賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

決して消滅させることのできないいのちの力

2020-02-12 23:09:10 | 勝利者の証し

   私はごく普通の生活を送っていた一般人です。光を強く求める多くの人々と同じく、私も沢山の方法を試して人が存在する本当の意味を探しました。自分の人生がもっと意味深くなるようにです。結局は私の努力は全てが無駄に終わりました。しかし、運よく全能神の終わりの日の働きを受け入れた後、私の生活には奇跡的な変化が起こったのです。それは私の生活にさらに彩りを加え、私は神が人々の霊といのちの唯一なる供給者であられ、神の御言葉には人間のいのちの真の意味がこもっていることを理解するようになりました。私は人生の正しい道をやっと見つけられたことを嬉しく思いました。しかしある日、本分を尽くしていた時、私は中国共産党政府に不法に逮捕され、容赦ない拷問を受けました。それから、私の人生の旅に永遠に刻み込まれることになる重要な経験をしたのです……。

   2011年12月のある日の午前7時頃、私がもう一人の教会リーダーと教会資産の棚卸しを行っていた時、警官が十人以上突然ドアから勢いよく飛び込んで来ました。この邪悪な警官のうちの一人が私たちの方に駆け寄ってきて「動くな!」と叫びました。何が起きているのかを見て私は頭が混乱し、心の中でこう思いました。

   「これは大変だ。教会は資産をたくさん失ってしまう」

   次に、邪悪な警官は強盗を働く盗賊のように私たちを調べました。彼らは各部屋を荒らして回り、全部屋をあっという間にひっくり返しました。最終的に、彼らは教会資産である銀行カード三枚、預り証、コンピューター、携帯電話等を発見しました。彼らはこれらを全て押収して、私ともう一人の教会指導者と他に二人を警察署に連行したのです。

   その日の午後、邪悪な警官は他に逮捕した姉妹三人も連行してきました。彼らは私たち七人を一つの部屋に閉じ込め、私たちが喋ることを許さずに、夜が来ても眠らせてくれませんでした。私と一緒に閉じ込められた姉妹たちを見、教会がどれだけの資金を失ったのかと考えていると、私は不安のあまり我を忘れてしまいました。私はしきりに神に祈りを捧げることしか出来ませんでした。

   「ああ、神様! こんな状況に置かれて、どうしていいのか分かりません。どうか私の心を守り、落ち着かせて下さい」

   祈りを捧げた後、私は神の御言葉について考えました。

   「恐れてはならない。教会でこのような事が起こるとき、すべてわたしがそうなることを許しているのである。立ち上がってわたしのために語りなさい。すべての物事はわたしの玉座によって許されており、その全てにわたしの意図があるという信仰を持ちなさい」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第四十一章」より)

   「あなたの周りの環境にあるすべてのものは、わたしの許しによってそこにあり、わたしがそのすべてを定めることを、あなたは知るべきである。わたしがあなたに与えた環境の中で、明確に見極め、わたしの心を満足させなさい」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十六章」より)

   神の御言葉は私の心のパニックを鎮めて下さいました。今日この環境は神の御許可があって私に起こったものであり、神への証しを立てることを神が私に要求なさる日が訪れたのだと悟りました。御心を理解した私は神に祈りを捧げました。

   「ああ、神様! 私は神様の御計画と御采配に従い、断固たる姿勢で神様に証しを立てたいと思っています。でも、私の霊的背丈は低いため、どうか私が断固たる姿勢を貫けるように信仰と力をお与え下さい。そして私をお守り下さい」

   翌朝、彼らは私たちを別々に尋問してきました。邪悪な警官の一人が威張って言いました。

   「俺はお前が教会リーダーであることは知っているんだ。俺たち五か月間お前たちを監視してきたからな……」

   彼らが私を監視するために実行したこと全ての詳細を聞いた時、私は背筋がゾクッとしました。私は心の中でこう思いました。

   「中国共産党政府は私たちを逮捕しようと本当に足固めをいっぱいしてきている。私が教会リーダーであることを既に知っているってことは、私を釈放してくれることなんてあり得ないわ」

   私は直ちに神を裏切ってユダになるくらいなら死んだ方がましだと神の前で決心しました。自分たちの尋問が何の結果も出さないことを見た彼らは、私を監視する人を割り当てて私を眠らせないようにしました。

   三日目の尋問の最中、邪悪な警官の長はコンピューターの電源を入れて、私に神を中傷した資料を読ませました。これに動じなかった私を見て、彼は次に教会の財源について細かく尋問してきました。私は横を向いて彼を無視しました。彼はこれに非情に腹を立てて私を罵ってきました。

   「お前が何も喋らなくても、どうってことはない。俺たちは永遠にお前を拘束して、いつでも好きな時にお前を拷問出来るんだ」

   こう言って、彼は激しく脅してきました。その夜中、警官は拷問を開始しました。彼らは私の片手を肩の後ろに回して下の方へ引っ張り、もう片方の手を背中の後ろで引き上げました。彼らは私の背中を足で押し付けながら、強引に私の両手首を引き寄せて手錠を掛けました。あまりの痛さに私は叫び声を上げました。両肩の骨と肉が今にも引き裂かれるように感じました。頭を床につけた状態で動かずに跪いていることしか出来ませんでした。叫んだら手を緩めてくれるかと思いましたが、それどころか、手錠を掛けた両手と背中の間にティーカップを挟まれ、痛みは一層増しました。上半身の骨はまるで半分に折れてしまったかのように感じました。あまりの痛さに私は息を吐き出せず、冷汗が顔から吹き出てきました。ちょうどこれ以上は痛みに耐えられないと感じていた時、邪悪な警官の一人がここぞとばかりに言いました。

   「名前を教えたら直ぐに釈放してやるぞ」

   その時、私は神に私の心をお守り下さるよう助けを求めました。私はある讃美歌をすぐに思い出しました。

   「受肉の神が苦しまれた。まして私はどんなに苦しむべきか? もし私が暗闇に屈したら、どうやって神を見るだろう? 御言葉について考えると、あなたを切望するようになる。御顔を見るたび、罪悪感の中、敬意を表します。自由を探し求めるために、どうして私があなたを見捨てられるだろう? むしろあなたの嘆きや悲しみを和らげるために苦しみたい」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の良い知らせを待ち望みます」より)

   私は思いました。

   「そうだ。キリストは聖なる義なる神。神様は肉となられ地上に来られ、堕落した人類に完全なる救いをもたらそうとなさっている。そして今や神様は中国共産党政府に追跡され、人類には反対され、断罪されていらしゃる。神様は決してそのように苦しむべきでないのに、私たちを救うために静かにあれほどの苦しみに耐えていらっしゃる」

   よく考えると、私は救いを得るために今苦しでいるのだと分かったのです。私はこの苦しみを経験する必要があるのです。痛みに耐えられないからと言ってサタンに屈服してしまったら、どうして神に再び顔向けすることができるでしょうか。こう考えていると私は力が湧いてきて、もう一度断固たる姿勢を取り戻したのです。邪悪な警官は私を一時間ほど痛めつけました。彼らが手錠を外した時、私は体全体がぐったりとして地面に倒れ込みました。彼らは「喋らないともう一度やるぞ!」と私に向って叫びました。私は彼らを見ましたが、何も喋りませんでした。私の心は邪悪な警官に対する嫌悪でいっぱいでした。邪悪な警官の一人がもう一度私に手錠を掛けようと近寄ってきました。私は今受けたばかりの耐え難い痛みのことを考えながら、心の中で神に祈り続けました。驚いたことに、彼は私の両腕を背中の後ろに引っ張ろうとしたのですが、動かすことが出来なかったのです。私の腕もそれほど痛くもなかったのです。懸命に引っ張ろうとしていた彼の頭は汗まみれになっていましたが、それでも手錠を掛けることが出来ません。彼は、「お前は結構力強いんだな!」と腹立たしげに怒鳴りました。私はこれは神が私をお気遣い下さって、私に力をお与え下さったのだと分かっていました。神に感謝!

   夜明けまで耐え抜くのは大変でした。私は邪悪な警官による拷問のことを思うと、依然として激しい衝撃を感じました。彼らは私が何もしゃべらないなら私を山奥に連れ出して処刑すると言って脅していました。その後、他の信者を逮捕した時は、信者に私が教会を裏切ったと伝えるとも言って脅しました。私の評判に泥を塗り、教会の兄弟姉妹たちに私を憎ませ、私を拒絶させるつもりなのです。これを想像していると、私の心には孤独感と絶望感の波が押し寄せ、臆病になり弱く感じました。私は心の中で考えました。

   「死んだ方がましだわ。そうしたらユダになって神様を裏切ることもないし、兄弟姉妹たちから拒絶されてしまうこともない。それに肉の受ける拷問の苦痛を感じなくて済む」

   そうして、私を監視していた邪悪な警官が注意散漫になるまで待ってから、自分の頭を壁に強く叩き付けました。しかし、目眩がしただけで、死にませんでした。その瞬間、神の御言葉が私の内からお啓き下さったのです。

   「他人があなたを誤解しても、あなたは神に祈り、このように言うことができる。『ああ神様! 私は他人が私に寛容であることも私をよく扱うことも願いませんし、私を理解したり認めたりすることも願いません。あなたを愛することができ、心穏やかになり、私の良心が澄み切っていることだけを願います。他人が私を賞賛することや高く評価することを私は望みません。私は心からあなたの意を満たすことを求めるだけです』」(『言葉は肉において現れる』の「精錬を経ることでのみ、人は真の愛をもつことができる」より)

   神の御言葉は私の心から憂鬱を追い払って下さりました。私は思いました。

   「そうだ。神様は人々の心の一番奥まで見ることがお出来になる。もし警察に罪を着せられて、他の兄弟姉妹が実情を知らないために私を完全に誤解して、私を拒絶したとしても、私は神様の御意図は善良であると信じる。神様は私の神様への信仰と愛をお試しになられており、私は神に御満足いただこうとするべきなんだ」

   悪魔の狡猾な策略を見抜き、私は突然恥ずかしくなりました。私は自分の神への信仰は微々たるものであったことを知ったのです。私は少し苦しんだだけで断固な姿勢が取れなくなり、死んで神の御計画から免れ、避けようと考えました。邪悪な警官があのように私を脅した目的は、私が神に背を向けるよう仕向けることだったのです。神の御加護を受けていなければ、その狡猾な策略に引っ掛かっていたことでしょう。神の御言葉を熟考していると、私の心は光でいっぱいになりました。もう死にたくなくなりました。むしろしっかり生きて、自分が現実に生き抜いた経験を活用して神への証しを立て、サタンを辱めたくなったのです。

   私の監視に当っていた邪悪な警官二人は私がどうして頭を壁にぶつけたのかと聞いたので、他の警官に殴られたからだと答えました。するとその内の一人が笑顔で言いました。

   「私たちはおもに教育を手段としているのに。心配しなくでいいですよ。彼らには二度とあなたを殴らせませんから」

   この慰めの言葉を聞いて、私は思いました。

   「この二人は悪くない。逮捕されてから、彼らはずっと私にとても親切にしてくれている」

   この事があって、私は警戒心を緩めました。しかし、その瞬間、神のこの御言葉が私の心にひらめきました。

   「わたしの民は常にサタンの狡猾な企みを警戒し、わたしの家の門をわたしのために守り……そうすることで、あなた方はサタンの罠に陥ることがなくなるだろう。その時は、もう後悔しても手遅れなのだから」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第三章」より)

   神の御言葉は適時に注意を促して下さり、悪魔の狡猾な策略は沢山あり、かつ私はこの悪魔たちを常に警戒すべきだということをお示し下さいました。私は彼らがすぐに本性を明らかにしてくるとは予想していませんでした。邪悪な警官の一人は神を中傷し始め、もう一人は私の隣に座って私の足をなで、いやらしい目つきで私を見ながら教会の財源について聞いてきました。夜になって、私がうたた寝をしているのを見た彼は私の胸をまさぐり始めました。彼らが本性を現したのを見て、私は憤慨しました。私はこれで初めて「人民警察」は単なる悪党で、暴漢だと分かったのです。彼らはこういった卑劣でたちの悪いことを実際に行なうことができるのです。この結果、私には彼らの危害からお守り下さるように神に必死で祈るしかありませんでした。

   次の数日間、邪悪な警官たちは教会について細かく尋問するだけでなく、私を眠らせないように交代で私を監視しました。その後、私を尋問していた邪悪警官二人は私が口を割らないのを見て激怒しました。その内の一人が幾度も私の顔を引っ叩いたり、強打しながら攻撃しました。私の顔はうずいて腫れ出して、ついには麻痺して、何も感じなくなりました。私が彼らの尋問に対して何も答えないため、ある夜、邪悪な警官の長は叫びながら私にこう言いました。

   「そろそろ口を開いた方がいいぞ。もうお前には我慢が尽きそうだ。俺たちがお前をどうすることもできないなんてことはない。俺はお前よりもタフな奴らを見てきてる。お前はきつく当たらないと絶対に服従しない。こん畜生!」

   彼が命令すると邪悪な警官が数人私を拷問し始めました。夜になると、取調室は暗くて恐ろしい雰囲気が漂い、地獄にいるようでした。彼らは私に地面にしゃがむように命令し、手錠を掛けられた私の手を足の上に置かせました。次に、彼らは木の棒を私の腕の内側と膝の裏の間に差し込んで、強引にも私の体全体を丸めました。それから、棒を持ち上げ、テーブル二台の間に固定したので、私は頭が下向きで体を宙吊りにさせられました。持ち上げられた瞬間、私はめまいがして、息をするのが大変でした。窒息死するかと思いました。逆さに宙吊りにされたため、私の全体重が手首にかかっていました。最初、手錠が肉に食い込むのを防ぐために両手を寄せて握りしめ、体を丸めて、必死にその姿勢を維持しようとしました。しかし、少しずつ力が抜けていきました。手が足首から膝へと滑り落ちると、手錠が私の肉に深く食い込み、耐え難い痛みを感じました。三十分ほどこのようにぶら下げられていると、体中の血液が頭にたまったように感じました。頭部と眼球は爆発するかと思うほどに痛く膨張していました。深い切り傷が手首をえぐって刻み込み、両手はパンのかたまりのように腫れ上がりました。私は今にも死んでしまうような気がしました。私は「もうだめ。降ろして!」と必死に叫びました。「お前を助けられるのはお前だけだ。名前を白状したら降ろしてやる」と邪悪な警官の一人が悪意に満ちた声で言いました。最終的に、彼らは私が本当に危険な状態にあったことに気付いて私を降ろしてくれました。彼らは私にブドウ糖シロップを与えてくれた後、尋問を再開しました。私は目をぎゅっと閉じたまま、泥のようにぐったりと地面に横たわり、彼らには目もくれませんでした。突然、邪悪な警官はまたしても私を宙に吊り上げました。私はもう手で踏ん張るだけの力がなく、手錠が手首に食い込むままにするしかなく、ギザギザになっている端が肉の中に切り込んでいきました。その瞬間、私はあまりの痛みで心臓が止まるほどの叫び声を上げました。私はもう踏ん張り続ける力がなく、呼吸も非常に薄くなっていました。まるで時間が止まったようになり、私は死の瀬戸際をさまよっているような気分がしました。今度は本当に死んでしまうと思った私は、いのちが尽きる前に心にあった言葉を神に伝えたくなりました。

   「ああ、神様! 私は今この瞬間、本当に死んでしまいそうで怖くてなりません。でも、もし今晩本当に死ぬことになったとしても、私は神様の義を讃えます。ああ、神様! この短い人生の旅において、神様が私を選んで、この罪であふれた世界から御前に戻して下さったこと、私のさまよいを止めて下さったこと、そして私が神様の温かい抱擁の中でいつまでも生きられるようにして下さったことを感謝いたします。ああ、神様、私は今まで神様の愛をたっぷり授かってきたにもかかわらず、今、人生が終わる寸前になって初めて自分が神様の愛を大切にしていなかったことに気が付きました。私は幾度にわたって神様を悲しめ、失望させてしまいました。私はまるで母親の愛情を喜んで受けとるだけで恩返しすることを一度も考えたことがない世間知らずな子供のようです。私は命を失う寸前になった今、初めて神様の愛を大切にしなければならないのだと理解し、今になって初めて沢山の良き時間を逃してしまったことを後悔しています。今、私が一番後悔してるのは、神様に何もして差し上げることが出来なかったこと、そして神様に多大の恩義があることで、もしこのまま生きていけるのであれば、私は必ず自分の本分を尽くすために最善を尽くし、恩義に報います。この瞬間、私に力をお与えて下さり、私がもはや死を恐れず、強い姿勢で死に立ち向かっていけるようにして下さることだけを嘆願いたします……」

   私の涙が次から次へと額をたどって滴り落ちました。その夜は怖いほどに静かでした。唯一聞こえる音は時計のチクタクという音で、それはまるで私に残された命の秒数をカウントダウンしているようでした。その時、ある奇跡が起こったのです。まるで温かい太陽の光に照らされているような気がして、体中の痛みを次第に感じなくなりました。神の御言葉が私の頭に鳴り響きました。

   「産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の責務を果たし始める。神の計画と定めの中で自分の役割を果たして、いのちの旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである」(『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より)

   私は思いました。

   「そうだ。神様は私のいのちの源であられ、神様は私の運命を支配されている。私は自分を神様の御手に委ねて、御意向に従わなくては」

   神の御言葉を熟考していると、私は心の中で神の温かい抱擁に体を預けているかのような心地の良い、穏やかな気持になりました。私は自分が眠りに落ちていくのが分かりました。私が死ぬのではないかと恐れた邪悪な警官は私を降ろし、急いでブドウ糖シロップと水を与えてくれました。死と隣り合わせた体験において、私は神の奇跡的な御業を目の当たりにしたのです。

   翌日、邪悪な警官は一晩中何度も私を吊り上げました。彼らは押収した領収書の資金の場所について私を尋問しました。私はその間ずっと何も言いませんでしたが、彼らはそれでも諦めませんでした。教会の資金を手にするために、彼らはありとあらゆる卑劣な方法で私を拷問しました。その度に神の御言葉が私の頭の中で鳴り響きました。

   「数千年におよぶ憎しみが心に凝縮され、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。こうした状態で、どうして憎悪感を覚えずに居られようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討し、敵が二度と蔓延ることを許してはならない。また敵が意のままに問題を起こすことを許してはならない。今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   神の御言葉は私に偉大な力と信仰を下さいました。私はサタンと死ぬまで戦い、死ぬことになっても、断固たる姿勢で神への証しを立てます。神の御言葉に元気づけられ、私は知らないうちに痛みを忘れていました。こうして、彼らが私を吊り上げる度に、神の御言葉が私に元気と意欲をお与え下さり、吊り上げられれば吊り上げられるほど、私は彼らの悪魔的な本質を更に見抜くことができ、神への証しをたてて神に御満足いただくという私の決意は更に断固たるものになったのです。最終的に、彼らはぞれぞれが私の相手をして疲れ果ててしまいました。彼らが話すのが聞こえました。

   「大抵のヤツはこんな風に吊り上げられたら三十分ももたないのに、この女はここまで耐え抜くとはな。本当にタフな奴だ!」

   私はこの言葉を聞いてとても嬉しくなり、心の中で思いました。

   「神に支えられている私を打ち負かすことなんか出来ないのよ」

   私が警察署で過ごした九昼夜の間、邪悪な警官たちは肉体的な拷問に加え、私から睡眠も奪いました。私が目を閉じてうとうとし始める度に、彼らは警棒をテーブルに叩き付けたり、私に立ち上がらせて走り回らせたり、私に叫び声を浴びせたりして私を粉々にし、精神的に潰そうとしてきました。九日経っても依然として目標を達成していませんでしたが、警官たちは諦めませんでした。彼らは私をホテルに連れていき、そこで私の両脚の前で両手に手錠を掛け、木の棒を両腕の屈曲部と脚の間に差し込んで、体を丸めた状態で無理やり床の上に座らせました。彼らはそのままの状態で数日間も床に座らせ続け、そのため手錠が私の肉に切り込みました。手と手首は腫れ上がって紫色に変色しました。お尻にもひどい痛みがあったのでさすったり、触ったりしないようにしました。まるで針の上に座っているようでした。ある日、私の尋問に効果がないことを認めた邪悪な警官のリーダーの一人が激しい怒りを表しながら私の方に来ると、私の顔面を強く引っ叩きました。あまりの強さで歯が二本ゆるくなってしまいました。

   ついには、省の公安部から課長が二人やって来ました。彼らは到着したとたんに私の手錠を外してくれて、ソファーに座らせてくれると、私にコップ一杯の水を入れてくれました。彼らは善人ぶって言いました。

   「あなたはここ数日の間、大変な思いをされましたね。でも、あまり気にしないでください。彼らは命令通りに動いていただけなんです」

   彼らの芝居があまりに憎らしくて、私は歯ぎしりしました。彼らもコンピューターの電源をつけると私に虚偽の証拠を見せたり、神を非難し冒涜することを多く言いました。私は激怒しました。私は彼らと議論したかったのですが、そうしても彼らはさらに必死になって神を冒涜するだけだと分かっていました。この瞬間、私は肉となられた神が苦しまれた苦難はどれだけ大変なものであり、神が人類を救うためにどれだけの屈辱にお耐えになられたのかを心から実感したのです。さらに、私はこの邪悪な悪魔たちの下劣さと憎らしさを目の当たりにしました。私はサタンと完全に決別して、神に一生忠実でいることを心の中で秘かに誓いました。その後、彼らがどのように私を騙そうとしても、私は口を閉じたまま何も言いませんでした。自分たちの言葉に何も効果がないことを知った課長二人は、怒ってその場を去るしかありませんでした。

   ホテルで過ごした十昼夜の間、彼らは私に手錠を掛けたままにして、足を抱きかかえて地面にしゃがませました。逮捕されてからの時間を振り返ってみると、私は警察署とホテルで合計十九昼夜を過ごしました。神の愛の御加護により少しだけうたた寝が出来ましたが、邪悪な警官たちはそれ以外には私をこの間全く眠らせてくれませんでした。私が一瞬でも目を閉じると、彼らはテーブルを強打したり、猛烈に私を蹴り飛ばしたり、叫び声を浴びせたり、走り回るように命令したりと、私を眠らせないためなら何でもしました。驚かされる度に私の心臓は激しく鼓動し、神経が激しく痛めつけられました。眠らせてもらえないことと邪悪な警官からの頻繁な拷問のせいで、体力はひどく消耗してしまい、私は体中が腫れ上がり具合が悪くなり、何もかも二重に見えるようになりました。人が目の前で話しているのが分かっていても、その声はまるでどこか遠くから届いているように聞こえました。さらに、私の反応はかなり鈍くなっていきました。私がこれを何とか生き抜けることが出来たのも、神の偉大な御力のおかげです! これはちょうど神が仰ったとおりです。

   「神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)

   私は心の中で、神に心からの感謝と称賛をささげました。

   「ああ、神様! 神様は全てを支配しておられ、御業は計り知れません。神様のみが全能であられ、消滅させることの出来ないいのちの力であられます。私のいのちのための生きる水の泉であられます。この特別な環境の中で、私は神様の比類なき御力と権威を見ました」

   最後には邪悪な警官たちは私を尋問しても答えが得られず、私を拘置所に連行しました。

   拘置所に向かう道中で警官二人私に言いました。

   「お前はよく頑張ったな。お前たちは拘置所に入れられるとはいえ、いい人だ。あそこには麻薬の売人、殺人者に売春婦とか色んなのがいる。着いたら分かるから」

   私は尋ねました。

   「私たちがいい人たちだって分かっているならどうして私たちを逮捕するんですか? 政府は信仰の自由についてうたってるじゃないですか?」

   警官の一人が答えました。

   「それは共産党の嘘だ。党は俺たちを食べさせてくれるから、俺たちは言われる通りにするしかないんだ。俺たちがお前を嫌いだとか、お前に恨みがあるわけじゃないんだ。お前を逮捕したのはお前が神を信仰してるからだ」

   私はこれを聞いて、これまで経験してきたことを全て振り返りました。私は神の御言葉を思い出さずにはいられませんでした。

   「宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   神の御言葉は問題の核心に切り込んでおり、中国共産党政府の本性を私に見せ、政府がふさわしくもない威信を手にしようとどのように試みているのかを私にはっきりと教えて下さいました。表面的には信仰の自由を掲げていても、国中で神の信仰者を秘かに逮捕し、抑圧し、残酷に傷つけ、神の働きを禁止しようと無駄な試みをしています。さらに恥ずかしげもなく教会のお金を盗み取ろうともしており、このような行ないの全てが共産党政府の神と真理を憎む悪魔のような本質をあらわにしているのです。

   拘置所にいた間、私は弱くなって苦しんだ時がありました。しかし神の御言葉は、続けて私を元気にして下さり、力と信仰をお与え下さり、私はサタンから肉の自由を奪われたものの、苦しみが私を啓発し、この邪悪な悪魔たちから拷問を受けている間に神を頼ることを教えて下さいました。また、多くの真理の本当の意味をも理解させて下さり、真理の貴重さに気付かせても下さいました。そして真理を追い求める私の決意と意欲を強めても下さったのです。私は神に従い続け、神が私のためにご用意下さったもの全てを体験する覚悟ができました。その結果、拘置所で働いていた間、私は讃美歌を歌って神の愛について静かに考えました。私は自分の心が神に近づいたと感じるようになり、毎日をそれほど苦しく悲惨なものと思わなくなったのです。

   この間、邪悪な警官たちは更に何度も私を尋問しました。私は彼らの拷問を乗り越えられるように神が私を幾度となくお導き下さったことを感謝しました。後に、邪悪な警官は取り上げた三枚の銀行カードからお金を全額引き出しました。教会の資金が邪悪な警官たちに奪われるのを何も出来ずにただ見ているのは胸が張り裂ける思いでした。私の心はこの貪欲で邪悪な悪魔集団に対する嫌悪で一杯になり、キリストの御国の近い到来を切望しました。最終的に、何の証拠もないのに、「公共の秩序を乱した」として、私に一年三か月の労働による再教育の判決を言い渡しました。

   中国共産党政府に残酷に迫害されることにより、私は神の私への愛と御救いを真に味わい、神の全能さ、統治、奇跡的な御業を正しく認識するようになり、神の御言葉の権威と力を目の当たりにしました。さらに、私は心からサタンを嫌うようになりました。迫害を受けていた間、神の御言葉は悲惨な昼夜を通して私の側にいて下さり、そのおかげで私はサタンの狡猾な策略を見抜けるようになり、時にかなった御加護をお与え下さったのです。神の御言葉は私を強く、勇敢にして下さり、私があの残忍な拷問を幾度となく乗り越えられるように下さったのです。神の御言葉は私に力と信仰をお与え下さり、サタンと最後まで戦い続ける勇気をお与え下さったのです……。神に感謝! 全能神は真理であられ、道であられ、いのちであられるのです! 私は最後の最後まで永遠に全能神に従って行きます!


神の怒りは、あらゆる正義の力と肯定的な物事を守る

2020-02-11 08:27:45 | 聖書の奥義を開く

   これらの神の言葉と考え、業を理解することで、あなたは、何者も背くことの出来ない、神の義なる性質を理解できるであろうか。人間がどの程度理解できるかを問わず、結局のところ、これは、神のみが持つ性質の一側面である。反抗に対する神の寛容さの不在は神のみが持つ本質であり、神の怒りは神特有の性質であり、神の威厳は神のみの独占的本質である。神の怒りの根底となる原則は、神のみが持つ身分と地位を証明するものである。この原則が唯一の神自身を象徴するものであることは、言うまでも無い。神の性質は、神自身の固有の本質である。神の性質は時間の経過とともに変化することも、場所によって変化することもない。神の固有の性質は、神のみにある本質である。神が誰に対して業を行うかを問わず、神の本質も、神の義なる性質も、不変である。ある者が神を怒らせた場合、神が伝える怒りは、神固有の性質である。この時、神の怒りの基底にある原則や、神固有の身分や地位は不変である。神は、神の本質が変化したり、神の性質に異なる要素が生まれたりしたことを理由として、怒ることは無く、神が怒るのは、人間の神に対する反抗が、神の性質に反するからである。人間の神に対する目に余る挑発は、神固有の身分と地位に対する深刻な挑戦である。神から見ると、人間が神に挑戦するということは、人間が神と争っており、神の怒りを試していることを意味する。人間が神に反抗し、神と争い、神の怒りを継続的に試す時は、罪がはびこる時でもあり、その時、神の怒りは自然と出現する。したがって、神が怒りを示していることは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということを象徴するものである。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性である。神の威厳と聖さが試された時、正義の力が阻害され、人間に理解されなかった場合、神は、怒りを伝える。神の本質に基づけば、神と争い、神に敵対し、敵対する地上の様々な力は、すべて邪悪であり、腐敗した不当なものであり、すべてサタンに由来し、サタンに属する。神は正義であり、光であり、完璧に聖であるので、邪悪で腐敗した、サタンに属する物事は、神の怒りが発せられると消滅する。

 

 

   神の怒りの噴出は神の義なる性質を示す側面のひとつに過ぎないものの、神の怒りが、その対象について無差別なことや、原則が無いということは決して無い。それとは反対に、神は怒りやすくなく、神が軽率に怒りや威厳を示すことは無い。更に、神の怒りはかなり制御され、計測されているので、神の怒りと、人間が怒りを爆発させたり、発散させたりするのとは比較することは出来ない。聖書には、人間と神との対話が多く記録されている。聖書に登場する人間の一部は、発言が浅薄で、無知で、稚拙であるが、神はそうした人間を打ち倒すことも、非難することも無い。特に、ヨブの試練の間、ヤーウェ神はヨブの3人の友やその他の者たちの発言を聞いて、その者たちをどのように扱ったであろうか。神はその者たちを非難したであろうか。神はその者たちに対して、激怒したであろうか。神は、そのようなことを一切しなかった。その代わり、神はヨブに対し、その者たちのために祈るよう命じ、神はその者たちの誤りを気に留めることは無かった。これらの例では、神が腐敗した無知な人間を扱う主な姿勢が示されている。したがって、神の怒りの発出は、神の気分を示したり晴らしたりするものでは決して無い。神の怒りは、人間が考えるような感情の爆発では無い。神は、自分の気分を制しきれなかったり、怒りが我慢の限界を超えたりすることが原因となって、怒りを発出させることが無い。逆に、神の怒りは、神の義なる性質を示し、その性質を純粋に表出し、神の聖なる本質の象徴を表出するものである。神は怒りで、反抗を容赦しない。これは、神の怒りが動機を区別しないということでも、無主義であるということでも無い。動機を区別せずに無主義で手当たり次第に怒りを爆発させるのは、腐敗した人間固有の特色である。人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は汚れや謀略に満ちている。人間の腐敗と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。正義が邪悪に挑む場合、人間は正義を守るために怒りを爆発させることは無い。それとは逆に、正義の力が危機にあるとき、迫害されたとき、攻撃されたとき、人間の態度は、無視、回避、畏縮といった類いのものである。しかし、邪悪の力に対峙した時、人間の態度は、迎合する、ぺこぺこ頭を下げるといった類いのものである。したがって、人間の怒りの爆発は、邪悪な力にとって逃げ道であり、肉欲に満ちた人間の、猛烈で抑制できない邪悪な行動の表出である。しかしながら、神が怒りを示す時は、邪悪な力は全て阻止され、人間を傷つける全ての罪が阻止され、神の業を阻害する敵意のある力が明らかにされ、取り上げられて呪われ、神に反逆するサタンの僕は罰せられて根絶される。その者たちがいなくなった後、神の業は何ものにも阻害されることなく進められ、神の経営(救いの)計画は、予定通り一歩ずつ着実に実行され、神の選民はサタンの妨害や策略の対象となることなく、神に付き従う者は、静寂と平和の中で神の導きと施しを楽しむ。神の怒りは、あらゆる邪悪の力の増大と横行を阻止する防衛手段であり、また正義で肯定的な物事全ての存在を守り、広め、それを抑圧や破壊から永久に保護する防衛手段である。


ソドムによる神への反抗と敵対の繰り返しの後、神はソドムを完膚なきまでに根絶した

2020-02-10 23:41:48 | 聖書の奥義を開く

   神の義なる性質に関する概要を理解した後、神が罪の町とみなしたソドムについて再検討することとする。ソドムの町の実態を理解することで、神がこの町を破壊される必要があった理由、そして神がそこまで完全に破壊した理由を理解することができる。そうした理解より神の義なる性質を知ることができる。

   人間の立場から見ると、ソドムは人間の欲望と邪悪さを完全に満足させることが出来る町であった。毎晩行われる音楽と踊りに誘惑され、人はソドムの栄華の虜となる。ソドムの邪悪さが人間の心を蝕み、人間を誘惑して退廃させた。ソドムは、穢れた魂と悪霊がたけり狂う町であった。罪と殺人、血なまぐさい死臭で溢れていた。ソドムは、人々が恐怖で凍り付き、恐れて逃げ出す町であった。ソドムでは、老若男女をとわず、誰ひとりとして真理の道を求める者、光を求め、罪から立ち去ろうとする者は居なかった。ソドムの人々はサタンの支配と腐敗と偽りの下で生活していた。ソドムの人々は人間性を失い、思慮分別を失い、人間という存在の元来の目的を見失っていた。ソドムの人々は神への謀反という罪を数え切れない程犯し、神の導きを拒み、神の心に反発した。ソドムの町、ソドムの人々と生き物すべてを、徐々に破壊へと追いやったのは、ソドムの人々の邪悪な行動であった。

   この2つの聖句には、神の使い2人がソドムに到着した時の、2人の使いに対するソドムの人々の行動が記録されており、ソドムの人々の腐敗の程度に関する詳細は記録されていないものの、単純な事実により、ソドムの人々の腐敗、邪悪さの程度や、ソドムの人々がどの程度神を反抗していたかが明示されている。また、そうした単純な事実により、ソドムの町の人々の素顔と真の実態も披瀝される。ソドムの人々は、神の警告を受け容れなかったのみならず、神の懲罰をも恐れなかった。それどころか、ソドムの人々は神を侮蔑していた。ソドムの人々は、盲目的に神を反抗していた。神が何をどのようにしたとしても、ソドムの人々の邪悪な性質は強くなるばかりであって、神への敵対を繰り返した。ソドムの人々は神の存在、神の来訪、神の罰、そしてとりわけ神の警告に対して敵意を抱いていた。ソドムの人々は、自分自身以外の何ものにも価値を見出さなかった。ソドムの人々は自分達が傷つけ、食い物にできる人々すべてを傷つけ、食い物としており、神の使いに対しても、その例に漏れることは無かった。ソドムの人々の邪悪な所行全てを考慮すると、神の使いを傷つけたことは氷山の一角に過ぎず、それにより明示されている人々の邪悪さは、大いなる海のひとしずくに過ぎない。したがって、神はソドムの人々を火で破壊することに決定した。神は洪水や嵐、地震、津波など、火以外の方法は用いなかった。神がソドムの破壊に火を用いたことは、何を意味するであろうか。それは、ソドムの町の完全なる破壊を意味する。それは、ソドムの町という存在が地球上から完全に消滅した事を意味する。ここで言う「破壊」とは、町の形態や構造や外観が消滅しただけでなく、町の中にいた人々の魂も消え去り、根絶されたということを意味する。簡単に言えば、ソドムに関係する全ての人々、出来事、物体が破壊されたということである。ソドムの人々に来世や再生は無く、神はソドムの人々を、神の創造物である人類から永久に根絶させた。「火の使用」は、罪の阻止を示し、罪の終わりを意味する。その罪は消滅し、広まることが無くなる。それは、サタンの邪悪の温床が無くなり、サタンの邪悪の留まる場所として与えられた、墓さえも奪われたことを意味した。神とサタンの戦いにおいて、神が火を用いられるということは、神の勝利の証をサタンに焼き付ける烙印のようなものである。ソドムの破壊は、人間を腐敗させ、虜にすることで神に対抗するサタンの野望における大いなる失策であり、またそれと同様に、人間が発達する過程において、神の導きを拒み、悪に身を委ねた場合の屈辱を示すものである。さらにソドムの破壊は、神の義なる性質を真に明示するものとなる記録でもある。

 

 

   神が天から降らせた火がソドムを灰にした事は、「ソドム」という名の町と、そこにあった全て物事の存在が消滅したことを意味する。ソドムは神の怒りにより、すなわち神の怒りと威厳により破壊された。神の義なる性質のため、ソドムは然るべくして神の罰を受けた。すなわち、ソドムは神の義なる性質により、然るべきして終焉を迎えた。ソドムの存在が消滅したのは、ソドムの邪悪が原因であり、またそれは、ソドムの町やそこに住むあらゆる人々、そこに生きるあらゆる物を二度と見たくないという神の望みでもあった。「ソドムの町を二度と見たくない」という神の望みは、神の怒りであり、神の威厳でもある。神がソドムを焼き尽くしたのは、ソドムの邪悪と罪が、神を怒らせ、いらだたせ、激しく嫌悪させたためであり、またソドムの町やそこに住むあらゆる人々、そこに生きるあらゆる物を二度と見たくないと望ませたためであった。ソドムが焼け落ち、灰だけが残された後、ソドムは真に神の目に存在しないものとなり、神のソドムに関する記憶すら消え去った。このことは、天の火が、ソドムの町全体と町の邪悪に満ちた人々や罪に染められた全ての物事が破壊されただけでは無く、天の火は、人間の邪悪と、神に対する反抗の記憶をも破壊した。これが、神がソドムの町を焼いた目的であった。

   この時、人間は腐敗を極めたのであった。人間は、神の存在、人間の出自を知らなかった。もし誰かが神のことを口にしようものなら、ソドムの人々は攻撃し、中傷し、冒涜したであろう。神の警告を伝えるために神の使いが来た時ですら、腐敗したソドムの人々は悔い改めの姿勢を見せなかったのみならず、自分達の邪悪な行いを止めようともしなかった。それどころか、ソドムの人々は、恐れ多くも神の使いを痛めつけようとした。ソドムの人々が明確に示したのは、神に対する極端な敵意のある本性であり、本質であった。腐敗したソドムの人々の神に対する反抗は、ソドムの人々の腐敗した性質の明示や、真相の理解の欠如に起因する誹謗中傷であるだけでは無かった。ソドムの人々の邪悪な行いは愚かさや無知に起因するものでは無く、またソドムの人々が裏切られたからでも無く、勿論、誤った方向へと導かれたからでも無かった。ソドムの人々の行いは、目に余るほど激しい神への敵意、反抗、そして騒動のレベルに達していた。当然ながら、人間のこうした行いは神の怒りを買い、また犯してはならない神の性質を激怒させることになる。したがって、神は直接的かつ隠すこと無く、神の怒りと威厳を示した。それは、神の義なる性質の、真の明示である。罪に満ちた町を見た神は、最も迅速な方法でその町を滅ぼすことを望んだ。つまり、神はソドムの町の人々とその罪を、最も完全な方法で根絶し、町の人々を抹殺し、地上の罪が増加するのを防ごうとした。その最も迅速で完全な方法とは、ソドムの町を火で焼きつくすことであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、見捨てることでも無視することでもなく、怒りと威厳、そして権威を用いてソドムの人々を罰し、打ちのめし、絶滅させるというものであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、身体的な破壊だけで無く、霊的なもの、永久の根絶的な破壊であった。これが、ソドムの人々が「消滅」することに対する神の望みに関する、真の含意であった。

 

更に多くの内容を読むには、聖書の部屋のウェブサイトへどうぞ


神がアブラハムに息子を与える約束をする

2020-02-09 14:47:18 | 聖書の奥義を開く

   1.神がアブラハムに息子を与える約束をする

   (創世記17:15-17)神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

   (創世記17:21-22)「しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。

 

 

   2.アブラハムがイサクを捧げる

   (創世記22:2-3)神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

   (創世記22:9-10)彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした。

   誰も神が行うと決めた業を止めることはできない

   今アブラハムの物語を読んだ。世界が洪水で滅ぼされた後、神に選ばれたこの男はアブラハムという名で、彼が100歳でその妻サラが90歳の時、神は彼にある約束をした。その約束とは何だったか。神は聖書に書いてあるこのことを約束した。すなわち「わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。」という約束である。この息子を与えるという約束の背景には何があっただろうか。聖書ではこのような説明がなされている。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」。つまり、この老夫婦は子供を持つには年をとりすぎていたということである。そしてアブラハムは神からこの約束を受けて何をしただろうか。ひれ伏し、しかし笑って、ひそかに「百歳の者にどうして子が生れよう」と言ったのである。アブラハムは不可能なことだと思ったのだ。彼にとって神の与えた約束は冗談でしかなかったということである。人間的な考えからすると、たしかにこのことは実現不可能に思える。そして同様に神にとってもあり得ない、不可能なことだと考えてしまう。おそらく、アブラハムにとっては笑ってこう思ったのだ。「神は人間を創造したのに、神は人間は老いると子どもができないことを知らないようだ。神は私に子どもを授けることが可能だと思っている。息子を与えるだなんて、できるわけがない。」それゆえに、アブラハムはひれ伏して笑い、こう思っていたのである。「不可能だ――神は冗談を言っているに違いない。本当なわけがない」。彼は神の言葉を真に受けなかった。つまり、神の目にはアブラハムはどのような人物だったか。(義なる人物。)アブラハムが義なる人物であるとどこで学んだのか。あなた方は神が召した全ての人物は義人で、完璧で、神と歩む人だと思っている。あなた方は教義に固執している。神が誰かを定義するときには、気ままに定義するのではないことをはっきりと知るべきである。ここでは、神はアブラハムを義人だとは言っていない。神は自身の中に、一人ひとりをはかる基準を持っている。神はここでアブラハムがどのような人物だったかを言ってはいないが、彼の行いという点から見ると、どのような類の信仰をアブラハムは神に対して持っていただろうか。はっきりしない信仰だっただろうか。それとも、アブラハムは大きな信仰を持っていたのだろうか。決して大きな信仰ではなかった。彼の笑いと思いが、彼がどんな人物であったかを表している。したがってアブラハムは義人であったというあなた方の考えは想像上の虚構であって、教義の乱用であり、無責任な評価である。神はアブラハムの笑いと態度を見ていただろうか。それを神は知っていただろうか。神は知っていた。しかし神は自分がすると決めたことを変更しただろうか。いや、していない。神がこの男を用いると計画し、そう決めた時点で、もうそのことはすでに達成されたのである。人間の考えも行いも、神に影響を与えたり妨げとなったりすることは一切ないのである。人間の行動のゆえに神は気まぐれに計画を変更することもなければ、愚かになり得る人間の行動のゆえに計画を変更したりくるわせたりはしない。創世記17:21-22には、何と書いてあるか。「『しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう』。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。」神はアブラハムの思いや言葉に少しも思いを留めることはなかったのである。神がそうした理由は何だろうか。その理由は、当時は、神は人間に大きな信仰を持つことも、神に対して深い認識を持つことも、神の言動を理解することも期待していなかったからである。このように神は、人が自分がしようと決断したことを完全に理解することを要求しておらず、神が選ぶと決めた人々や、神の行動の原理も完全に理解することは要求していない。それは単に人間の霊的背丈が不十分だからである。当時は、アブラハムが言ったこともしたことも全て普通のことだとみなしていた。神は彼を非難することも叱責することもなく、ただ「来年の今ごろサラがあなたに産むイサク」と言っただけである。神がこれらのことを宣言した後、宣言したことがひとつひとつ現実となっていった。神の目には、自身の計画により達成されるべきことは既に達成されていた。そしてそのための計画を成し遂げ、神は去って行った。人間がすることや考えること、人間が理解すること、人間の計画――どれも神には全く関連していない。全てのことは神の計画と、その計画のために神が定めた時と段階に従って進むのである。それが神の業の原則である。人間が何を考え何を認識するかに神は干渉しないが、人間が信じなかったり理解しなかったりすることが原因で神が自身の計画や働きを放棄することはない。物事は神の計画と思いによって成し遂げられるのである。聖書から正確に分かることは次のようなことだ。神は自身の決めた時にイサクが生まれるようにした。その事実は人の振る舞いや行動が神の働きを妨げることの証明になるだろうか。神の働きを妨げてはいない。人間の神への僅かな信仰、神に対する観念と想像が神の働きに影響しただろうか。いや、しなかった。全く影響しなかった。神の経営(救いの)計画はどのような人にも、事柄にも、環境にも影響されない。神が実行すると決めたことは、全て計画された時に完成され、成就し、神の働きは誰にも妨げられることはない。神は人間の愚かさや無知を気に留めず、人間の自分に対する拒絶や観念を無視することさえある。そして神は自分がすべき働きはためらわずに実行する。これが神の性質であり、神の全能性を反映するものである。

 

通読のおすすめ:


神はアブラハムにイサクを捧げるように命じた

2020-02-08 20:13:43 | 職場の人間関係

  アブラハムに息子が与えられ、神がアブラハムに与えた言葉は成就した。これはここで神の計画が停止したという意味ではない。むしろ神の壮大な人間の経営(救いの)計画はこの時点で始まったばかりであり、アブラハムが息子を授かった祝福は神の全経営計画からするとまだ序章といったところである。アブラハムがイサクを捧げた時に神とサタンとの戦いが静かに始まっていたことをその時誰が知っていただろう。

   神は、人間が愚かであるのは構わない――ただ誠実でありさえすれば

   次に、神がアブラハムに何をしたのかを見ていく。創世記22:2で、神は次のような命令をアブラハムに与えた。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。神の言ったことは明確だ。愛するひとり息子であるイサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと、神はアブラハムに言ったのだ。今日の基準からしても、神のこの命令は人間が持つ神のイメージにそぐわないものではないだろうか。その通りだ。当時神がしたことの全ては人間の神の観念とは正反対であり、人間に理解できるものではない。人間の観念に従えば、次のように考えるだろう。ひとりの人間が神を信じることをせず、神が言うことが不可能だと考えたとき、神は彼に息子を与えた。息子を与えた神は、後にその息子を捧げよと言う。驚きだ。神は何をしようとしていたのか。具体的な目的は何だったのだろうか。神は無条件にアブラハムに息子を与え、そして今度はアブラハムに無条件で献げ物をするように命じる…これは行き過ぎだろうか。第三者から見れば、単に行き過ぎているだけでなく、何もないところにあえて火種を作るようなものだろう。しかしアブラハムは神の命令が行き過ぎているとは考えなかった。アブラハムは懸念も感じ、多少神に対して疑いを持ったものの、捧げ物をする準備はできていた。ここで、何をもってアブラハムが息子を捧げる意思があったと証明できるだろうか。この箇所で言われているのは何だろうか。原文には次のように書かれている。「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。」(創世記22:3)「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした」(創世記22:9-10)。アブラハムが手を伸ばし、刃物を息子に振り下ろそうとしたとき、神はそれを見ていただろうか。もちろん見ていた。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるように命じた時から、アブラハムが実際に息子を屠るために刃物を振り上げた瞬間までの全ての過程により、アブラハムの心が神に示された。そしてかつての神に対する愚かさ、無知、誤解とは無関係に、この時の神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神にお返ししようとしていたのである。神はそこに自身が望んだアブラハムの真の従順を見た。

 

 

   人間にとって、神のする多くのことは理解しがたいものであり、信じられないようなものですらある。神が誰かの指揮を取ろうとするとき、その指揮はしばしば人間の考えとかみ合わず、生まれた不協和音と理解不能なものごとが人間に対する神からの試練となる。アブラハムはその点、自身の神への従順を示すことができた。そしてそれこそが、神の要求を満たすための最も基本的な条件だったのである。アブラハムが神の命令に従いイサクを捧げることができた時になってはじめて、神は自分が選んだ人間であるアブラハムに対して真の確信を得た。この時はじめて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営(救いの)計画になくてはならないリーダーとなることを確信するのである。試練と試みを通らせたが、神は喜び、自身に対する人間の愛を感じ、人間からそれまでにない慰めを得た。アブラハムがイサクをほふろうと刃物を振り上げた瞬間、神はアブラハムを止めただろうか。神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかった。神はイサクの命を奪うつもりは全くなかったのである。ゆえに、神はイサクがほふられる直前にアブラハムを止めた。神にとって、アブラハムの従順は神の試験に合格しており、アブラハムの行いは十分なものであり、神が知りたかった結果は出ていた。この結果に神は満足しただろうか。満足したとも言えるだろう。それが神の望んだ結果であり、求めていたことだ。本当にそうだろうか。状況によって、それぞれ違った方法で神は人を試すが、アブラハムの中に神は期待したものを見、アブラハムの心が真実で、無条件に従順であることを知った。この「無条件」の従順さが、神の求めていたものだった。