「牛乳は乳糖(ガラクトース)を含む。日本人の多くは遺伝的に、大人になると乳糖を分解する酵素が分泌されなくなるのだから、日本の大人には牛乳は不要である」というよく見かける文章はニセ科学です。なぜなら、もしもこの理屈が正しければ、牛はセルロース分解酵素を分泌できないという事実を前に「牛には草は不要である。」と言えてしまうのです。しかし実際には牛は草を食べますよね。だから、分解酵素の有無は、食品の要不要を論じる根拠にしてはいけないのです。
と、書いても狐につままれている方も多いと思うので、以下丁寧に説明します。
人間には、遺伝的に年を取ると乳糖分解酵素が分泌されなくなる方が多く、これを乳糖不耐といいます。逆に年を取っても乳糖分解酵素が活性を失わない方もおり、これを専門用語でLP(Lactose persistence)と呼びます。同じ民族の中でも個人差によって乳糖不耐の方もいればLPの方もいるので、日本人でも当然LPの方がいます。では、その頻度は国によってどれくらいか、というと次のようになります(出典1)。
(1)LPの人が1割以下(ほぼ全員乳糖不耐)の国・地域
東南アジアから中国南部、ナミビア、日本の北海道と九州、など。
ナミビアは牛乳や発酵乳を良く飲食することで有名で、例えば多くの人は、朝食には穀物の粉で作るオシフィマという主食に牛乳をかけて食べます。
(2)LPの人が2~3割(乳糖不耐の人が多い。)の国・地域
中国北部からモンゴルやカスピ海沿岸諸国までの元遊牧民地帯、スリランカ、日本の本州、オーストラリアの大部分、ブータン、バングラディシュなど。
中国内モンゴルやモンゴルやカスピ海周辺は食事の多くを乳類と乳製品に依存していますし、スリランカも重量にして肉・魚より遙かに大量の牛乳・乳製品を食べる国です。オーストラリアも牛乳を良く飲む国ですよね。
(3)LPの人が4~6割(乳糖不耐の人が約半数。)の国・地域
ブルガリア、ギリシャ、スイス、南フランス、イタリア、ロシア、スペインなど。
これらの国や地域も、牛乳・乳製品で有名ですよね。
(4)LPの人が7割以上の国・地域
モーリタニア、サウジアラビア、パキスタン、ドイツ、イギリス、北部フランスなど。
ちなみにノルウェー、スウェーデン、フィンランドは、それぞれ北部が(3)、南部が(4)に該当します。
以上の通り、ナミビアやスリランカや、モンゴルからカスピ海までの地域、オーストラリアは、日本人と同レベルかむしろ高い位の確率で乳糖不耐症ですが、食事の多くを牛乳と乳製品に依存しています。どうしておなかを壊さないのでしょうか?齋藤忠夫東北大学院教授の説によると、乳糖不耐の方でも、大腸に住み着いた腸内細菌によって乳糖が分解されるからであり、日本人も毎日牛乳を飲むかヨーグルトを食べることで乳糖分解能力の高い腸内細菌をおなかに増やせるそうです(出典2)。
ちなみに、牛が草を食べられるのも上記の現象と非常によく似ており、牛の胃にセルロースを分解する微生物が住み着いているからで、これらの微生物が牛の体内にいなければ草を消化できないことが知られています。
もしも仮に、齋藤教授の説への反論があったとしても、モンゴル・中央アジア・カスピ海沿岸、スリランカ、ナミビアなどの国の人々は実際に乳・乳製品を常食しているのですから、「乳糖分解酵素活性と乳食文化圏に明確な関係は無い」、LPの集積は遺伝的なボトルネック(注)が生じたため、「たまたま」起きたと解釈する方が自然です。 以上により「食品××に含まれる成分を分解する酵素が遺伝的に分泌できないから、食品××を食べてはいけない。」論法は疑似科学として否定されます。
(注:ボトルネックとは。多様な遺伝子を持つ集団が何らかの理由で突然人口が急減した時に、全くの偶然で、ある中立遺伝子を持つ少数の者が生き残ると、人口が回復した際にはその遺伝子を持つ人が集団の大多数になること。ボトルネック効果とも呼ぶ。)
牛乳以外の実例も挙げましょう。日本人は醸造酒としては世界一アルコール度数の高い「日本酒」という酒を伝統的に飲んでいる一方で、アルコール代謝に関わる遺伝子「アルデヒド脱水素酵素」(ALDH2)遺伝子欠損率が世界一高い(44%)民族、つまり、世界一アルコールに弱い民族です。ウォッカなど度数の高い「蒸留酒」は人類が高度な蒸留技術を発見してから数百年しか経過してないので、蒸留酒よりも遙かに歴史の古い醸造酒の方が、その民族に長期間深い影響を与えているはずです。その結果としてそれでも、日本人は日本酒を飲む。「日本人は乳糖不耐が多いから牛乳を飲むな」論が正しいなら「日本人は日本酒を飲むな論も正しい」という変な結論が導かれる、だから、「牛乳飲むな論」自体が間違いなのです。
なお、今回このブログを書くにあたって、集団遺伝学に詳しい科学者にご相談し、三顧の礼でやっと、匿名を条件にして監修とアドバイスをいただきました。以下、先生のご指導を元に少々専門的な説明を追加します。より深く理解したい方はお付き合いください。
「LP」の方は、乳糖分解酵素の活性を制御する別の遺伝子が変化したと考えられています。そして牛乳・乳製品を常食しているかどうかとLPの方々の分布には関係性がありません。従来「北欧では寒さのため農作物栽培が難しく、草を牛に喰わせて牛乳に変換する形でしかタンパク質やビタミン類などを摂取できなかったので、LPの方々だけが自然選択で残った。」という合目的仮説が唱えられましたが、これはたまたまLP集積が起きた地域の一つに北欧があったからであり、非LP(乳糖不耐)の方々でも牛乳・乳製品を常食できるので、従来の説は間違いの可能性があります。
LPに関わる変異遺伝子があってもなくても牛乳・乳製品は食べられるので、当該遺伝子は限りなく中立遺伝子(その有無が生存の有利不利に関係しない遺伝子。)に近い遺伝子です。であれば当然の帰結としてこう考察すべきです。LPの方々が北欧やモーリタニアやサウジアラビアなどに多い理由は、食べ物に合わせて適応・進化した結果というよりも、「ボトルネック効果」である方が説得力がずっと高い、と。
以上、ご参考にしてください。
出典1:M.Leonardi et al./ International Dairy Journal 22(2012) 88-97 よりfig2.
出典2:乳の学術連合2015「日本人とミルクの関係を考える」pdf資料(ネットで入手可能)より。同資料p16の齋藤忠夫東北大学院教授のご講演に基づきます。
と、書いても狐につままれている方も多いと思うので、以下丁寧に説明します。
人間には、遺伝的に年を取ると乳糖分解酵素が分泌されなくなる方が多く、これを乳糖不耐といいます。逆に年を取っても乳糖分解酵素が活性を失わない方もおり、これを専門用語でLP(Lactose persistence)と呼びます。同じ民族の中でも個人差によって乳糖不耐の方もいればLPの方もいるので、日本人でも当然LPの方がいます。では、その頻度は国によってどれくらいか、というと次のようになります(出典1)。
(1)LPの人が1割以下(ほぼ全員乳糖不耐)の国・地域
東南アジアから中国南部、ナミビア、日本の北海道と九州、など。
ナミビアは牛乳や発酵乳を良く飲食することで有名で、例えば多くの人は、朝食には穀物の粉で作るオシフィマという主食に牛乳をかけて食べます。
(2)LPの人が2~3割(乳糖不耐の人が多い。)の国・地域
中国北部からモンゴルやカスピ海沿岸諸国までの元遊牧民地帯、スリランカ、日本の本州、オーストラリアの大部分、ブータン、バングラディシュなど。
中国内モンゴルやモンゴルやカスピ海周辺は食事の多くを乳類と乳製品に依存していますし、スリランカも重量にして肉・魚より遙かに大量の牛乳・乳製品を食べる国です。オーストラリアも牛乳を良く飲む国ですよね。
(3)LPの人が4~6割(乳糖不耐の人が約半数。)の国・地域
ブルガリア、ギリシャ、スイス、南フランス、イタリア、ロシア、スペインなど。
これらの国や地域も、牛乳・乳製品で有名ですよね。
(4)LPの人が7割以上の国・地域
モーリタニア、サウジアラビア、パキスタン、ドイツ、イギリス、北部フランスなど。
ちなみにノルウェー、スウェーデン、フィンランドは、それぞれ北部が(3)、南部が(4)に該当します。
以上の通り、ナミビアやスリランカや、モンゴルからカスピ海までの地域、オーストラリアは、日本人と同レベルかむしろ高い位の確率で乳糖不耐症ですが、食事の多くを牛乳と乳製品に依存しています。どうしておなかを壊さないのでしょうか?齋藤忠夫東北大学院教授の説によると、乳糖不耐の方でも、大腸に住み着いた腸内細菌によって乳糖が分解されるからであり、日本人も毎日牛乳を飲むかヨーグルトを食べることで乳糖分解能力の高い腸内細菌をおなかに増やせるそうです(出典2)。
ちなみに、牛が草を食べられるのも上記の現象と非常によく似ており、牛の胃にセルロースを分解する微生物が住み着いているからで、これらの微生物が牛の体内にいなければ草を消化できないことが知られています。
もしも仮に、齋藤教授の説への反論があったとしても、モンゴル・中央アジア・カスピ海沿岸、スリランカ、ナミビアなどの国の人々は実際に乳・乳製品を常食しているのですから、「乳糖分解酵素活性と乳食文化圏に明確な関係は無い」、LPの集積は遺伝的なボトルネック(注)が生じたため、「たまたま」起きたと解釈する方が自然です。 以上により「食品××に含まれる成分を分解する酵素が遺伝的に分泌できないから、食品××を食べてはいけない。」論法は疑似科学として否定されます。
(注:ボトルネックとは。多様な遺伝子を持つ集団が何らかの理由で突然人口が急減した時に、全くの偶然で、ある中立遺伝子を持つ少数の者が生き残ると、人口が回復した際にはその遺伝子を持つ人が集団の大多数になること。ボトルネック効果とも呼ぶ。)
牛乳以外の実例も挙げましょう。日本人は醸造酒としては世界一アルコール度数の高い「日本酒」という酒を伝統的に飲んでいる一方で、アルコール代謝に関わる遺伝子「アルデヒド脱水素酵素」(ALDH2)遺伝子欠損率が世界一高い(44%)民族、つまり、世界一アルコールに弱い民族です。ウォッカなど度数の高い「蒸留酒」は人類が高度な蒸留技術を発見してから数百年しか経過してないので、蒸留酒よりも遙かに歴史の古い醸造酒の方が、その民族に長期間深い影響を与えているはずです。その結果としてそれでも、日本人は日本酒を飲む。「日本人は乳糖不耐が多いから牛乳を飲むな」論が正しいなら「日本人は日本酒を飲むな論も正しい」という変な結論が導かれる、だから、「牛乳飲むな論」自体が間違いなのです。
なお、今回このブログを書くにあたって、集団遺伝学に詳しい科学者にご相談し、三顧の礼でやっと、匿名を条件にして監修とアドバイスをいただきました。以下、先生のご指導を元に少々専門的な説明を追加します。より深く理解したい方はお付き合いください。
「LP」の方は、乳糖分解酵素の活性を制御する別の遺伝子が変化したと考えられています。そして牛乳・乳製品を常食しているかどうかとLPの方々の分布には関係性がありません。従来「北欧では寒さのため農作物栽培が難しく、草を牛に喰わせて牛乳に変換する形でしかタンパク質やビタミン類などを摂取できなかったので、LPの方々だけが自然選択で残った。」という合目的仮説が唱えられましたが、これはたまたまLP集積が起きた地域の一つに北欧があったからであり、非LP(乳糖不耐)の方々でも牛乳・乳製品を常食できるので、従来の説は間違いの可能性があります。
LPに関わる変異遺伝子があってもなくても牛乳・乳製品は食べられるので、当該遺伝子は限りなく中立遺伝子(その有無が生存の有利不利に関係しない遺伝子。)に近い遺伝子です。であれば当然の帰結としてこう考察すべきです。LPの方々が北欧やモーリタニアやサウジアラビアなどに多い理由は、食べ物に合わせて適応・進化した結果というよりも、「ボトルネック効果」である方が説得力がずっと高い、と。
以上、ご参考にしてください。
出典1:M.Leonardi et al./ International Dairy Journal 22(2012) 88-97 よりfig2.
出典2:乳の学術連合2015「日本人とミルクの関係を考える」pdf資料(ネットで入手可能)より。同資料p16の齋藤忠夫東北大学院教授のご講演に基づきます。