石塚左玄氏(嘉永四(1851)年~明治42(1909)年)は、食育という言葉の創始者として良く知られています。また、玄米食運動や、「食養」という「健康法」の創始者でもあり、身土不二説やマクロビオティックの原型となる理論を作った方です。こうした事情から、代替医療関係者の間では非常に尊敬されている人物です。しかし、この石塚氏が実は当時の高齢者の基準から見た時は、やや短命だったという事実は意外に知られていません。
明治42年頃は、横町のご隠居などで65歳前後の高齢者が普通に見かけられたのですが、石塚氏は当時としてはやや短命な58歳で亡くなっているのです。
氏は明治29年に「長寿論」、明治31年に「通俗食物養生法」を出版し、明治40年には「食養会」を結成するなど、「長寿法の指導者」として多くの人の期待を一身に集めていた人物です。氏のお父様も数えで74歳と長命でした。それだけに氏の早すぎる死は、関係者に大きな衝撃を与えました。
氏がお亡くなりになった後、会の幹部は「実は石塚先生は5歳の時に重い腎炎を患っていた。数え年で59歳まで生き延びられたのはやはり彼の食養指導が正しかったからである。」という趣旨の講演会を開きました(「食養雑誌」第25号26ページ)。しかし、氏の生前にはそのような持病で苦しんでいるとの発言も記録もなかったらしく、愛弟子でさえもそのような話は知らなかったので、亡くなられた時に「寝耳に水」で信じられなかったと記録に残しています(「食養雑誌」第25号30-31ページ)。氏の死後、大勢の会員が脱会していますが、おそらく会の公式見解に疑問を感じたのでしょう。
さて、驚いたことに近年一部の食育指導者の間では「石塚氏は実は長命だった」という俗説が広まっているそうです。それによれば「明治42年の平均寿命は44歳前後だから、58歳まで生きられたのは長命だ。」ということなのですが、これは2つの意味で統計の扱いが不適切です。
まず第一に、「明治42年の平均寿命」とは、「明治42年に生まれた赤ん坊が、将来何歳まで生きられるかの推定値」なのです。つまり明治42年の平均寿命と明治42年になくなった方のお年には関係がないのです。まずこの点からして「石塚氏は長命」説は初歩的な誤解です。
第二に、有史以前から昭和半ばまで、平均寿命を押し下げる最大の要因は「乳幼児期の病死」によるものでした。明治の頃には65歳前後まで生きる人も結構いたのですが、乳幼児期でなくなる人があまりにも大勢居たため、平均値を取ると計算上、寿命がガクンと下がったのです。逆に言えば、乳幼児期をサバイバルできた人は60~65歳ぐらいまで生きられる可能性が高かったのです。
もちろんこの時代には脚気や結核で若くして亡くなる方も大勢居たのですが、脚気はパンを食べると治ることが経験則的に知られてましたし、結核に罹っても栄養価の高い食事を取ると比較的長生きできることも知られていました。このため、20歳なり40歳なりまで生き残れた方は、その後も比較的長生きできたのです。
具体的に数値で確認して見ましょう。厚生労働省のwww.nhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/gaiyo.html の表2をご覧下さい。
明治24-31年頃に40歳だった方は平均してその後25.7年余命があったことが表から分かります。そして石塚左玄氏はまさに、明治24年に40歳だったのです。つまり、40歳まで生き残れた石塚氏は、その後特別な健康法などに頼らなくても、ただ普通に暮らしているだけで66歳近くまで生きられる可能性が高かったのです。
しかし彼は明治20年代には食養の理論を構築し始め、先述の通り明治29年に独特の長寿法を発表し、実践したのです。その結果として彼は、当時としては比較的短命な58歳で生涯を閉じたのです。
繰り返しますが、65,6歳のお年寄りが身近にあちこちで見かけられる時代に、長命法の指導者が58歳でお亡くなりになったのです。当時としては比較的短命だったからこそ、その理由を説明するために食養会では講演会まで開いたのです。このような事実を前にして、どうして「石塚氏は長命でした」といえるのでしょうか。
「食育の祖」「玄米食運動の祖」だからこそ、「長生きであった」という話であって欲しいという願望は分からなくもありませんが、願望を事実とすり替えてはいけません。食育の指導者は、子ども達にはきちんと、石塚氏は長生きは出来なかったと教える必要があるでしょう。
特に、石塚氏のふるさとである福井県の中には、県の偉人として石塚氏を子ども達に指導する町もあると伺っています。石塚氏の理論には部分的には今日に通じるところもあるかもしれませんが、多くの部分は科学的に誤りであり、疑似科学と呼ばれるものです。食養理論でお亡くなりになった方もいらっしゃると言われていますので、教育者の方々には特に気をつけていただければと思います。
*3月5日追記:内容の一層の正確を期するため、出典を記載するなど文章の一部分を修正しました。
明治42年頃は、横町のご隠居などで65歳前後の高齢者が普通に見かけられたのですが、石塚氏は当時としてはやや短命な58歳で亡くなっているのです。
氏は明治29年に「長寿論」、明治31年に「通俗食物養生法」を出版し、明治40年には「食養会」を結成するなど、「長寿法の指導者」として多くの人の期待を一身に集めていた人物です。氏のお父様も数えで74歳と長命でした。それだけに氏の早すぎる死は、関係者に大きな衝撃を与えました。
氏がお亡くなりになった後、会の幹部は「実は石塚先生は5歳の時に重い腎炎を患っていた。数え年で59歳まで生き延びられたのはやはり彼の食養指導が正しかったからである。」という趣旨の講演会を開きました(「食養雑誌」第25号26ページ)。しかし、氏の生前にはそのような持病で苦しんでいるとの発言も記録もなかったらしく、愛弟子でさえもそのような話は知らなかったので、亡くなられた時に「寝耳に水」で信じられなかったと記録に残しています(「食養雑誌」第25号30-31ページ)。氏の死後、大勢の会員が脱会していますが、おそらく会の公式見解に疑問を感じたのでしょう。
さて、驚いたことに近年一部の食育指導者の間では「石塚氏は実は長命だった」という俗説が広まっているそうです。それによれば「明治42年の平均寿命は44歳前後だから、58歳まで生きられたのは長命だ。」ということなのですが、これは2つの意味で統計の扱いが不適切です。
まず第一に、「明治42年の平均寿命」とは、「明治42年に生まれた赤ん坊が、将来何歳まで生きられるかの推定値」なのです。つまり明治42年の平均寿命と明治42年になくなった方のお年には関係がないのです。まずこの点からして「石塚氏は長命」説は初歩的な誤解です。
第二に、有史以前から昭和半ばまで、平均寿命を押し下げる最大の要因は「乳幼児期の病死」によるものでした。明治の頃には65歳前後まで生きる人も結構いたのですが、乳幼児期でなくなる人があまりにも大勢居たため、平均値を取ると計算上、寿命がガクンと下がったのです。逆に言えば、乳幼児期をサバイバルできた人は60~65歳ぐらいまで生きられる可能性が高かったのです。
もちろんこの時代には脚気や結核で若くして亡くなる方も大勢居たのですが、脚気はパンを食べると治ることが経験則的に知られてましたし、結核に罹っても栄養価の高い食事を取ると比較的長生きできることも知られていました。このため、20歳なり40歳なりまで生き残れた方は、その後も比較的長生きできたのです。
具体的に数値で確認して見ましょう。厚生労働省のwww.nhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/gaiyo.html の表2をご覧下さい。
明治24-31年頃に40歳だった方は平均してその後25.7年余命があったことが表から分かります。そして石塚左玄氏はまさに、明治24年に40歳だったのです。つまり、40歳まで生き残れた石塚氏は、その後特別な健康法などに頼らなくても、ただ普通に暮らしているだけで66歳近くまで生きられる可能性が高かったのです。
しかし彼は明治20年代には食養の理論を構築し始め、先述の通り明治29年に独特の長寿法を発表し、実践したのです。その結果として彼は、当時としては比較的短命な58歳で生涯を閉じたのです。
繰り返しますが、65,6歳のお年寄りが身近にあちこちで見かけられる時代に、長命法の指導者が58歳でお亡くなりになったのです。当時としては比較的短命だったからこそ、その理由を説明するために食養会では講演会まで開いたのです。このような事実を前にして、どうして「石塚氏は長命でした」といえるのでしょうか。
「食育の祖」「玄米食運動の祖」だからこそ、「長生きであった」という話であって欲しいという願望は分からなくもありませんが、願望を事実とすり替えてはいけません。食育の指導者は、子ども達にはきちんと、石塚氏は長生きは出来なかったと教える必要があるでしょう。
特に、石塚氏のふるさとである福井県の中には、県の偉人として石塚氏を子ども達に指導する町もあると伺っています。石塚氏の理論には部分的には今日に通じるところもあるかもしれませんが、多くの部分は科学的に誤りであり、疑似科学と呼ばれるものです。食養理論でお亡くなりになった方もいらっしゃると言われていますので、教育者の方々には特に気をつけていただければと思います。
*3月5日追記:内容の一層の正確を期するため、出典を記載するなど文章の一部分を修正しました。