賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-02-16 00:17:14 | 聖書の奥義を開く

   ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

 

 

   こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

   ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

   神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

   この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。


サタンがヨブを初めて誘惑する(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる)

2020-02-15 23:59:34 | 聖書の奥義を開く

a.神が語った言葉

   (ヨブ記1:8)ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

   (ヨブ記1:12)ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンはヤーウェの前から出て行った。

b.サタンの返答

   (ヨブ記1:9-11)サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

   ヨブの信仰を完全なものとするため、神はサタンがヨブを誘惑することを許す

 

 

   ヨブ記1:8は、聖書の中でのヤーウェ神とサタンのやりとりが記録されている最初の箇所である。そこで神は何と言っただろうか。聖書は次のように言っている。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』。」。これが、神がサタンに語ったヨブの評価である。ヨブは完全で正しい人、神を畏れ悪を避ける人だと神は言った。このやりとりの前、神は、ヨブを試みるためにサタンを用いることを決意し、ヨブをサタンの手に渡すことを決意した。ある意味では、神がヨブをサタンに渡したことで、神のヨブに対する見方と評価が正しく、何も間違えていなかったことが証明される。それにより、ヨブの証しを通してサタンが辱められる。そしてまたそれは、ヨブの神に対する信仰と神への畏れを完全なものとする。それゆえ神は、サタンが神の前に現れた時、曖昧な表現は使わず、単刀直入にこう聞いた。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。この神の質問には次のような意味がある。神はサタンがあらゆるところを巡っているのを知っており、神のしもべであるヨブをしばしば偵察していることも知っていた。サタンはしばしばヨブを誘惑し、攻撃し、何とかヨブを崩壊させようとした。ヨブの神への信仰と神に対する畏れは堅固なものではないと証明しようとしたのである。サタンはヨブを虐げる機会をうかがって、ヨブに神を捨てさせ、神の手からヨブを奪おうと考えた。しかし神はヨブの心を見、ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避けることを知った。サタンに対する質問を通して、神はヨブが完全で正しい人であり、神を畏れ悪を避け、神を捨ててサタンに従うことは決してないことを伝えたのである。ヨブに対する神の賞賛の言葉を聞いたサタンは、屈辱から怒りを感じ、その怒りは大きくなり、何としてもヨブを奪いたいと思った。サタンは完全で正しく、神を畏れ悪を避けることのできる人間などいないと信じていたからである。そしてまたサタンは人間の完全さと正しさを嫌っていたので、神を畏れ悪を避ける人を憎んでもいた。ヨブ記1:9-11には以下のように書かれている。「サタンはヤーウェに答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』。」神はサタンの悪意に満ちた性質をよく知っており、ヨブを虐げようと企んでいたことも良く知っていた。そのため神は、サタンに改めてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間であることを伝えることで、サタンが神と調和してその真の姿をヨブの前に現し、ヨブを試すようにすることを望んだのである。つまり、神はあえてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると強調し、そうすることで、ヨブの完全で正しく、神を畏れ悪を避ける生き方を憎み、深く怒るサタンを用いてヨブを試したのである。ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける事実を通して、結果的にサタンが恥じ入り、完全に辱められ、打ち倒されるためである。そうすることで、サタンはヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であることを疑ったり非難したりすることはなくなるだろう。そのような訳で、神の試練とサタンの誘惑は避けることは困難だったのである。神の試練とサタンの誘惑に耐えることのできる者はヨブ以外にいなかった。このやりとりの後、サタンはヨブを誘惑する許可を得、サタンの最初の攻撃が始まった。この時はヨブの財産に対して攻撃が行なわれた。次の聖句に書かれたヨブの財産に関する非難の言葉からそのことが分かる。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。…あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。この言葉に対して、神はサタンがヨブの全財産を取り上げることを許している。これこそが神がサタンと語った目的であった。しかしその時、神はサタンにひとつのことを要求した。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ記1:12)これが、ヨブへの誘惑をサタンに許可し、ヨブをサタンの手に渡した際に神が出した条件だった。そしてこれが、神によって定められたサタンへの制限だった。つまり神は、ヨブに危害をくわえてはならないと命令したのである。なぜなら、神はヨブが完全で正しいことを知っており、ヨブが神の前で完全で正しい人でいられることを疑っておらず、試練に耐えられると信じていたからである。それゆえ、神はサタンにヨブを誘惑することを許すと同時に、制限を与えたのである。サタンはヨブの全財産を取り上げることを許されたが、ヨブに指1本触れることはなかったのである。これは何を意味するだろうか。それは、神はその時ヨブを完全にサタンに渡したわけではないということである。サタンはヨブを試みるためにどのような手段も使うことができたが、ヨブ自身に危害を加えることはできず、髪の毛に触れることすらできなかった。それは、人間の全ては神によって制御されており、人間が生きるか死ぬかは神によって決められることで、サタンにそれを決める権利はなかったからである。神がサタンにヨブを試す許可を与えた後、サタンは即座にヨブへの誘惑を開始した。サタンはあらゆる方法でヨブを試み、間もなくヨブは神に与えられたたくさんの羊や牛などの財産を失った。このようにして、神の試練がヨブに注がれた。

   聖書を読めば、どうしてヨブに試練が降りかかったかが理解できるが、試みに会っているヨブ自身は、はたして何が起こっていたか理解していただろうか。人間に過ぎないヨブが、自分に降りかかった試練の背景にあるものを知るはずもない。しかし、神を畏れ、完全で正しいヨブには、神からの試練だと認識することができた。霊的領域で起きていたことや、試みの背後にある神の意図はヨブには分からなかったが、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れ悪を避けて生きるべきだということをヨブは知っていた。このような出来事の中でのヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていた。神は何を見ていたのだろうか。神は、神を畏れるヨブの心を見ていた。というのは、ヨブの心は初めの時から試練を受けた時までずっと、神に対して開かれており、神に委ねられており、自身の完全さと正しさを手放すことはなく、神を畏れ悪を避ける生き方を変えなかった。神にとってこれ以上嬉しいことはなかったのである。次に、ヨブの試練がどのようなものであったか、そしてそれらの試練にヨブがどう対処したのかを検討する。それでは聖句を読む。

c.ヨブの反応

   (ヨブ記1:20-21)このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。

   ヨブが自分の所有するものを全て返したのは神に対する畏れに起因するものである

   「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」という神の言葉の後、サタンはその場を去り、間もなく、ヨブは突然の激しい攻撃を受けた。まず、ヨブの牛とロバが略奪され、しもべ達が殺された。次に、ヨブの羊としもべ達が焼き殺された。そしてらくだとしもべ達が殺され、ついには彼の息子、娘たちの命も奪われた。この一連の攻撃が、最初の試練でヨブに降りかかった試練である。神の命令により、これらの攻撃の最中、サタンはヨブの財産と子ども達だけを攻撃し、ヨブ自身を傷つけることはなかった。だがヨブは、多くの富を持つ裕福な人間から、無一文の人間へと変わってしまったのである。このような突然の激しい試練と財産の喪失に耐えられるものはいないが、そのような中でヨブは並外れた側面を見せた。聖書は次のように言っている。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。ヨブが自分の子ども達と全財産を失ったと知った時にまず見せた態度はこのようなものであった。まず驚くこともうろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを現すことなどなかった。つまり、ヨブは自分に起こった災難が偶然でもなく、人間によるものでもなく、ましてや報いや罰などではないと初めから分かっていたのである。それはヤーウェからの試練であり、ヤーウェが自分の財産と子ども達を取り上げることを望んだのだと知っていたのである。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていた。ヨブの完全で正しい人間性ゆえに、降りかかった災難を理性的に、自然に判断し決断することができ、並外れた冷静さで対応することができたのである。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した。」「上着を裂き」というのはヨブが衣服を身につけておらず、何も持っていなかったことを意味する。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味する。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸でうまれ、今日も何も持たず、赤児のままで神のもとに戻ったことを意味する。降りかかった全ての出来事をヨブのように受け止めることができる被造物は存在しない。ヨブのヤーウェに対する信仰は、単に信じるという領域を越えていた。それは神への畏れであり、従順である。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝したのである。さらにヨブは、自分の命も含めて、全財産を自らすすんで神に返すことができたのである。

   ヨブの神への畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さ正しさは人間が持つべき人間性の頂点である。彼は神を見ることはなかったが、神は存在すると認識しており、ゆえに神を畏れた。そして神への畏れのゆえに、彼は神に従うことができた。彼は神が自分の持てるもの全てを自由に取り上げることを許し、そしてそのことを不満に思うこともなく、神の前にひれ伏し、たとえその瞬間に神が自分の肉体を取り上げることがあろうとも、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのである。彼の行動全てが彼の完全で正しい人間性によるものだった。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果、神の存在に対する経験と確信は揺らぐことがなかったのである。そしてこのようなものが基礎となって、神による導きと彼が万物において目にしてきた神の行いに沿って、自分にすべきことを課し、神の前での考え方や振る舞い、行いや行動の原則を標準化したのである。時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的で実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせた。これがヨブの誠実さの根源となっているものである。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性を持っており、実際に神を畏れ、神に従い、悪を避けるという経験をしており、それと同時に「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」という認識を持っていた。これらの理由だけで、サタンのあれだけひどい攻撃を受けながらも固く立ち、神の証人となることができた。またこれらの理由だけで、神の試練を受けた時にも神を失望させず、神に満足する答えを返すことができたのである。ヨブの最初の試みに対しての行動は非常にまっすぐなものだったが、後の世代の人々は一生努力を重ねてもヨブのようなまっすぐさを会得したり、あるいは彼のような行動がとれるまでになれたりするかは定かではない。今日、ヨブのまっすぐな行動を見て、そのヨブの行動と神を信じ従っていると自称している人々の「死までの完全な従順と忠誠」の叫びと決意とを比べると、あなた方は恥じ入るだろうか、あるいは恥じ入らないだろうか。

   ヨブと彼の家族の苦しみを聖書で読んで、みなさんの反応はどのようなものだろうか。戸惑いを感じるだろうか。驚いているだろうか。ヨブが受けた試練は「恐ろしい」と言えるものだろうか。つまり、聖書に書かれているヨブの試練を読むだけでも恐ろしく、実際にそれがどのように恐ろしいものだったかを説明するまでもない。であれば、ヨブに起こったことは「演習」ではなく、「銃」と「銃弾」を伴う「実戦」であることがわかる。では誰の手によってこの試練は起こされたのだろうか。もちろんサタンによってである。サタンによって直接行なわれたのである。しかし、神がその権限を持っていた。神はサタンに、どのようにヨブを試みるかを指示しただろうか。神はそのようなことは伝えていない。神はサタンにひとつの条件を与えただけで、その後ヨブに試練が臨んだ。ヨブに試練が臨んだ時、サタンの邪悪さと醜さ、サタンの人間に対する悪意と嫌悪、神に対する敵意が人々に伝わった。それにより、ヨブの試練がどれほど壮絶なものであったかが言葉では表現できないことが分かる。この瞬間に、サタンの人を虐げる悪意に満ちた性質と醜い顔とがはっきりと現れたと言える。サタンは神の許可により得た機会を用いて、残虐にも激しくヨブを痛めつけ、その程度は今日の人々には耐えられないほど想像を絶するものであった。ヨブはサタンの試みに遭ったけれども証しに堅く立ち続けたというより、むしろ、神がヨブに与えた試練の中で、ヨブ自身がサタンと戦うことで、自身の完全さと義を守り、神を畏れ悪を避ける道を守ったという方が良いだろう。この戦いで、ヨブは多くの羊と牛、全ての財産、息子・娘達も失った。しかし彼は完全さと義、神に対する畏れを捨てることはなかった。つまり、このサタンとの戦いで、ヨブは完全さ、正しさ、そして神への畏れを失うより、財産と子供を失う方を選んだのである。人間であるということはどういうことなのか、その根源を手放さないことを選んだ。聖句にはヨブが財産を失った全過程が簡潔に記されており、その事に対するヨブの対応や態度も記されている。記述が簡潔な故に、試練にあったヨブがあたかもゆったりと構えていたかのような印象を与えるが、もしその時に起こったことを再現し、悪意に満ちたサタンの性質も再現したならば、聖句に書かれているように簡単ではない。実際には書かれているよりはるかに過酷だったのだ。人間と神に認められているもの全てに対するサタンの扱いは、それほどまでに破壊的で憎しみに満ちているのである。もし神が、ヨブ自身に害を加えてはならないとサタンに伝えなかったならば、サタンは平気でヨブを殺していただろう。サタンは誰も神を崇拝することを望まず、神の目に義なる者や完全で正しい者が神を畏れ続け、悪を避け続けることを望まない。人々が神を畏れ悪を避けることは、サタンを避けて見捨てるということである。それであるから、サタンは神からの許可を利用して、怒りと憎しみを情け容赦なくヨブにぶつけたのである。ヨブの心と体が、内側も外側も、どれほど苦しんだかが分かるであろう。その時の様子がどんなであったかは今日のわたしたちが知ることはできず、聖句を通して、試練に遭ったヨブの当時の感情を僅かに知ることができるのみである。

   ヨブの揺るぎない高潔さはサタンを恥じ入らせ、慌てて退散させた

   ヨブが試練に遭っていた時、神は何をしていただろうか。神はその様子を観察し、試練の結果がどうなるかを待っていた。観察し、待っている間、神はどう感じただろうか。勿論、悲しみに打ちひしがれた。しかし、あまりの悲しみに、サタンがヨブを試みることを許可したことに対して、神は後悔しただろうか。神は後悔しなかった。ヨブが完全で義人であり、神を畏れ悪を避ける人であると神は堅く信じていた。神はサタンによってヨブが神の前に義なる人間であることを証明させる機会を与え、サタンの邪悪さと卑劣さを暴露させただけである。それはヨブにとって、義人であり、神を畏れ、悪を避ける自身を世界の人々とサタンさらには神に従う人々にまでも証しする機会となった。そしてこの試練の結果は、ヨブに対する神の評価が正しく、何も間違っていないことを証明しただろうか。ヨブは果たしてサタンに打ち勝っただろうか。ヨブがサタンに打ち勝ったことを証明する典型的な言葉が書かれている。ヨブは言った。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」これがヨブの神に対する従順であった。そしてヨブはまた言った。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。」ヨブのこれらの言葉は、神は人の心の奥深くを見ていること、人の考えを見ていることを証明するもので、ヨブに対する神の評価に誤りはなく、確かにヨブは正しいひとであったことを証明する。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。これらの言葉はヨブの神への証である。サタンを脅かしたのはヨブが普通に使っていたこのような言葉で、それがサタンを辱め、慌てて退散させることになった。さらにはサタンに足かせをつけ、骨抜きにした。それだけでなく、ヨブの言葉はヤーウェ神の偉大さと業の力を実感させ、その心が神に支配されている者がどれほど並外れた能力を持つことができるかをサタンに思い知らせた。そして更には、ヨブという取るに足りない普通の人間が、神を畏れ悪を避けることに対する驚くべき力をサタンに対して見せつけたのである。こうしてサタンは最初の戦いに敗れたのである。「痛い思いをして理解した」にも関わらず、サタンはヨブを諦めようとせず、その邪悪な性質も変わらなかった。ヨブを攻撃しようと、サタンは再び神の前に来た。


神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

2020-02-14 08:22:40 | 聖書の奥義を開く

  ヤーウェ神の警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点

   滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。…』とある。

   ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々が見せた態度とは正反対の態度を取った。ソドムの人々は、何の躊躇もなく、神に反抗し、邪悪を重ねたが、ニネベの人々は、この宣告を聞いた後、それを無視することも、それに反抗することも無く、神を信じ、断食を命じた。ここで「信じ」、とは何を意味するであろうか。言葉自体は、信仰と服従を意味する。ニネベの人々が実際に取った行動で説明すれば、ニネベの人々は、神は言葉通りの業を行うことが可能であり、またその通り実行することを信じ、悔い改めることを望んだ、という意味である。ニネベの人々は喫緊の災いに瀕して恐れを感じていたであろうか。ニネベの人々が恐れたのは、信仰のためである。ニネベの人々の信仰と恐れは、何によって証明することが出来るであろうか。それは聖句にある通りである。すなわち、「断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、その結果として、断食と粗布の着用が行われた。ニネベの人々は、こうして悔い改めの開始を示した。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分達の行動により悔い改めを明示した。無論、これはニネベの一般人だけでなく、王も例外ではなかった。

 

 

   ニネベの王の悔い改めがヤーウェ神のニネベに対する称賛を獲得した

   このうわさを聞いたニネベの王は、王座から立ち上がって王衣から荒布に着替え、灰の中に座った。そして王は、町の人々全員に対し、全員何一つ口にしてはならない、そして家畜、羊、牛も飲食してはならない、と宣言した。人間も家畜も同様に粗布を身にまとっていた。人々は熱心に神に懇願した。また王は、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ、と宣言した。こうした行動から判断すれば、ニネベの王は心から悔い改めを示していた。王座から立ち上がり、礼服から粗布に着替え、灰の中に座るという、王が取った一連の行動は、人々に対してニネベの王が王という身分を投げだし、一般人と同様に粗布をまとっていたことを伝えた。これは、ヤーウェ神の宣告を聞いたニネベの王が王位を継続し、その手で邪悪や不法を続けることは無く、むしろ王の権威を捨て、ヤーウェ神の前で悔い改めた、ということを示すものである。この時、ニネベの王は、王として悔い改めていたのではなく、普通の一信者として神の前で罪を告白し、悔い改めた。その上、王は、王に倣って、ヤーウェ神の前で自分の罪を告白して悔い改めることを町全体に命じた。その上、聖句にあるとおり、どのように悔い改めるかについて、王には具体的な計画があった。すなわち「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。…ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。」と命じた。町を支配する存在として、王には最高の地位と権力があり、全てが王の意のままであった。ヤーウェ神の宣言を聞いた王は、それを無視したり、自分だけが悔い改めて罪の告白をしたりすることもできたはずである。王は、町の人々が悔い改めるか如何について、完全に気に留めずにいることも出来たはずである。しかし、ニネベの王は、そのような行動を一切とらなかった。王は、王座から立ち上がり、粗布を身にまとって灰の中に座ってヤーウェ神の前で罪を告白し、悔い改めた上、町の人々全員、家畜のすべてに対し、王と同様に行動するよう命じた。王は人々に対し「ひたすら神に呼ばわり」とさえ命じている。これら一連の行動により、ニネベの王は、支配者が真に達成すべき目標を達成した。王が取った一連の行動は、人類史上のなかで、どの王にとっても為し難いことであり、それまでのいずれの王も為し得なかった行動であった。これらの行動は、人類史上で前例の無いことであったと言えるであろう。こうした行動は、称賛し、人類が倣う価値のある行動であった。人類の黎明以来、王は皆、臣民に対して、神を反抗し、反対するように統治を行っていた。それまで、それぞれの悪に対して神に贖いを求めるよう臣民を祈らせ、ヤーウェ神の赦しを得て、喫緊の罰を免れた者は、誰も居なかった。しかしニネベの王は、臣民に対して、神に立ち返り、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てるよう指導した。加えて、ニネベの王は自らの王位を捨て、それに対してヤーウェ神は思い直して宣告した災いをくだすのを取りやめ、ニネベの町の人々は滅びを免れ、生き残ることができた。ニネベの王の行動は、人類史上希にみる奇跡であると言うほか無い。これらの行動は、腐敗した人類が神の前で罪の告白と悔い改めを行う際の模範とも呼べるであろう。

   神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

   神の宣告を聞いた後、ニネベの王と臣民たちは、一連の行動を取った。ニネベの人々の態度と行動の本質は何であろうか。すなわち、ニネベの人々の行動全体における真髄は何であろうか。ニネベの人々がそのような行動を取った理由は何であろうか。神の目には、ニネベの人々は、真摯に悔い改めたように映った。それはニネベの人々が神に心から誓願し罪を告白したからのみならず、ニネベの人々が悪の行いも捨てたからである。ニネベの人々がこのような行動を取ったのは、神の言葉を聞いたのち、ニネベの人々は大いに恐れ、神が言葉通りの業を行うものと信じていたからである。ニネベの人々は、自分達のあり方を改めて悪から離れ、ヤーウェ神に対して怒りを静めるよう祈りを捧げて裁きと差し迫った災いの取消を求める自分達の希望を、断食して粗布をまとい、灰の中に座ることで示すのを望んだ。ニネベの人々のすべての行動を検討すると、ニネベの人々は、従前の邪悪な行動がヤーウェ神により嫌悪されるものであること、またヤーウェが自分達を間もなく滅ぼす理由を既に知っていたことが分かる。そのため、ニネベの人々全員が完全に悔い改め、悪の道を離れ、その手から不法を捨てることを望んだ。換言すると、ニネベの人々がヤーウェ神の宣言を確認した後、ニネベの人々それぞれが心に恐怖を覚え、悪の道を離れて、ヤーウェ神が嫌悪する行動を続けることを止めた。さらに、ニネベの人々は従前の罪に対する赦しと、従前の行動に基づいて処分しないことを、ヤーウェ神に誓願した。ニネベの人々は悪に二度と戻らず、二度とヤーウェ神の怒りを買わないよう、ヤーウェ神の指示に従って行動する意志があった。ニネベの人々の悔い改めは真摯であり、徹底していた。その悔い改めは、ニネベの人々の心底から出たものであり、偽りでも一時的なものでもなかった。

   ヤーウェ神が自分達に対して怒られていることを、王から臣民までニネベの人々全員が知った後、ニネベの人々のあらゆる行動と態度、そしてあらゆる判断、あらゆる選択は、神の目に明らかなものであった。ニネベの人々の行動に従い、神の心が変わった。神は、この時点でどのように感じていたであろうか。その答えは、聖書に記されている。聖句には、「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」とある。神は思い直したものの、神の御心に複雑な部分は一切なかった。単に神は、怒りを伝えていた状態から怒りを静める状態へと変化し、ニネベに災いをくだすのを止めることに決めた。神がニネベに災いをくだすのを止めることに決断したのが迅速であったのは、神がニネベの人々すべての心を確認したからであった。神は、ニネベの人々の心底にあったもの、すなわち自分達の罪の真摯な告白と悔い改め、ニネベの人々のヤーウェ神に対する真摯な信仰、ニネベの人々が、自分達の悪の行いが神の性質の怒りを買った理由に関する深い理解、その怒りの結果となるヤーウェ神の罰に対する恐れを理解した。それと同時に、ヤーウェ神は、ニネベの人々が災いを免れることができるよう、ヤーウェ神に自分達に対する怒りを静めるよう誓願するニネベの人々の心底からの祈りを聞いた。神がこうしたことを認識した時、神の怒りは徐々に静まっていった。神の従前の怒りがどれほど激しいかを問わず、人々の心底からの真摯な悔い改めを神が認めた場合、神の心はその悔い改めを喜び、神は災いをニネベの人々にもたらすことに耐え兼ね、ニネベの人々に対する怒りを静めた。その代わりに、神はニネベの人々に憐れみと寛容さを引き続き与え、引き続き導きと施しを与えた。


ニネベに届いたヤーウェ神の警告

2020-02-13 12:05:43 | 聖書の奥義を開く

   (ヨナ書1:1-2)ヤーウェの言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。

   (ヨナ書3章)時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

 

 

   (ヨナ書4章)ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、ヤーウェに祈って言った、「ヤーウェよ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それでヤーウェよ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。ヤーウェは言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時にヤーウェ神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。ヤーウェは言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

   「神によるのニネベの救い」の聖句は長いものではないが、この聖句から神の義なる性質の別の側面を垣間見ることができる。その側面とは具体的に何を指すかを理解するためには、聖句で神の業を確認する必要がある。

   ⋯⋯

   この聖句の次の部分、ヨナ書第3章に進む。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った。」この言葉は、神がニネベの人々に伝えるために直接ヨナに託した言葉である。またこの言葉は、当然ながら、ヤーウェがニネベの人々に伝えることを望んでいたものであった。この言葉からは、ニネベの人々の悪が神の目に触れたため、神がニネベの人々に嫌悪感を抱き、ニネベを滅ぼすことを望んでいたことが分かる。しかし、神がニネベを滅ぼす前に、神はニネベの人々にその旨を通知すると同時に、ニネベの人々に、悪を悔い改め、再出発する機会を与えた。この機会は40日間であった。つまり、ニネベの人々が悔い改めて罪を認め、40日以内にヤーウェ神の前にひれ伏さなかった場合、神はニネベの町を、ソドムと同様に滅ぼそうとしていた。これがヤーウェ神がニネベの人々に伝えることを望んだ内容であった。これは単なる宣告ではなかったことは明白である。この宣告はヤーウェ神の怒りを伝えるのみならず、ニネベの人々に対するヤーウェ神の姿勢を伝えるものでもあり、同時にこの簡単な宣告は、ニネベの町で生活する人々への厳粛な警告としての作用もあった。この警告では、ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の嫌悪を買うに至ったこと、人々の悪業により、人々は程なくして滅びの危機に見舞われること、したがって、ニネベの人々は喫緊の大惨事が待ち受けていることが伝えられた。

 

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決して消滅させることのできないいのちの力

2020-02-12 23:09:10 | 勝利者の証し

   私はごく普通の生活を送っていた一般人です。光を強く求める多くの人々と同じく、私も沢山の方法を試して人が存在する本当の意味を探しました。自分の人生がもっと意味深くなるようにです。結局は私の努力は全てが無駄に終わりました。しかし、運よく全能神の終わりの日の働きを受け入れた後、私の生活には奇跡的な変化が起こったのです。それは私の生活にさらに彩りを加え、私は神が人々の霊といのちの唯一なる供給者であられ、神の御言葉には人間のいのちの真の意味がこもっていることを理解するようになりました。私は人生の正しい道をやっと見つけられたことを嬉しく思いました。しかしある日、本分を尽くしていた時、私は中国共産党政府に不法に逮捕され、容赦ない拷問を受けました。それから、私の人生の旅に永遠に刻み込まれることになる重要な経験をしたのです……。

   2011年12月のある日の午前7時頃、私がもう一人の教会リーダーと教会資産の棚卸しを行っていた時、警官が十人以上突然ドアから勢いよく飛び込んで来ました。この邪悪な警官のうちの一人が私たちの方に駆け寄ってきて「動くな!」と叫びました。何が起きているのかを見て私は頭が混乱し、心の中でこう思いました。

   「これは大変だ。教会は資産をたくさん失ってしまう」

   次に、邪悪な警官は強盗を働く盗賊のように私たちを調べました。彼らは各部屋を荒らして回り、全部屋をあっという間にひっくり返しました。最終的に、彼らは教会資産である銀行カード三枚、預り証、コンピューター、携帯電話等を発見しました。彼らはこれらを全て押収して、私ともう一人の教会指導者と他に二人を警察署に連行したのです。

   その日の午後、邪悪な警官は他に逮捕した姉妹三人も連行してきました。彼らは私たち七人を一つの部屋に閉じ込め、私たちが喋ることを許さずに、夜が来ても眠らせてくれませんでした。私と一緒に閉じ込められた姉妹たちを見、教会がどれだけの資金を失ったのかと考えていると、私は不安のあまり我を忘れてしまいました。私はしきりに神に祈りを捧げることしか出来ませんでした。

   「ああ、神様! こんな状況に置かれて、どうしていいのか分かりません。どうか私の心を守り、落ち着かせて下さい」

   祈りを捧げた後、私は神の御言葉について考えました。

   「恐れてはならない。教会でこのような事が起こるとき、すべてわたしがそうなることを許しているのである。立ち上がってわたしのために語りなさい。すべての物事はわたしの玉座によって許されており、その全てにわたしの意図があるという信仰を持ちなさい」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第四十一章」より)

   「あなたの周りの環境にあるすべてのものは、わたしの許しによってそこにあり、わたしがそのすべてを定めることを、あなたは知るべきである。わたしがあなたに与えた環境の中で、明確に見極め、わたしの心を満足させなさい」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十六章」より)

   神の御言葉は私の心のパニックを鎮めて下さいました。今日この環境は神の御許可があって私に起こったものであり、神への証しを立てることを神が私に要求なさる日が訪れたのだと悟りました。御心を理解した私は神に祈りを捧げました。

   「ああ、神様! 私は神様の御計画と御采配に従い、断固たる姿勢で神様に証しを立てたいと思っています。でも、私の霊的背丈は低いため、どうか私が断固たる姿勢を貫けるように信仰と力をお与え下さい。そして私をお守り下さい」

   翌朝、彼らは私たちを別々に尋問してきました。邪悪な警官の一人が威張って言いました。

   「俺はお前が教会リーダーであることは知っているんだ。俺たち五か月間お前たちを監視してきたからな……」

   彼らが私を監視するために実行したこと全ての詳細を聞いた時、私は背筋がゾクッとしました。私は心の中でこう思いました。

   「中国共産党政府は私たちを逮捕しようと本当に足固めをいっぱいしてきている。私が教会リーダーであることを既に知っているってことは、私を釈放してくれることなんてあり得ないわ」

   私は直ちに神を裏切ってユダになるくらいなら死んだ方がましだと神の前で決心しました。自分たちの尋問が何の結果も出さないことを見た彼らは、私を監視する人を割り当てて私を眠らせないようにしました。

   三日目の尋問の最中、邪悪な警官の長はコンピューターの電源を入れて、私に神を中傷した資料を読ませました。これに動じなかった私を見て、彼は次に教会の財源について細かく尋問してきました。私は横を向いて彼を無視しました。彼はこれに非情に腹を立てて私を罵ってきました。

   「お前が何も喋らなくても、どうってことはない。俺たちは永遠にお前を拘束して、いつでも好きな時にお前を拷問出来るんだ」

   こう言って、彼は激しく脅してきました。その夜中、警官は拷問を開始しました。彼らは私の片手を肩の後ろに回して下の方へ引っ張り、もう片方の手を背中の後ろで引き上げました。彼らは私の背中を足で押し付けながら、強引に私の両手首を引き寄せて手錠を掛けました。あまりの痛さに私は叫び声を上げました。両肩の骨と肉が今にも引き裂かれるように感じました。頭を床につけた状態で動かずに跪いていることしか出来ませんでした。叫んだら手を緩めてくれるかと思いましたが、それどころか、手錠を掛けた両手と背中の間にティーカップを挟まれ、痛みは一層増しました。上半身の骨はまるで半分に折れてしまったかのように感じました。あまりの痛さに私は息を吐き出せず、冷汗が顔から吹き出てきました。ちょうどこれ以上は痛みに耐えられないと感じていた時、邪悪な警官の一人がここぞとばかりに言いました。

   「名前を教えたら直ぐに釈放してやるぞ」

   その時、私は神に私の心をお守り下さるよう助けを求めました。私はある讃美歌をすぐに思い出しました。

   「受肉の神が苦しまれた。まして私はどんなに苦しむべきか? もし私が暗闇に屈したら、どうやって神を見るだろう? 御言葉について考えると、あなたを切望するようになる。御顔を見るたび、罪悪感の中、敬意を表します。自由を探し求めるために、どうして私があなたを見捨てられるだろう? むしろあなたの嘆きや悲しみを和らげるために苦しみたい」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の良い知らせを待ち望みます」より)

   私は思いました。

   「そうだ。キリストは聖なる義なる神。神様は肉となられ地上に来られ、堕落した人類に完全なる救いをもたらそうとなさっている。そして今や神様は中国共産党政府に追跡され、人類には反対され、断罪されていらしゃる。神様は決してそのように苦しむべきでないのに、私たちを救うために静かにあれほどの苦しみに耐えていらっしゃる」

   よく考えると、私は救いを得るために今苦しでいるのだと分かったのです。私はこの苦しみを経験する必要があるのです。痛みに耐えられないからと言ってサタンに屈服してしまったら、どうして神に再び顔向けすることができるでしょうか。こう考えていると私は力が湧いてきて、もう一度断固たる姿勢を取り戻したのです。邪悪な警官は私を一時間ほど痛めつけました。彼らが手錠を外した時、私は体全体がぐったりとして地面に倒れ込みました。彼らは「喋らないともう一度やるぞ!」と私に向って叫びました。私は彼らを見ましたが、何も喋りませんでした。私の心は邪悪な警官に対する嫌悪でいっぱいでした。邪悪な警官の一人がもう一度私に手錠を掛けようと近寄ってきました。私は今受けたばかりの耐え難い痛みのことを考えながら、心の中で神に祈り続けました。驚いたことに、彼は私の両腕を背中の後ろに引っ張ろうとしたのですが、動かすことが出来なかったのです。私の腕もそれほど痛くもなかったのです。懸命に引っ張ろうとしていた彼の頭は汗まみれになっていましたが、それでも手錠を掛けることが出来ません。彼は、「お前は結構力強いんだな!」と腹立たしげに怒鳴りました。私はこれは神が私をお気遣い下さって、私に力をお与え下さったのだと分かっていました。神に感謝!

   夜明けまで耐え抜くのは大変でした。私は邪悪な警官による拷問のことを思うと、依然として激しい衝撃を感じました。彼らは私が何もしゃべらないなら私を山奥に連れ出して処刑すると言って脅していました。その後、他の信者を逮捕した時は、信者に私が教会を裏切ったと伝えるとも言って脅しました。私の評判に泥を塗り、教会の兄弟姉妹たちに私を憎ませ、私を拒絶させるつもりなのです。これを想像していると、私の心には孤独感と絶望感の波が押し寄せ、臆病になり弱く感じました。私は心の中で考えました。

   「死んだ方がましだわ。そうしたらユダになって神様を裏切ることもないし、兄弟姉妹たちから拒絶されてしまうこともない。それに肉の受ける拷問の苦痛を感じなくて済む」

   そうして、私を監視していた邪悪な警官が注意散漫になるまで待ってから、自分の頭を壁に強く叩き付けました。しかし、目眩がしただけで、死にませんでした。その瞬間、神の御言葉が私の内からお啓き下さったのです。

   「他人があなたを誤解しても、あなたは神に祈り、このように言うことができる。『ああ神様! 私は他人が私に寛容であることも私をよく扱うことも願いませんし、私を理解したり認めたりすることも願いません。あなたを愛することができ、心穏やかになり、私の良心が澄み切っていることだけを願います。他人が私を賞賛することや高く評価することを私は望みません。私は心からあなたの意を満たすことを求めるだけです』」(『言葉は肉において現れる』の「精錬を経ることでのみ、人は真の愛をもつことができる」より)

   神の御言葉は私の心から憂鬱を追い払って下さりました。私は思いました。

   「そうだ。神様は人々の心の一番奥まで見ることがお出来になる。もし警察に罪を着せられて、他の兄弟姉妹が実情を知らないために私を完全に誤解して、私を拒絶したとしても、私は神様の御意図は善良であると信じる。神様は私の神様への信仰と愛をお試しになられており、私は神に御満足いただこうとするべきなんだ」

   悪魔の狡猾な策略を見抜き、私は突然恥ずかしくなりました。私は自分の神への信仰は微々たるものであったことを知ったのです。私は少し苦しんだだけで断固な姿勢が取れなくなり、死んで神の御計画から免れ、避けようと考えました。邪悪な警官があのように私を脅した目的は、私が神に背を向けるよう仕向けることだったのです。神の御加護を受けていなければ、その狡猾な策略に引っ掛かっていたことでしょう。神の御言葉を熟考していると、私の心は光でいっぱいになりました。もう死にたくなくなりました。むしろしっかり生きて、自分が現実に生き抜いた経験を活用して神への証しを立て、サタンを辱めたくなったのです。

   私の監視に当っていた邪悪な警官二人は私がどうして頭を壁にぶつけたのかと聞いたので、他の警官に殴られたからだと答えました。するとその内の一人が笑顔で言いました。

   「私たちはおもに教育を手段としているのに。心配しなくでいいですよ。彼らには二度とあなたを殴らせませんから」

   この慰めの言葉を聞いて、私は思いました。

   「この二人は悪くない。逮捕されてから、彼らはずっと私にとても親切にしてくれている」

   この事があって、私は警戒心を緩めました。しかし、その瞬間、神のこの御言葉が私の心にひらめきました。

   「わたしの民は常にサタンの狡猾な企みを警戒し、わたしの家の門をわたしのために守り……そうすることで、あなた方はサタンの罠に陥ることがなくなるだろう。その時は、もう後悔しても手遅れなのだから」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第三章」より)

   神の御言葉は適時に注意を促して下さり、悪魔の狡猾な策略は沢山あり、かつ私はこの悪魔たちを常に警戒すべきだということをお示し下さいました。私は彼らがすぐに本性を明らかにしてくるとは予想していませんでした。邪悪な警官の一人は神を中傷し始め、もう一人は私の隣に座って私の足をなで、いやらしい目つきで私を見ながら教会の財源について聞いてきました。夜になって、私がうたた寝をしているのを見た彼は私の胸をまさぐり始めました。彼らが本性を現したのを見て、私は憤慨しました。私はこれで初めて「人民警察」は単なる悪党で、暴漢だと分かったのです。彼らはこういった卑劣でたちの悪いことを実際に行なうことができるのです。この結果、私には彼らの危害からお守り下さるように神に必死で祈るしかありませんでした。

   次の数日間、邪悪な警官たちは教会について細かく尋問するだけでなく、私を眠らせないように交代で私を監視しました。その後、私を尋問していた邪悪警官二人は私が口を割らないのを見て激怒しました。その内の一人が幾度も私の顔を引っ叩いたり、強打しながら攻撃しました。私の顔はうずいて腫れ出して、ついには麻痺して、何も感じなくなりました。私が彼らの尋問に対して何も答えないため、ある夜、邪悪な警官の長は叫びながら私にこう言いました。

   「そろそろ口を開いた方がいいぞ。もうお前には我慢が尽きそうだ。俺たちがお前をどうすることもできないなんてことはない。俺はお前よりもタフな奴らを見てきてる。お前はきつく当たらないと絶対に服従しない。こん畜生!」

   彼が命令すると邪悪な警官が数人私を拷問し始めました。夜になると、取調室は暗くて恐ろしい雰囲気が漂い、地獄にいるようでした。彼らは私に地面にしゃがむように命令し、手錠を掛けられた私の手を足の上に置かせました。次に、彼らは木の棒を私の腕の内側と膝の裏の間に差し込んで、強引にも私の体全体を丸めました。それから、棒を持ち上げ、テーブル二台の間に固定したので、私は頭が下向きで体を宙吊りにさせられました。持ち上げられた瞬間、私はめまいがして、息をするのが大変でした。窒息死するかと思いました。逆さに宙吊りにされたため、私の全体重が手首にかかっていました。最初、手錠が肉に食い込むのを防ぐために両手を寄せて握りしめ、体を丸めて、必死にその姿勢を維持しようとしました。しかし、少しずつ力が抜けていきました。手が足首から膝へと滑り落ちると、手錠が私の肉に深く食い込み、耐え難い痛みを感じました。三十分ほどこのようにぶら下げられていると、体中の血液が頭にたまったように感じました。頭部と眼球は爆発するかと思うほどに痛く膨張していました。深い切り傷が手首をえぐって刻み込み、両手はパンのかたまりのように腫れ上がりました。私は今にも死んでしまうような気がしました。私は「もうだめ。降ろして!」と必死に叫びました。「お前を助けられるのはお前だけだ。名前を白状したら降ろしてやる」と邪悪な警官の一人が悪意に満ちた声で言いました。最終的に、彼らは私が本当に危険な状態にあったことに気付いて私を降ろしてくれました。彼らは私にブドウ糖シロップを与えてくれた後、尋問を再開しました。私は目をぎゅっと閉じたまま、泥のようにぐったりと地面に横たわり、彼らには目もくれませんでした。突然、邪悪な警官はまたしても私を宙に吊り上げました。私はもう手で踏ん張るだけの力がなく、手錠が手首に食い込むままにするしかなく、ギザギザになっている端が肉の中に切り込んでいきました。その瞬間、私はあまりの痛みで心臓が止まるほどの叫び声を上げました。私はもう踏ん張り続ける力がなく、呼吸も非常に薄くなっていました。まるで時間が止まったようになり、私は死の瀬戸際をさまよっているような気分がしました。今度は本当に死んでしまうと思った私は、いのちが尽きる前に心にあった言葉を神に伝えたくなりました。

   「ああ、神様! 私は今この瞬間、本当に死んでしまいそうで怖くてなりません。でも、もし今晩本当に死ぬことになったとしても、私は神様の義を讃えます。ああ、神様! この短い人生の旅において、神様が私を選んで、この罪であふれた世界から御前に戻して下さったこと、私のさまよいを止めて下さったこと、そして私が神様の温かい抱擁の中でいつまでも生きられるようにして下さったことを感謝いたします。ああ、神様、私は今まで神様の愛をたっぷり授かってきたにもかかわらず、今、人生が終わる寸前になって初めて自分が神様の愛を大切にしていなかったことに気が付きました。私は幾度にわたって神様を悲しめ、失望させてしまいました。私はまるで母親の愛情を喜んで受けとるだけで恩返しすることを一度も考えたことがない世間知らずな子供のようです。私は命を失う寸前になった今、初めて神様の愛を大切にしなければならないのだと理解し、今になって初めて沢山の良き時間を逃してしまったことを後悔しています。今、私が一番後悔してるのは、神様に何もして差し上げることが出来なかったこと、そして神様に多大の恩義があることで、もしこのまま生きていけるのであれば、私は必ず自分の本分を尽くすために最善を尽くし、恩義に報います。この瞬間、私に力をお与えて下さり、私がもはや死を恐れず、強い姿勢で死に立ち向かっていけるようにして下さることだけを嘆願いたします……」

   私の涙が次から次へと額をたどって滴り落ちました。その夜は怖いほどに静かでした。唯一聞こえる音は時計のチクタクという音で、それはまるで私に残された命の秒数をカウントダウンしているようでした。その時、ある奇跡が起こったのです。まるで温かい太陽の光に照らされているような気がして、体中の痛みを次第に感じなくなりました。神の御言葉が私の頭に鳴り響きました。

   「産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の責務を果たし始める。神の計画と定めの中で自分の役割を果たして、いのちの旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである」(『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より)

   私は思いました。

   「そうだ。神様は私のいのちの源であられ、神様は私の運命を支配されている。私は自分を神様の御手に委ねて、御意向に従わなくては」

   神の御言葉を熟考していると、私は心の中で神の温かい抱擁に体を預けているかのような心地の良い、穏やかな気持になりました。私は自分が眠りに落ちていくのが分かりました。私が死ぬのではないかと恐れた邪悪な警官は私を降ろし、急いでブドウ糖シロップと水を与えてくれました。死と隣り合わせた体験において、私は神の奇跡的な御業を目の当たりにしたのです。

   翌日、邪悪な警官は一晩中何度も私を吊り上げました。彼らは押収した領収書の資金の場所について私を尋問しました。私はその間ずっと何も言いませんでしたが、彼らはそれでも諦めませんでした。教会の資金を手にするために、彼らはありとあらゆる卑劣な方法で私を拷問しました。その度に神の御言葉が私の頭の中で鳴り響きました。

   「数千年におよぶ憎しみが心に凝縮され、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。こうした状態で、どうして憎悪感を覚えずに居られようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討し、敵が二度と蔓延ることを許してはならない。また敵が意のままに問題を起こすことを許してはならない。今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   神の御言葉は私に偉大な力と信仰を下さいました。私はサタンと死ぬまで戦い、死ぬことになっても、断固たる姿勢で神への証しを立てます。神の御言葉に元気づけられ、私は知らないうちに痛みを忘れていました。こうして、彼らが私を吊り上げる度に、神の御言葉が私に元気と意欲をお与え下さり、吊り上げられれば吊り上げられるほど、私は彼らの悪魔的な本質を更に見抜くことができ、神への証しをたてて神に御満足いただくという私の決意は更に断固たるものになったのです。最終的に、彼らはぞれぞれが私の相手をして疲れ果ててしまいました。彼らが話すのが聞こえました。

   「大抵のヤツはこんな風に吊り上げられたら三十分ももたないのに、この女はここまで耐え抜くとはな。本当にタフな奴だ!」

   私はこの言葉を聞いてとても嬉しくなり、心の中で思いました。

   「神に支えられている私を打ち負かすことなんか出来ないのよ」

   私が警察署で過ごした九昼夜の間、邪悪な警官たちは肉体的な拷問に加え、私から睡眠も奪いました。私が目を閉じてうとうとし始める度に、彼らは警棒をテーブルに叩き付けたり、私に立ち上がらせて走り回らせたり、私に叫び声を浴びせたりして私を粉々にし、精神的に潰そうとしてきました。九日経っても依然として目標を達成していませんでしたが、警官たちは諦めませんでした。彼らは私をホテルに連れていき、そこで私の両脚の前で両手に手錠を掛け、木の棒を両腕の屈曲部と脚の間に差し込んで、体を丸めた状態で無理やり床の上に座らせました。彼らはそのままの状態で数日間も床に座らせ続け、そのため手錠が私の肉に切り込みました。手と手首は腫れ上がって紫色に変色しました。お尻にもひどい痛みがあったのでさすったり、触ったりしないようにしました。まるで針の上に座っているようでした。ある日、私の尋問に効果がないことを認めた邪悪な警官のリーダーの一人が激しい怒りを表しながら私の方に来ると、私の顔面を強く引っ叩きました。あまりの強さで歯が二本ゆるくなってしまいました。

   ついには、省の公安部から課長が二人やって来ました。彼らは到着したとたんに私の手錠を外してくれて、ソファーに座らせてくれると、私にコップ一杯の水を入れてくれました。彼らは善人ぶって言いました。

   「あなたはここ数日の間、大変な思いをされましたね。でも、あまり気にしないでください。彼らは命令通りに動いていただけなんです」

   彼らの芝居があまりに憎らしくて、私は歯ぎしりしました。彼らもコンピューターの電源をつけると私に虚偽の証拠を見せたり、神を非難し冒涜することを多く言いました。私は激怒しました。私は彼らと議論したかったのですが、そうしても彼らはさらに必死になって神を冒涜するだけだと分かっていました。この瞬間、私は肉となられた神が苦しまれた苦難はどれだけ大変なものであり、神が人類を救うためにどれだけの屈辱にお耐えになられたのかを心から実感したのです。さらに、私はこの邪悪な悪魔たちの下劣さと憎らしさを目の当たりにしました。私はサタンと完全に決別して、神に一生忠実でいることを心の中で秘かに誓いました。その後、彼らがどのように私を騙そうとしても、私は口を閉じたまま何も言いませんでした。自分たちの言葉に何も効果がないことを知った課長二人は、怒ってその場を去るしかありませんでした。

   ホテルで過ごした十昼夜の間、彼らは私に手錠を掛けたままにして、足を抱きかかえて地面にしゃがませました。逮捕されてからの時間を振り返ってみると、私は警察署とホテルで合計十九昼夜を過ごしました。神の愛の御加護により少しだけうたた寝が出来ましたが、邪悪な警官たちはそれ以外には私をこの間全く眠らせてくれませんでした。私が一瞬でも目を閉じると、彼らはテーブルを強打したり、猛烈に私を蹴り飛ばしたり、叫び声を浴びせたり、走り回るように命令したりと、私を眠らせないためなら何でもしました。驚かされる度に私の心臓は激しく鼓動し、神経が激しく痛めつけられました。眠らせてもらえないことと邪悪な警官からの頻繁な拷問のせいで、体力はひどく消耗してしまい、私は体中が腫れ上がり具合が悪くなり、何もかも二重に見えるようになりました。人が目の前で話しているのが分かっていても、その声はまるでどこか遠くから届いているように聞こえました。さらに、私の反応はかなり鈍くなっていきました。私がこれを何とか生き抜けることが出来たのも、神の偉大な御力のおかげです! これはちょうど神が仰ったとおりです。

   「神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)

   私は心の中で、神に心からの感謝と称賛をささげました。

   「ああ、神様! 神様は全てを支配しておられ、御業は計り知れません。神様のみが全能であられ、消滅させることの出来ないいのちの力であられます。私のいのちのための生きる水の泉であられます。この特別な環境の中で、私は神様の比類なき御力と権威を見ました」

   最後には邪悪な警官たちは私を尋問しても答えが得られず、私を拘置所に連行しました。

   拘置所に向かう道中で警官二人私に言いました。

   「お前はよく頑張ったな。お前たちは拘置所に入れられるとはいえ、いい人だ。あそこには麻薬の売人、殺人者に売春婦とか色んなのがいる。着いたら分かるから」

   私は尋ねました。

   「私たちがいい人たちだって分かっているならどうして私たちを逮捕するんですか? 政府は信仰の自由についてうたってるじゃないですか?」

   警官の一人が答えました。

   「それは共産党の嘘だ。党は俺たちを食べさせてくれるから、俺たちは言われる通りにするしかないんだ。俺たちがお前を嫌いだとか、お前に恨みがあるわけじゃないんだ。お前を逮捕したのはお前が神を信仰してるからだ」

   私はこれを聞いて、これまで経験してきたことを全て振り返りました。私は神の御言葉を思い出さずにはいられませんでした。

   「宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   神の御言葉は問題の核心に切り込んでおり、中国共産党政府の本性を私に見せ、政府がふさわしくもない威信を手にしようとどのように試みているのかを私にはっきりと教えて下さいました。表面的には信仰の自由を掲げていても、国中で神の信仰者を秘かに逮捕し、抑圧し、残酷に傷つけ、神の働きを禁止しようと無駄な試みをしています。さらに恥ずかしげもなく教会のお金を盗み取ろうともしており、このような行ないの全てが共産党政府の神と真理を憎む悪魔のような本質をあらわにしているのです。

   拘置所にいた間、私は弱くなって苦しんだ時がありました。しかし神の御言葉は、続けて私を元気にして下さり、力と信仰をお与え下さり、私はサタンから肉の自由を奪われたものの、苦しみが私を啓発し、この邪悪な悪魔たちから拷問を受けている間に神を頼ることを教えて下さいました。また、多くの真理の本当の意味をも理解させて下さり、真理の貴重さに気付かせても下さいました。そして真理を追い求める私の決意と意欲を強めても下さったのです。私は神に従い続け、神が私のためにご用意下さったもの全てを体験する覚悟ができました。その結果、拘置所で働いていた間、私は讃美歌を歌って神の愛について静かに考えました。私は自分の心が神に近づいたと感じるようになり、毎日をそれほど苦しく悲惨なものと思わなくなったのです。

   この間、邪悪な警官たちは更に何度も私を尋問しました。私は彼らの拷問を乗り越えられるように神が私を幾度となくお導き下さったことを感謝しました。後に、邪悪な警官は取り上げた三枚の銀行カードからお金を全額引き出しました。教会の資金が邪悪な警官たちに奪われるのを何も出来ずにただ見ているのは胸が張り裂ける思いでした。私の心はこの貪欲で邪悪な悪魔集団に対する嫌悪で一杯になり、キリストの御国の近い到来を切望しました。最終的に、何の証拠もないのに、「公共の秩序を乱した」として、私に一年三か月の労働による再教育の判決を言い渡しました。

   中国共産党政府に残酷に迫害されることにより、私は神の私への愛と御救いを真に味わい、神の全能さ、統治、奇跡的な御業を正しく認識するようになり、神の御言葉の権威と力を目の当たりにしました。さらに、私は心からサタンを嫌うようになりました。迫害を受けていた間、神の御言葉は悲惨な昼夜を通して私の側にいて下さり、そのおかげで私はサタンの狡猾な策略を見抜けるようになり、時にかなった御加護をお与え下さったのです。神の御言葉は私を強く、勇敢にして下さり、私があの残忍な拷問を幾度となく乗り越えられるように下さったのです。神の御言葉は私に力と信仰をお与え下さり、サタンと最後まで戦い続ける勇気をお与え下さったのです……。神に感謝! 全能神は真理であられ、道であられ、いのちであられるのです! 私は最後の最後まで永遠に全能神に従って行きます!