私の召命であり、私にとって最も意義と価値のある生き方です」そして自分の本分を果たすことに身を投じたのです。

   しかし、真の神を憎み、真理を厭うあの無神論の中共政府は私たちが神に従うことも、神の福音を証しして広めることも許さず、ましてや神の教会の存在すら許容しませんでした。2009年の春、中共政府は全能神教会の主要な指導者を標的にした大量逮捕作戦を展開しました。全国の教会の指導者が逮捕され、次々と投獄されました。四月四日の午後九時頃、本分を果たすために協働していたある姉妹と私が滞在していた信者宅を出て道路に歩きだしたとたんに、私服を着た男が三人突然私たちの背後に現れ、私たちの腕を強引に引きずりながら、「行くぞ!一緒に来るんだ!」と叫びました。私たちは反応する間もなく、道路の脇に止まっていた黒いセダンの後部に投げ込まれました。それはまるで映画の中でギャングが白昼にやって来て誰かをさらって行くようでしたが、現実に自分たちがそのような目に遭ったのはものすごい恐怖でした。私はすっかり圧倒され、ただ何度も無言で神に呼びかけることしかできませんでした。「神様、助けてください!神様、助けてください」私が平静を取り戻す前に、セダンは市公安局の中庭に入りました。その時初めて自分たちが警察の手に落ちたことに私は気づいたのです。すぐ後に、滞在先の家の姉妹も連れてこられました。私たち三人は二階の事務所に連れて行かれ、警官に少しの説明もなくバッグを取り上げられ、壁向きに立たされました。その後、裸にされて身体検査をされ、その際に教会での働きに関する資料、預かっていた教会のお金の領収書、携帯電話、五千元以上の現金、銀行カード、時計といった持ち物を服やバッグの中から無理やり押収されました。その間ずっと警官が七、八人部屋を出入りし続け、私たちを監視していた警官のうち二人が笑い出して私を指差し、「こいつは教会のおえら方だ。今日はなかなかの獲物だったな」と言いました。まもなくして、私は四人の私服警官に手錠をかけられ、目隠しをされ、市からかなり離れた公安局の支部に連行されました。

   尋問室に入り、あの高い鉄格子付きの窓とあのぞっとするように冷たく見える「トラの椅子」を見たとき、兄弟姉妹が過去に拷問されたときの身の毛のよだつ話が脳裏に浮かんできました。悪しき警官にどんな拷問を加えられるのかと思うと極度に怖くなり、手が思わず震え出しました。この絶望的な状況で、神の御言葉がふと心の中に現れました「そうなればあなたは依然として恐れを抱いてサタンの思いに満たされているのではないか。」「勝利者とは何か。キリストの良き兵士たちならば、勇敢であってわたしを信頼し、霊的に強くなければならない。戦士になるために戦い、決死の覚悟でサタンと戦わなければならない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十二章」より)神の御言葉の啓きにより、慌てふためいた心が次第に落ち着き、自分の恐怖の原因がサタンにあると気づくことができ、思いました。「サタンが私の肉体を拷問したいのは、私がその横暴に屈するようにするため。サタンの陰謀にはまってはいけない。どんなことがあっても、神様がひそかに一緒にいて、見守ってくださっていると信じよう。どんなときも神様は私の頼もしい後ろ盾で、永遠の支え。今は霊の戦いの正念場で、この時こそ神様を証ししなきゃ。神様のおそばに立つべきで、サタンに屈するわけにはいかない」このことに気づき、静かに神に祈りました。「全能神様!今日、私がこの悪しき警官たちの手に落ちたのは神様のご厚意によるものです。でも私は霊的背丈があまりにも小さく、狼狽し、怯えています。サタンの影響の束縛から自由になり、サタンに屈服せず、毅然として神様の証しを立てられるように、信仰と勇気を与えて下さることを祈ります!」祈り終った後、心に勇気が湧き、悪意を醸し出している悪しき警官たちのことがそれほど怖くなくなりました。

   ちょうどそのとき、私は二人の警官にトラの椅子に押しやられ、両手両足を固定されました。警官のうちの一人で背が高くやたら大柄な粗暴者が壁に書かれた「文明的な法執行」という言葉を指して机を叩き、怒鳴りました。「ここがどこかわかるか?公安局は中国政府の中の暴力専門の機関だ!白状しないと当然の報いを食らうぞ!しゃべるんだ!お前の名前は?年は?どこから来た?教会での立場は?」警官の攻撃性とともに、この公安局という国家法執行機関の素顔を自ら認める率直さに私は怒りがこみ上げ、思いました。「この人たちはいつも『人民警察』を自称し、『悪人を除去し、良民の平和を守る』ことを目指すと言うけど、実際には単なる暴漢、盗賊、裏社会の殺し屋集団。正義を狙い撃ちし、善良で立派な市民を罰する鬼だわ!」「この警官たちは法律を破って犯罪を犯す人たちは見のがして法律の対象から外している。でも私たちはただ神様を信じ、御言葉を読み、正しい人生の道を歩んでいるだけなのにこの野蛮な連中に一番暴力を振るわれるようになった。中共政府は本当によこしまで、正義をひっくり返している」私はこの悪しき警官たちを心から憎みましたが、自分の霊的背丈があまりにも小さく、彼らの残酷な処罰と拷問に耐えられないことを自覚していたので、神に何度も何度も呼びかけ、力を与えてくださるよう嘆願しました。ちょうどその瞬間、神の御言葉が私を啓いてくださったのです。「信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第六章」より)神の御言葉の慰めと励ましにより、私は心強く感じ、思いました。「今日はすべてを賭ける覚悟をすべきだわ。最悪の事態になって死んでも構わない。この悪魔の群れが私から教会のお金や働き、指導者のことを聞き出せると思うなら考え直すのね!」そして神に祈りました。「神様!神様は万物の支配者であり、サタンも御手の中にあり、神様による指揮の対象です。今日、神様はサタンを用いて私の信仰と献身を試してくださっています。私の肉は今弱いですが、サタンの足元で倒れるつもりはありません。神様に頼って強くなりたいです。サタンにどう拷問されても、決して神様を裏切って悲しませたりはしません」神の御言葉の導きのおかげで、彼らにどう尋問され、情報の提供を迫られても、私は一言も話しませんでした。

   私が話そうとしないのを見て、警官の一人が激怒し、テーブルを叩くと私に襲いかかり、私が座っていたトラの椅子を蹴り、私の頭をこづきながら怒鳴りつけました。「知ってることを教えろ!こっちが何も知らないと思うなよ。何も知らなかったらどうしてお前ら三人をこんなにしっかりつかまえられたと思う?」別の背の高い警官が叫びました。「これ以上我慢させるな!少しは痛みを味わわせないと単なるこけおどしだと思うだろう。立て!」そう言うとその警官はすぐに私をトラの椅子から壁のとても高い所にある鉄格子付きの窓の下まで引きずり、それぞれの手にスパイク付きの手錠をかけました。手錠の一方が手に、もう一方が鉄格子に付けられ、私は窓から吊られる恰好になり、足の親指の付け根しか地面につけられなくなりました。悪しき警官の一人が部屋の温度を下げるためにエアコンの電源を入れ、巻いた本で私をひどく叩きました。私がまだ無言でいたため、その警官は怒り狂い、「しゃべらないのか?しゃべらないと『ブランコ遊び』するぞ!」と叫びました。そして、長い軍用の梱包ベルトで私の脚を縛ると、ベルトをトラの椅子に固定しました。二人の警官がそこで壁からトラの椅子を引き離したため、私は宙吊りになりました。私の体が前に動くと、手錠が手首の端まで滑り、その中のスパイクが手の甲に食い込みました。私はひどい激痛に見舞われましたが、この悪しき警官たちに笑われたくなかったので悲鳴をこらえようと唇を噛みしめました。その一人が悪意の笑みを浮かべて「痛くないようだな。もうちょっと刺激してやろう」と言いました。そして脚を上げ、私のふくらはぎを強く踏むと、私の体を左右に揺り動かしました。そのため手錠がますますきつく締まり、私は手首と手の甲のあまりの痛みでついに悲鳴をこらえきれず、それに二人の悪しき警官はどっと笑いだしました。そこで警官はやっと私の脚を踏むのをやめ、私を宙づりのままにしました。約二十分後、警官が突然トラの椅子を私に向かって蹴り返すとキーという嫌な音がして、私は体が元の位置に落ち、足の親指だけが地面に触れた状態でぶら下がり、悲鳴を上げました。同時に、手錠が私の手首の方にずり上がり、手錠が突然緩むと、手に流れる血が急に腕に逆流し、その血の圧力でズキズキする痛みが襲ってきました。この二人の悪しき警官は私が苦しむのを見て意地悪く笑い、尋問を始めました。「教会には人がどれだけいる?金を保管している場所は?」最後の質問はサタンの卑劣な動機を端的に表していました。彼らがこれまでの拷問と責め苦を私に加えてきた理由、そのような悪魔的で非情な手段を用いた理由は教会のお金を盗むために他ならなかったのです。空しくも、そして恥知らずにも、教会のお金を意のままに使おうとしたのです。彼らの貪欲で悪しき顔を見て、私は腹を立て、私にユダにならせないでください、この盗賊連中を呪ってください、と神に懇願し続けました。以後、彼らにどう尋問されても、私は口をつぐみ、彼らはやがて怒りのあまり、罵声を浴びせてきました。「おのれ!しぶとい奴め!どれだけもつか見てやる!」そして、再びトラの椅子を壁から引き離し、私を宙吊りにしました。今度は手錠がすでに開いていた手の甲の傷にきつく食い込み、手がすぐに腫れ上がって充血し、いまにも破裂しそうに感じました。痛みは最初よりもずっと激しかったのです。警官たちは自分たちがそれまで囚人を拷問し処罰した「栄光の功績」を生々しく語り合いました。これは十五分間続き、その挙句、彼らは再び椅子を蹴り飛ばし、私は足の親指だけが地面に触れたまま、窓からまっすぐぶら下がる状態に戻りました。その際に引き裂くような痛みが再び体中に走りました。ちょうどそのとき、背の低いずんぐりした男性警官が入って来て、「まだしゃべってないか?」と尋ねました。二人の警官は「とんだだ!」と答えました。その太った悪しき警官は寄って来て私の顔を激しく平手打ちし、「どれだけタフか見てやろう!その手を緩めさせてもらう」とやじりました。私がうつむいて見ると、左手がひどく腫れて黒紫になっていることに気づきました。するとその悪しき警官は私の左手の指をつかむと、前後に振り、こすったりつねったりしました。ついには麻痺していた手に痛みが戻ってきました。そしてその警官は手錠を最大限まで締め付け、他の二人の警官に私を再び宙に引っぱり上げるように合図しました。私は再び宙吊りにされ、二十分間そのままにされてから下ろされました。何度も何度も宙に引き上げられては下されるという拷問は、死んで痛みから逃れたいと思うようになるまで続きました。手錠が手をずり上がっては下がるたびに痛みが増しました。ついには、スパイク付きの手錠が手首に深く食い込んだため、手の甲の皮膚が破れ、おびただしい量の血が出ました。両手は血の循環が完全に遮断され、風船のように腫れ上がりました。頭が酸欠でガンガンし、今にも爆発しそうに感じました。私は本当に今にも死ぬと思いました。

   もう限界だと思っていたそのとき、神の御言葉の一節が突然私の心の中で響きました。「エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心の中で捻じ曲げられているかのように感じたが、神の言葉に背く思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスを磔刑の場所に向かって突き進ませた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より)御言葉により、私は急に力がみなぎり、主イエスが十字架の上で苦しまれたことを思いました。主はローマの兵士から鞭打ち、嘲笑、辱め、血だらけになるほどの打撲を受けられました。それでもその重い十字架を運ばされ、まさにその十字架に釘付けになられたのです。激しい苦痛の中、体の血が一滴残らず流れるまで、十字架に二十四時間かかっておられました。何と残酷な拷問!何と想像を絶する苦しみ!しかし主イエスはそれをすべて無言で受けられました。その痛みは確かに計り知れないものでしたが、主イエスは全人類の贖いのために自ら進んでご自身をサタンの手に委ねられたのです。私は思いました。「最近、神様は二度目の受肉をなさり、無神論の中国に来られた。ここでは、恵みの時代の数千倍もの危険に遭われた。全能神が出現され、その働きを始められて以来、中共政府は神様の働きを滅ぼすという空しい目的のため、あらゆる手段でキリストを中傷し、冒とくし、狂ったように追って捕らようとしてきた。「神様が二度の受肉の時に受けられた苦しみは、人の忍耐はもちろん、想像の範囲も超えている。神様が受けられたことに比べれば、私が今遭っている苦しみなど語るに足らない。それに、私がこの悪魔たちに今日このよう迫害されているのは、神様につき従う者だから。現実には、彼らが本当に憎んでおり、迫害しようとしているのは神様。神様が私たちのためにこれだけの苦しみを受けられたのだから、私はもっと良心を持つべき。たとえ死ぬことになっても神様にご満足頂き、お慰めしないといけない」その瞬間、歴代の聖者や預言者の苦労が頭の中に浮かびました。獅子の穴に入れられたダニエル、十字架の上で逆さ吊りにされたペテロ、打ち首にされたヤコブ…。この聖者と預言者たちは皆例外なく死の瀬戸際で神の力強い証しを立てたのであり、私は自分も彼らの信仰、献身、神への従順に倣おうとすべきだと悟りました。そのため、静かに神に祈りました。「ああ神様、神様は罪がないのに私たちの救いのために十字架に付けられました。その後、ご自身の命を危険にさらしてまで働きを行なうため、中国で受肉されました。神様の愛はあまりにも偉大で、私には報いようがありません。今日神様と共に苦しむことは私にとって最大の名誉であり、私は御心をお慰めするため、喜んで証しを立てます。たとえサタンに命を奪われても、決して一言も不平を言いません!」心が神の愛に向くと、体の痛みが著しく減っていくように感じました。その夜の後半、悪しき警官たちは交代で私を拷問し続けました。翌朝午前九時ごろ、私はようやく脚をほどかれ、窓からぶら下がったままにされました。腕が両方とも完全に麻痺し、感覚がなく、全身が腫れていました。その頃には、共に本分を果たしていた姉妹は隣の尋問室に連れて行かれていました。いきなり警官が八、九人私のいた尋問室にぞろぞろ入ってきました。背の低い頑強な警官が一人憤慨したように入って来ると、私を担当している悪しき警官たちに「まだしゃべってないか?」と尋ねました。「まだだ」という返事を聞くやいなや、その警官は私に飛びかかり、顔を二回叩き、激怒して怒鳴りました。「まだ協力してないのか!こっちはお前の名前も、教会の主要な指導者であることも知ってるんだ。何も知らないなどと勘違いするな!どこに金を入れた?教会の仕事の取り決めはどうなってる?」それでも沈黙したままの私を見て、「白状しないなら、後で調べてわかった時もっと痛いい目を見るぞ。教会でのお前の地位からすれば懲役二十年だ!」と脅しました。この悪しき警察は教会の資金を手に入れようと血眼になっていたのです。そのけだもののような顔つきを見ると、私は腸が煮えくり返り、神に彼らを呪って地獄の最も暗い穴に落とすように懇願せずにはいられませんでした。その後、彼らは私の銀行カードを持って、カードの名義と暗証番号を尋ねました。私は思いました。「見せてやろう。構わないわ。家族はどうせその口座にあまりお金を送らなかったのだから。見れば教会の資金のことをしつこく聞いてこなくなるかもしれない」それで彼らに名義と暗証番号を教えました。

   その後、私はトイレに行かせるようにたのんだとき、やっと降ろされました。その頃には脚が全く言うことを聞かなくなっていたので、彼らにトイレに連れて行かれ、外で見張られました。しかし手の感覚がすっかりなくなっており、脳の命令がまったく手まで届かなかったため、ズボンを脱ぐことができず、ただ壁に寄りかかって立ちつくしていました。しばらく経っても出てこなかったため、警官の一人がドアを蹴って開け、いやらしい笑みを浮べながら、「まだ済んでないのか?」と叫びました。私が手を動かせないと気づくと、寄って来て、ズボンを脱がし、私が用を足すとズボンを締め直しました。男性警官連中がトイレの外に集まり、ありとあらゆる卑劣な発言を口にし、汚らわしい言葉で私を辱めました。自分のような無実の二十代の女性がこの凶漢と悪魔たちに辱められることの理不尽さに、私は突然圧倒され、泣き出しました。また、手が本当に麻痺し、将来自己管理ができなくなるなら死んだほうがましだとも思いました。もしそのときちゃんと歩くことができたなら、建物から飛び降りて、すべてをそこで終わらせていたことでしょう。このうえなく弱っていたとき、教会の賛美歌「神が栄光を得る日を見ることを望む」が思い浮かびました。「神には最も甘美なものを与え、最も苦いものは私が受ける。私は神を証しすると心に決めた。その決心を変えるものは何もない。サタンに対して私は決して屈服しない。私はむしろこの命を捧げる。神の民の一人として、自分の尊厳を捨てないつもりだ。神の嘱託を心に留めて、私はあの古いサタンを恥じ入らせるつもりだ。心に涙をためて、私は屈辱に耐えることを選ぶ。神を再び心配させたくない」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)神の啓きと照らしにより、私はもう一度信仰を注ぎ込まれて霊が強められ、思いました。「サタンの策略に騙されてこんなふうに自分の命を絶ってはいけない。彼らが私を辱め、挑発しているのは、私に神様を傷つけて裏切るようなことをさせるためよ。もし死んだらただ彼らの陰謀にはまることになる。サタンの謀略を成功させるわけにはいかない。「本当に体が不自由になっても、少しでも息がある限り、神の証しを立てるために生き続けないといけない」

   尋問室に戻ったとき、私は疲れ果てて床に倒れました。数人の警官に取り囲まれて怒鳴られ、起き上がるように命令されました。先ほど私の顔を叩いた背の低い太った警官が飛びかかってくると、ひどい蹴りを入れ、倒れたふりをしているのだと私を責めました。そのとき私は体が震え出し、息が切れ、呼吸が激しくなりました。左脚と胸の左側が痙攣して引き付けあいました。全身が冷たく硬くなり、二人の警官がどう引き伸ばそうとしてもまっすぐになりませんでした。心の中では、神がこの苦痛と患難を用いて私のために道を開いてくださっていることを承知していました。そうでなければ彼らは私への残酷な拷問を続けていたでしょう。この悪しき警官たちは私の危険な状態に気づいて、ついに暴行をやめました。その後、私をトラの椅子に固定して警官二人に見張らせ、隣の部屋にいる教会の姉妹を拷問しに行きました。姉妹が血も凍るような悲鳴を何度も上げるのを聞いて、私はその悪魔たちにつっかかって死ぬまで戦いたい気持ちでいっぱいでしたが、その時点では屍のように倒れて疲れ果てていたため、できることはただ神に祈り、姉妹が証しを立てられるように強さを授け、守ってくださるように懇願することだけでした。同時に、国民を苦しみのどん底に追い込んだあのひどく邪悪な党を恨めしく呪い、人の姿をしたこの獣たちを罰するように神に願いしました。後に彼らはそこで倒れた私の虫の息のような姿を見て、自分たちの監視下で死なれては面倒だと思い、ついに私を入院させました。病院に着いた後、私の体は脚と胸が再び痙攣し、引きつけあい、数人がかりで引っ張ってやっと真っ直ぐに戻りました。両手は風船のように腫れ上がっており、固まった血がそこらじゅうについていました。手が全体的に膿で膨張しており、点滴が打てない状態でした。針を刺すとすぐに血管から血液が流れ、周囲の組織が血で満たされ、注射された部位が出血したからです。医者がこの状態を見たとき、「手錠を外すんだ!」と言いました。また、私の心臓が悪いのではないかと懸念したので、詳しい検査のため市立病院に送ることを警察に勧めました。その悪しき警察は私を助けることに不本意でしたが、以後私に手錠をかけなくなりました。そして私は神が医者を通して働き、私のために出口を開いてくださったのだとわかっていました。翌日、私に尋問していた警官は、神への冒とくと中傷に満ちた陳述を私の供述書として用いるために書き上げ、それに私の署名を求めました。私が署名を拒否すると、警官は苛立って私の手をつかみ、無理やり供述書に指紋を押させました。

   4月9日の夕方、警察の支隊長と他の二人の男性警官が私を拘留所に護送しました。拘置所の医者は私が体中腫れていて歩くことができず、腕に感覚がないことがわかり、風前の灯に見えたため、ここで私に死なれることを恐れて拘留を却下しました。後に、支隊長が拘留所の所長と一時間近く交渉し、私に何か起きても拘留所の責任にならないと約束し、こうしてやっと所長は私の拘留を引き受けたのです。

   それから十日以上後、悪しき警官が十数人昼夜を問わず交代で私に尋問するために他の管区から派遣され、一時的に拘置所に配置されました。囚人の尋問には時間制限がありましたが、警察がこれは非常に深刻で重大な事件だと言ったため、私はひっきりなしに尋問されました。彼らは私の弱った状態から、長く尋問しすぎると体調が急変するのではないかと恐れたため、午前一時頃に尋問を終え、私を刑務所に送り返しては翌日の夜明けに呼び出しました。尋問は一日約十八時間、三日間続けて行われました。しかし、彼らにどう絞られても、私は一言も言いませんでした。彼らは自分たちの「鞭」の手段がうまくいっていないと見て、「飴」の手段に切り替えました。私の怪我に気遣いを示し、薬を買って傷に軟膏を塗るようになりました。この突然の「親切」に接して、私は警戒を緩め、「教会のことでどうでもいい情報を教えたら多分大丈夫…」と思いました。するとふと神の御言葉が頭に浮かんだのです。「何かが降りかかるときは、それをめちゃくちゃにするのでなく、更にわたしに近づきなさい。わたしの刑罰を侵害しないように、またサタンの狡猾な策略に陥らないように、あらゆる点でより注意深く、思慮深くありなさい。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第九十五章」より)私は自分がサタンの狡猾な陰謀にはまったことにはっと気づきました。この人たちはほんの数日前には私を拷問していた人ではなかったでしょうか。彼らは態度を変えられても、その悪しき本性は変えられません。悪魔はいつまでも悪魔なのです。神の御言葉により、私は彼らがヒツジの皮をかぶったオオカミであり、常に裏の思惑を持っているという現実に目覚めました。今後もどんなに誘惑され、絞られても決して何も言いません。その後まもなく、神は彼らの素顔を明かしてくださいました。隊長と呼ばれていた警官が私に執拗に尋問しました。「教会の指導者なのに金がどこにあるか知らないのか?教えないならこっちのやり方で探すぞ!」ある年配のやせ細った警官が私に罵詈雑言を浴びせ、怒鳴りました。「貴様、少しでも大目に見るとつけあがりやがって!しゃべらないとまたあそこに送ってつるし上げるぞ。それでもみたいに黙っていられるかどうか見てやろう!お前の扱い方はいくらでもあるぞ!」こう言われるほど、沈黙を守ろうとする私の決意は強くなりました。警官はついに腹を立て、寄ってきて私を押し、「そんな真似してると二十年の刑じゃすまんぞ!」と言いました。そして、いらつきながら部屋を出て行きました。その後、国家保安を担当する省公安庁の役人が私に尋問しに来ました。神を攻撃し、抵抗する発言を多く口にし、自分の経験と知識の豊富さを自慢し続け、そのことで他の警官にほめそやされました。私はその醜く独善的で満足げな様を目にし、この男の真理を歪曲して噂を撒き散らす嘘と言いがかりを聞いて、憎らしくむかむかしました。その姿を見るにも忍びなかったので、目の前の壁を真正面から見つめ、役人の言い分一つひとつに頭の中で反論しました。その罵倒は午前中ずっと続き、それがやっとすむと、私にどう思うか尋ねました。私はもどかしく感じながら「教養がないから、何の話をなさってるのかさっぱりわかりません」と言いました。警官は激怒し、「救いようのない女だ。すっかり神に毒されている。もうだめだ!」と他の尋問者に言いました。そして落胆してこそこそ立ち去ったのです。私は大喜びし、危機を次々に乗り越えられるように導いてくださったことを神に感謝しました。

   悪魔の残虐な迫害に苦しむ中、私は中共という悪しき党に支配されたこの国における人権のまったくない地獄のような暮らしを経験しました。中共政府にとって、神の信仰者は「目のとげ」「脇のいばら」です。彼らは空しくも私を死に至らしめようとあらゆる策を弄して酷い目に遭わせ、拷問してきました。しかし神は私の頼もしい後ろ盾であり、救いです。神が何度も私を死の淵から救い出してくださったため、私は神の真の愛を体験し、神の心の優しさと善良さを知ることができました。悪しき警察の拘置所の監房に引きずり込まれ、滞在先の家の姉妹が同じ監房にいるのを見たとき、この大切な人に会えたことで心に温かみが吹き込みました。これが神の指揮と采配であり、神の愛が私に心を配ってくださっているのだとわかり、神がそうなさったのはそのとき私は体の自由がほとんどきかなくなっていたからだとわかりました。両腕も両手もひどく腫上がって膿で膨張しており、指はソーセージのように太くなり触れると硬く、感覚がありませんでした。足はほとんど動かず、体全体が弱って痛んでいました。半年の間、私はレンガ造りのベッドからほとんど起き上がれず、自分の世話ができませんでした。半年経ってようやく手がまた動けるようになりましたが、まだ物をつかめませんでした。(現在も、片手で皿を持とうとすると、手が痛くて力が入らずしびれ、もう一方の手を使って支えないと皿を持ち上げることもできません。)その間、姉妹が毎日私の歯を磨き、顔を洗い、風呂に入れ、髪をとかし、食べさせるなど、世話をしてくれました。一か月後、姉妹は釈放され、私は正式に逮捕を通知されました。姉妹が釈放された後、私はまだ自分のことができず、この先いつまで閉じ込められるのか見当もつかなかったため、とてつもなく無力で悲惨な気持ちになり、神に呼びかけずにはいられませんでした。「ああ、神様、私は体が不自由になったように感じます。どうしてこのような状態で生きていけというのでしょうか?この状況を乗り越えられるように、心をお守りくださることをお願いします」私が切羽詰って途方に暮れていたとき、神の御言葉が心の中から私をこれまでになく明確に導いてくださいました。「あなたがたは、いつか自分が信じる神が自分を最も疎遠な地へと送るという事を、考えたことがあるだろうか。あなたがたは、わたしがあなたがたの全てを奪い去る日を想像できるだろうか。あなたがたはどうなるだろうか。その日、あなたがたの活力は現在と同じであろうか。あなたがたの信仰は再び現れるであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは業を理解する必要がある。混乱したまま付き従ってはならない」より)神の御言葉は輝く灯台のように、私の心を照らし、神の御心を悟らせてくださいました。私は思いました。「今直面している環境は一番馴染みのないもの。神様は私の信仰を完全にするために、私にこのような環境で神様の働きを体験させたいという思し召しなんだ。姉妹は私のそばを離れたけど、神様は絶対に離れておられない!今まで歩んできた道を振り返ると、神様はその道の一歩一歩で導いてくださった!神様がいてくださるなら、乗り越えられない困難はない。神様と共にいれば、いつも抜け道がある。こんなに臆病で信仰にない私にどうして自分の経験で神様の知恵と全能を理解できるっていうの?」そのため、私は神に祈りました。「神様、私は自分をすっかり御手に委ね、神様の指揮に従うつもりです。将来どんな状況に直面しても、神様が私のために道を開いてくださることを知っています。今後は神様に従い、不平を言いません」祈りを終えた後、私は晴朗と落ち着きを感じました。けれど、神が何を計画しておられるのか、私をどのように導かれるのかまだわかりませんでした。翌日の午後、看守が新しい囚人を連れてきました。私の状態を見ると、その囚人は私が頼んでもいないのに面倒を見てくれました。ここに私は神の不可思議さと信実さを見ました。神は私を見捨てられなかったのです。人間の考えを含む天地万物は神の御手の中にあります。神の指揮と采配がなかったなら、なぜ会ったことのないこの女性が私にこれほど親切なのでしょうか?その後、私はさらに神の愛を目の当たりにしました。その女性が拘留所から解放されると、神は私が会ったことのない女性を次々と起こし、まるでリレーのバトンのように私の世話を次々に引き継いでくれました。釈放されてから私の口座に送金してくれた囚人もいました。この間、私は体が多少苦しみましたが、神の人への愛の誠実さをこの身をもって体験することができました。人がどんな状況に投げ込まれても、神は決して人をお見捨てにならず、絶えず手助けしてくださいます。人が神への信仰を失わない限り、確実に神の御業を目の当たりにすることができるのです。

   私は一年三か月間拘留され、その後中共政府に「邪教組織に関与して法律の執行を妨害した」として告訴され、三年六か月の禁固刑を宣告されました。有罪判決後、省の女子刑務所に連行されて刑に服しました。刑務所での扱いはさらに非人道的なものでした。毎日肉体労働をさせられ、一日のノルマは人が普通にこなせる量をはるかに超えていました。作業を終えられないと体罰を受けました。囚人の労働による収益金はすべて実質的に看守のものになりました。いわゆる生活手当は月に数元しか与えられませんでした。刑務所が唱えた公式方針は労働によって囚人を再教育することでしたが、実際には私たちはお金を稼ぐ機械、無給のしもべでした。刑務所の減刑に関する規則は、特定の条件を満たした囚人はその対象になるというもので、表向きはとても人道的に思われました。しかし現実にはこれは単なる建前であり、体裁のためだけのものでした。刑務所のいわゆる人道的な制度は、紙の上の閑文字にすぎず、看守が個人的に発した命令だけがそこの本当の法律だったのです。刑務所は、十分な「労働力」を確保し、看守の収入が減らないことを保証するため、年間の減刑件数を厳密に管理しました。「減刑対象者名簿」は、刑務者の労働生産性を上げるための手法でした。数百人の囚人のうち、その名簿に載るのは十人程度であるため、皆それを目指して骨を折って作業し、互いの足を引っ張り合いました。しかし、最終的に名簿に載る囚人のほとんどは警察とコネがあり、そもそも肉体労働を行う必要のない人たちでした。囚人たちはこれに対する不満を胸中に秘すしかありませんでした。抗議のために自殺した人たちもいましたが、事後に刑務所は遺族をなだめようと作り話をしたため、皆無駄死にでした。囚人たちは看守に人間扱いされることがありませんでした。看守に話があるときは、地面にしゃがんで見上げなければならず、何か看守の気に入らないことがあると叱られ、口汚く辱しめられました。上級官僚が視察に来ると、囚人は事前に看守に脅されて口裏を合わせざるをえず、「食事はおいしいし、看守はいつも気遣ってくれる。作業は一日八時間までで、娯楽もある」などと、刑務所をよく見せる話をさせされました。このような時、私は体中が震えるほど怒りを覚えました。この悪魔たちは偽善者でした。明らかに人をむさぼり食う悪鬼に過ぎないのに、あくまでも自分たちほど親切で思いやりのある者はないかのようにふるまっていたのです。なんて陰険で卑劣で恥知らずな!私が三年半の刑期をようやく終えて帰宅したとき、家族は骨だけのようになった私を見て、苦悩を隠せませんでした。衰弱しきってすっかり見違えるようになった私の姿に、おびただしい涙が流れました。それでも私たちの心は神への感謝に満ちていました。私がまだ生きていること、神が守ってくださったことで無事にあの地上の地獄から出られたことを皆神に感謝したのです。

   私が拘留されている間に悪しき警察が二度家にやって来て、家中を滅茶苦茶に荒らして捜索したことを私は帰宅して初めて知りました。神を信じる両親は家を離れ、政府による捕獲を避けるために二年近く逃亡していました。ようやく家に戻ったとき、中庭の雑草は家と同じ高さに伸びており、屋根に崩れた部分が数箇所あり、地所全体がひどく荒れていました。また警察は村中に私たちについての嘘を広めていました。私が誰かから百万から一億元(約1600万-16億円)も騙し取り、両親も弟を大学に入れるために弟を大学に入れるために人から数十万元だまし取ったと言ったのです。この悪魔連中は正真正銘の嘘つきの名人です。実際のところ、両親が家を離れたため、弟は奨学金と借金で学費を払って大学を終了しなければなりませんでした。しかも、家を出て働くようになると、最初は旅費を少しずつ貯めるために家族が育てた穀物を売り、サンザシの実を集めて売らなければなりませんでした。しかし、この悪魔たちは非良心的に振る舞って私たち家族を偽りの罪状で陥れ、その噂は現在も流布しています。今でも、私は前科のある政治犯と詐欺師という評判のために村八分にされています。平気で人殺しをするこの悪魔連中、人間の命を何とも思わないこの悪魔政府、虚りの非難で世論を煽るサタンのこの手先たちを、私は皆軽蔑します!悪魔は私たちに濡れ衣を着せ、中傷し、迫害しますが、このおかげで私は中共政府の神に抵抗し、よこしまで天に背く悪の本性とぞっとするような素顔をさらにはっきりと見ることができました。また、そのために神の愛と救いを体験することができたのです。悪魔に迫害されるほど、全能神に最後まで従おうという私たちの決意が強まります。もし悪魔の手による残酷な迫害を経験しなければ、いつ私の霊がいつ目覚めてサタンを本当に軽蔑してきっぱり拒むようになっていたかは誰にもわかりません。神に従ってきたこれまでの何年かを振り返ると、私は中共の悪魔的な本性と本質を暴いた御言葉をそれまで理論的にしか受け入れておらず、本当に理解していませんでした。幼い頃から吹き込まれた「愛国教育」の教条により、特定の考え方をもつように条件付けられ、組織的に惑わされていたため、神の御言葉が誇張だとさえ思っていました。国家を崇めることをやめられず、共産党がいつも正しく、軍が我が祖国を守り、警察が社会の悪しき要素を罰して根絶し、国民の利益を守ってくれると思いこんでいました。あの悪魔たちの手による迫害を経験することで、中共政府の素顔が初めて見えました。それは非常に不誠実で偽善的で、長年その嘘で中国人民と全世界を惑わしてきました。「信仰の自由と民主的な法的権利」を維持することを繰り返し公言していますが、実際には宗教的信仰を気ままに迫害します。実際に維持しているのは、中共の暴政、強制的支配、専制だけです。中国では、真の神を信じる人は非常に慎重でなければならず、少しでも警戒を怠ると投獄されかねません。その結果、警察による捕獲と逮捕を避けるために、私たちはひたすら逃げ隠れしなくてはならず、一つの場所に長く留まることができません。自宅でただ賛美歌を聞いているときも音量を低くしておき、家族と神の御言葉について交わるときも声を落とし、神の御言葉を読むときはまずドアに鍵をかけなければなりません。警察による監視と盗聴の可能性があり、いつドアを破ってこられてもおかしくないからです。さらに、中国の刑務所では、神を信じるほど、迫害、いじめ、蔑みに遭いがちです。それとは対照的に、裏社会の構成員や殺人犯、泥棒や横領犯は警察と特権的な関係を持ち、警察御用達の殺し屋や囚人長になることが多いのです。この事実は、中国が正義を攻めて抑えつけながら、悪を讃えてけしかける国であることを随分前より露呈しています。人が邪悪であるほど中共政府による評価が高くなり、道徳的に善良で正しい道を歩む人ほど中共にひどい抑圧と迫害を加えられます。神が働き人類を救うために来られたとき、サタンは私たちが神に従い、正しい道を歩むことを明らかに喜ばなかったため、あの手この手で私を妨害し迫害しました。私は肉に残酷な迫害で重傷を負いましたが、自分がこの苦しみを受けるべくして受けたのだと理解しています。それは私がサタンの子供であり、体内にサタンの毒が多く巡っており、それまでずっとその惑わしと責め苦に遭っていたからです。サタンが私を迫害することを神がお許しになったのは、私がサタンの本質と狡猾な陰謀を見破れなかったからなのこそです。こうして私はこの苦しみを通して、いつも自分の「救世主」だと思っていたこの中国政府が本当は何であるかがわかりました。中共の標榜する「偉大さ、栄光、正しさ」の裏にある下劣で卑しく腐敗した内幕が見えるようになりました。また、神の救いの恵みの大きさを理解することができ、このことは真理を熱心に追い求め、サタンを徹底的に拒絶し、心を神に向ける動機付けになりました。

   私の人生で最もつらく苦しい時期に、神の愛は私が弱く苦しんでいたときも、いつも共にありました。弱さを感じたとき、神の御言葉に啓かれ、信仰と強さを与えられたため、暗闇と死の束縛を脱することができました。サタンに陰謀を仕掛けられたとき、神の時宜を得た警告によって私は混乱から目覚め、サタンの計画と策略を見極め、神の証しを立てることができました。悪魔によるあまりに残酷な拷問の末、死を願うほどになったとき、神の奇跡的な指揮によって道が開かれ、私があたかも死にかけているように見えるようになり、そのため悪魔たちは私に対する暴行の手を止めました。私が苦しんで無力で自分のことができなかったとき、神は囚人を次々に起こして、六か月間リレーのバトンを手渡すように私の身の回りの世話を引き継ぐようにしてくださり、以後私は手の感覚がある程度まで戻り、軽い作業ができるようになりました。この比類ない体験により、神の愛と優しさを深く実感し、神の敵としてのサタンの本質をはっきりと見ることができたのです。この経験をもって、神は私にこの上なく尊いいのちの宝を与えてくださり、こうしてサタンを捨てて最後まで神に従うという私の命がけの決意が固まりました。全能神の御言葉にあるとおりです。「今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)私は現在教会に復帰し、本分を果たす人々の仲間に再び加わっています。さらに多くの人がサタンの責め苦を逃れ、神の永遠の救いを受けられることだけを願い、神の国の福音を説き広めることによって、本分を果たしています。


創造主の義なる性質は現実であり、生きている

2020-02-17 00:28:27 | 聖書の奥義を開く

希なのは、神の憐れみと寛容さでなく、人間の真の悔い改めである

   神のニネベの人々に対する怒りの程度を問わず、ニネベの人々が断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は次第に軟化し、神の心が変化を始めた。神がニネベを破壊すると宣言した時、ニネベの人々による罪の告白と悔い改めの前の時点で、神は依然として怒っていた。ニネベの人々が一連の悔い改めの行動を取った後、神のニネベの人々に対する怒りは、ニネベの人々に対する憐れみと寛容さへと次第に変化していった。1件の出来事において、こうした神の性質の2つの側面が同時に現れたことには、何ら矛盾することは無かった。これに矛盾が無いことは、どのようにして理解すべきであろうか。神は、ニネベの人々が悔い改めた時に、これらの対局にある本質を連続して表出し、明示しており、これにより神の本質の現実性と不可侵性を理解することができる。ここでは神の姿勢により分かることがある。それは、神は人間に対して容赦することが無いということではなく、また神は人々に対して憐れみを与えることを望んでいない、ということでも無い。それは、人々が神の御前で真に悔い改め、悪の道を離れ、不法を手から捨てることは、極めて希だ、ということである。つまり、神が人間に対して怒っている時、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、こうした場合に、神は憐れみや寛容さを、人間に対して引き続き寛大に与える。すなわち、人間の邪悪な行動は神の怒りに触れ、神の憐れみと寛容さは、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改める者、悪の道を離れ、不法を手から捨てることができる者に与えられる。ニネベの人々に対する扱いでは、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていた。神の憐れみと寛容さを得ることは全く困難では無い。神は真の悔い改めを要求する。人々が悪の道を離れ、不法を手から捨てるかぎりにおいて、神は心と人々に対する姿勢を変える。

 

 

創造主の義なる性質は現実であり、生きている

   神がニネベの人々に対して心を変えた時、神の憐れみと寛容さは見せかけであっただろうか。無論、見せかけではなかった。それでは、単一の問題において、神の性質の2つの側面の一方から他方へと推移したことから、何が分かるであろうか。神の性質は、一切分割されておらず、ただひとつである。人々に対して神が表出しているのが、怒りであるか、憐れみと寛容さであるかを問わず、それらはすべて、神の義なる性質の表出である。神の性質は、現実であり、生きている。神は、事態の展開に応じて、自身の心と姿勢を変える。ニネベの人々に対する神の姿勢の推移から、神には独自の心があることが分かる。神は機械でも粘土細工でもなく、生ある神自身である。神はニネベの人々に対して怒ることもあれば、ニネベの人々の態度に基づき、ニネベの人々の過去を赦すこともある。神はニネベに災いを起こすと決定することもあれば、ニネベの人々の悔い改めに基づき、その決定を変更することもある。人々は規則を機械的に適用することを好み、規則を用いて神を立証し、定義することや、神の性質を数式により知ることを好む。したがって、人間の考えの範囲内においては、神は思考することがなく、独自の考えを持っていない。現実では、神の心は、物事や環境の変化に伴い、継続的に変化している。神の心が推移している時、神の本質の様々な側面が現れる。この推移の過程において、神が心を変えた瞬間、神は、神のいのちが存在する真実と、神の義なる性質は真実であり生きているということを、人間に対して明示する。さらに、神は独自の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容さが存在する真実を人間に対して証明している。神の本質は、時間と場所を問わず、物事の展開にしたがって明示される。神は、獅子の怒りと母の憐れみと寛容さを持っている。人間が神の義の性質を疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることは、許されない。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、全ての物事において表出される。神は、こうした側面をありとあらゆる所で、ありとあらゆる瞬間に、鮮明に表出する。神の義なる性質は、時間や場所の制限が無い。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではない。むしろ、神の義なる性質は、いつでも、どこでも、自由に表現され、表出される。神が心を変えて怒りを表出するのを止め、ニネベの町を滅ぼさなかったのを見て、神は単に憐れみ深く、愛情があるのだ、と言えるだろうか。神の怒りは内容を伴わない言葉であると感じるであろうか。神が激しい怒りを表わし、憐れみを与えるのを止めた時、神は人間に対する真の愛を感じていなかったと言えるだろうか。神は、人々の邪悪な行いに対して激しい怒りを表したのであり、神の怒りには何ら欠陥は無い。神の心は人々の悔い改めにより動かされる。神の心を変化させるのは、この悔い改めである。神の感動、神の心の変化、神の人間に対する憐れみや寛容さには、全く欠陥が無い。これらは清く、純粋で汚れの無いものである。神の寛容さは、純粋に寛容さであり、神の憐れみは、純粋に憐れみである。神は、人間の悔い改めと行動の変化に従って、怒り、憐れみ、寛容さという性質を示す。神が示すものは、それが何かによらず、すべて純粋である。それらはすべて率直であり、その本質は創造物が示すいかなるものよりも傑出している。神が表現する行動の原理、神の心あるいは具体的な判断、あらゆる業には、全く欠点がない。神が判断をくだすと、神はその通り業を行う。そして神はこの要領で計画を全うする。その結果は正確かつ完璧である。なぜならその結果の元となるものが完璧だからである。神の怒りは、完璧である。同様に、いかなる創造物も持っていない神の憐れみや寛容さは聖なるものであり、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものである。

 

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神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-02-16 00:17:14 | 聖書の奥義を開く

   ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

 

 

   こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

   ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

   神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

   この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。


神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-02-16 00:17:14 | 聖書の奥義を開く

   ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

 

 

   こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

   ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

   神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

   この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。