タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

和食の基本は一汁三菜?消費者不在の議論。

2021年04月18日 | Weblog
このブログで以前読者のみなさんに相談した通り、国の新しい食育基本計画では、「食育指導の中心は一汁三菜(米飯に汁物を1椀、菜つまりおかずを3品出すこと。)の和食」となりました。

和食とは本来様々な食事、地方料理(寿司やそばや鍋など)、行事食(おせちや七草、豆まき、端午の節句の柏餅、冬至カボチャなど)を含めたものでした。その中でも特に地域性の高い地方料理や行事食は消えつつあるので、保存のためにユネスコに和食を登録した訳です。それなのに言い出しっぺの日本政府が、地方文化の多様性を切り捨てて一汁三菜の鋳型に和食を閉じ込めるなんて言い出したから、こうしてブログに書いてます。

パブコメしてもやっぱり、少なくとも今後5年間は一汁三菜が基本だと指導されることになりました。国が国民の食事のお皿の数まで決めることは、「下着は白に限る。」というブラック校則より変です。

でもどうか肩を落とさないで聞いてください。4月4日に、食育分野で大変有名な管理栄養士の成田崇拝信先生がyahoo!ニュースに「新しい食育推進基本計画は本当に子どものための食育を考えているのか?」という記事を書きました。これを読んで、すっごく感動しました。私がこのブログで書いてたより、はるかにわかりやすく要点をまとめて今回の基本計画の矛盾を指摘しています。

成田先生の指摘の要点は次の3点だと思います。(1)まずユネスコと日本政府が約束した内容と食育基本計画の中身が違うではないか、(2)そもそも一汁三菜が基本という説に根拠がない、そして(3)地産地消重視では学校給食が成り立たない地域もあるため子どもたちや給食関係者にしわ寄せが行く。
どこを見ても重大な提案です。そうですよね。国際社会に向かって伝統文化の多様性を守ると約束したのに国民には鋳型にはめた食事を指導して、その結果学校給食の現場が混乱し、関係者が疲弊するなんて・・・。本当に子どもたちのためを思うなら、この食育基本計画が本当によいことなのか大人たちは真剣に考え直すべきでしょう。成田先生が子どもたちの将来を心配しておっしゃったことに、多くの方が耳を傾けてほしいと思います。

成田先生だけではありません、日本経済新聞と土井善晴先生が、最近の食育はおかしいと気がついて、先週月曜から金曜まで夕刊2面で「食の基本は一汁一菜」という連載をしました。国が国民の箸のあげおろしにまで言及し始めた風潮への痛烈な反論で、土井先生の誠実な人柄に心打たれました。ただ、この記事については賛同するところが多いものの、3点、重要な危険性があるので、そのことも書かせてください。

土井先生が「食の基本は一汁一菜」と考えた理由は、栄養バランスがとれて手軽な家庭料理を目指すなら、おかずを3つにするのは無理ではないかと疑問を持ったからだそうです(4月16日金曜日記事より)。この疑問点にものすごく同意します。仕事帰りでくたくたになっているのに国から3つおかずを作れと言われたらキれる人も多いでしょう。また、土井先生の文章からは、高齢の一人暮らしの方への配慮もにじみでており、先生の優しさにじんわりきました。

でも、ごめんなさい。土井先生の疑問については同意しますが、問いの解は「一汁一菜」で本当にいいのでしょうか。茶碗に盛った米飯と味噌汁とおかず、と形式にこだわる理由がわからないんです。牛丼でもロコモコ丼でもいいじゃないか、味噌汁じゃなくてコンポタや野菜ジュースでもいいじゃないか・・・と疑問がわきます。

そして、今の国の食育および土井先生の問題意識には、次の2つが欠落していると思うのです。(1)そもそも料理を作らなきゃだめなの?(2)コロナで経済的に困っている人が多いのに、多忙で一人暮らしの人が手作りしたらかえってお金がかかりますよ?この2点です。コロナの現状の中では、行政が、おいしくて栄養があって安価な給食を経済的困窮層に届けるのも大事な食育だと思うのですよ。

そして(3)土井先生は日本の家庭料理は一汁一菜だったと記事で指摘していますが、私の調べたところではそれも違いました。お金のある家庭では菜が5菜も6菜もあった一方、お金の乏しい家では菜がなかったのです。農村部となると、1つの鍋でごはんと野菜を煮込んで食べていた地方も多かった。

戦時中の東京の家庭料理が一汁一菜だったので、土井先生は「かつての家庭料理は一汁一菜だった」と誤解されたのでしょう。ただ、一汁一菜が戦争中に目立った理由は、当時の国策で国民の消費量をコントロールするためだったという説も。

例えば石下直道先生が監修して熊倉功夫先生が責任編集した「講座食の文化第二巻 日本の食事文化」p390で豊川裕之先生がこう記しています。
「国策として「一汁一菜」の倹約が奨励されたのは昭和一三年(一九三八)であった。全国民がこれを遵守したとは考えられないが、風雲急を告げる国際情勢のなかで国の指導者たちが戦時体制を醸成するなかで、徐々に庶民の食卓は厳しいものになっていったのである。」

一汁一菜が国策だったことなども考えると、「一汁何菜が基本だろうか?」と問うこと自体がもうすでに、そばやうどんをやめてお米を主食にしてくださいという国のお願いに屈しているのです。それで、国に伺うのですが、そんなに国民にお米を食べさせたいなら牛丼でも寿司でもフォー(お米の麵)でもいいじゃありませんか。なんで一汁三菜という形式にこだわるのでしょうか。新型コロナの流行でみんな苦しんでるんです。子どもたちや私たち消費者を置き去りに、形式ばかりこだわる食育を続けるのは、そろそろ考え直してください。

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「御飯は左で汁は右」押しつけは西日本差別。

2021年03月20日 | Weblog
文部科学省は、家庭科教育で「御飯は左で汁ものは右に置く」と指導していますが、それは関東甲信越周辺の習慣です。ご存じの方も多いと思いますが、愛知から福岡までの西日本と福島県は、汁物は左(御飯の後ろ)に配置するのが普通です。

地図でご覧になりたい方はこちら。
「しっくりくるみそ汁の位置、「左奥」は関西ローカルと思いきや」(2018年3月2日Jタウンネット記事)(https://j-town.net/tokyo/research/results/256621.html?p=all)。


愛知から福岡までの地域で例外なのは福井・徳島・鳥取・島根県のみ。
それ以外の県は、定位置がはっきりしない和歌山県をのぞき、全県が左に味噌汁を置きます

なぜ、役所は関東地方式の盛り付けを「和食の基本」として押しつけるのでしょうか。全く不思議なことです。

NHKの「チコちゃんに叱られる」の昨夜放送内容でも、正しい配膳は御飯が左で味噌汁が右であると解説し、そういう文化がない大阪の一般視聴者をいじっていました。大阪の一般の方が『味噌汁は左に決まっているじゃないか!?』と驚いている映像の上に、何十秒間もずっと「ご飯を左 みそ汁を右に置く」というテロップが流れ続けていて、大阪の人が間違っていると言いたげでした。

しかも、大阪出身の番組スタッフが「汁は左だ」と力説するシーンに至っては音声がオフにされていて「うっとうしいので音声は切っています」とテロップが出ました。文部科学省とNHKの指導方針に反する意見が「うっとうしい」と切り捨てられたのです

大阪市民は笑いのネタにされることなれているし、スタッフは上司にいじられるぐらいがおいしいという感覚で、平気だったのかもしれませんが、ほかの方はきっと違うでしょう。味噌汁を左に置くくらいのことで笑いのネタにされることに傷ついた方も多いと思います。
「正しい食事」として関東流を押しつけるのは、西日本と福島の地方文化への差別に思えます。

なんのために文部科学省はこんな指導をしているのでしょうか。国民を統制するマウンティング目的だとしたら、こんな教科書に従うことはありません。日本には各地に多様な文化があります。和食の基本というのを振りかざして、国や公共放送が異なる和食地域を差別してはいけません。


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福岡5歳餓死事件と食事制限による洗脳問題。

2021年03月11日 | Weblog


先日発覚した、5歳の少年が餓死した痛ましい事件に、一人の親として心を痛めています。少年の無念を思うと、一刻も早い真相解明が待たれます。この事件では、少年の母親が、ママ友に食事制限されてマインドコントロールされていたと主張しています。

極端な食事制限をされるとマインドコントロールされやすいことは、太古から記録にのこされています。
2017年夏投稿の「オウム事件で考える「健康に良くても理論が変!」問題。」にも書きましたが、改めて啓発します。

 商売でもこの手段は悪用されてきました。自称社会変革運動家や、自称宗教家や自称食育指導者が「正しい食事はこれだ!」「この世の真実を知りたければ、食事を減らせ。」「環境に優しい食事のために○○を中心に食べましょう」「市販の食品は添加物だらけ!あなたを守ってあげたいのよ。だから、この自然食品を買ってね。」などと様々な口車でターゲットの食事を極端に制限してきたのは、昔から現在までずっと行われています。
 カロリーや品目を制限されると、人間はハイになったり従順になったります。そこにすかさずおかしな思想を吹き込み、最後はターゲットの財布を開けてしまうという手口ですね。
 今回の餓死事件を聞いた時にも、この典型的な例だと気がつきました。カロリーを極端に制限されると洗脳されやすいのです。
 こういう恐ろしいことが繰り返されないためには、「古代から食事制限は相手の心を操作するのに利用されてきた。」という事実を、一部の人間だけの情報にとどめず、できるだけ多くの方に知ってほしいものです。

 もちろん、病気の進行を防ぐため、治療のために食事制限が必要な患者も大勢います。国家資格を持つ医師や管理栄養士などが責任を持って指導する場合は、そのほとんどは信頼できるものです。資格を剥奪されては困るので、指導する側も間違いのおこらないように指導しています。だから、医療目的の食事制限は続けてください。(ごくまれに、お米だけ食べてればいいなんておかしなことを言っている助産師や管理栄養士がいますが、それは例外中の例外。)

 食事制限でマインドコントロールされてしまう最大の理由は、カロリー制限で飢餓状態になると、人を信用しやすくなるからです。普通の断食道場はこれをよい方向に生かして「あなたは元気になりましたね」と肯定的な声がけするので、メンタルが元気になるわけです。

 で。これは2017年の記事には書かなかったのですが、理不尽なメニュー制限もマインドコントロールなんです。
例えば、果肉を食べるのは不道徳だという学校があったとします。果肉を食べた人は多かれ少なかれ罪悪感を抱きます。そして、周りの仲間に「こんどは食べないようにがんばろうね。」などと励まされてしまう。頑張らないと周りが冷たくなる。それはつらい。そのうちに、制限は果肉だけではなくなる。髪の毛を黒く染めろだったり。服装はこうしましょうだったり。違う格好をして、違う意見を言うと、冷たい視線が待っている。
こうして従順な性格になるように仕向けられていきます。

 というわけで、医師でもない人が「あなたは食事をもっと減らすべきだ」「牛肉を食うな」「食事は和食にしなさい。和食の基本は一汁三菜」とか言っているのを見たら、そういう人は、他人をコントロールしたい欲求を抱えていることに気がついてください。

「食事を減らすべきだ」は、おまえ太ってるだろうとからかって、精神的に追い詰めてコントロールしたいためです。
「環境に悪いから牛肉を食うな。昆虫を食べろ」と言う人は、善意でも、内面のうちに他人を自分で制御したい政治的欲望を抱えているのです。
ましてや、和食が体によいかどうかなんて、国際的な医学会では百家争鳴状態です。でも日本ではマスコミでさえウィキペディアぐらいしか見ない人が多いので、和食が体によいと理屈抜きで信じられています(海外の医学論文もっと読んでくれ)

このブログが現代の情報過多社会でのサバイバルのお役に立つことを願います。



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【拡散希望】まだ間に合う!放置すれば和食が改悪されます。パブリック・コメントの仕方教えます。

2021年02月23日 | Weblog
前回、前々回書いた通り、今、政府がパブコメ(パブリックコメント)で、食育基本法・第4次食育推進計画案へのご意見を募集中です。
文案がさる宗教団の文章に似ている上「和食とは一汁三菜である」と法律で定められる予定です。
そんなことまで法律で決めてしまっていいんですか?寿司やそばやうどんは和食じゃないっていうんですか?
今後国民に「和食の基本は一汁三菜。これをしっかり守りましょう。」と指導する国の方針が明らかになりました。
放置すれば、うどんやそばやまんじゅうを食べてると
あっ!私が今食べているものは基本じゃない・・・基本を守らなくてごめんなさい。」罪悪感を抱くように学校でしつけられますよ


食は喜びであり、命です。その自由を捨てていいのですか。

「食育基本法 パブコメ」で検索してください。政府の「e-GOV パブリック・コメント」から案件番号550003272 「第4次食育推進基本計画」(案)でも見つかります。

諦めるのはまだ早い。国がネット・郵便・FAXで、意見を受け付けてくれます(電話は受け付けてくれません)。

・まず、案の間違っている部分を短くはっきり指摘してください。
・次に、必ず代案を書き添えます。間違いを書くだけでは、何をどう直せばいいのか、役人に伝わらないからです。
 「第4次食育推進基本計画案は、ここがこう間違っているから、こう直してください。」という書き方がベースです。
・両論併記は絶対だめです。
 「案にも一理あるけど、間違いもあると思います。」と投稿すると、役人は「一理あるのか。よかった。」と思考停止するからです。
・氏名・住所・電話番号かメールアドレスは必須です。名前も住所も連絡先もない投稿は、役人は切り捨てます。
 投稿をほかの人に知られないようにするには、氏名の横に「匿名希望」と明記すれば大丈夫。
・締め切りは必ず守ってください。26日金曜日必着です。手紙は金曜日夕方までに担当者に届く必要があります。
 まにあわない方は、政府のパブリック・コメント受付ホームページから意見を出してください。

・具体的にどう書いたらいいのかわからない方に、書き方の例を紹介します。
 あなたの声を反映するために、丸写しはしないで、自分の言葉で適宜書き換えてください。

 例1
 案の5ページ目の5~7行目
 「日本人の伝統的な食文化」はユネスコの無形文化遺産に登録された。
  和食文化は、ごはんを主食とし、一汁三菜を基本としており」が事実と違います。
  なぜなら、ユネスコに登録された和食文化は一汁三菜ではないし、
  ごはんを主食とした一汁三菜が和食文化の基本だという話に根拠がありません。
  歴史的事実に基づいて、次の文章に訂正してください。
 「日本人の伝統的な食文化」はユネスコの無形文化遺産に登録された。
  これは一汁三菜にとらわれず幅広い多様な地方の食文化を保存するものである。
  和食文化は米の飯のみならず、そばやまんじゅう、小麦食文化など多様性に富んだものである。」


 例2
  案の5ページ目の10~11行目
  「和食は栄養バランスに優れ、長寿国である日本の食事は世界的にも注目されている。」
  が事実ではありません。
  第2次食育推進基本計画にも明記されている通り、
  伝統的食事は栄養バランスが悪く、昔の日本人は短命でした。
  牛乳、ヨーグルトやチーズや肉などを食べる量が増えた昭和40年代後半から
  日本人が長寿化しはじめて、
  昭和50年代に世界でもトップの長寿となり、
  その結果海外でも注目されるようになりました。
  従って、次のように書き直してください。
 「第2次食育推進基本計画にも記された通り、伝統的な和食は栄養バランスが悪く、
  和食に畜産物や乳製品を加えた新しい食事「日本型食生活」が栄養バランスに優れていた。
  そのため、長寿国である日本の新しい食事文化は、世界から関心を集めている。」

以下は、政府のパブコメ入力欄に記された投稿方法です。ご参考までに、ここに引用します。郵便やファクシミリを使いたい方はこちらも参考にしてください。
(1)e-Gov の意見入力フォームを使用する場合
「パブリック・コメント:意見募集中案件詳細画面」の「意見募集要領(提出先を含む)」を確認の上、意見入力へのボタンをクリックし、「パブリック・コメント:意見入力フォーム」より提出を行ってください。
(2)郵送の場合 以下担当まで送付してください。
   〒100-8950 東京都千代田区霞が関1-2-1 農林水産省消費・安全局消費者行政・食育課食育総括班宛
(3)FAXの場合 以下担当まで送付してください。
  FAX番号:03-6744-1974
    農林水産省消費・安全局消費者行政・食育課食育総括班宛


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国が「和食の基本は一汁三菜」と言い張るのは?

2021年02月23日 | Weblog
ベストセラー「一汁一菜でよいという提案」の著者、土井善晴先生にもぜひ聞いてほしい話です。
前回のブログでも書いた通り、政府は国民に幅広く「和食の基本は一汁三菜である」と食育指導する方針です。現在パブリックコメント募集中(26日締め切り)の「第4次食育基本計画」案の中で、和食の基本は一汁三菜だと言い切って、今まで以上に国民にこの概念を浸透させる計画なんです(コロナの闇夜に乗じてなにをこそこそと)。

土井先生の言う一汁一菜のすすめにも一理あります。私は馬鹿正直なのであえて言うと、先生が「汁物は味噌汁に限る」と言う部分と、パンやパスタが眼中にないお考えには疑問ですが、具だくさんの汁物にすればおかずが少なくても栄養バランスはかなり改善され、洗うお皿の数が減るから助かります。だから時々は土井先生のレシピを見習うのもいいことと思います。だから、国がしゃにむに「一汁三菜が正しい和食だ」と洗脳するのに疑問を持ってます。

(2月23日追記 誤解のないために書きます。以前書いた通り、一汁一菜「でよい」と言い切ると貧困を正当化しかねません。土井先生のレシピは一汁一菜にしては比較的栄養バランスがとれているので栄養やお皿を洗う点で一理あるけど、一汁一菜「でよい」とまで言い切ることにはためらいます。一汁三菜が食べられる程度には経済的に豊かでありたい。
でも、国が食育指導で「和食の基本はお米中心の一汁三菜」と押しつけるのは、和食の歴史の隠蔽です。実際の私たちのご先祖は、主食に麦飯や粟飯やそば、うどん、芋などを食べていました。鍋にくず米や小麦を練ったものを煮込んで、主食と汁が分けられない郷土料理もたくさんあります。このままでは、おきりこみやほうとうが正しくないと断罪されかねません。そのような指導は、文化の多様性を尊重するユネスコ登録の和食とは全く違います。)


和食がユネスコに登録された2013年(平成25年)12月の時は、地方や家庭によって様々な和食があるから、「正しい和食なんてない」って関係者一同いっていました。
それが翌年すぐ、一部で「一汁三菜が和食の基本」という小声がささやかれ初めて、「いったいだれが何の権限でそう決めたの?」といろいろな人に尋ねたけど、知り合いはみんな首をすくめて「さあ?」って言うばかり。
そして2015年(平成27年)、電通が総合プロデュースしたミラノ万博で、日本館は「和食の基本は一汁三菜だ」と掲示してしまったのですよ。そのあたりからもう歯車が止まらなくなってしまったんです。翌2016年に決定・施行された「第3次基本計画」の中に一言、和食の基本は一汁三菜という言い回しが紛れ込まされ、そして、とうとう先日公開された第4次計画案(パブコメ中)では、幅広く国民に「和食の基本は一汁三菜」と指導することが盛り込まれてしまったのです。

第4次食育基本計画案作成の中心は安部元首相夫人と仲がよくて桜を見る会にも呼ばれているあの先生。

昨日、久しぶりに古い本を読んで気がついたんですよ。20年くらい前まではマスコミも政府も「天ぷらそばの原料の98%は輸入品。和食はもはや輸入品なしでは成立できない。」といっていたのですよ。この事実は現在も変わっていないのですが、大体2004年前後から誰もこの事実を言わなくなって、代わりに「和食にすれば自給率が上がる。」と食育で指導されているんですよ。

これでパズルのピースが埋まりました。
「和食の基本は一汁三菜」と政府が国民に押しつける本当の理由は、食育指導書の「和食にすれば自給率が上がる」という記載ミスではありませんか。「和食を食べて自給率が上がるなんて誰が馬鹿言ってんのさ。天ぷらそばはどうだい。」と事実を指摘されたら、教材を売る側は困ることでしょう。
和食は一汁三菜が基本だといってしまえば、とりあえずお米は必ず含まれるので、和食で食料自給率が上がるように見せかけた図が書けます。

マナー講座の先生が「あなたの指導したマナーは初耳ですよ。」と言われたらどうする?政府のマナー審議会委員長になって、「私の言うマナーが日本人の正しいマナーです」と?
まさかそういう話じゃないことを願いますが・・・・・・・。

(文章の一部を修正しました。)

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【拡散希望】期限は26日まで。放置すれば「和食は一汁三菜」と法律で定められます。うどんや寿司は和食でないと法制化されます。

2021年02月17日 | Weblog
今、政府がパブコメ(パブリックコメント)で、食育基本法第4次基本計画へのご意見を募集中です。読んでみたら、文案がさる宗教団の文章に似ているので背筋が寒くなりました。その上「和食とは一汁三菜である」と指導することが今後の食育の重点事項の一つ、と法律で定められる予定です。そんなことまで法律で決めてしまっていいんですか?寿司やそばやうどんは和食じゃないっていうんですか。

計画案の5ページ目に「和食文化は、ごはんを主食とし、一汁三菜を基本として、」とはっきり書かれてしまいました。食育指導で和食という時には「一汁三菜」を基本として指導しなければなりません。これは多様性の束縛です。
 この計画案では、正しい和食はお米をたいたご飯に汁物をつけて、おかずが三つ、そして漬物を添える決まりと記されています。

グーグルなどで「食育基本法 パブコメ」で検索してください。政府の「e-GOV パブリック・コメント」から案件番号550003272 「第4次食育推進基本計画」(案)でも見つかります。

放置すれば、原則として寿司やそばやたこ焼きなどが、基本的な和食ではない、とされます。

このような法案はユネスコに登録した内容とも明らかに違います。ユネスコ登録の際には、和食とは日常食ではなく行事食を指すと決めたからです。行事食とは、おせち料理や、年越しそばや、ひな祭りのちらし寿司など特別な日の食べ物です。ユネスコに登録した和食定義と全く異なる和食定義を、ユネスコ関係者にも多くの国民にも気がつかれないようにこっそり法制化するとは、世界に顔向けできない恥ずかしい行為です。

あなたは、和食が一汁三菜に限られてしまってうれしいですか?

ご意見は政府が受け付けてくれます。受付締切日時は2月26日23時59分。もうあまり時間がありません。

(2月20日文章一部訂正のお詫びと改めてお願い。 先日投稿した際に慌ててしまって、第4次基本計画策定と書くべきところを基本法改正と書いてしまいました。お詫びして訂正いたします。

また、知り合いから「現行の第3次基本計画にも一汁三菜と書かれている。」と指摘されましたが、第3次では、和食指導はユネスコ登録を踏まえて郷土料理や伝統食材などを指導するんだとしっかり書かれています。ユネスコ登録では、和食は一汁三菜ではなく、おせち料理など行事の時に食べる地方色豊かな文化だと登録されたからです。

パブリックコメントを募集中の第4次計画では、重点指導課題の一つが「日本の伝統的な和食文化の保護・継承」であり「和食文化の基本は一汁三菜である」と前置きしてから、郷土料理や伝統食材を指導しましょうと書かれています。だから現在は郷土料理が一汁三菜でなくていいけど、もしも第4次計画が通ったら、郷土料理や伝統食材も一汁三菜を基本にされるんです
このまま放置すれば、香川県のうどんや長崎ちゃんぽんも信州そばも、食育指導現場で「それって基本じゃなくて枝葉末梢。」と冷たくあしらわれることになります。最近の社会の混乱でみんなが疲れている中どさくさでこうやって、日本の豊かだったはずの郷土料理の首が絞められているわけです。どうか皆さん、耳を貸してください。)

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冷蔵庫が胃がんを減らしたのは減塩だから。

2021年01月03日 | Weblog
今日は、日本で胃がんが激減した理由を説明します。
最近いろいろなところで「冷蔵庫が広まったから胃がんが減った」と聞きます。
これを「冷蔵庫が広まったら衛生状態が良くなってピロリ菌感染が減ったからだよ。塩分が原因なんて昔の説だよ。」と誤解する人が急増しています。

なぜ誤解と言えるかというと、ピロリ菌感染経路について、次のことがすでに判明しているからです。
(1) 幼児期に井戸水を飲んでいた人にピロリ菌感染率が高い。
(2) 人の糞便や唾液から見つかるので、親から子への口移しなどで感染する可能がある。
(3) ピロリ菌は自然界で見つかった例がいまだない。
(4) ピロリ菌は酸素があると死滅する。
(5) 以上から、井戸水を飲んでピロリ菌に感染したのは、水洗ではなく昔のタイプのトイレの近くに井戸があったためではと推察される。上下水道が未発達な地域で糞便経由のピロリ菌が井戸に混ざり、井戸水は低酸素状態なのでピロリ菌はすぐには死滅せず、まだ生きている間に井戸水を飲んだのではないかと考えられる。

以上5点から、冷蔵庫とピロリ菌感染には関係ないとされます。冷蔵庫があろうがなかろうが、酸素があるとピロリ菌は死ぬから。

では、冷蔵庫が広まったら胃がんが減った理由はなんでしょうか。
実は、ピロリ菌と塩分の2つがセットの時に胃がんになりやすいことがわかっています。
ピロリ菌を持っていても、低塩分の食事を食べていると胃がんが発症しにくいし、塩漬けの魚介類(たらこ・いくら・塩辛など)や漬物などをたくさん食べる人は胃がんが発症しやすいのです。

というわけで正解は「冷蔵庫が広まったおかげで、生鮮食品の摂取が増えて塩漬け食品の摂取量が減ったから胃がんが減った。」です。

十数年前にWHOの幹部が、あるある学者ジョークで「冷蔵庫を使ったら(減塩できるようになったから)胃がんが減ったんだよね」と論文に書いたのが、「冷蔵庫が広まったから胃がんが減ったんだよ」というセリフの、知る限りで最初の例でした。間のクッションをあえて飛ばしてしゃべって、クッション部分を当てられるどうかで教養を量るのは、海外の学者の会話のあるあるです。この手のジョークをかけられたときは、すぐに「さすが先生、ひねりが効いてますなあ。塩分でしょ?」と返せば、相手は「お、こいつ、ちゃんとわかってるな」となるのです。

クッションがわからないときは素直に、「先生、冷蔵庫を使って胃がんが減る?なんでですか?」と聞けば、「君は勉強不足だなあ。ははは。」などと言って、答えを教えてくれるもんです。しかし悲しいかな、プライドが邪魔してわかったふりして受け流して、あとから「冷蔵庫を使うと胃がんが減る?なぜ?なぜ?低温で保存すると、汚染された食品の表面のピロリ菌が増えないからなのかな」などと妄想した人が日本にいたのでしょう。だから、日本では、冒頭に書いたような誤解がひろまったのではと考えます。

この誤解を積極的に唱えている人は、2パターンあります。一つは、個人経営の消化器内科医。ピロリ菌は酸素で死滅するので冷蔵庫と菌には関係がないことを知らないためです。知っている医師も、減塩を薦めるより除菌を薦めるほうが胃がん予防に手っ取り早いと考えて塩分の話は避けているようです。

もう一つのパターンが「和食が体に良い」という説を唱えている人。この文脈の和食とは、醤油や干物や塩辛など伝統的な塩分の多い日常食を指しています。彼らは「漬物は発酵してるから体に良い」「醤油は健康に良い」などとおっしゃってるものだから、塩分の話はなかったことにしたいのです。だから一生懸命、「胃がんの原因はピロリ菌だ。塩分なんか関係ない!」と意固地になっています。有名な医者でもこういうおかしな議論につい引っかかってしまうとは、日本の将来が心配です。日本を心から愛しているからこそ、和食が好きだからこそ、低塩の漬物を選んだり、だしをきかせた低塩の味噌汁など、塩分ひかえめでおいしい和食を食べたいと思うこのごろです。

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ユネスコ登録版の「和食」は、中国文明に飲み込まれるリスク回避になる。

2020年11月22日 | Weblog
今月は国を挙げての和食月間なのですが、「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録された理由とそれがもたらした結果が意表突きすぎなので、今回はその話。

まず、様々な本にも書かれてますが、最初は「日本料理アカデミー」という団体が中心になって、「会席料理」を和食として登録しようとしたんです。だけど、次の2つの理由で却下されました。
・「無形」文化遺産を登録する制度だから有形の特定の料理は登録できない。
・絶滅の危険性がある文化を登録する制度だから世界的人気のある料理は登録できない。

それで、民間団体にかわり国が、次の論法で登録したんです。
1「おせちの具体的中身は一切定義しないけど、お正月におせちという名前の料理を食べる文化がある。」
2「おせちと同様に、多様で新鮮な食材と持ち味を尊重した、栄養バランスが取れて、自然の美しさや季節の移ろいを表現し、年中行事と密接に関係する食事をとる文化、それが和食。」
3「この文化が廃れつつあるので登録します。」

この方法なら形のないものだし、世界に広まってないから登録できるわけです。

さて、ここで疑問が当然生じます。
「そんな苦労してまでなんで和食をユネスコに登録したかったの?」
・・・当然すぎる疑問ですよね。
いろいろな人に理由を聞いてみたのですが、だれも答えは「わからない」でした。
「理由はわからないけど、だけど、消えつつあるものを保護しようとしてることはいいことでしょう。」「本来の予定では外国人にも人気のある会席料理を登録しようとしたのでしょう?だめって言われたときに、なんで、和食は廃れる寸前ですって言い張ってまで登録しようとしたの?なんの目的で?」「それは・・・知りません」

実は今読み返すと、2013年12月10日のエキサイトニュースにライターの青柳美帆子さんが書いた記事が、非常に重要なのでここに紹介します。

ユネスコで定義した「文化」はどれぐらい歴史があればよいのかと青柳さんが農水省担当者に取材したところ、「栄養バランスがよい」と登録してしまったからには「江戸時代の食生活が栄養学的にバランスが良かったかというと、必ずしもそうとは言えない。」と回答したのです!!!したがって、ユネスコ登録された和食文化は江戸文化ではなく「第二次世界大戦後、日本が再び豊かになってきた高度経済成長期。この辺りで定着・確立した食文化のイメージ」と記事の中で時代が特定されているんです!!
そう、昭和40年代の食事のイメージなんですよ。この時代の日本人は、洋風の食にすごくあこがれたので、行事食にも洋風のものが取り入れられているのです。こどもの日や運動会などでサンドイッチやポテトサラダやフルーツゼリー、バナナなどが食べられた時代なので、家庭によっては、令和の私たちの食事よりも洋風といえるかもしれません。

当然、青柳さんもそのことに気が付いたらしく、クリスマスケーキは文化的に和食の定義に合致するのでは、と水を向けたんです。すると担当者も合意したのです。現時点、個人的には和食じゃないと考えるが「子の世代、孫の世代と、次の世代に移り変わるにしたがって、和食の文化と考えられることもあるのではないでしょうか。」と、至極まっとうな回答をされています。

私もそう思います。クリスマスにケーキを普通の量食べるくらいであれば脂質もそれほどとりすぎではないし、むしろ新鮮なイチゴで冬場に不足しがちなビタミンが取れるメリットがあるし、季節の移ろいを感じられるので、あと10年もしたら和食と言っていいでしょう。イチゴショートケーキって日本人の発明だし。(アメリカやイギリスのショートケーキは歯ざわりがサクサクする別の食品。)

では、和食ではないものはなにかを考えるほうが、和食を考える時にわかりやすいですね。
これはユネスコ登録の時に「新鮮な食材」を重要視しているのがポイントです。2014年前後までは、「日本の食文化は新鮮な食材を最小限調理して、素材の持ち味を残すところに特徴がある。」という解説が普通でした。それゆえに「世界では発酵文化が盛んなのに、日本は発酵食品が比較的少ない。」という声さえあったものです。発酵食品が和食のかなめであるとする説が広まり始めたのはスローフードブーム以降で、この声が大きくなったのはだいたい2015年ごろからです。

今この文章書きながら気づいたのですが、ユネスコ登録の和食は、発酵食品業界や、江戸文化、会席料理(一汁三菜)を宣伝したい人にとっては都合が悪いんですね。
思わずへんな声が出そうになってます。前回は、ユネスコ登録の話がテンプレ化して気持ち悪いと書きましたが、ユネスコ登録を消したい人もたくさんいると気付いてしまった!

さて、今年の和食月間では、「和食」という言葉を使わず「和ごはん」という言葉を使って、「和ごはんとは、家庭でたべられてきた料理で、(1)ごはん、汁物、おかず等もしくはその組み合わせで構成されているもの。(2)だし並びに醤油及び味噌をはじめとする日本で古くから使われてきた調味料等が利用されているもの」を推進するのだそうです。

和ごはんは日常食である一方、ユネスコ登録の和食は行事食(つまりこどもの日やお食い初めなど)ですね。11月は行事が少ないから、ユネスコ登録の和食を話題にしても新聞や雑誌で取り上げる回数が少ない。

でも、問題はラーメン、餃子、韓国料理の焼き肉などが(2)に当てはまるから「和ごはん」になることです。味噌と豆腐は中国から渡来したことと、中華料理や韓国料理を醤油をかけて白米と一緒に食べることが原因で、和ご飯と中国・韓国料理の境界線はあいまいになるのです。一方、クリスマスケーキは「和ごはん」には絶対になりません。私たちが欧米の食事を排除し、中国・韓国の料理に近づけば、近い将来は世界中から「和食は中国文明の亜種ですね。」と言われそう。

ごちゃごちゃしてきたので、もう一度ポイントを繰り返します。
ユネスコの和食定義では季節の行事・文化との結びつきを重視しているので
イ・味噌、醤油、だし、発酵食品、ご飯中心の一汁三菜などを和食と定義できない。
ロ・クリスマスケーキなどの洋風料理でも、文化として定着して栄養面でもバランスがとれていれば将来和食になりうる担保を残して、文化としての懐の深さをアピールしている。

 この2点があるおかげで、「和食は中国文明の辺境」と誤解される可能性を回避できる。

別の角度からも情報提供します。味噌が体に良いと主張する雑誌記事や論文読むと、大げさに話を盛っているグラフや説明が多々目立つので気を付けてください。また、一汁三菜については昭和30年代から平成14年前後まではおかずや汁物にミートボールやマカロニサラダやポタージュを入れて当然でしたが、最近は「一汁三菜は味噌汁や豆腐など伝統的食材だけで構成される料理だ」と力説する人がいることです。

以上を踏まえて最後に、もう一度読者の皆さんに問い直します。
ユネスコへの登録は誰のため。
和ごはんの再定義は誰のため。
味噌や発酵食品を和と強調するのは誰のため。

私たち消費者は、なんとなく流されて生きていてはいけない。そんなことを強く思い起こされる月間です。



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和食がユネスコ頼りの構図は赤信号。

2020年11月10日 | Weblog
私も和食は好きなのですが、ここ数年のマスコミ記事は、和食の文章がステレオタイプ化して気がかりです。
「2013年にユネスコ無形文化遺産に登録された「和食」は・・・」と話を振るテンプレ化現象。気が付かなかった方は、ここ数年の新聞や雑誌や番組紹介欄の「和食特集」を見てください。膨大な量ですぞ。
「たらちねの母」でもあるまいしと思うんですが、「ユネスコもほめた和食」が枕詞化してるんで、これは怖い現象ですよ。

和食ってもっと多様で、いろいろな切り口があると思うのですが、マスコミでは「そう書きなさい」って指図する人がいるんじゃないかと勘繰りたくなってきました。世の中には多様な意見があったほうがいいと言ってるマスコミの方には、範を垂れてほしいものです。

一般の人もなぜ反応しないんだろう。
「パリではこうしているので見習らおう。」「カリフォルニアでは・・・」という人にはそっこーで「でわのかみ!日本を卑下していてけしからん!」と批判する人が、「ユネスコが認めた和食」と聞くととたんにデレデレになって「そうそう、そうなんだよ~。外国人が認めたんだから私たち日本人も和食をみなおさすべきだね~」と言ってたりする。
やっぱり本音は「外国のほうが偉い」って考えているんだろうか?

「ユネスコも認めた和食」という決まりきった文章に頼らざるを得ない?ということは、和食って、それほどじり貧なのですか。だとしたら「ユネスコもほめたんだもーん」という共同幻想にうっとりしてゆでガエルになっている間に、和食は絶滅するのではと不安になります。

ちなみに、和食好きって人たちに聞いてみたら「自給率を挙げて社会に貢献したい」という人がちらほらいて更に驚きました。そばやうどん、味噌や醤油や豆腐の原料になる大豆や、魚介類は輸入が多いんですよ。こういうのは、食品業界の人間なら知ってる事実だけど、一般消費者には知られてないのが悲しい。

世のため人のためと信じて、勉強不足で明後日の方向に走っちゃう人が多いので、皆さんも気を付けてください。

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熊倉功夫先生の「和食という文化」がやっぱり残念。

2020年10月25日 | Weblog
今回もNHKテキスト「和食という文化」を読みます。
何度読んでも味わいが深い本です。第13回「和食の今、そして未来」の章もそうです。
日本人は外来文化を取り入れ古来の文化と混ぜるのが好きだ、という有名な説に触れる章ですが、いままでとはお考えが違うようです。

従来の学説では、熊倉先生もそれ以外の様々な学者も、「古来の文化を簡単には捨てない」ところが日本の食事の特性だと指摘していました。例えば、日本人は粘り気やもちもち感が大好きなものだから、カレーライスには小麦粉でとろみをつけるイギリス式カレーを採用しました。パンも、欧米風のクリスピーなパンではなく、日本独特のしっとりもっちりになりました。だから外国の方が日本の食パンを食べると柔らかさに驚きます。

ところが、この本の中では、熊倉先生は「外来文化を摂取して古い文化を捨てることに、あまり痛痒を感じないところがあります。」と従来とは逆の立場を示しています。「古い文化を捨てる?痛痒を感じない?」。なぜ先生はそういうのだろうと悩みました。捨ててないですよね、ジャポニカ米、みそ汁、昆布にサンマにマツタケに刺身にまんじゅうにせんべい。新しい文化の影響を受けて味付けなどが変化しつつ、古い文化も息づいている、というのが多くの学者の声と思います。

なぜ先生は従来と異なる説を書いたのかな?とページをめくると、先の文章の続きは「牛肉を明治時代に取り入れた経緯の説明」でした。つまり、明治時代に牛肉を醤油味やみそ味で鍋にしたことを指して「古い文化を捨てた」というのです。

しかし、鶏鍋は江戸時代からもてなし料理でした。鳥以外に牛も鍋に入れることで食材のバリエーションが増えたというのが実態で、古い文化を捨てたとまで言うのには疑問符がつきます。いままではあちこちで、「日本文化は様々な文化を取り入れてきた」と説明していた熊倉先生が、なぜ牛肉を食べたことについては「文化を捨てた」と説明するのか、一読者として困惑しました。

そして先生はこの後、西洋風料理や中国料理が日本に入ってきたことについて、あまりよいことではないという意味をにじませて紹介されています。どうやら、なにかあまりよくない香りがしてきます。

例えば柳田國男の「食文化に入り込む個人の自由」という有名なことばを章のタイトルに引用し、日本人が個人個人で異なる食品を選んできた歴史を紹介するくだりがあります。しかし柳田とニュアンスが違います。
柳田は、冷たい米飯を食べる文化から温かい米飯を食べる文化に変化したことや、かつて固い雑穀を食べていたのが柔らかい白米に変化したこと、甘い食品や新しい食品を食べたがる志向を指して「個人の自由」と述べました。しかし熊倉先生は、そのうちの「新しい食品を食べたい志向」について、洋風料理については差別的なからかいがにじむ筆致になる一方、鍋料理はほめています。

具体的には、雑誌「主婦の友」1917年5月号に掲載された「手軽なオムレツ」「豚とキャベツの酢味噌あえ」の洋風レシピについてなにか誤解して、次のようにからかっています。「意識の高い女性たちは日々あたらしい料理を作らなければならぬという強迫観念にとらわれていったでしょう。」「良妻賢母教育の一つ」と。他方、1918年2月号に掲載されたタイのちり鍋や牡蠣の土手焼、すき焼きなど鍋特集については、みんなが同じ鍋に箸をいれるのはこのころ生じた新しい習慣だが共同体の結束を高めると肯定しています。どのレシピも「個人の自由、新しい食品を食べたいと思った」結果なのですが、熊倉先生は洋風レシピだけを「意識高い系の強迫観念」とディスるので、どうしてなのかと心配しました。

なにか変だと思ったので、図書館で大正時代の主婦の友を確認しました。すると、さっきの鍋特集の「牡蠣の土手焼き」レシピにこんな説明があったのです。「広島の名物料理ですが、牡蠣の料理としては最も美味しいものです」。そう、つまり、あなたの知らない遠い地方の料理に挑戦してみませんかとすすめる記事です。しかも隣に「かきちりウスタソース」という洋風の鍋も掲載されていました。オムレツや豚キャベツが「意識高い系のマウンティング系強迫観念料理で良妻賢母型」で、地方名物料理やウスタソース鍋はなぜそうじゃないのか、さっぱりわかりません。

しばらく先生の本と主婦の友を比較しているうちに謎が解けました。
熊倉先生は、すごく大事な基本情報を知らなかったのです。
実はこの雑誌は、サラリーマン主婦の節約テクニック雑誌としてヒットしたのです。発刊は大正6年(1917)。お米をはじめとする生活必需品の値段が急激に上昇して、サラリーマン主婦がものすごく困っていた時期です。あまりお金のない主婦が「物価が高くて困るわ。とにかく安くて、家族が喜んでくれる料理はないかしら。」と愛読した雑誌なのです。他人と差をつけたい女性が背伸びするための雑誌ではありません。

そんなまさか?と思った方のために、記事を一部紹介しましょう。
第一号(1917年3月号)の巻頭記事は、ドイツの裕福ではない中流家庭の涙ぐましい努力の見聞録です。そのほかには、未亡人が一生懸命子供を育てて博士にした話や、安値で建てた便利な家、手軽な経済料理、1月65円で6人家庭がどうやって生活するかテクニック。そんな、どれもこれも、つましい節約話。
第二号は、葬式をいかに安く済ませたか、手軽な内職、月収26円の小学校教師の家計、自作農家の苦しい生活・・・・。もうこれは「令和の雑誌か?」と言いたくなりますね。

 
第五号(1917年7月号)が決定的と言えます。「家庭経済の十五秘訣」というコーナーで「流行を追うは家の破滅」と断言しています。

先の西洋風料理2品は、この第五号の「夏向きの経済料理」特集の43品中の2品です。熊倉先生は、この特集は1918年7月号だったと1年間違えてますが、それはタイプミスだとしても、「豚とキャベツの酢味噌和え」「手軽なオムレツ」の見開き隣には、記者の書いた広告記事があり、女学校で習う料理はお客様向けだから家庭には役立たない、人気グルメ本「食道楽」は主婦に役立たないと書いています。節約料理本の広告記事なので、編集方針としてセレブのグルメ料理を否定したことがわかります。「牡蠣の土手焼き」や「手軽なオムレツ」は、強迫観念で珍しい料理を食べようと背伸びしたわけではなく、少ない家計の中で家族の笑顔を思い浮かべながら工夫した料理だったのです。


女学校の良妻賢母教育の料理を否定し、人気グルメ本を否定し、「流行を追うのは家の破滅」だという記事を載せているこの雑誌のどこを読んだら、意識高い系の女性が強迫観念で目新しい食事を追いかけた料理で良妻賢母教育の結果だ、と読めてしまうのでしょうか。

さっき、「夏向きの経済料理」特集に43品目が載っていたといいました。その内訳をご紹介しましょう。
・洋風料理はたった4品。(手軽なオムレツ、シチュー、トマトとキャベツとひき肉の煮込み、ジャガイモと玉ねぎの油炒り)
・中国韓国風は2品。(豚肉の塩蒸し、焼き肉)
・伝統的食材を主役にひき肉やバターなどを追加したレシピが5品。(牛肉豆腐など)
残り32品は伝統料理。伝統的保存食「きゃら蕗」「昆布の佃煮」のほか、「そらまめの煮つけ」「さやいんげんのしたしもの(ひたしもの)」「なすの丸煮」「どじょう汁」「わかめの酢味噌和え」「鯉のあらい」などです
熊倉先生の本から受けたイメージと異なり、圧倒的に伝統料理が多いので驚きました。

最後に、数少ない洋風料理の一つ「手軽なオムレツ」レシピをここで紹介しましょう。
ネギ1本と卵1個をバターで加熱して醤油かソースをかけただけ。バターを植物油にすれば江戸の伝統料理にそっくりなので、すっかり拍子抜けしました。
 熊倉先生、先生の書いた文章と実物が違うので残念です。今後は正確に文献を読んで書いてくださることを願っております。


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近藤正二教授の長寿村研究の落とし穴。

2020年09月12日 | Weblog
「これが体に良い」という話がコロコロ変わることについて、このごろ「人間の研究結果なら信頼できる」と言われます。もちろん一般論としては正しいのですが、時々例外もあります!

 特に有名な例外は、昭和初期から昭和40年代まで、長寿村「と呼ばれる」地区を全国津々浦々調査した、東北大の故近藤正二教授の「長寿村研究」です。この研究は、昭和初期からだいたい昭和30年代初頭までのデータは比較的信頼性の高いデータですが、30年代半ばからデータの信頼性が落ちて、昭和30年代末以降のは残念なことに「使えない」データです。なぜこんなことになったのか。今回はそのお話をしましょう。

 先生は、何を根拠に長寿村とそうでない村を分けたか。それは「村の全人口を分母に、70歳以上のお年寄りの人口を分子に計算して、値が大きいほど長寿村とする」というルールでした。この方法は昔の日本では確かに理にかなっていました。

ところが昭和30年代に「車社会」と「テレビ」が農村にも訪れて、「都会で建設業や工場で働けば儲かるぞ」、「高校や大学に進学すれば高給取りになれるぞ」、とたくさんの情報が入ってきました。当時は子だくさんの時代。遺産相続で田畑を5~6人で分けると、面積が小さくてとても食べていけません。だからお父さんお母さんは長男に田畑をつがせて、次男・三男・娘達には「都会に出て独り立ちするんだよ。よりよい暮らしを目指すなら勉強して頑張るんだよ。」と励まして見送ったのです。

 都会に行った子供らは都会で結婚して家を作り、ほとんど戻りませんでした。長男は家を相続するために村に残りましたが、家を相続させてもらえない女子はほとんど村を離れたので、農村は結婚難に陥り、子どもの数もどんどん減りました。村はお年寄りだらけになりました。

近藤先生の「長寿率」はかつては村の「健康度」を反映していたのが、こうして昭和30年代末頃から「過疎の指数」に変化してしまったのです。ところが近藤先生も周りの方々もうっかりこのことに気がつかず。

このため、以前このブログでも書いたとおり、別の学者が昭和40年代に近藤先生の計算法を用いて「お米を食べない山梨県の棡原村は大変な長寿村だ!じゃがいもや雑穀ばかりの食事が体に良いのだ!」と唱えたため、当時のワイドショーはこの話ですっかり持ちきりになってしまった、という訳です。(もしかしたらお米の消費が減少した一因だったかも?)

つまり、人間のデータは多くの場合は信頼性が高いが、社会の変化が原因で採用出来ないデータもあるので、素人がきっちりと信頼性を判断するのはとても難しいものです。素人に簡単に判断できるものなら、最初から研究者なんて職業は要りません。

では素人はどうすればいいのでしょう。新しい健康法というのが流行してはすぐ去るのを見ていれば、そういうものにはすぐに飛びつかないことが一番賢明だと分かります。その健康法の指導でお金をもうけている人たちやその健康法を勧める出版社・芸能人の社会的ポジションなどを見て判断することが大事です。誰に買い支えられているか、バックグラウンドを見て、変なビリーバーが多かったら要注意。そんなのとママ友にされてしまい、頼まれていやいやお金を貢いだら人生の浪費ですよ。

変な流行を見破るためにこのブログがお役に立てば幸いです。

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「一汁一菜で良い」は貧困と疑似科学を正当化させかねない。

2020年08月10日 | Weblog
昨今の「ポテトサラダ問題」には憤りを覚えました。スーパーの惣菜売り場で買い物する女性に「母親ならポテトサラダくらい手作りしろ」と暴言を吐いた男性がいた、最近話題の出来事です。このような男性は、子育てしながら料理を作る大変さを何もしらないのでしょう。

このような、女性に過度の負担をかける風潮に対して、近年怒りの声が上がっています。例えば、有名な料理研究家の土井善晴先生は「具だくさん味噌汁なら一汁一菜で良いじゃないか」と指摘しています。あくまでも前提条件に「具だくさん味噌汁なら」がついているところがミソですが。だじゃれじゃなくて、まじめな話。

8月9日のyahooニュース「レタスクラブニュース」記事に、「(栄養バランスは)汁物とご飯だけの『一汁一菜』でも、おかずをご飯に乗せただけの『丼物』でも、まったく問題ありません」と主張する料理研究者の方が登場して、歴史を知らない方だなあと驚きました。一汁一菜とは汁物とご飯だけという意味ではありません。「白米(または七分づき米や玄米など)を素のまま茶碗に盛ったものと、汁物一杯、おかず一つ、漬物少々」という意味で粗食とほぼ同義語です。

レタスクラブに登場した料理研究家は、「汁物とご飯だけの一汁一菜でまったく問題ありません」と、おかずも要らないと言った後で、「タンパク質、食物繊維、炭水化物などがしっかり含まれていれば、一皿でも『バランスの良い食事』になります。」と言葉を補ってます。一皿で栄養バランスが取れるようになったのは最近の出来事なんです。以前の日本型食生活のおかずは「めざし」「コロッケ」「肉じゃが」「おひたし」「ハンバーグ」など、特定の一食材のキャラが立つものが多数で、一皿で栄養バランスが取れる物はごく少数でした。だから一汁一菜にすると自動的に、「おかずはほとんど魚だけか、ほとんど肉だけか、ほとんど野菜だけ」だったのです。肉野菜炒めなども名前ばかりで、野菜ばかりで肉はほんのかけらというのもよくある話でした。

しかも、汁物には具がほとんど入ってなかったんです。味噌汁でもすましでも。地方のひなびた旅館の朝食だといまでもそのスタイルですが、例えば消しゴムより小さい豆腐しか入ってない味噌汁やアサリが2個しか入ってないあさり汁が当たり前でした。

だから、かねてから、栄養指導に携わる方々は、健康を害することを心配して「一汁一菜は良くない」といっていたし、土井先生も「あくまでも具だくさん味噌汁と条件付けすれば、野菜もタンパク質も取れるから一汁一菜もアリ。」と指摘しているのです。

先の、レタスクラブの記事に登場した料理研究者は若い方なので、日本の伝統文化を知らなかったのでしょう。なにせここ10数年でおかずのバラエティが爆発的に増えて、肉も野菜もボリュームたっぷりなおかずが様々に開発されたので、そういう「一品満足型」とでも言うおかずを食べれば一汁一菜でもそうそう栄養が偏りにくいのです。でも、そういうおかずを作るのは、やっぱり、そこそこお金と時間がかかるのです。
(うちは旦那も手伝ってくれるし、一品満足型の「ミールキット」(包丁要らずの料理キット)が市販されてるので助かってます。)

でも「一汁一菜で十分」と断言してしまうと、本来の一汁一菜「米を炊いた飯と、豆腐がサイコロ2個分しかない味噌汁と、魚(または野菜の煮転がしとか)」と混同する読者が必ず出てきます。特に40歳以上の方には誤解が続出することでしょう。そして、「私の家はコロナ禍で生活が苦しいけど、一汁一菜でも栄養が取れるってヤフーニュースも言っていたから、こんな素朴なご飯で十分なんだ、我慢しよう。」と国民の怒りを口封じするのに悪用される可能性があります。

一番怖いのは、「一汁一菜で十分」という台詞が一人歩きすれば、陰でほくそ笑むのは、食養と、貧困家庭の不満を黙らせたい一部の経済界の連中。

食養とは、明治末に生まれて歴史的になんども流行している「大量にお米を食べれれば、おかずなんて、ほんのちょっぴりでよい。だから一汁一菜が一番良い。しかし絶対に手作りしなさい。コンビニは使うな。」という疑似科学です。戦前は貧困者を黙らせる方便や、戦争中物資が乏しくて苦しい国民を黙らせる目的に悪用されました。昭和50年代と平成10年代には、お米の消費拡大と女性を家庭に縛り付ける目的で流布されました。
特に平成10年代の食養は食育に深く関与して、「市販の食品は添加物が入っているからお母さんが家で手作りしなさい。市販のスナック菓子やベビーフードなんて子どもに絶対与えてはいけない。」と呪いをかけて、保守系の方にこびをうってました。

お母さんが手作りしろというポテサラ男は時代遅れですが、「一汁一菜で十分です」と語るのも、女性の呪いを解くつもりが逆に食養の呪いを復活させかねません。

 スーパーの惣菜売り場に並ぶおかずを見れば、ポテサラはポテトとマヨネーズに偏り、肉じゃがはほとんど肉が無く、焼き魚は魚ばかりだし焼き鳥は鳥肉ばかりで、こういうパターンの一汁一菜を毎日続ければビタミンなど栄養素が不足してしまうことは、もうバレバレです。

 提案ですが、一汁一菜で良いという言説を否定して、スーパーやコンビニの惣菜や外食を活用して、一汁二菜や三菜をしてみませんか(ただし、「一汁三菜が日本の伝統」という説は、「日本スゴイ」に固執したい方々の妄執で、豊富なおかずが食卓に並んだのは1970年代末~90年代初期です)。

そして、スーパーやコンビニの惣菜、外食で様々なおかずを食べるだけのお金がなければ、「こんな低賃金で働かせる社会がおかしい」ときちんと言うべきでしょう。
貧困から目をそらす「一汁一菜でよい」の呪いの言葉に惑わされずに。


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宮沢賢治「ビジテリアン大祭」ダイジェスト版です。

2020年07月17日 | Weblog
宮沢賢治先生の短編小説「ビジテリアン大祭」は、有名なのに実物を読んだ方は意外に少ないです。1世紀前に書かれたから、現代とニュアンスが異なる単語が多いため、読了できなかった読者もいると思います。そこで今回のブログは、あらすじを紹介して、最後まで読む手助けをしたいと思います。関心を持ったら原文でお読みください。

なお、オチは宮沢賢治が書いたと思えないほど皮肉たっぷりで、さらにそのオチに、登場人物が突き抜けたコメントをして物語が終わります。オチは原文で楽しみたいと思う方は、【ネタバレ】印以降は読まないでくださいね。

それでは、あらすじをご紹介します。
 主人公の「私」は、外国の小さな村で行われた宗教的なベジタリアン祭りに、日本の仏教徒一同の代表者として参加します。
会場に着く前に、ベジタリアン批判のビラを受け取って困惑し、教会広場のテント会場に行くと大勢の方々が集まっていて、「異教徒席」に20人前後の人が座っています。

大祭が始まると「異教徒」はベジタリアンを批判し、一問一答でベジタリアンの先生方が反論します。
例えば、異教徒が「人間の犬歯は肉を割くためにあるのだから肉も少しは食べるべきだ」と言うと、子供じみている発言だとベジタリアン側は爆笑し、「自然だから良いという話は間違っている。自然が良いなら畑を作るのは悪いことだし、泥棒は良いことになる。自然が良いなら鉄道を使って会場に来てはいけません。」と諭します。

こうして異教徒は1人また1人と言い返せなくなって、ベジタリアンに改宗します。
最後に残った1人の異教徒が、「だったらどうして君たちは羊の毛の帽子をかぶるのか?」と叫ぶのですが、このような発言は、執筆された当時は頭が悪い人と見なされる発言なので会場は大爆笑となります。
合成繊維や合成皮革のない時代、寒さから体を守るためには羊の毛はとても重要でした。
その時代背景でも羊毛を使うななんて発言すれば、爆笑されてもしかたないこと。

笑いものにされて、紳士は「自分もベジタリアンになる、いや、前からベジタリアンだったような気がします」と言います。
そして、不思議なことに、「本日異教徒席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろうと思う」とまで言い出します。

【ネタバレ】

しかも、ベジタリアン側の神学者も彼に同意するのです。
この奇妙なシーンの後、驚異のネタバレ。
紳士が、裏話を明かすのです。

実は、私は有名なあの人気一座の喜劇俳優です。
祭りの余興として祭司次長に頼まれてみんなでお芝居をやっていただけです。
私は気の弱い人間ですので、このお芝居が不愉快だと思った方は次長を攻撃してください。

この後、「私」がすごい言葉をつぶやくのですが、その内容は今日のブログの最後に記します。
肯定派と否定派の激論の正体が、ベジタリアン運動を内輪で盛り上げるためのお芝居だったという強烈なオチから、賢治先生がベジタリアン運動に疑問を抱いていたことが明らかです。おそらく「我々は世間から疎まれている!」と扇動して結束力を高めようとするベジタリアンを見て、情けないと思ったのでしょう。

さて、いよいよ、本日のラスト。全てがお芝居だと知った主人公の「私」は、脱力して、読者にこう語りかけます。

「愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまいのありふれた舞踏か何かを使ってご勝手にご完成をねがうしだいであります。」
活動写真というのは、現代の言葉では映画や動画のことです。つまりラストの一文は、令和の今の言葉に置き換えるとこうなります。
「愉快なベジタリアン祭りのライブ動画やってんのに、裏を暴露されてww。時間余ったので、残り時間はテキトーにダンス動画で埋めて草。」

うん、1世紀前に書かれたとは思えないぐらい現代的なコメントですね。ダンスもいいけど子猫のスライドショーで埋めてもいいね。

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テーブルとブラック企業は無関係ですよ。熊倉功夫先生「和食という文化」,その3

2020年06月14日 | Weblog


前々回に続き、熊倉功先生の「和食という文化」(NHK出版)を読みます。
大正時代まで日本の食卓はそれぞれが各人の「箱膳」で食べる孤食でしたが、昭和初期にちゃぶ台が主流になり、昭和40年代半ばからはテーブルに置き換わりました。これは過去にこのブログでも紹介したお話です。

しかし、この本では以下のような興味深い内容になっています。ちゃぶ台がテーブルに置き換わったころの昭和40年代半ばから父親不在の食卓が広まりましたが、そのわけは、「企業戦士と期待された父親は夕食の時間までに家に帰れません。」だからです。確かにそうだなあと思います。

この時代変化を指して、熊倉先生は154頁でこう指摘しています。「低成長時代になっても父親は帰ってきません。つまりテーブルに移行することで、ちゃぶ台に象徴される日本の家庭像は崩壊が始まったのでしょう。」!?  テーブルに移行したのが原因でお父さんの帰りが遅くなって家庭像が崩壊したって、なにかの勘違いですよ。先生も知っているでしょう?、お父さんの帰りが遅かったのは、高度経済成長期に日本企業がブラック化して、深夜まで接待や飲み会に付き合わされてたからですよ。

昭和48年のオイルショックで不況、低成長時代になると残業が増えて、企業はますますブラック化したんです。その後のバブル期は夜遅くまで接待で飲み歩くため帰りが遅く、バブル崩壊後の不況でブラック度が加速しました。テーブルを使うようになったからブラック企業が増えた訳ではありません。「テーブルに移行することで企業がブラック化して、ちゃぶ台に象徴される日本の家庭像は崩壊が始まった」というなら、「白黒テレビがカラーテレビになったから企業がブラック化した。」ということさえ可能になってしまうから、それは止めたほうがいいですよ。

テーブルに移行した時代について、熊倉先生は「テレビも加わり、ながら食べが日常となりました。」とも描写しています。そう、昭和40年代に、「お父さんがガミガミ言うのが当たり前」という、怖い食事の時代は終わりました。軽いちゃぶ台から重いテーブルに変化した恩恵で、民放アニメ「巨人の星」(昭和43-46年)のようにちゃぶ台をひっくり返すのは不可能になりました(※)。ただし、当時は、地方山間部など民放の電波が届かないエリアも多かったため、NHKを見ている人数の方が多かった・・・。

というわけで今回の結論。昭和40年代に、巨人の星のちゃぶ台に象徴される恐怖と圧政の家庭像は崩壊し、テーブルに象徴されるNHKを見ながら和やかな会話を楽しむ楽しい食卓が形成されたのです。


※ネット上では「巨人の星でちゃぶ台返しシーンはない。」「いや、確かにアニメの中で、お父さんが意識的にちゃぶ台を手に持ってひっくり返す場面がある。」等、様々な情報が流れています。どれが真実かは分かりませんでしたが、昭和の終わりに「巨人の星=ちゃぶ台をひっくり返す番組。」というイメージが成立していたのは事実です。

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それはコロナ患者に失礼では、坂本龍一さん・・・・・

2020年06月04日 | Weblog
ウェブマガジン「GQ」2020年5月25日「教授動静第22回」で、坂本龍一さんはコロナ患者を「バチ当たり」と表現していたので、私は志村けんさんを思い出して泣いてしまいそうになりました。
坂本さんは取材にこう答えたのです。
「日本にいるときにニュースで見たんですけど、町のふつうのおばちゃんが”コロナ?人間が調子に乗ったバチでしょう。自然が怒っているのよ”って、さらっと言っていたんです。」と。坂本さんは、こういうアニミズム的な発想こそが欧米より優れている点だと得意になって話していましたが、コロナが「自然が人間に与えた罰」ならなぜ何の罪もない方が病や貧困で苦しむのですか。

自然が人間に対してバチを与えるなら、大震災の結果、何の罪もない福島の方々が東京の人間の肩代わりをして苦しんでるのもバチですか?そうじゃないでしょう。自然が人間にバチを与えるなんて言い方は弱い者いじめだから止めてください。

昔の日本では、「食べものを粗末したバチが当たった」と障害者をいじめたり、「なんかのバチが当たったのさ」と病人を隔離して堕胎や自殺に追い込む苛烈な差別をしていたのです。こんな悲惨な歴史を繰り返してはなりません。坂本さんには歴史の勉強をしてほしいと思いました。

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