幼児性と老年性
ある有名な女性作家の言葉を引用します。
他人が、何かを「くれる」こと、「してくれること」を期待してはいけない。
僅かな金銭、品物から、手助けに至るまで年寄りはもらうことに信じられないほど敏感で
ある。この心理状態があらゆる場面に強く感じられるようになったら、それは老化がかなり
進行している証拠と見ていい。
昔から、人間の最も基本的な(原始的なと言うべきかもしれない)生活態度は自ら自分に必
要なものを取ってくることであり、次に弱いものに与えることであった。幼児に食物を与え
ることは、種族保存のために必要な行為であり、一人前の成熟した人間は、自分のためには
自分で働き、同時に弱いものにはさまざまなものを与えたのである。
「くれる」ことを期待する精神状態は、一人前の人間であることを自ら放棄した証拠であ
る。放棄するのは自由だが、一人前でなくなった人間は、精神的に社会に参加する資格も失
い、ただ、いたわってもらうという、一人前の人間なとっては耐えられぬ一種の「屈辱」に
さらされねばならぬもの、と自覚するべきであろう。
「・・・・・何ほどかは、ほかの人間のために生きているということを認める以上に、幸
福感を与える感情はないであろう・・・・・」と、ある識者は言う。老いは、機能的に、あ
るいは自らの意志で、その幸福の放棄へと向かうものであることを示している。
躰の不自由な老女が、毎夜、道に面した窓の傍に、あかりを置いて、じっとと坐っている。
それは、そこを通りかかる旅人のためであった。長い道のりを暗闇の中を歩いてくる人を
迎える灯であった。自然暗闇の中に、小さなあかりが見える時、旅人はほっと人間の優しさ
を感じるのである。
こんな逸話はひと昔もふた昔も前のことのようですが、人間の存在が、灯になり得るとい
うことである。他には何の働きもできぬ老女でも、他人にただ光を与えることによって、彼
女自身も他人のために生きるという人間の本質を維持し、しかもそのことによって、幸福を
味わうことができるのである。
上記の文章から、「してくれる」「してもらう」ことばかり念頭に持つのではなく、ただ
の微笑みだけでも周りの人に捧げるべきというのだろう。それなら生きている限りだれもが
出来ることかもしれない。そういう精神的な拠り所を見出すべきであり、どんなに躰が不自
由になっても志次第で出来るかもしれない。