PSW研究室

専門職大学院の教員をしてる精神保健福祉士のブログ

見える/見えないバリア

2010年01月07日 10時53分41秒 | 日々の雑記
(昨日書ききれなかった、前回の記事からのつづきです)


でも、自分が歩行・移動等が困難になって、よくわかったことがあります。
今回のツアーでは、階段の昇降が困難な義母が同行していたので、なおさらでした。

駅や街中では、いつもエレベーターやエスカレーターのある場所を、目で探していました。
どこに行っても、上下の移動は階段が当たり前の手段になっています。
でも、平面の移動は比較的容易にできても、都市の縦の移動は、自力で難しい場合は機械に頼らざるを得ません。

逆向きのエスカレーターや階段の前で、何回立ち往生したことか…。
エレベーターのあるホームやビルの端まで、どれだけ遠回りして歩かねばならなかったことか…。

それらの移動手段や、スロープが設置されている場所の、ハード面の問題。
ほんの小さな段差や、歩道の傾きによる、バリアの大きさ。
駅員や店員に尋ねた時、対応の仕方に垣間見える「面倒くさい」表情。

できて当たり前の環境の中で、「できない」側の不全感や焦燥感、苛立ちや哀しみ。
頭ではわかっているつもりでしたが、ユーザーの立場になると、やはり違った角度で見えてきます。

バリアフリー法が施行されて、駅や公共の場所でのエレベーター設置は、飛躍的に進みました。
でも設置はされていても、本当にそれらを必要とする側の、利便性を考えた場所や仕組みになっているでしょうか。
都市ではエレベーターがなければ、あらゆる交通・情報へのアクセスが、不可能になります。
移動ができないと、様々な社会生活体験の機会が奪われてしまいます。

バリアの除去は、障害のある側が、頭を下げてお願いしなければならないのでしょうか。
バリアフリー化にしても、まだ行政や企業は「作ってあげた」という慈恵的福祉感覚になっているのではないでしょうか。
合理的な配慮がなされないことが、本人の社会参加の機会を奪っていると、どれだけの市民が思っているでしょうか。
何もしない不作為が、それだけで権利を侵害しているのだ、という感覚には程遠いように思います。

我が国の障害者基本法と、海の向こう側のADAとの距離。
何が障害者差別に当たるのか、法律に規定することは、やはりとても大事なことです。
バリアフリー法はひとつの風穴を開けたと評価できますが、やはりとても遅れています。
ソーシャルインクルージョンという言葉が、虚しく思われてきてしまいます。
障害者権利条約の批准に向けて、この国も大きく一歩、踏み出して欲しいと思います。

見えるバリア。
見えないバリア。
見えているのはほんの一部。
見えていないことがたくさんある…。

今更ながらに、そんなことを思い知らされた、僕の年末年始でした。