タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

小麦は戦前からあるってば

2022年07月24日 | Weblog
悲しい出来事があったため更新が遅くなりました。
ごめんなさい。

今回は短い話です。
小麦についてでたらめな話が広まっているので気をつけてください。
「小麦は第二次世界大戦後に日本に入ってきた」なんて
でたらめが急速に広まっています。

ちょっとは歴史の勉強してくださいね。
小麦のお菓子は平安貴族も召し上がってましたし、
うどんや小麦のまんじゅうも中世の頃からあります。
そこら辺の本屋や図書館の食の歴史の本を借りれば載っています。

・・・とか言っていたら、もうすぐ一部の出版社は
政治にそんたくして「第二次世界大戦以前の日本人は
小麦を食べていません。」などと作り話を書くのだろうな。

現在広まっている「GHQの小麦戦略」というのも、
デマを真に受けた単純な人たちが広めてしまった作り話です。

ずいぶん前に京都大学の有名な先生に「小麦戦略っていうのが
はやっているようですよ」と尋ねたら、
「そんな馬鹿な話を信じるヤツ居るわけ無いだろ!
そいつ俺のところに連れてこい!」と。

あなたの大学の別の先生ですよ、とは言えなかったなあ。

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洋食は和食の一種。その理由は・・・

2022年06月10日 | Weblog
5月17日の読売夕刊に、「和食難しくない!」という記事がありました。それ賛成です。極端に厳格なマナーや、一汁三菜でなくちゃ呪いは、和食を広めるには不都合です。私は和食好きですから、堅苦しく考えなくて良いという方向で賛成します。
 
 記事欄外には、和食について「明治時代以降、「洋食」に対して生まれた言葉とする。・・・カレーライスやラーメンなど、外国との「折衷料理」が含まれるとの考え方もある。」と完結に説明がありました。そこも大事な指摘だと思います。その文章を読めば読むほど、洋食も和食のカテゴリーに含まれる料理なんだと思い知らされます。なぜか。

 まず、有名な和食研究者の阿古真理先生が「「和食」って何?」の10頁で指摘しています。「そもそも和食という言葉自体、生まれたのは明治時代です。肉を煮込み油脂や乳製品を使う西洋料理と出会って、自分たちの食事を「和食」だと認識したのです。」と書いてあります。
 つまりそれまで自分たちの特徴や個性に気がつかなかったが、西洋料理(注:「洋食」ではない!)に出会って、これと違うのが和食なんだなと考えるようになったのが、和食という言葉が生まれた理由でした。

 でも、実際に欧米人に西洋料理を学べる人はごく少数でした。したがって、一部の経験者の話を、西洋料理をよく知らない日本人達が一生懸命試食してメモって、料理を作っていきました。
 よく分からない料理を見よう見まねで一生懸命創作しようとしても、うまくいかないものです。しかも昔の料理界では、新人は先輩に丁寧に指導してもらえませんでした。先輩の背中を見て調理法を「盗め」と指導されました。しかしその指導法では、今まで自分が体験した味や素材に引っ張られます。
  そうなると妄想が入る。「野菜はにんじんで代用出来るな?ソースは醤油で代用できるな?パンは柔らかいほうがいいだろう?」とあれこれ考えたあげく、次第に、欧米にはない料理ができあがりました。

 すなわち、日本式のジャガイモやにんじんゴロゴロ入ったカレー、うどんのようなスパゲティで作るナポリタン、生のキャベツ千切りにのせるので欧米人が驚く「とんかつ」、魚のカルパッチョ(イタリアでは肉料理です)、オムライス(オムレツにコメ入るんだ!?と驚かれる)、コロッケ、ドリア、ハヤシライス、あんパン、クリームパン、あんトースト、栗の香りがやさしいモンブラン、本場のサクサク感と違って日本人好みにふんわりと焼いたショートケーキ、外国人が驚く豪華なプリンアラモード・・・・。

 そして食べる方も日本人。本物の西洋料理を食べたことがある人は少なかったので「へーこれがカレーか、これがとんかつか。意外にうまいな。」となります。うまいのは道理です。だって日本人調理師が、コメ、にんじん、あんこ、栗、小麦、卵など日本に江戸以前からある素材を洋風素材と組み合わせ、和の調理法に引きずられながらゆでたり焼いたりして、日本人好みに味付けしてるからです。

 こうして成立したのが本場の西洋料理とはまた違う「洋食」です。つまり洋食は私たち日本人の映し鏡。鏡の中にいたのは普段と少し違う服に着替えた自分だったのです。鏡に映った洋服の中にある顔や心は、豊かな好奇心にあふれた繊細なまなざしと和の心だったのです。
  
 したがって、広い意味では洋食も日本人の妄想が芸術的に結晶した和食と言えるでしょう。一方、ユネスコに登録された方の和食は「伝統的でかつ消えゆく危険性があるため保全しなければならない料理」と限定されているので、狭義の和食ということになります。
 先祖の創意工夫の魂に思いをはせ、先人の文化を後世に引き継ぎたいと思っています。


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洋食は和食。和食離れって結局何?

2022年05月02日 | Weblog
日経土曜版「食の履歴書」は各界の著名人に食の思い出を語ってもらう名物コーナーです。先日 4/30(土)はピーター・バラカンさんが登場しました。48年前に日本の音楽出版社に就職して以来、日本に長年暮らしたバラカンさん。日本には庶民的な味がたくさんあるが、特にカツカレーが大好きと聞いて、なぜか今まで以上に親しみを感じてしまいました。いいね、カツカレー!私も大好きです。
 そしてカツカレーは日本独特の料理だから「あれは完全に和食です。」とバラカンさんは言います。その通りです。日本で食べる洋食は、日本独特の料理であることが多いため、実は洋食は和食の一ジャンルなんです!!
 お前なに馬鹿いってんだ?と言う方のために詳しく説明すると、例えば次の料理は日本発祥です。日本式のカレー、ナポリタン、キャベツにのせるとんかつ、魚のカルパッチョ、オムライス、コロッケ、ドリア、ハヤシライス、あんパン、クリームパン、あんトースト、モンブラン、ショートケーキ、プリンアラモード
つまりですね、
 中国のあつものをヒントに羊羹を作ったように、
 中国の豆腐をヒントに絹ごし豆腐を作ったように、
 西洋の料理をヒントに洋食を作った。
 で、羊羹や絹ごし豆腐が和食なら、洋食も和食でしょう? (中国起源は和食に分類していいが欧米起源は和食に分類できないと言い出したら、諸外国から「和食は中国文化の傍流」と見なされる。

 だから、読売新聞の今年1月8日記事「ドラマやマンガ 和食の伝道師」でもしっかりと、「海外ではラーメンやカレーも和食に含まれる」と記されています。海外の視点で見たら、日本人が発明した料理は和食。日本人が「カレーは洋食だ」と叫んでも、海外から見たら、「にんじんとジャガイモとタマネギを煮込んで、小麦粉と油の混ざった固形カレールーで煮込む料理」は日本オリジナル。だから和食です。

 さて、今紹介した読売の記事ですが、クロージングだけが他の段落と論理的整合性ないのが気になります。記事によると「(日本の食がドラマやマンガを通じて世界に知られるようになったのに)当の日本では洋食化が進み、和食離れが課題になっている。海外にならって和食を見つめ直し、その良さを今一度かみしめてはどうだろう。」とあります。でも、先に「海外ではカレーも和食」と記事に書いている以上、洋食も和食だとみとめてるわけです。だから、日本の洋食化は健全な和食の推進ということです。和食であるカレーやあんパンやショートケーキを食べながら和食の良さを見直すのはいかがでしょう。

あれ、そうすると、記事の中の「当の日本では和食離れが課題になっている。」という文章はなに?
 というか、「だれが」「なぜ」和食離れは課題だと言っているの?

というか、そもそも本当に和食離れが起きているの?論拠は?
まさか「米の消費量が減ったから和食ばなれだ。だからコメ農家には課題だ。」って乱暴な説じゃないことをねがいます。


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食育のナッジ理論任せは全体主義の始まり。

2022年03月27日 | Weblog
3/23(水) yahooニュース(withnews配信)「肥満は自己責任? 新型コロナで重症化リスク…個人まかせには限界 健康格差の原因、雇用環境・人間関係も」は、興味深い内容でした。よくある「肥満は自己責任だ。肥満で心臓病や糖尿病になった人の医療費をなぜ健康人が肩代わりしなくちゃならないんだ」論が誤解だと詳しく説明していました。

 この記事は公益になる一方で、悪用が懸念される部分もはらんでいます。その点に記者さんは気がついてないようですので、多くの読者様に情報提供したいと思います。

まず、記事の要旨をご説明します。
 肥満者は心臓病や2型糖尿病などになりやすいことはよく知られています。では世間でよく言われる「肥満は自己責任」論が事実かどうか。記者は疑問を持ち、京都大学教授の社会疫学ご専門の近藤尚己さんに取材しました。
近藤先生のお話では、健康は社会状況(所得や職業、国や地域の政策など)の影響を受けるため、『バランスのよい食事をしよう』『適度に運動しよう』と個人の理性的行動を促すだけでは健康を守れないとのこと。
 つまり、所得の不均衡などの社会問題にアプローチしなければ肥満は減少しないのです。

 このような事実を学んだ記者は、記事の後半でこう問いかけます。「自己責任論に終始してしまうと、肥満対策としては実効性に乏しいばかりか、肥満に社会的・経済的な環境が影響する以上、コロナ禍においてさらなる分断を生んでしまう危険性がある」と。
 この部分には全面的に賛成します。記事では触れてませんが、肥満には遺伝的要素もあります。今、若くてやせている方も、中年になれば、努力しても太ってしまう自分に愕然となるかもしれません。肥満の方に「おまえはだらしないから太ってるんだ」と暴言の石つぶてを投げる方々は、その投げた石が10年、20年後に自分にも返ってくるかもしれないことを想像して欲しいものです。

ですが・・・ここからが今回特に言いたい部分です。
記事の途中で、記者は朗報であるかのように「ナッジ理論」を持ち出しました。ナッジ理論とは、本人が気がつかないうちに特定の行動を誘導する手法のことです。記者さんは例として、ポケモンGOで歩き回って運動不足が解消された例を紹介しました。そして、人を知らず知らずに健康になる方向に導ければ良いとの論を、中盤部で展開したのでした(なお文面からは、近藤先生もナッジを勧めている文脈か、記者独自の視点かは読みとれませんでした)。

しかし、ナッジ理論には危険性が指摘されていることを記者さんはご存じなかったようです。危険性は次の通りです。

 まず、人を知らず知らず特定の行動に誘導出来るなら、換言すれば、財布からお金を出させたり、特定の政党に投票させたり、陰謀論に巻き込んだりも出来るということです。ですから、ナッジ理論について専門家はバラ色の夢を語ったりしません。

 次に、ナッジ理論を理想的であると語る人は、政治家や、国民を特定の行動様式に誘導したいと考える行政関係者などに時々います。彼らは「自分たちが正しいから国民を善導しなければならない」と考えがちだからです(例えば、米を食うのが日本人の正しい生活だからと、日本の伝統文化に麦飯や粉食文化があったことを隠蔽しがちです)。

このような上から目線は専門用語でパターナリズムと言います。簡単に言えば、「俺が父親役をするからおまえら国民は従いなさい、悪くはしないから。」という考え方です。有名なのは、かつて欧米諸国がアフリカ諸国を「君たちは遅れた文化のかわいそうな国だから、正しい神様や言葉を教えてあげましょう。」という発想で、宗教や言語などを教え込んで植民地化した例です。パターナリズムはつねにこうした危うい傾向が潜んでいます。

 さらに、ナッジ理論で誘導して肥満を解消して差し上げましょうと言っている時点で、「結局肥満の責任は本人が運動せず食事を改善しないからだ。」という発想です。責任は本人にあると言っているのと本質的に同じです。
 遺伝子ガチャで太ってしまう人も大勢居る以上、肥満を個人責任にしては行けません。

 最後に、ナッジ理論は常に「社会全体の利益のためには、個人個人は家畜並みに統率されても当然だと考える全体主義」に転化しかねません。ナッジ理論を導入するよと聞かされて私たち一般国民が賛成すれば、国民同士が違いに無言で相手の行動を管理する全体主義への道を布石することになります。異論を唱える者への排除が進むでしょう。

 では、ナッジ理論を導入しないとしたらどうしたら肥満が解消出来るのか。おそらく現時点で理想的な解決法は、まず、「肥満はだらしない人だ」とのスティグマ(負のレッテル貼り)を改めることでしょう。スティグマが、肥満者の鬱状態を招いてさらなる運動不足や大食いを招く恐れがあるからです。そして、気負わず楽しく健康的にやせられるように、社会環境として応援態勢を整備するのが大事と考えます。例えば、誰もが望めばダイエット教室に仕事帰りに安価に通える、だれもが栄養バランスが良い食事を比較的安価にスーパーで購入できるようにする、肥満が生じやすい職場では社食に安価で低カロリーな定食をもうける、などの方法が考えられそうです。知らず知らずに操作される世界より、このような目に見えて実効性のあるアクションの方が風通しが良いと思います。
 

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農水省BUZZMAFFは残念

2022年03月06日 | Weblog
あんまりエンタメやアニメなどを見ない主義なので、食関係の仕事をしてて「最近農水省でバズマフという番組をやってるけど見た?」という話にも、別に?と答えてました。
でも、話のタネに見て、やっぱりがっかり。

まず、ショート動画で「栗きんとんがきれいな金色なのはどうしですか?」というのを見ました。栗きんとんは着色されている、と食に関心のある大人なら皆知ってる凡庸なネタから始まりました。続いて、着色してるが人工物ではなくクチナシの実を使っています。と大きな文字で紹介しました。人工物ではない、がこのプレゼンの主眼のようですが、人工着色料は危険だと匂わせたいのでしょうか。プレゼンの目的が分かりませんでした。

次に「デリシャスパーティ♡プリキュアについて」という動画を見ました。
若手官僚二人が登場して、テレビ放映中のこのアニメの主人公はお米をイメージしたキャラです、と説明しました。そこまでなら、へえ面白い、で終わったところでしたが、問題なのは「プリキュアを利用してお米の消費拡大ができないかと上から命令された」という部分です。彼らは、今後のアニメの展開は農水省の政策に沿った内容であって欲しいといいました。官僚がこんなことを言えば、プリキュアの制作スタッフが「よい子はお米をたくさん食べましょう。」と声優にしゃべらせかねません。
 アニメの内容に国が「こうあるべきだ」とくちばしを挟むのは、80年前にタイムスリップしたみたいで気持ち悪いです。
  

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温室効果ガス中、牛のゲップはたったこれだけ。

2022年01月30日 | Weblog
最近よく聞く「牛のゲップが地球温暖化の原因だから、牛肉を食うな」説はどこまで本当なのか調べて見ました。
我が国の国立環境研究所「温室効果ガスインベントリオフィス」が。国連気候変動枠組条約(UNFCCC)に2021年4月に提出した「日本国温室効果ガスインベントリ報告書(NIR)」によると、実は、日本の畜産業から出るゲップの影響は0.6%です。驚くほど小さいですね。

上記報告書はhttps://www.nies.go.jp/gio/aboutghg/index.htmlでダウンロードできます。
2019 年度の温室効果ガスの総排出量は 12 億 1,200 万トン(CO2 換算)。この数値は報告書の「概要欄」に記載されています
一方、マスコミが「牛のゲップ」と呼ぶ「家畜の消化管内発酵」の量は756万トン(CO2換算) (和文版2-18頁に記載)。割り算したら、0.006。つまり0.6%。

「家畜の消化管内発酵」ガスはほとんど牛から出ますが、農水省によると日本人が食べる牛肉重量の、3分の1が国産で残りが輸入です。従って、単純計算で756万トンかける3倍のゲップに加担してますが、それでも日本人の営みで出る温室効果ガスのうち牛のゲップが占める割合は1.8%程度と分かります。牛のゲップを減らすのもそれなりに大事かもしれませんが、たまに牛丼やシチューを食べる楽しみを全て犠牲にしてもたったこれっぽちの成果しか出ないとは、割に合わないと思いませんか。
 一方、同じ報告書の23頁によれば、日本の温室効果ガス総排出量に占める割合が一番大きいのがエネルギー分野(87.2%)です。使わない電灯は消すのがいいですね。また、車のアクセルをぐっと踏み込まず緩やかに発進すれば、10%も燃費が減るので二酸化炭素排出量も大幅に減ります。電気やガソリンの無駄遣いを見直す方が、簡単に取り組めて大きな成果が得られますね。




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新型コロナの悪質デマにはご注意ください!

2021年12月15日 | Weblog
「コロナウイルスなんて存在しない」と叫ぶ人たちが、一般人を仲間に引きずり込むために、あくどい手法を使ってます。
ここでその手口をさらしますので、くれぐれもだまされないでください。

まず、彼らは国立の有名な研究所(例えば国立感染症研究所など)に、行政文書開示を請求します。
例えばこのような文面です。
 「コロナウイルスがこの世に存在することを証明する論文を見せてください。」
  「コロナウイルスを分離した証拠物を開示してください。」

しかし行政文書とは、その機関がその機関での仕事のために作った文書をさす言葉です。例えば「研究所の建設費はいくらだった」「今年産休をとった研究員は何人居た」そんな書類が行政文書です
 論文やウイルスなどは「行政文書」でありません。
 論文は「行政」文書じゃないし、ウイルスはそもそも文書でさえありません。
 だから研究所はこう回答するしかありません。
 「そのような行政文書は存在しません。存在しないから開示出来ません。」

 ウイルスが存在しないと信じる人たちは、鬼の首でも取ったようにこの回答をばらまいて
「国の研究機関なのにコロナウイルスが本当にあることを証明できないってさ!」と大声で騒いでます。

 彼らがやっていることをわかりやすくたとえて言うと、例えばこういうことです。
彼らは八百屋に行って聞きました。「おたくに野菜があるという証明書を見せてくれ」。
八百屋さんは答えました「ふざけないでください。証明書なんてありませんよ」。
この答えを聞いて、彼らは大声で周りに叫びました。
 「証明書がない!?みなさん、聞きましたよね?野菜なんてものはこの世に存在しないんですよ!!」

 ね、あほらしいでしょ。

このブログは食育系ですが、コロナウイルスなんて存在しないという人と食育関係のデマに引っかかっている人は、同じ人が多いため紹介しました。
皆さんは、くれぐれもだまされないように気をつけてください。

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代替医療のセンセイがあなたの食事を当てるカラクリ。

2021年10月31日 | Weblog
今回は、代替医療のセンセイがカモをだますトリックを紹介しますので、あなたや家族を守るために覚えてください。なお、「こんなの記事にしたら代替医療の連中がまねするよ」という心配はご無用。すでに彼らは知っているし、このページは誠実な医者や学者も読んでくれてるので、そっちのルートにこの情報を広めて悪質商法を阻止するのが目的です。

知り合いが代替医療にはまりかけた時がありました。

「最近体調不良だけど、普通の医師に診てもらったら
どこも悪いところがないと冷たく言われたんです。
ところが漢方系の代替医療のセンセイは顔を見ただけで
私の食事の欠点をピタリとあてたんですよ。」
と興奮していました。

なんと言ったんですか?と聞いたら
「センセイは『あなた、おやつを食べたでしょ?』といったんです。」
   そう、これがトリックなんです。

数十年前の占い師が、権威付けのために
「あなたのお父さんは死んでいないですね?」と言ったのと同じです。
お父さんが死んでいる人には「死んで、居ない」と聞こえるし
お父さんが生きている人には「死んでない」と聞こえる。
だから昔の占い師はよくこの台詞をしゃべって客をカモったんです。

「あなたのお父さんは」ネタは有名になったので絶滅寸前ですが、
「あなた、おやつを食べたでしょ?」はしぶとく生きているようです。

おやつって、ケーキや団子だけではなく、ヨーグルトやたこ焼き、のど飴なども含むので、日本人のほとんどは1週間のうち何回かは食べているんです。
しかし、他人の食べている量なんて普通知らないし、どことなく体に悪い印象があるので、「私はもしかしたら食べ過ぎているかも?」とうっすら罪悪感を感じる人も多いものです。

そこにつけ込んだ台詞が「あなた、おやつを食べたでしょう?」です。
これを言われれば、大抵の人はぎょっとして
「そうだ、確かに私はおやつを食べた!」と思い込んでしまいます。毎日ケーキを食べている人から、週に1回醤油せんべいをかじる程度の人までね。

「おやつ」を「肉」や「インスタント食品」に置き換えるパターンもよくあります。

日本人の9割以上は、1週間に1回以上肉やインスタント食品を食べている上に、肉やインスタント食品は体に悪いと批判する人も多いので、センセイに「体調が悪い?あなた肉を食べたでしょう?」と言われると、毎日食べている人から週にハム1枚程度の人までぎょっとして「はい、そうです」と口走ってしまう訳です。

そこでセンセイが我が意を得たりと「そうでしょう、そうだと思ってましたよ。肉があなたの不調の原因です。」と言えば、さあ、これで名医のいっちょ上がり。

あなたは決してこんな言葉遊びにはひっかからないでね。
そして、この情報をまともな医療関係者にも広めて、笑い話として消費してください。
「あなたのお父さんは死んでいないですね?」と同じく葬ってやりましょう。

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和食が中華料理!?。和食プロモーション痛恨のミス。

2021年09月26日 | Weblog
このブログで昨年秋に「ユネスコ登録版の「和食」は、中国文明に飲み込まれるリスク回避になる」https://blog.goo.ne.jp/ptamia/e/74c0b430cf1d05bdbd06f09f54416ddc
という文章を書きました。
2013年12月にユネスコが「和食」を登録した時の定義と、最近の食育で唱えられている「和食」の定義が実は違っていて、最近の食育で言う和食の中身が中国寄りだと指摘した内容でした。

そのときに、このまま放置したら「和食は中国文明の亜種」と誤解されかねないと指摘した訳ですが、それが今、実際にその通りになりつつあります。
先日、遠方に住む知人から、スーパーで買ったお惣菜の写真とレシートの写真が送られました。
「外見も味も、間違いなく和風おひたしなんですが、レシート上では『中華サラダ』と記されている。」と、知人は訴えるわけです。
写真をみたら確かにその通りで、菜っ葉のおひたしでした。

知人によれば、普通の和風だし+醤油の味付けだったとのこと。
「それなのにレシート上は中華サラダに分類されている。スーパーの担当者からは、和食も中華も区別されていないのでしょう。」ということですが、これはスーパーを責める訳には参りません。

 ユネスコに登録された和食は、新鮮な旬の食材を、おせちや節句などの家庭的行事で食べることで、しかも栄養バランスがとれることと定義されました。また、マスコミの取材に対し日本政府は、江戸時代の伝統食は栄養が偏り過ぎてたことから、日本の栄養バランスが改善された高度経済成長期に成立した食事が和食である、としました(この経緯は上記リンクからどうぞ)。

しかし、ユネスコに登録された定義は、次の3つの業界にとってはうれしくない定義でした。

 (1)高級日本料理店。なぜなら、職人の技を強調する日本料理は家族そろって食べる行事食ではない。
    節句など行事で食べるのでは無く、年がら年中接待などで食べるから。また、家族そろって食べるものではなく、子供抜きで商談などの場で食べるものだから。

(2)発酵食品業界。特に味噌や醤油など。なぜなら発酵食品は長期熟成して一年中食べるものであり、一方ユネスコ登録和食は、新鮮な旬の食材を行事で食べるものだから。

 (3)年中消費する伝統食材。例えば出汁。行事食は、七草がゆやぼた餅やひなあられ、丑の日のウナギ、のように、特定の時期に消費が集中するので、年中消費する食品のプロモーションにはうまくつなげられない。

こうした点などがあってなのか真相は不明ですが、ユネスコに和食を登録した直後から、農水省では和食の定義変更に着手しました。

電通を通じて日本館展示をしたミラノ万博で「和食の基本はお米中心の一汁三菜」と宣伝し、以降、日本国民に対してもそのような指導をなぜか押しつけています。そのため、家庭科教科書も近年そのように書き換えられました。
また、味噌や醤油などの調味料でおかずを味付けした「和ごはん」をもっと食べようというプロモーションを展開し、一方で、文部科学省ではお箸の正しい使い方指導に力をいれました。しかしそのようにすればするほど、和食は中華料理や韓国料理に似てくるのです。

なぜかというと、これら東アジアの食文化圏では、年中、お米を中心に味噌や醤油によく似た発酵食品で味付けした料理を、箸で食べているからです。

テーブルの形や箸の使い方など細部は違いますが、これらの食事形態は、他の文化圏から見たら酷似です。
「和食とは、お米中心におかずを味噌や醤油で味付けして、箸で食べるものだ。」と言い続けるほど、私たちの食事は、欧米やアフリカ・東南アジア・中央アジアから見て「中華料理とどこが違うの?同じじゃない?」と誤解されます。

そうならないためのユネスコ定義だったのではありませんか?


発酵食品ではなく新鮮な食材を吟味して上手に切って生食するか、調理するにしても煮たり焼いたりのシンプルな調理法を採用する、引き算の料理。そしてお祝いの行事で食べる、多様なものをバランス良くとる、箸かどうかなどは問わない、このユネスコ定義なら、手の込んだイメージの強い中華料理とは混同されないはずです。
中華料理は、ツバメの巣や北京ダックや月餅、肉と脂をふんだんに使う酢豚などの炒め物などが象徴するように、手をかけて食材を加工する足し算の料理であることを思い出してください。



「お米中心の一汁三菜にして味噌や醤油で味付けして箸で食べよう」と言う教育では、私たちは中国の属国と見なされます。和食とは何なのか、もう一度考え直さないと、もう後に引けない状況に来ているのではないでしょうか。

菜っ葉のおひたしが「中華サラダ」と表示される現状では、次のステージ到来もそう遠くない出来事でしょう。

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「誰もが食べられる食事」の押しつけは多様性の否定です。

2021年08月22日 | Weblog
最初に一言。当方はRAP○さんという方が唱える不思議な理論とは一切関係ありません。地球は丸いと思いますし、ガンという病気は存在します。

さて、本論です。ビーガンについて誤解している方が多いことから今回はこの話を取り上げます。ビーガンは単なる完全菜食主義ではなく、動物を殺してはならない(だから皮のバッグや絹の和服も着ない)運動です。ビーガンになるならないは自由と思いますが、他人に押しつけないで欲しいものです。海外のビーガン運動家が寿司屋の中で「魚を殺すな」とプラカードを掲げた出来事がありましたが、動物愛護に見せかけて他国の伝統を否定するなんて恥ずかしい行為です。

先日ある新聞に載った記事です。国内のある小学校が「ビーガン給食」を取り入れました。特定の日に全員がビーガン食を食べろと。校長先生は「ビーガン食は低アレルギーで誰もが食べられる食事なので、多様性を尊重する目的」とマスコミに言いました。ところが検索したら、この校長先生はあるビーガン団体幹部と知り合いで、幹部はフェイスブックで、校長先生への感謝を述べるとともに、全ての人がビーガンになるべきだとフェイスブックに書いていたのです!多様性の尊重というのはうわべだけだったのです。校長先生は利用されてるだけと思いたいですが・・・。

論理的にも、「誰もが食べられる食事を全員が一斉に食べれば多様性が尊重される」というのは全くのでたらめです。多様性の尊重というのは、全員が同じ食事をすることでなく、違う食事をすることであり、例えば「ビーガン食を食べたくない」という声を認めることです。
学校で多様性を尊重するなら、台湾料理、スカンジナビア料理、トルコ料理、アイヌ料理、と様々な料理を出してこそ多様性でしょう。ビーガン料理ばかりに注目するのは、多様性の切り捨てです。

また、「誰もが食べられる」の言葉は表面的にはフレンドリーに見えて、実は少数派を排除する言葉です。考えてもください。「誰もが食べられるから」との理由で、給食で「豆腐づくしメニュー」を出され、あなたが大豆アレルギーだったら?みんなと同じ給食は食べられず、一人だけ排除されるのです。これが「誰もが食べられる食事」という言葉の恐ろしい罠です。

ビーガンも植物の命を奪っているとの指摘に対し、校長先生は記者に「動物は殺したら再生しないが植物は殺しても再生するから。」と語ってましたが、植物だって殺したら再生しません。煮豆や炊いたごはんが再生しますか?
今後はよい記事を楽しみにしています。マスコミの皆様の良識に期待しています。

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フード左翼はピケティの「バラモン左翼」の一種にすぎない。

2021年07月18日 | Weblog
2013年12月に朝日新書から発売された「フード左翼とフード右翼」(清水健朗著)は、当時ちょっとした話題になりましたが、論法に欠陥があるため学者からは残念ですがあまり顧みられていません。

なぜ「使えない」かを一般の方に説明するのが大変なので、ブログに書くのは避けていたのですが、最近、この本に疑いを持たず「私はフード左翼ですから。フード右翼は嫌い。」と言う方が出始めたので、日本の将来が少々心配になりました。そこで今日はこの本の良い点と間違いを書きます。なお、私は右でも左でもありません。

結論を言うと。
1:提唱された「フード左翼・右翼」概念のうち、フード右翼はほとんど実在しない。
2:フランスの経済学者トマ・ピケティの「バラモン左翼」論から論考すれば、フード左翼はバラモン左翼の一種であり、その本質はインテリによる弱者切り捨て。

では、詳しい説明に入りましょう。
「フード左翼とフード右翼」は、初版の帯に「政治思想を食で見抜く」と書かれてある通り、「実は日本人の食の思想が2極化しており、それが政治思想を反映している」と主張した本です。清水先生によると
「フード左翼」に分類されるのは自然食・ベジタリアン・有機野菜・ビーガン・スローフード運動・マクロビオティックなどを好む人であり、
「フード右翼」はメガフード・遺伝子組み替え作物・牛丼つゆだく・ファストフード・水道水・B級グルメ、ジャンクフード・コンビニなどを好む人だとされています。

この本の価値は、フード左翼が政治的左派運動から生まれた歴史を記した部分です。ここは労作で読むべき価値があるが、問題は「フード右派」に分類されている項目の奇妙さです。

清水先生は、著書の23ページなどで、フード左翼は地域主義と健康志向であり、フード右翼はグローバリズムとジャンク志向(安さ・量重視)だから両者は対立だ、と主張しました。でも・・・勘の良い方ならそろそろ気がついたと思います。

先生が「フード左翼」と述べた人たちはその多くが重なる人間であり、「地球環境と健康と世直しのため」と大義を掲げてその食品を意識的に選択していますが、方や「フード右翼」とされた人たちは、主義主張のない普通の大衆です。グローバリズムを歓迎してもないし自ら願ってジャンクを志向する人もそんなにいません。

例えば、水道水を意識的に好む人はまれでしょう。単に家の設備が水道水だから水道水を飲んでいるに過ぎません。同様に、そのほかの食品も共通項がありません。低い給料で働いてジャンクフードでおなかを満たさざるを得ない人、おいしいものを食べるのが生きがいのB級グルメ、推しアニメコラボ商品を探してコンビニに通う青年、単に食べ物に関心が無い人・・・・ほら、全然違う人たちがごたまぜでしょ。

つまり、先生が「右」と付けた食品を食べる人たちは実は、政治思想に関心のない普通の人の寄せ集めです。それ故「食の思想が政治思想に呼応して2極化している」という仮説は間違いなのです。
「フード左翼という1つの集団があり、それに共感する人もいれば、関心を持たない人もいる。」という説明なら成り立りますが、「食で2つの思想が対立する」との仮説は間違っています。

おそらく本当は先生も自説の欠点に気がついているのでしょう。なぜなら、フード左翼と命名した人たちの論理構造や歴史については詳しく研究しているものの、フード右翼と命名した人たちについてはp127で「最大多数派の日本人」と告白しています。「最大多数派の日本人」=サイレントマジョリティを、右翼と命名した時点で論理破綻です。そしてフード右翼についてほんのわずかなページしか論考が記されていません。共通項がない人の寄せ集めだから論考できないのです。

そして、本の結末(210ページ)まで読むと分かるのですが・・・・実は清水先生自身が、担当編集者(朝日新聞出版社員の二階堂さん)に、特定のレストランを取材先に勧められて通ううちに「フード左派への転向」をしてしまった、と吐露してるんです。そうでなくても文章のあちこちに「本当は自然食やマクロビを勧める本を作りたかったけど、ストーリーを盛り上げるには敵対する組織が欲しいので、無意識のうちにもう一つの「極」を創作してしまった。」という切ない心情が垣間見える本です。
だから、心ある学者はこの本に感心しなかったわけです。

ここで紹介したいのがトマ・ピケティの「バラモン左翼」論です。(Brahmin left vs Merchant Right. Thomas Piketty, March 2018)

ピケティの指摘は刺激的です。バラモン左翼とはピケティ本人によると、ご意見が高尚過ぎて現実から浮いてる左翼、という皮肉だそうです。
従来貧しい方々を味方していた欧米諸国の左派が、インテリ化して環境問題などを議論したあげく現実離れしたことを言い出して、中間層や貧しい人たちを味方しなくなった、というのが論文の主旨です。身近な話を引き合いにかみ砕いて説明すると、「例えば、環境のために肉や魚を食うな。代替肉とビーガンを推奨しろ~。」と個人の嗜好に縛りをかけ、「全体を護るためには個人の自由は制限しろ」と唱える人などが該当します。

ピケティによると、バラモン左翼が全体主義に近い態度をとった結果、「経済的繁栄のために個人の自由を制限すべきだ」と考えるビジネスエリート右翼と利害が一致してしまったということです。
これを身近な例でわかりやすく説明すると、こういうことです。バラモン左翼の勧める活動を、ビジネスエリート右翼が具体的な商品や投資ファンドにして「これは良い物だから、子どもから老人まで国民はみんなこれを買うべきだ。学校もこれを導入しろ。買わないやつは不道徳だ。」と圧力をかければ、ビジネスエリート右翼が儲かります。バラモン左翼はビジネスエリート右翼に感謝し、お友達になります。

結果、右も左も結局同じ全体主義的発想に陥ってしまい、サイレントマジョリティの中間層と貧困層は取り残されてしまいました。


日本もほぼおなじ構図に陥っています。明日食べる食事にも事欠く人たちが大勢いるのに、科学的根拠の無い健康法の講演会やイミフの資材を学校給食や食育で取り入れるよう圧力をかけて「多少税金が余計にかかるとしても良いことだから。」などとおっしゃるフード左翼は日本にもたくさんいるのでうんざりします。その余裕が税金にあるなら、給食の回数を朝や夕方にも増やして、おなかをすかせている子どもたちに食事をさしあげたいものです。

しかも、日本のフード左翼はしばしば「伝統食に回帰しよう。日本人は米飯と味噌を食ってりゃ栄養的に十分だ。」という科学的に間違った説を唱えて、本物の右よりの人や歴史修正主義者とお友達です。「和食が一番良い♪洋風の物を給食から追放しましょう。」論法でフード左翼と歴史修正主義者が呉越同舟して講演会開いているのも見たことがあります。これは、多様性を認めない全体主義の始まりです。

食物を政治に利用しないでほしいと切に願います。

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おまじないぐらい見逃せよ論は案外ステマ。食育の語源は怖かった。

2021年07月04日 | Weblog
健康食品会社の中には消費者の財布をすっからかんにしてしまう悪質な者が昔から絶えません。この問題が「フードファディズム問題」として提唱されてから20数年経ちました。いまでは多くの方々が、「コロナには免疫力アップ食品」等の大げさなコマーシャルやTwitter投稿などに対して、悪質な金稼ぎだと苦言を呈しています。

そうなると困るのが、今まで「免疫力アップ」「ダイエットに」「頭が良くなる食い物」などの様々なパターンで荒稼ぎしてた人たちです。そこで彼らがSNSなどで最近やっているステマがこれです。「おまじないだからいいじゃん。おまじないレベルでもプラシボ効果があることは分かってるんだから。金額だってたいしたこともないし。いちいち目くじら立てる方がおかしい。」という論法です。でもこの論は地獄への道に舗装されています。
理由は3つあります。

(1)このパターンの言説は必ず歯止めがきかなくなり、家族、友達、学校の先生・生徒など様々な人間関係を通じてひろまっていき、途中でノーと言う人が仲間はずれされるから。

例えば、スーパーで友達にあって、「これ、体に良いって話題よ。おまじないレベルかもしれないけど、食べた方が安心よ。」などと勧められますよね。
うっかり「おまじないにお金を払いたくない。」と言うと、相手は「あー真面目すぎてやだ。たかがおまじないを勧めただけでこれだもん。」と開き直って言って人間関係を台無しにします。だからイヤイヤながらそれを買う羽目になります。

で、実体験ですが、私に「科学的事実なんか言わなくても、もっとおおらかになってもいいじゃない。」と言っていた友達が、実は、ある有名食品会社の中間管理職の妻でした。目的を隠して古典的ステマ(口コミ)をやっていたのです。何年かけても私を論破できないと分かると、捨て台詞を言って去って行きました。

こんなことが本当にあるなんて、恐ろしいです。皆さんもくれぐれも気をつけてください。

(2)まじないを許せば、最初は食べ物レベルでも、すぐに「祈祷だってどうせおまじないだからいいじゃない」という話に退化します。
こうして病人に対して、「お金がもったいないからまじないで直せばいい」という圧力がかかります。これは個人レベルから国家レベルまで生じうる話です。
 外国にも、頭痛薬などに高額を払うのがもったいないから○○のまじないをつかう、という人がいる国があります。○○の実名はこのブログに書けません。表向き国民健康保険を減らすためとなってますが、裏は、その国の新興宗教にお金が入る仕組みになってるからです。日本をそんな怪しげな宗教に牛耳られる国にしたくありません。

(3)おまじないは迷信や差別とセットです。元々日本は昭和30年代まで迷信が強く残っていた国です。例えばある種の顔の特徴は、親の食べた食品が原因だとして差別されていました。
 ニセ科学なまじないを広めたことで有名な石塚左玄氏の場合、明治時代の著書「通俗食物養生法」229~230ページ(第七版)に、「欧米諸国のように肉や魚をたくさん食べると、人面獣心(外見は人間でも心は獣のように慈悲がないという意味。)になる。」と外国人差別を記しました。同時に、そうならないために石塚式食事法=食育を家訓としなさいとも書き、これが「食育」の語源です。

 石塚氏の「食育」という言葉自体は長く忘れられたものの、「肉や魚などをたくさん食べると獣のような心に成長する。」というまじないは呪いのようにその後も長く残りました。そのため第二次戦時中や今世紀のゼロ年代に「A国人は肉を食ってるから凶暴だ」とする人種差別が一部で発生しました。

たかがまじないと認めるのは、ダムに開いた小さなありの穴のようなものです。「たかがまじないぐらい見逃してやれよ」の一言がどれほど恐ろしい結果を招くか、皆さんもよく考えてみてください。

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野菜でカルシウムを補うのは難しい。

2021年06月26日 | Weblog
菜食主義の方々は、「カルシウム不足は野菜で補えるから問題ない」と言いいますが、それは少々大げさです。
野菜でカルシウムを補うのは困難だらけです。

例えば「小松菜はカルシウムを大量に含むから小松菜を食べれば問題無い。」と言う説を
信じてる人が多いが、実は・・・・
小松菜に含まれるカルシウムは体内への吸収率が低いので、
ボウルに何杯かの膨大な量を食べなければカルシウム不足は解消出来ません。

そうすると今度は吸収率に着目してこんなことを言う人もいます。
「キャベツに含まれるカルシウムは体内に吸収されやすいから、キャベツを食べれば問題無い」と。
ところが実は・・・・キャベツに含まれるカルシウム量はごく少量なので
キャベツでカルシウムを補おうと思えば1日に数玉食べる必要があります。
実行不可能ですね。

これ以外の野菜に関してもなかなかカルシウムを補給しにくいのが実情です。
だからカルシウム不足で悩んでいる人は、魚や牛乳などを食べるのがおすすめです。
牛乳やチーズ、ヨーグルトなどは殺生に当たらないので、インドや欧米の菜食主義者の大多数は牛乳・乳製品を食べています。
さらに、魚を食べて良い菜食主義「ペスカトリアン」もあります。

有名どころではスティーブ・ジョブズ氏がペスカトリアンでした。
寿司が好きで、穴子が大好物だったことで有名です(集英社の「学習漫画世界の伝記NEXT」にも書いてあります)。

もちろん、牛乳や魚の味が苦手な方と、主義主張としての完全菜食主義者を目指す方にまで
無理には薦めませんが、普通の菜食主義なら乳製品や魚なども時々召し上がることをおすすめします。

40年くらい前は、カルシウムやビタミンD不足が原因で、60歳代で背中や腰が曲がっているお年寄りがよく見かけられました。
今は、60歳代で腰の曲がっているお年寄りはめったに見られなくなりました。食事が改善されたおかげです。
栄養指導の先人たちの苦労をなし崩しにして、栄養学を悪者扱いする人を見かけるたびに、残念な気持ちになります。
道を切り開いた先人たちへの感謝を持ちたいものです。

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コピー劣化で「和食の基本は一汁三菜」と誤解された。

2021年05月30日 | Weblog
(16時58分に投稿しましたが、わかりにくい説明部分があったので18時48分に修正しました。)
一汁三菜が和食の基本だという説は、2012年頃までに学校教育を終えた人は習っていません。なぜなら、一汁三菜が和食の基本であるという説は、2013年以降に突然日本全国に広められたからです。

あの熊倉功夫先生でさえ、2012年3月に農水省が配布した「和食―日本人の伝統的な食文化-」というテキストの「日本の伝統的食文化としての和食」のp6でこう言っています。

「和食では、いくつお菜を用意するのが一般的か、決めるのはむずかしいが、古くより一汁三菜といって、汁が一種にお菜が三種というもの言いがある。(飯と漬けものは必須でしかも数は一種に決まっているので、変化する汁と菜の数だけを表示する習慣である。)三菜でなくとも、二菜、一菜ということもあるし、ぜいたくな食事であれば五菜とか、極端な中世の本膳料理では七つの膳に二十三菜という食べきれないお菜が並べられた例もある。逆に極端に質素な場合、無菜ということもある。飯と汁と漬けものだけ、という粗食の例もかつてはいろいろなところにあった。つまり和食の一つの特徴は要素だけそろえば、お菜の内容は自由度が高い。」
(下線はわたしが引きました)

要約すると、和食のおかずの数は本来は決まっていない。一汁三菜という言い回しを和食の構成要素の説明に使うとわかりやすいが、実は一汁三菜が決まりではないので、昔は二菜や一菜やおかずのない粗食もいろいろなところにあった。」という意味です。

和食が一汁三菜だと誤解された理由は、いろいろあるんでしょうが、おそらくこの熊倉先生の2012年の文章が劣化した要素も大きいと考えます。なぜなら、この文章からほんの3年後にはなだれを打つように、新聞記事や家庭科教科書などで「和食の基本は一汁三菜」という文章が膨大な数で登場するようになったからです。国民にろくすっぽ根拠もないくせに「和食の基本」と教え込むことで、いまや和食は一汁三菜が「伝統」と誤解する人まで登場する始末です。

実は、情報のコピー劣化はブログやSNSが広まるより前から大量に出回っているのです。
例えば昭和31年の経済白書の「もはや戦後ではない」という有名な台詞は、「資源と人材を灰にする戦争が終わったんだから、経済回復したのは当然のことだ。そんな自然な経済回復期はそろそろ終わりなので、これからの経済回復は困難かも。」と心配する文脈でした。しかし前後の文章が切り取られて、高度経済成長を目指すかっこいい言葉として広まりました(論文はこちら。https://ci.nii.ac.jp/naid/120005607336 )。
白書の実物を読めば心配する文章だと分かるのに、当時の日本人は実物をチェックしないで噂話を信じていたのです。わたしも、子ども時代にこの誤情報を学校で習った世代です。

そんな誤った教育を受けたからこそ、一汁三菜を押しつける食育について心配しているのです。今の子どもたちがあと30年後に「なんでこんな誤った教育を信じてしまったのだろう。おかげで和食の歴史が台無しだ。」と泣いてしまうのが目に浮かびます。そんな未来にならないように、私たちは日本の文化を正確に次世代に伝えなければと思います。

熊倉先生が農水省で配布した文章がはっきり示す通り、「一汁三菜が和食の基本」はコピー劣化で生じた言葉です。耳に心地よい言葉に流されずよく確かめることは大事です。このブログは常にファクトチェックをして書いています。

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栄養学のせいでレシピに頼るようになった説は、時代考証の誤り

2021年05月04日 | Weblog
最近こんなでたらめな噂を聞き、あきれてしまいました。
「昔の日本人は目分量で料理を作れたのに、今はレシピがないと料理が作れない日本人が増えて情けないね、これは栄養学が原因だぜ。女子栄養大の香川綾が昭和23年に計量カップと計量スプーンなんかを発明して広めたため、レシピに頼る風潮が生まれたのさ。栄養学がみんな悪いんだ。」こんな説は時代考証の誤りです。今日は、この説のどこが誤りか説明します。

まず結論を言うと、先に升などの伝統的計量道具があり、その後でレシピに頼る風潮が広まり、最後に計量カップと計量スプーンが誕生しました。

これらの順番を詳しくひもときましょう。
その前に一言。日本の伝統料理は、家庭料理と料理人料理(いわゆる日本料理)で全く文化が異なることを覚えておいてください。(※)
 (※ 明治・大正・昭和時代に活躍した石井泰次郎先生の著書「日本料理十二ヶ月」(大正3年)を読むと、家庭料理と日本料理が全く異なることが分かります。石井先生は、代々徳川家の料理長を務めていた四条流宗家9代です。先生が著書に記した日本料理は、一般庶民には作れない格式高い料理でした。「ヤマノイモを裏ごしして寒天と食紅を混ぜて花の形に細工した料理」「鰹をすりつぶして細工したどら焼き」など、作るだけで一日が終わりそうな贅沢な料理が次々登場します。この本は国会図書館が無料公開しています。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951294  ・・・あるブログに、石井泰次郎が日本料理を広めた頃家庭料理と日本料理は同じものだったと書いてありますが、石井先生の本を読まずに書いているのでしょう。でなければ普通の家庭が宮中と同じものを食べていたと誤解しているのでしょう。)   

家庭料理は、手の込んだものは作らないというか作れませんでした。
日本の伝統文化ではハレとケをきっちり分けることが良しとされるので普段の食事は質素でした。だから、家庭料理は、飯(米の飯や雑穀飯、大根などとのごった煮)に、煮た野菜、漬物、少量の魚などで代わり映えのないものを年がら年中食べていました。年がら年中同じようなものを作ってレパートリーが少ないから、親の手伝いをすれば自然に覚えてしまう。だから伝統的家庭料理ではレシピがありませんでした。

お祝い・行事で、餅や菓子などを作るも、基本的には、材料を量らなくても目分量で作れてしまう料理でした。餅を例に考えてください。餅米をふかし終わったらペッタンペッタンつくわけで、餅を作る時にレシピという概念自体が存在できないですね。赤飯も、小豆の量が多少多くても少なくても失敗しないものです。家庭料理の菓子も、餅に砂糖を混ぜたりするのが多かったので、祖母や母が入れていただいたいの目分量をまねすれば、うまくいく訳ですよ。

レシピが必要な物と言えば、家で大量の漬物や味噌など保存食をまとめて造る場面などです。塩を升などで量っていました。おやおや、升で量ったからレシピ至上主義が生まれた可能性も考えなければなりませんね?

さて、一方の料理人料理(明治時代に日本料理と呼ばれるようになった。)の方は食材を美しく切り、おいしく作り、風情あるように盛り付けた料理です。こういう料理はお金を取るプロの仕事なので、先輩の背中をみて必死に覚えました。こうして訓練したプロはちょっと手にしただけで量が即座に分かります。体が覚えているからです。だから職人の世界にも原則としてレシピはありませんでした。しかし一部の料理は正確な量を量る必要があり、升などを使って材料を量りました。また、江戸時代にレシピ本も販売され、「豆腐百珍」などのベストセラーも出るほど人気になりました。現在のレシピ本と比べると、分量はあまりきっちり書いてありませんが、例えば食材を煮る時の水と酒の比率などが記されていますので、レシピ本と言って良いでしょう。

つまり江戸時代の職人の計量道具が江戸時代にレシピ本を成立させ、本がベストセラーになり、レシピに頼る風潮の土台になったと考えられます。栄養学を悪人にしたい人は、こういう都合の悪い話は黙してますね。

さて、紙に書いたレシピがさらに切実になったのは、明治時代です。
まず、西洋料理を必要とする人が急速に増えたため、西洋人から教わった料理の指南本が出版されました。カレーにしろスープにしろ見たことも聞いたこともない品なのだから、何をどれくらいの量混ぜればいいのかレシピが必要でした。直に欧米人から学べる人はまれで、本で作り方を学ぶ人の方が多いから、レシピが重宝されました。

次に、明治半ばから後半に、日本料理を家庭で作れる女性は良い女性だという考えが広まり、それまで自分で料理していなかった良家の娘たちも、日本料理の知識を身につける必要に迫られました。ここで貢献したのも日本料理のレシピでした。レシピがなければ家庭では日本料理は作れなかったからです。

続き、大正時代には中産階級の女性も女学校で料理を学べるようになりました。彼女らの母や祖母は、江戸時代以来の単純な家庭料理しか知らない人ですし、当の本人たちはおいしいものは外食で食べていました。そんな彼女ら中産階級の女性が日本料理や洋食を女学校で学ぶときも、当然レシピ本が必要。卒業後も本や雑誌で、日本料理や洋食を学びました。おばあさんもお母さんも家庭料理の作り方は知っていても、日本料理の作り方を知らないのだから仕方ありません。

というわけで日本人がレシピに頼るようになったのは、江戸時代以降の出版文化が原因です。

この問題を別の角度から。
「戦前の日本人は高い能力を持っていたが戦後の日本人は能力を失った」というパターンの説は昔からありますが、この説を信じる人とって「明治・大正時代の女性はレシピ本を見なければ日本料理を作れなかった」事実は都合悪いですね。だから、第二次世界大戦後に計量スプーンが発明されたことをこじつけたり、欧米発祥の学問の栄養学を悪者にして、話をごまかしたいのですね。

でも、レシピを大切にして何が悪いの?レシピが必要なシチュエーションもあるし、必要じゃないシチュエーションもあるってだけの話ですよね?
なんでレシピを使う人が「レシピ至上主義」なんてたたかれるのか、その理由が分からないですよね。
料理が好きで様々な新しい料理に挑戦したい人がいてもいいし、料理を作るのがつらくてお惣菜を買う人がいてもいいし。それぞれの暮らしや価値観を尊重しあえばいいのではと思います。

 また、香川綾先生がなぜこのような道具を開発したのか知れば、「栄養学犯人説」は無知ゆえの恥ずかしい説と分かります。香川先生は昭和2年、病人に栄養のある料理を食べさせて健康を回復させたいと願い、そのためにまず赤堀割烹塾で料理を勉強しました。医療関係者が料理の研究をするとは、当時としては先駆的な取り組みでした。病人に適切な塩分やカロリーやビタミンを含む料理を食べてもらうには、誰が作っても失敗しないレシピを開発する必要があります。香川先生は長年の研究の末、21年後に計量カップと計量スプーンを発明しました。
 今もコロナの患者さんたちを助けようと大勢の医療関係者が汗と涙を流しています。患者には栄養の良い料理を届けなければなりません。その仕事を陰でささえているのが香川先生の発明した計量カップや計量スプーンです。医用従者の皆様へ感謝するとともに、医療の向上に向けて研究した先人たちにも感謝します。

(香川先生が計量カップ等を発明した経緯については、次の記事を参考にしました。「料理を“数字”で表現した栄養学の母 変わるキッチン(第21回)~はかる(前篇)2016.03.25(金)澁川 祐子」((https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46415?page=3 )

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