ある大学の、食養を信じている先生から、こんな奇々怪々なお話を聞きました。
「民俗学でよく耳にする『昔の人は麦飯や雑穀飯を食べていた』なんて話はぜーんぶウソ。江戸時代はお米が貨幣の単位で、この単位を『石(こく)』と言いますが、幕府には各藩から資産報告があり、それらを計上すると〇〇〇万石にもなりました。これをお米の量に換算して、当時の人口で割ると、一人あたり数百キログラムにもなります。だから全国の日本人はみーんなお米をたらふく食べていたんですよ。民俗学者は示し合わせてウソを付いていたのですよ。」
タミアは唖然となりました。何しろ宮本常一先生をはじめとした多数の研究者の膨大な量の報告書や文献に、「昔は××地方では麦類や雑穀を食べていた。」と書いてあります。そうした先生方が示し合わせてウソを付いていたなんて、そんなことが可能なのでしょうか。そこで我が家の「歩く百科事典」こと珍獣ダンナー(世間では夫と呼ぶらしいのですが・・・・。)にこの話をしたら、ダンナーは苦笑いして言いました。
「その大学の先生は、すっかり誤解なさってるんだなあ。幕府に報告していた資産とは、米だけでなく、海産物や材木やロウ、うるしなども含めるんだなあ。どの産品を報告上の資産にするかは幕府と藩の間の話し合いで決められてたんだなあ。藩ではそれらの生産量を合算して、お米の価値に換算したらどれくらいになると計算して『石』を算出し、幕府に報告したんだなあ。幕府の方はそれを参考にしながら、幕府への貢献度など様々な政治的力学も考慮した上で、各藩の石高を定めてたんだなあ。だからその先生みたいな計算をしても、生産されたお米の量とはぜんぜん合わないんだなあ。」
タミアも爆笑です。
「あはははは。材木やうるしや、幕府への忠義心などは、食べられないねえ。」
「例えば対馬藩は十万石とされたけど、お米はたった五千石も収穫できなかったんだなあ。盛岡藩は20万石だったけど、蝦夷地を警備した褒美に与えられた石高なので、実際にはお米はあんまり取れなかったんだなあ。」
「なるほど・・・あれ、でも、たしか江戸中期から後期にかけて各藩で新田開発を盛んに行ったので、公式発表された表向きの石高よりもお米の生産量が多かった地域も多かった、と高校の歴史で習ったんだけど・・・?」
「あはは、肝心なことに気がついて無いんだなあ。お米はただの換金作物ではないんだなあ。当時は米本位制だから、お米はそのまんまイコールお金、だったんだなあ。つまり、水田は食糧生産の場ではなかったんだなあ。」
「どういうこと?」
「水田は、現代の感覚で言えば造幣局に相当したんだなあ。」
「!!つまり、為政者から見ればお米農家さんは、お金を作っているように見えたということね?」
「そうなんだなあ。だから、中には心優しい藩主もいたようだけど、多くの藩では取り立てを厳しくしてたんだなあ。よく『1石で一人が1年食べられる量だった』とされるけど、例えば、百万石の藩=藩で100万人養える、という意味ではなかったんだなあ。時代によって徴税率は異なるけど仮に5公5民(注:藩が収穫量の半分を徴税すること。)だったとしたら、農民の手元に残るのは50万石、そこから小作農家は地主に小作料や水を使う権利の水利費などをお米で支払ったから、小作農家の手元に残ったのは少しだったんだなあ。
そこから商人に、すきやくわなどの農具、衣類や日用品などの代金をお米で支払ったので、残ったお米はわずかだったと言われるんだなあ。だから多くの農家は雑穀や裏作の麦などを主食としていたんだなあ。」
「大量に徴税した藩は、そのお米をどうしたの?」
「職員には給与をお米で支払い、残りのお米は札差に売って現金化したんだなあ。江戸幕府からは、やれ五街道の整備だ、やれ名古屋城の建築整備だ、やれ権現様の廟の修理だ、やれ参勤交代だ、と理由をつけては沢山のお金や労力を提供するように言われて、赤字に困っている藩が多かったんだな。そうしてお米は江戸や大坂などの大都会に運ばれたんだなあ。」
「そうすると、逆に都会ではべらぼうな量のお米が集中することにならない?」
「だから、江戸では白米ばっかり食べておかずが少ない食事形式が広まって脚気が多発したんだなあ。それに、かなりの量のお米が輸送や保管の途中でコクゾウムシという害虫に食べられて目減りしていったんだなあ。江戸時代にはコクゾウムシを防ぐ技術はなかったんだなあ。」
「それ本で読んだことがある。都会の貧困層は普通のお米を買えなくて、コクゾウムシのわいた『ふけ米』を買って食べていたと・・・。それでも何も食べないよりはましだったという話だった。」
「なるほどなんだな。食糧は権力や政治力のある所に集まるというのが、古代から現代までの歴史が物語っているなあ。現代も、穀物が世界中に均一に行き渡っているかというと、そうでなく、お金のある地域に集まっているなあ。人間の悲しい性なんだなあ。それと似たようなことが江戸時代にも生じていたんだなあ。お米の収穫出来ない藩は、お米の取れる藩からお米を買って人民に分け与えるなんてことはできなかったんだなあ。そんなことしたら財政が傾くからなんだなあ。だから、日本にはお米が食べられる地域と食べられない地域があったんだなあ。」
「例の先生は、江戸時代の政治経済の仕組みや、現代にも通じる人間心理などを全く踏まえずに、机上の空論を述べて居たのね。」
食養の信奉者の間では、さっきの大学の先生のような奇妙な説があるということで、心を痛めてます。民俗学者を嘘つきと呼ぶ前に、まずは大学の先生だからこそ、しっかり研究して話をしてほしいのです。これからの時代を背負う若い世代が誤った道を歩まないように、きちんと歴史を教えて欲しいと思います。
「民俗学でよく耳にする『昔の人は麦飯や雑穀飯を食べていた』なんて話はぜーんぶウソ。江戸時代はお米が貨幣の単位で、この単位を『石(こく)』と言いますが、幕府には各藩から資産報告があり、それらを計上すると〇〇〇万石にもなりました。これをお米の量に換算して、当時の人口で割ると、一人あたり数百キログラムにもなります。だから全国の日本人はみーんなお米をたらふく食べていたんですよ。民俗学者は示し合わせてウソを付いていたのですよ。」
タミアは唖然となりました。何しろ宮本常一先生をはじめとした多数の研究者の膨大な量の報告書や文献に、「昔は××地方では麦類や雑穀を食べていた。」と書いてあります。そうした先生方が示し合わせてウソを付いていたなんて、そんなことが可能なのでしょうか。そこで我が家の「歩く百科事典」こと珍獣ダンナー(世間では夫と呼ぶらしいのですが・・・・。)にこの話をしたら、ダンナーは苦笑いして言いました。
「その大学の先生は、すっかり誤解なさってるんだなあ。幕府に報告していた資産とは、米だけでなく、海産物や材木やロウ、うるしなども含めるんだなあ。どの産品を報告上の資産にするかは幕府と藩の間の話し合いで決められてたんだなあ。藩ではそれらの生産量を合算して、お米の価値に換算したらどれくらいになると計算して『石』を算出し、幕府に報告したんだなあ。幕府の方はそれを参考にしながら、幕府への貢献度など様々な政治的力学も考慮した上で、各藩の石高を定めてたんだなあ。だからその先生みたいな計算をしても、生産されたお米の量とはぜんぜん合わないんだなあ。」
タミアも爆笑です。
「あはははは。材木やうるしや、幕府への忠義心などは、食べられないねえ。」
「例えば対馬藩は十万石とされたけど、お米はたった五千石も収穫できなかったんだなあ。盛岡藩は20万石だったけど、蝦夷地を警備した褒美に与えられた石高なので、実際にはお米はあんまり取れなかったんだなあ。」
「なるほど・・・あれ、でも、たしか江戸中期から後期にかけて各藩で新田開発を盛んに行ったので、公式発表された表向きの石高よりもお米の生産量が多かった地域も多かった、と高校の歴史で習ったんだけど・・・?」
「あはは、肝心なことに気がついて無いんだなあ。お米はただの換金作物ではないんだなあ。当時は米本位制だから、お米はそのまんまイコールお金、だったんだなあ。つまり、水田は食糧生産の場ではなかったんだなあ。」
「どういうこと?」
「水田は、現代の感覚で言えば造幣局に相当したんだなあ。」
「!!つまり、為政者から見ればお米農家さんは、お金を作っているように見えたということね?」
「そうなんだなあ。だから、中には心優しい藩主もいたようだけど、多くの藩では取り立てを厳しくしてたんだなあ。よく『1石で一人が1年食べられる量だった』とされるけど、例えば、百万石の藩=藩で100万人養える、という意味ではなかったんだなあ。時代によって徴税率は異なるけど仮に5公5民(注:藩が収穫量の半分を徴税すること。)だったとしたら、農民の手元に残るのは50万石、そこから小作農家は地主に小作料や水を使う権利の水利費などをお米で支払ったから、小作農家の手元に残ったのは少しだったんだなあ。
そこから商人に、すきやくわなどの農具、衣類や日用品などの代金をお米で支払ったので、残ったお米はわずかだったと言われるんだなあ。だから多くの農家は雑穀や裏作の麦などを主食としていたんだなあ。」
「大量に徴税した藩は、そのお米をどうしたの?」
「職員には給与をお米で支払い、残りのお米は札差に売って現金化したんだなあ。江戸幕府からは、やれ五街道の整備だ、やれ名古屋城の建築整備だ、やれ権現様の廟の修理だ、やれ参勤交代だ、と理由をつけては沢山のお金や労力を提供するように言われて、赤字に困っている藩が多かったんだな。そうしてお米は江戸や大坂などの大都会に運ばれたんだなあ。」
「そうすると、逆に都会ではべらぼうな量のお米が集中することにならない?」
「だから、江戸では白米ばっかり食べておかずが少ない食事形式が広まって脚気が多発したんだなあ。それに、かなりの量のお米が輸送や保管の途中でコクゾウムシという害虫に食べられて目減りしていったんだなあ。江戸時代にはコクゾウムシを防ぐ技術はなかったんだなあ。」
「それ本で読んだことがある。都会の貧困層は普通のお米を買えなくて、コクゾウムシのわいた『ふけ米』を買って食べていたと・・・。それでも何も食べないよりはましだったという話だった。」
「なるほどなんだな。食糧は権力や政治力のある所に集まるというのが、古代から現代までの歴史が物語っているなあ。現代も、穀物が世界中に均一に行き渡っているかというと、そうでなく、お金のある地域に集まっているなあ。人間の悲しい性なんだなあ。それと似たようなことが江戸時代にも生じていたんだなあ。お米の収穫出来ない藩は、お米の取れる藩からお米を買って人民に分け与えるなんてことはできなかったんだなあ。そんなことしたら財政が傾くからなんだなあ。だから、日本にはお米が食べられる地域と食べられない地域があったんだなあ。」
「例の先生は、江戸時代の政治経済の仕組みや、現代にも通じる人間心理などを全く踏まえずに、机上の空論を述べて居たのね。」
食養の信奉者の間では、さっきの大学の先生のような奇妙な説があるということで、心を痛めてます。民俗学者を嘘つきと呼ぶ前に、まずは大学の先生だからこそ、しっかり研究して話をしてほしいのです。これからの時代を背負う若い世代が誤った道を歩まないように、きちんと歴史を教えて欲しいと思います。